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#29.第七話「噂と兆候」③

Auteur: あともす
last update Date de publication: 2026-08-04 19:00:55

「ウルフ、いるかい?」

 彼のテントの近くでアーサーが声を掛けると、テントの中からではなく外から返事が帰って来て驚く。

 闇の向こうで、犬の気配がざわりと揺れた。

「なんだ」

「ウ、ウルフ……さん?」

 アーサーが森の闇に目を凝らすと、そこにはランプの淡い光の中で、十頭近い犬を周囲に侍らせて座るウルフの姿があり、アーサーはさらに驚きの声を上げた。

「い、犬!? どうしてこんなにたくさん!」

「……ハア」

 ウルフは目を白黒させているアーサーを一瞥しては、面倒そうに溜息を吐くばかりだ。

「その犬どうしたの?」

「最近夜になるとやってくるんだ。はぐれて野犬になると危ないから、迎えが来るまでこうやって面倒見ている」

「迎えが来るってことは、まだ野犬じゃないの、その犬達は……」

「いや、野犬という
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     トーマスはアーサーの論理的な言葉を聞き終えると、わずかに唇の端を吊り上げ、冷たい笑みを浮かべた。「ふむ。流石は我が教え子、司祭殿。理路整然とした弁舌の冴えは健在と見える。領民の動揺の原因を、私の警備犬に求めるとは」 トーマスはアーサーの指摘に対して反論は難しいと判断すると、犬の件は受け流してすぐに別の話題で反撃に移った。「司祭殿、貴方こそが最近、村人の真の不安の種となっているものに不適切な庇護を与えているではないか」 「それは……」 トーマスの言わんとすることを察してアーサーは若干顔色を悪くする。  アーサーの怯んだ隙を見逃さず、トーマスは座ったまま前にやや身を乗り出し、声を一段と落として迫った。「噂の真偽はどうであれ、得体の知れぬ流浪人の存在こそが、体調不良や不穏な噂の源だと、怯えが広がっている。そして先日、あのルーシーという女が毒草を薬に混ぜたと疑われた時、貴方はその流浪人を、護衛か何かのように横に立たせていたではないか。どこの馬の骨とも知れぬ者を、教会の権威の側に立たせるなど、代官としての私の目から見ても見過ごしがたい軽率な行為だ」「……」 痛いところを突かれてアーサーは言葉も無い。  議論を「公務」から「不適切な私的交友」へと切り替えられ、アーサーは今までの議論における優勢を一転させて追い込まれてゆく。トーマスは犬の問題を受け入れるフリをしてアーサーを油断させていた所に流浪人(ウルフ)の存在という、アーサーにとってより個人的で防御しにくい問題を突いて遣り込める手腕は見事で、彼は流石代官を任されるだけはあるだろう。  戸惑うアーサーに対しトーマスは畳みかける。「司祭殿、まずはご自身が連れ添っている『不必要な恐怖』を排除することから始めるべきではないか。それが、目上への敬意を持って私に『指導』を求める、聡明な教え子の振る舞いというものだ」 トーマスは最後に「聡明な教え子の振る舞い」という言葉を使い、目上としての権威をもってアーサーの私生活の欠点を厳しく指摘し、圧力をかけた。この反撃は、公的な治安と私的な交友の境界を曖昧にし、アーサーの立場を非常に危うくするものだった。

  • 神父と白い野獣   #31.第八話「正しき立場」①

     アーサーが犬をモフモフしながらウルフと密談をした数日後。アーサーは村人の数人を連れてトーマス・バートン邸を訪れていた。  代官邸の石壁は昼の光を受けてもどこか冷たく、門をくぐるだけで空気が一段重くなるように感じられる。連れてきた村人たちも、自然と口数が少なくなっていた。(ウルフの汚名を晴らすためにも、僕が出来る事を頑張らなくては) 村に広がる体調不良の原因をウルフが調査している間、彼の動きに代官トーマスの目が向かぬよう、アーサーは自分に出来る問題の対処に取り組むことにした。  今の立場でトーマスに働きかけられることがあるとすれば、やはり森に放たれた犬の件だろう。  村の夜警に犬を導入するなどという重要な話を、村の司祭である自分が知らぬまま進められれば──今後も教会への相談なく物事が決められていくことになる。  それは、いずれ教会そのものが村の運営に口出しできなくなることを意味していた。  信者たちの最後の拠り所を失うわけにはいかない。  そのため、森で犬を目撃した村人を探し出し、本日は証言者として同行させていた。  訪問者一同は、謁見まで通された小部屋で待機させられていた。窓は小さく、光も薄い。壁際に立つ村人たちは落ち着かない様子で手を擦り合わせたり、足元を見つめたりしている。  やがて扉が静かに開き、トーマスの妻、ヘレナ夫人が姿を現した。「お待たせいたしました。こちらへ」 柔らかな物腰でそう告げると、彼女は一同を謁見室へと導く。  重い扉が押し開かれる。  広い室内はよく磨かれているが、どこか冷ややかで、声が響く前に飲み込まれてしまいそうな空間だった。  アーサーが足を踏み入れると、トーマスが椅子から立ち上がり、慇懃に一礼する。「これは司祭様、お忙しい中、すぐにお越しいただき恐縮至極にございます。お先ぶれを頂戴し、すぐにお迎えの準備が整いました」 普段の傲岸さが嘘のような丁寧さだった。  その視線の合図だけで、従者が静かに動き、椅子を引く。  同行した村人たちは別の従者に促され、入口脇に整列させられた。  ア

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  • 神父と白い野獣   #29.第七話「噂と兆候」③

    「ウルフ、いるかい?」  彼のテントの近くでアーサーが声を掛けると、テントの中からではなく外から返事が帰って来て驚く。  闇の向こうで、犬の気配がざわりと揺れた。 「なんだ」 「ウ、ウルフ……さん?」  アーサーが森の闇に目を凝らすと、そこにはランプの淡い光の中で、十頭近い犬を周囲に侍らせて座るウルフの姿があり、アーサーはさらに驚きの声を上げた。 「い、犬!? どうしてこんなにたくさん!」 「……ハア」  ウルフは目を白黒させているアーサーを一瞥しては、面倒そうに溜息を吐くばかりだ。 「その犬どうしたの?」 「最近夜になるとやってくるんだ。はぐれて野犬になると危ないから、迎えが来るまでこうやって面倒見ている」 「迎えが来るってことは、まだ野犬じゃないの、その犬達は……」 「いや、野犬というには手入れも躾も行き届いている」 「そう、なんだ……」  アーサーは最初、犬の群れを野犬か何かかと思ったが、ウルフによると飼い犬らしい。どの犬も定期的に手入れされている形跡があり、朝になると迎えが来て一斉に帰ってしまうとのこと。  迎えに来るってことはわざわざ夜の森に放っている人間がいるわけだが、そんな大事な報告をアーサーや教会の人間は一切聞いていなかった。 「犬を森に放すなんて話を、僕は聞いていないぞ。飼い犬なら、そもそもどこの犬なんだ?」 「何だ、何も知らないのか。だとしたらやっぱりアレか」  アーサーが何も聞いていないと知ったウルフだが、他に思い当たることがあるらしい。  ウルフに思い当たりがあったとしても、アーサーにはさっぱりだったので、彼に説明を促した。 「アレって?」 「俺への嫌がらせだ」 「何だって!?」  聞き捨てならな

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     中世イングランドの村で、粉挽き屋は欠かせない仕事でした。  小麦や大麦は、そのままではパンや粥になりません。食べるためには、まず粉にする必要があります。  そのため、水車小屋には村人の穀物袋が集まりました。 けれど粉挽き小屋は、ただ粉を作る場所ではありません。  人が集まり、順番待ちが生まれ、支払いがあり、使いの者が出入りする場所です。  そこには、村の食べ物の流れと、人の流れが集まっていました。■粉挽き小屋は村の情報交差点 粉挽き小屋には、いろいろな人がやって来ます。  農民、パン屋、大きな家の下働き、代官邸の使い。穀物袋を持った人々が順番を待ち、挽き上がった粉を受け取り、挽き賃を払って帰っていきます。 そこで見えるのは、世間話だけではありません。  どの家がどれだけ穀物を持ってきたか。  誰が急いでいるか。  どこの使いが来ているか。  誰が支払いで揉めそうか。  どの家の暮らし向きが苦しそうか。 粉挽き屋は、そうした情報を仕事の中で自然に見ています。  穀物袋の量、順番待ちの顔ぶれ、支払いの様子、使いに来た相手。それらは、村の暮らしぶりを映すものです。 だから粉挽き小屋は、村の情報ハブでもありました。  食べ物と人の流れが交わる場所だからこそ、村の変化や噂が入りやすく、小さな異変にも気づきやすい場所だったのです。■粉挽き(ミルナー)はなぜ嫌われやすいのか 粉挽きには、挽き賃がかかります。  現金で払う場合もありますが、穀物や粉の一部を取り分として渡すこともありました。 ここが、粉挽き屋が疑われやすい理由です。 村人にとって、穀物は生活そのものです。  その袋を粉挽き屋に預ける。  粉になって戻ってくる。  けれど、挽く前と後では量も形も変わっています。 すると、疑いが生まれます。  多く取られたのではないか。  目方をごまかされたのではないか。  自分の袋だけ後回しにされたのではないか。

  • 神父と白い野獣   #28.第七話「噂と兆候」②

     アーサーは司祭館を出て教会に向かうと、礼拝の広間に集まった数人の体調不良の信者たちの患部に按手(あんしゅ、Laying on of hands)による祝福を施して回った。  幸いここに居る村人の中には重篤な症状の者は一人も居らず、祝福を与えると皆安心して普通に歩いて帰っていった。  それを見送ると、今度は教会から診療所に向かう。  祝福を求めている患者は診療所にこそたくさん居るだろうし、後は、ルーシーの様子が気になったからだ。  ウルフの話が出来るのは現状ルーシーだけだから、この騒ぎの中で彼がどうしてるのか何か知らないか訊きたかった。  診療所に行くと、やはりいつもより患者が多く、シスターや世話人たちが忙しなくあちこち駆け回っていた。  薬を貰うために並ぶ人の列と、施設に入りきらない患者たちが地面に蹲ったり横たわっている光景を見渡しては、アーサーは顔を青褪めさせた。  薬草を煎じた匂いに、汗と湿った布の臭いが混ざり合い、空気が重く淀んでいる。咳き込む声や苦しげなうめきが絶えず重なり、耳の奥にまとわりついた。  思わず息を詰め、アーサーは無意識に胸元で小さく十字を切る。 「どうしてこんな事に……」  体調不良で不安そうな村人達の何気ない会話に耳を傾ければ、やはりあちこちで〝流浪人の呪い〟について語り合っており、アーサーの胸を締め付けた。  流浪人──ウルフが呪いを振りまいてるなどという妄言を、どうすれば払拭できるだろうか。その方策を、今のアーサーには全く思いつかず、とにかく少しでも多くの情報を求めてルーシーの姿を人の群れの中で探した。 「あ……!」  動き回る世話人の中からやっとのことでルーシーを見付けたが、彼女は薬を抱えて特に忙しそうにしている一人だったため、アーサーが声を掛けようか迷っていると、診療所の管理者であるシスターマーガレットが、神父アーサーの登場に気付いては、表情を輝かせて先に駆け寄って来た。 「アーサー様。様子を見に来て下さったのですか?」  マーガレットが何も知らずに、心強い味方を見付

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