登入1328年 五月十二日、昇天祭当日。
復活祭から数えて四十日目、主イエスが天へと帰ったことを祝うこの聖なる日は、今日の日を祝うかのように晴れた空の日差しとも重なり、村は朝からどこか浮き足立った空気に包まれていた。 だが、司祭館の自室で目を覚ましたアーサーの心は、穏やかで、柔らかく明るい陽光とは裏腹に、どろりとした重い闇に沈んでいた。 (……あの、赤い目……) 額に張り付いた汗を拭い、アーサーは荒い息を整える。 自室に逃げ帰って気絶するように寝落ちてから、夢を見た。白く巨大な何かに圧倒され、抗うこともできずに呑み込まれる夢だ。顔は見えなかったが、その闇の奥で、魔的なまでの赤色を湛えた瞳だけが、じっと自分を鋭く見詰めていた。 「アーサー、大丈夫ですか? 落ち着いてやれば大丈夫ですよ」 「ああ、うん。大丈夫だよ」 表情の暗いアーサーの様子に、準備を手伝っていたピーターが心配そうに声を掛けた。 この日。祭壇へ向かうアーサーの足取りが重いのは、昇天祭のために着せられている、白と金で飾られた神々しい法衣のせいだけじゃないだろう。 昨夜のことを思い出しては重くなる気持ちを、アーサーは頭を振って振り払う。 今はそんな事を気にしてる場合じゃない。これから始まる昇天祭のミサを無事にこなさなくてはならないのだから。 普段司祭として振舞っているが、21歳で実際はまだ副助祭に過ぎないアーサーが昇天祭のようなハレの日を執り行うのは異例中の異例だ。 本来、副助祭はミサを主宰することは出来ないが、司祭長のジャイルズが実質上の引退をしてしまっているので仕方がない。 初めての事なので、事前に何度もジャイルズやピーターと一緒に打ち合わせをし、予行演習も行ったが、本番の緊張感は桁違いだった。 それは、初めての舞台だからとか、分不相応な重責を負わされている苦しさと言うより、「まだ21歳で、法的には司祭ですらない若者が、伯爵家の身勝手で聖職者のトップとして村に立たされている滑稽な茶番劇」で、アーサーが些細な失敗でもしないかと目を光らせる監視者たちからの重圧のせいだった。 昨夜森で謎の人影に出会ったせいで、これから自分に注がれる視線の群れがいつもよりも恐ろしく感じてしまう。 もしかしたらこの控室の戸を開けて外に出た瞬間にも誰かが立ち上がって、アーサーの夜の秘密を暴露して糾弾してくるような気がしてならない。 だがそんな不安をこの大事な儀式の最中に漏らすわけにはいかずに、アーサーは長年使い慣れた柔らかな笑みの仮面を強くかぶり直すと、目の前の戸を開いた。 アーサーが礼拝の広間に姿を現した瞬間、教会の鐘が鳴り響く。 そして丁度アーサーがゆっくりと歩み出すと、進む道を照らす様に教会のステンドグラスが美しい天窓からとりどりの日差しが差し込み、それに合わせて聖歌隊と村人たちが入祭唱である「Viri Galilaei(ガリラヤの人たちよ…)」と歌いだした。 後にこの場に居合わせた村人たちは語る──荘厳な歌とパイプオルガンの旋律の中を、白く輝く司祭様が歩く光景は、まるで天使様が現れたかのような美しさだった、と。 祭壇の前に着いたアーサーは、深くお辞儀をし、祭壇にキスをすると祭壇に向かって十字を切ると、ここで初めて声を上げた。「"In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti." (イン・ノーミネ・パトリス、エト・フィリイ、エト・スピリトゥス・サンクティ)──『父と子と聖霊の御名において』」 朗々とした歌声のような美しい声が教会内に満ち、誰もが夢見心地のままアーサーの一挙一動を見守った。 そしてアーサーは村人達に向き直り、続けて「"Dominus vobiscum." (ドミヌス・ヴォビスクム) ──『主は皆さんと共に』」と言うと、集った村人たちが地鳴りのような声で 「"Et cum spiritu tuo" (エト・クム・スピリトゥ・トゥオ──『またあなたの霊と共に』と唱和した。そんな素晴らしい光景の影でアーサーの内心は悲しみに満ちていた。
見るものが見れば、執り行う資格の無いアーサーのミサなどお遊びのようなものなのだから。 (主などどこにもいない、あるのは監視の目だけだ) 村人に混じってアーサーを射抜くような視線を送る人々から逃げるように、偽りの司祭は天を仰いだ。昇天祭のミサが終わり、誰も居なくなった礼拝の広間の長椅子の最前列。
ミサのための法衣から、普段の司祭服に着替えたアーサーが腰を下ろしてぐったりとしていた。 (何とか乗り切った……) ミサの後、村人を見送るアーサーに対し、代官のトーマスが歩みを止めて何かを言い掛けていた。だが結局、彼は何も言わずに去って行った。特に文句を言われるようなミスもなかったのだろう。 それだけで何だか肩の荷が降りた気がして、アーサーは重たい安堵のため息を漏らした。 高い天井にその吐息が消えていく。そこに、背後から軽やかな靴音が近づき、聞き慣れた声が掛かった。 「アーサー、大丈夫?」 振り返ると、そこには心配そうに眉を下げたルーシーが立っていた。 「ルーシー。仕事の時間じゃないの?」 今頃、診療所で作業しているはずなのに。どうしたのだろうとアーサーが思っていると、ルーシーは持っていた小さなバスケットを横に置き、隣に腰を下ろしながら弁明した。 「ここに来るのは、ちゃんとマーガレット様に許可を取っているから安心して。アーサー、ミサの間ずっと顔色が良くなかったでしょ。心が安らぐお茶を入れて来たから、飲んでもらおうと思って」 そう言って、ルーシーは丁寧に布で包んでいた、まだ熱を保った素焼きの器をアーサーに差し出した。 彼女は儀式中、会衆の群れの中からずっとアーサーの異変に気が付いて、様子を見に来てくれたらしい。 「ありがとう。じゃあ後でマーガレット様にもお礼を……ふわ、温かい。何だかホッとする」 アーサーは朝からずっと生きた心地がしていなかった。 だが、器から手のひらに伝わる熱と、柔らかな湯気と共に鼻腔をくすぐる香しいハーブの匂いに癒され、張りつめていた何かが少しずつ解れていくのを感じた。 「昇天祭のアーサー、とても素敵だったわ。アリスも、マーガレット様も、村の人もみんなそう言ってたわよ」 ルーシーは誇らしげに胸を張り、眩しいものを見るように目を細めた。 「そうかな。僕はやるので必死だったから、よくわかんないや」 アーサーは照れくさそうに視線を落とし、一口お茶を啜った。 実感はないが、皆が喜んでくれたなら良かった。そう思うと、萎んでいた心が少しだけ膨らむのを感じた。 ルーシーは褒められて嬉しそうなアーサーの横顔を、慈しむようにニコニコと見守っている。その視線が、今はただ心地好い。 そんな彼女の優しさに救われつつ、二人並んでゆっくりとお茶を飲んでいると、アーサーはふと、心に澱んでいた不安を吐き出すように、夕べの出来事を打ち明けた。 「ねえ、ルーシー。僕、昨夜森で白い幽霊を見たんだ」 「幽霊?」 ルーシーの手が止まり、器を握る指先に力がこもる。 「うん。いつもみたいに特訓してたら、森の木の間から幽霊みたいな人影が僕を見てたんだ。月の光の加減か、瞳の色が妙に赤くて……」 アーサーは器を見つめたまま言葉を続ける。 「もしかしたら、あれが昔話で聞いた『森の白い鹿』だったりするのかな。あの世とこの世を結ぶ精霊の……。それとも、あれはその……旦那様が、父様が寄越した新しい監視者だったらどうしようって。特訓を見られて誰かにばらされたらと思うと、怖くて……」 一気に捲し立てるように説明するアーサー。その言葉を聞くうちに、ルーシーは何かを思い当たったようにハッとした。 「赤い瞳の、白くて大きい人影? それって、最近村の近くに流れて来た『流浪人』のことじゃない?」 「流浪人?」 流浪人と聞いて、アーサーの脳裏に先日、代官夫人のヘレナたちが主宰する『淑女の集い』で交わされていた噂話が浮かんだ。 しかし流浪人と言っても、あんな人外のような人間がこの世に実在するとは、アーサーにはにわかに信じがたかった。 「流浪人さんは肌も髪も真っ白で、みんな怖いって言うけど、本当はとっても優しいのよ」 確信に満ちたルーシーの物言いに、アーサーは思わず身を乗り出して訊ねる。 「ルーシー、その流浪人と会ったの? それとも、君も夜中の森で幻を見たの?」 「違うわ。幽霊でも、白い鹿の精霊でもない、ちゃんとした人間の流浪人さんよ。森の帰りに、村の男の人達に収穫した荷物を取られそうになったところを、助けてくれたの」 「村の男達に襲われた? そんな怖い目に遭っていたなんて、初めて聞いたんだけど」 アーサーは思わず声を荒らげ、ルーシーの肩を掴みそうになった。 「ごめんね、アーサーを心配させたくなくて……。でも、その流浪人さんが助けてくれたから大丈夫だったの」 「でも、そういうのはちゃんと教えてよ。大事な友達が僕の知らないところで酷い目に遭って、一人で耐えてるのは悲しいよ」 アーサーが真っ直ぐに見つめると、ルーシーは少しはにかんだ。 「ありがとう、アーサー。そう言ってくれる友達がいるって思うだけで、私は頑張れる。それでね、その白い流浪人さんは森でキャンプをしていて、私が森で作業してる時も見守っていてくれたりもするの。見た目は怖いけど、きっと根は優しい人よ」 ルーシーは友人の危機に傷付くアーサーの意識を逸らす様に流浪人の話を強調する。 「そう、なんだ。優しい人なら僕も……あ、いや、その人がルーシーにも優しい人なら良かったよ」 アーサーは思わず「その流浪人に会ってみたい」と言いかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。 私生児とはいえ貴族の端くれであり、聖職者の地位にある自分が、正体不明の流浪人に表立って会いに行くなど許されるはずもない。アーサーは器に残った最後のお茶を飲み干し、慎重に言葉を閉ざした。 (流浪人か……会えるなら会ってみたいな。仲良くなったら、旅の話を教えてくれたりしないかな?) 空になった器を見つめながら、アーサーの心には小さな期待が芽生えていた。 もしかして、また夜中に一人で特訓をしていたら、あの白い人影はまた姿を現わしてくれるだろうか。もしあれが精霊ではなく、血の通った人間なのだとしたら。 そう思ったら、いつの間にか、アーサーの胸を支配していた父親や監視の目への恐怖は霧散していた。 代わりに、まだ見ぬ不思議な流浪人への好奇心が、静かな礼拝堂の中に広がっていくのを彼は感じていた。トーマスはアーサーの論理的な言葉を聞き終えると、わずかに唇の端を吊り上げ、冷たい笑みを浮かべた。「ふむ。流石は我が教え子、司祭殿。理路整然とした弁舌の冴えは健在と見える。領民の動揺の原因を、私の警備犬に求めるとは」 トーマスはアーサーの指摘に対して反論は難しいと判断すると、犬の件は受け流してすぐに別の話題で反撃に移った。「司祭殿、貴方こそが最近、村人の真の不安の種となっているものに不適切な庇護を与えているではないか」 「それは……」 トーマスの言わんとすることを察してアーサーは若干顔色を悪くする。 アーサーの怯んだ隙を見逃さず、トーマスは座ったまま前にやや身を乗り出し、声を一段と落として迫った。「噂の真偽はどうであれ、得体の知れぬ流浪人の存在こそが、体調不良や不穏な噂の源だと、怯えが広がっている。そして先日、あのルーシーという女が毒草を薬に混ぜたと疑われた時、貴方はその流浪人を、護衛か何かのように横に立たせていたではないか。どこの馬の骨とも知れぬ者を、教会の権威の側に立たせるなど、代官としての私の目から見ても見過ごしがたい軽率な行為だ」「……」 痛いところを突かれてアーサーは言葉も無い。 議論を「公務」から「不適切な私的交友」へと切り替えられ、アーサーは今までの議論における優勢を一転させて追い込まれてゆく。トーマスは犬の問題を受け入れるフリをしてアーサーを油断させていた所に流浪人(ウルフ)の存在という、アーサーにとってより個人的で防御しにくい問題を突いて遣り込める手腕は見事で、彼は流石代官を任されるだけはあるだろう。 戸惑うアーサーに対しトーマスは畳みかける。「司祭殿、まずはご自身が連れ添っている『不必要な恐怖』を排除することから始めるべきではないか。それが、目上への敬意を持って私に『指導』を求める、聡明な教え子の振る舞いというものだ」 トーマスは最後に「聡明な教え子の振る舞い」という言葉を使い、目上としての権威をもってアーサーの私生活の欠点を厳しく指摘し、圧力をかけた。この反撃は、公的な治安と私的な交友の境界を曖昧にし、アーサーの立場を非常に危うくするものだった。
アーサーが犬をモフモフしながらウルフと密談をした数日後。アーサーは村人の数人を連れてトーマス・バートン邸を訪れていた。 代官邸の石壁は昼の光を受けてもどこか冷たく、門をくぐるだけで空気が一段重くなるように感じられる。連れてきた村人たちも、自然と口数が少なくなっていた。(ウルフの汚名を晴らすためにも、僕が出来る事を頑張らなくては) 村に広がる体調不良の原因をウルフが調査している間、彼の動きに代官トーマスの目が向かぬよう、アーサーは自分に出来る問題の対処に取り組むことにした。 今の立場でトーマスに働きかけられることがあるとすれば、やはり森に放たれた犬の件だろう。 村の夜警に犬を導入するなどという重要な話を、村の司祭である自分が知らぬまま進められれば──今後も教会への相談なく物事が決められていくことになる。 それは、いずれ教会そのものが村の運営に口出しできなくなることを意味していた。 信者たちの最後の拠り所を失うわけにはいかない。 そのため、森で犬を目撃した村人を探し出し、本日は証言者として同行させていた。 訪問者一同は、謁見まで通された小部屋で待機させられていた。窓は小さく、光も薄い。壁際に立つ村人たちは落ち着かない様子で手を擦り合わせたり、足元を見つめたりしている。 やがて扉が静かに開き、トーマスの妻、ヘレナ夫人が姿を現した。「お待たせいたしました。こちらへ」 柔らかな物腰でそう告げると、彼女は一同を謁見室へと導く。 重い扉が押し開かれる。 広い室内はよく磨かれているが、どこか冷ややかで、声が響く前に飲み込まれてしまいそうな空間だった。 アーサーが足を踏み入れると、トーマスが椅子から立ち上がり、慇懃に一礼する。「これは司祭様、お忙しい中、すぐにお越しいただき恐縮至極にございます。お先ぶれを頂戴し、すぐにお迎えの準備が整いました」 普段の傲岸さが嘘のような丁寧さだった。 その視線の合図だけで、従者が静かに動き、椅子を引く。 同行した村人たちは別の従者に促され、入口脇に整列させられた。 ア
■ 14世紀イングランド:カトリック教会の仕組み(一般的な基礎知識としてのです) Ⅰ.広域の統治機構(中央・階層構造) イングランド全土を統括する、高位から順に並べた権力構造です。 教皇(Pope):全教会の頂点(ローマ)。 枢機卿(Cardinal):教皇の最高顧問。 大司教(Archbishop):国内教会の長。イングランドではカンタベリーとヨーク。 司教(Bishop):【重要】 地域の絶対権力者。独自の裁判所を持ち、司務の任免権を持つ。 司教次官(Archdeacon):司教の代理。各教区を巡回し、司祭の規律や帳簿を監査する実務の責任者。 Ⅱ.聖職者の階級(オーダー) 一人の聖職者が叙階(任命)によって昇っていく、霊的な位の順序です。 司教(Episcopate):最高位の叙階。 司祭(Priesthood):ミサを執り行い、秘跡(サクラメント)を授ける権限を持つ。 助祭(Diaconate):司祭の補助。 副助祭(Subdiaconate):上級聖職の末端。 下級聖職(Minor Orders):侍者、祓魔師、読師、門番。まだ「司祭」ではない段階。Ⅲ.一般教会の運営組織(村の現場) 村の「教区教会」を実際に動かしている、役割ごとの実態です。 【聖職者側】◎教区司祭(レクター / ヴィカー) レクター:什一税の全額を受け取る権利を持つ「教区の主」。 ヴィカー:レクターの代理として実務を行う司祭。 役割:儀式の執行、村人の魂の管理、および「内陣(祭壇側)」の維持。 教区書記(パリッシュ・クラーク) 立場:下級聖職者。読み書きができる実務者。 役割:典礼の補助(鐘鳴らし、聖水運搬)と、経済的記録(什一税の受領リスト、資産目録)の管理。 【信徒側】 教区委員(チャーチウォーデン) 立場:村人から選ばれる2名の代表。
「ウルフ、いるかい?」 彼のテントの近くでアーサーが声を掛けると、テントの中からではなく外から返事が帰って来て驚く。 闇の向こうで、犬の気配がざわりと揺れた。 「なんだ」 「ウ、ウルフ……さん?」 アーサーが森の闇に目を凝らすと、そこにはランプの淡い光の中で、十頭近い犬を周囲に侍らせて座るウルフの姿があり、アーサーはさらに驚きの声を上げた。 「い、犬!? どうしてこんなにたくさん!」 「……ハア」 ウルフは目を白黒させているアーサーを一瞥しては、面倒そうに溜息を吐くばかりだ。 「その犬どうしたの?」 「最近夜になるとやってくるんだ。はぐれて野犬になると危ないから、迎えが来るまでこうやって面倒見ている」 「迎えが来るってことは、まだ野犬じゃないの、その犬達は……」 「いや、野犬というには手入れも躾も行き届いている」 「そう、なんだ……」 アーサーは最初、犬の群れを野犬か何かかと思ったが、ウルフによると飼い犬らしい。どの犬も定期的に手入れされている形跡があり、朝になると迎えが来て一斉に帰ってしまうとのこと。 迎えに来るってことはわざわざ夜の森に放っている人間がいるわけだが、そんな大事な報告をアーサーや教会の人間は一切聞いていなかった。 「犬を森に放すなんて話を、僕は聞いていないぞ。飼い犬なら、そもそもどこの犬なんだ?」 「何だ、何も知らないのか。だとしたらやっぱりアレか」 アーサーが何も聞いていないと知ったウルフだが、他に思い当たることがあるらしい。 ウルフに思い当たりがあったとしても、アーサーにはさっぱりだったので、彼に説明を促した。 「アレって?」 「俺への嫌がらせだ」 「何だって!?」 聞き捨てならな
中世イングランドの村で、粉挽き屋は欠かせない仕事でした。 小麦や大麦は、そのままではパンや粥になりません。食べるためには、まず粉にする必要があります。 そのため、水車小屋には村人の穀物袋が集まりました。 けれど粉挽き小屋は、ただ粉を作る場所ではありません。 人が集まり、順番待ちが生まれ、支払いがあり、使いの者が出入りする場所です。 そこには、村の食べ物の流れと、人の流れが集まっていました。■粉挽き小屋は村の情報交差点 粉挽き小屋には、いろいろな人がやって来ます。 農民、パン屋、大きな家の下働き、代官邸の使い。穀物袋を持った人々が順番を待ち、挽き上がった粉を受け取り、挽き賃を払って帰っていきます。 そこで見えるのは、世間話だけではありません。 どの家がどれだけ穀物を持ってきたか。 誰が急いでいるか。 どこの使いが来ているか。 誰が支払いで揉めそうか。 どの家の暮らし向きが苦しそうか。 粉挽き屋は、そうした情報を仕事の中で自然に見ています。 穀物袋の量、順番待ちの顔ぶれ、支払いの様子、使いに来た相手。それらは、村の暮らしぶりを映すものです。 だから粉挽き小屋は、村の情報ハブでもありました。 食べ物と人の流れが交わる場所だからこそ、村の変化や噂が入りやすく、小さな異変にも気づきやすい場所だったのです。■粉挽き(ミルナー)はなぜ嫌われやすいのか 粉挽きには、挽き賃がかかります。 現金で払う場合もありますが、穀物や粉の一部を取り分として渡すこともありました。 ここが、粉挽き屋が疑われやすい理由です。 村人にとって、穀物は生活そのものです。 その袋を粉挽き屋に預ける。 粉になって戻ってくる。 けれど、挽く前と後では量も形も変わっています。 すると、疑いが生まれます。 多く取られたのではないか。 目方をごまかされたのではないか。 自分の袋だけ後回しにされたのではないか。
アーサーは司祭館を出て教会に向かうと、礼拝の広間に集まった数人の体調不良の信者たちの患部に按手(あんしゅ、Laying on of hands)による祝福を施して回った。 幸いここに居る村人の中には重篤な症状の者は一人も居らず、祝福を与えると皆安心して普通に歩いて帰っていった。 それを見送ると、今度は教会から診療所に向かう。 祝福を求めている患者は診療所にこそたくさん居るだろうし、後は、ルーシーの様子が気になったからだ。 ウルフの話が出来るのは現状ルーシーだけだから、この騒ぎの中で彼がどうしてるのか何か知らないか訊きたかった。 診療所に行くと、やはりいつもより患者が多く、シスターや世話人たちが忙しなくあちこち駆け回っていた。 薬を貰うために並ぶ人の列と、施設に入りきらない患者たちが地面に蹲ったり横たわっている光景を見渡しては、アーサーは顔を青褪めさせた。 薬草を煎じた匂いに、汗と湿った布の臭いが混ざり合い、空気が重く淀んでいる。咳き込む声や苦しげなうめきが絶えず重なり、耳の奥にまとわりついた。 思わず息を詰め、アーサーは無意識に胸元で小さく十字を切る。 「どうしてこんな事に……」 体調不良で不安そうな村人達の何気ない会話に耳を傾ければ、やはりあちこちで〝流浪人の呪い〟について語り合っており、アーサーの胸を締め付けた。 流浪人──ウルフが呪いを振りまいてるなどという妄言を、どうすれば払拭できるだろうか。その方策を、今のアーサーには全く思いつかず、とにかく少しでも多くの情報を求めてルーシーの姿を人の群れの中で探した。 「あ……!」 動き回る世話人の中からやっとのことでルーシーを見付けたが、彼女は薬を抱えて特に忙しそうにしている一人だったため、アーサーが声を掛けようか迷っていると、診療所の管理者であるシスターマーガレットが、神父アーサーの登場に気付いては、表情を輝かせて先に駆け寄って来た。 「アーサー様。様子を見に来て下さったのですか?」 マーガレットが何も知らずに、心強い味方を見付