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第740話

Author: 栄子
「それに、病気なのに海外まで来て、こんな土地勘のない場所で誰が面倒を見てくれるのよ?私と一緒に帰ろう。もう離婚を止めたりしない。あなたが離婚したいならそれはそれで応援するから。実家にいたくないなら、私の家に来ればいい......」

「綾、無駄よ」

星羅は目を閉じ、涙が静かに頬を伝った。「北城にいる限り、母はずっと私を束縛する。私のことを心配してくれているのは分かっているけど、本当に息が詰まる思いがするの。ここにいる時だけ、心が休まるの。一人の時は、カメラを持って写真を撮りに出かけたりすることができるし......」

静かな部屋の中、星羅の声は震えていた。

「私はいい妻でも、いい母親でも、いい娘でもないことは分かっている。でも、こんな風になりたかったわけじゃない。記憶喪失の後、軽はずみに丈と一緒になった。4年以上も一緒にいれば、好きになるに決まっている。おなかを痛めて産んだ蒼空を愛していないわけがない。

でも、どうして愛はいつも選択を迫られるの?母は『私のためだ』って言うけど、でも、今まで一度だって私に何がしたいのか聞いてくれたことがない。母に言われるがまま、私はいつもただ受け身になるしかなかった。

少しでも反論しようものなら、母は私を『物分かりが悪い』『親のありがたみを知らない』って責めてきた。そしていつも、『私を産んだから海外で活躍するチャンスを諦めた』って言われた。いつも、『母親だから、あなたのためを思ってやっている』って......」

綾はため息をついた。「おばさんのことが原因なら、佐藤先生と話し合ってみるべきよ」

「話したの。最初の頃は、丈にも母の問題を話してた。彼も理解してくれて、母が屋台の食べ物を食べさせない時は、こっそり食べに連れてってくれてた。

母が甘いものを禁止すると、彼は仕事帰りにこっそり買ってきてくれた......あの頃は、これでいいんだって思ってた。だから、いい妻、いい母親になろうと頑張ってた。でも、蒼空の卒乳を考えて、また写真を学びたいって言い出したら、些細なことで喧嘩するようになって......

分かってる。丈は私がずっと家にいて欲しいんだって。仕事から帰ってきたら一番最初に私の顔を見たいし、あと娘も欲しがっていた。彼は私と子供たちを養えるから、苦労して欲しくないって言ってた......それは分かってる。たとえ私が何人
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