ログイン森で出会った不思議な気配を意識し始めてから、アーサーにとって夜の訓練の意味が少し変わった。
こうやって一人で夜の森に居ることで、あの白い人影が現れてくれないかと思うようになった。 あの白い人影を待っているからと言って、別にトレーニング内容が変わったわけではない。だが、何だか気持ちがソワソワして、祈るような気持で時間が少し長引くようにはなった。 お陰で、普段から短い睡眠時間が更に減り、日中にふと意識が遠のくほどの睡眠不足に拍車がかかったが、暫くは挫けずに出会えるチャンスを待って森へ通った。 しかし何日経っても白い人影がアーサーの前には訪れず、湿った夜風に肩をすくめて帰路につくばかりだった。そんなある日の日中。
この日は信徒からの相談が少なく、家を訪問する予定も無かったので、アーサーは自主的に教会周りの墓地の整備を手伝うことになった。 五月だというのに空はどんよりと低く、先日までの温かな陽気が嘘のように消え失せてしまい、異常な冷え込みのせいで、まるで冬のような刺すような冷気が肌を刺した。 アーサーは墓守アリスター・クックから借りた、使い込まれて硬くなった革の前掛けを締め、泥と格闘していた。 手に持つスコップは、重い樫の木を削り出したものだ。刃先にだけ補強の鉄が打ち付けられており、突き立てるたびに「カチッ」と石に当たる鈍い感触が手に響く。 「司祭様、そこだ。春の雨で土が沈んだところには、水が溜まる。一刻も早く埋め戻さんと、中が腐っちまう」 「っはい。く、泥が重いな……」 寡黙なアリスターの指示は短く、容赦がない。アーサーは薄手のチュニックの袖を捲り上げ、水を含んで底なしに重くなった泥をスコップで運んでは、自らの靴で一歩一歩踏み固めていく。 ふと顔を上げれば、ノヴァが高い木の枝からその様子を静かに見下ろしていた。普段と違う、泥にまみれた格好のアーサーを不思議そうに眺めていたが、ふと視線を外して飛び立ち、高くピィピィと鳴いた。 アーサーが腰を伸ばし、ノヴァが飛んで行った方へ目を向けると、アリスとルーシーがリネンの布を被せたバスケットを抱えてやって来るのが見えた。 「アーサー様、クックさん。お疲れ様です」 アリスが声を掛けると、アーサーが盛った土を「タンパー」と呼ばれる重い木の棒でドスンドスンと叩き固めていたアリスターも、ようやく動きを止めた。 「アーサー兄様、アリス姉様のお母さんのエディス様から、差し入れを頂いたのでお持ちしました」 「それは有り難いね。それじゃあ、まずはクックさんに持って行ってあげて」 ルーシーはアーサーの指示に頷くと、大きな道具を抱えて待ち構えているアリスターの方へ歩み寄った。 「クックさん、これ……」 籠を差し出すと、アリスターが泥のついた手でリネンをめくり、中から包みを取り出した。包まれていた布を開くなり、彼はその無愛想な目を驚きで見開いた。 「ほう、白パンじゃないか。流石は粉ひきの家だ。こんな上等な品を寄越すとは気前が良い。しかもバターにドライフルーツ、干し肉まで……! こりゃ食べた分、しっかり働かんといかんな。アリス、ミルナーの旦那によろしく伝えておいてくれ」 普段の彼からは想像もできないほど上機嫌な声だ。アリスターは山羊の乳が入った革袋を手に取ると、栓を抜いてぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。鼻をくすぐる山羊乳特有の野性味のある香りが、冷えた墓地に漂う。 ルーシーは今度はアーサーの方へ駆け寄り、バスケットを差し出した。 「ありがとう。本当だ……僕が普段食べているものよりずっと良いパンじゃないか」 アーサーが手にした包みからは、まだ確かな温もりが伝わってきた。小麦の香ばしさが、泥の匂いに慣れた鼻を優しく刺激する。 「教会の焼き窯を借りて温め直したから、焼き立てよ。アーサーは私達とこっちで食べましょ」 アリスに促され、アーサーは教会の裏手にある大きな切り株へと向かった。 そこは以前、立派なケヤキの大木があった場所だ。だが、教会の後援権がペンストレイトからアーサーの実家であるクロムウェルに変わった際、整備の一環で伐採されてしまった。 残された巨大な切り株は、今では天然のテーブルのようになっている。幼い頃のアーサーはここでアリスやルーシーとお茶会ごっこをしたものだ。 「アーサー、どうぞ」 ルーシーが地面に清潔な布を敷き、アーサーを座らせた。人目がなくなると、二人は幼馴染としての砕けた様子に戻り、手際よく準備を始めた。 「わあ、三人でこうやるのは久しぶりだね」 「アーサーが今日は墓地の整備をするって聞いたから、急いでママにお願いしたの。教会の食事は量が少なくて、体を壊さないか心配なんですもの」 アリスがそう言いながら、手際よくパンにバターを塗り広げる。黄色いバターがパンの熱でじわりと溶け、艶を帯びる。 「ありがとう、アリス。本当に助かるよ」 三人で囲む、温かいパンと山羊乳。それは伯爵令息という立場を捨て、司祭として孤独に聖務に励むアーサーにとって、何よりも心の寒さを溶かす時間だった。 和やかにお茶をしながら、ふと、アーサーは胸に引っかかっていた流浪人のことを思い出した。 「ねえルーシー。あれから例の流浪人さんと話したりした?」 その問いに、パンを食べ終えて乾燥イチジクとナッツを摘んでいたアリスの手が止まった。 「……流浪人? ルーシー、まさかあの方と関わっているの?」 ルーシーが流浪人と関わりがあると聞いて、アリスが驚いて詰め寄る。 「関わりって程じゃないのよ。前に村の男の人達に囲まれて困ってた時に助けてくれた事があって。後、私が薬草採取している付近に彼がキャンプしてるから顔を合わせる事があるってだけで……」 アリスの勢いにルーシーは少し驚いてしまうが、アリスはルーシーを妹のように思っているので、流浪人と言う不審者とのかかわりに不安を感じて心配してしまうのは当然の事だった。 「十分関わってるじゃない。その話、他で話したりした?」 「してない。ちゃんと話したのはアーサーと今、アリスにだけだよ」 「そう、気を付けなさいよ。ただでさえルーシーは孤児ってことで目立つのだから……その上、流浪人と結託してるとか思われたらどうなるか分からないわ。私、ルーシーが教会に裁かれて連れていかれるところなんて見たくないの」 そう言ってアリスは、心配そうに自分の頬に手を当てた。 「気を付ける。心配させてごめんね、アリス……」 ルーシーは自分の軽率な発言を反省し、しょんぼりしながらアリスに謝った。 「そうだよね……流浪人さんが良い人でも、村の承認を得てないと関わるの難しいよな」 アーサーもルーシーにつられて自分の軽率さに流浪人と関わりたいと思った事を反省する。それでも、せめてもう少し流浪人の話をルーシーから聞きたかったが、アリスの話を聞いている内に、そろそろ作業に戻るタイミングになってしまった。 そうしてお茶会は解散となり、アーサーは再び墓地の整備作業へ向かい、アリスとルーシーも自分の持ち場に帰って行った。昇天祭から十日余り──五月も末、サマセットの地は夏を告げる六月の聖ヨハネ祭を間近に控えているというのに、空の暗い日が続いていた。
陽光は厚い雲に遮られ、長袖を重ね着しなければならないような寒さが大地を、村を覆っていた。そんな不安定な空気が、ついに牙を剥く。 夜明け、一人の羊飼いが息を切らせて教会へ駆け込んできた。 「ブリストル海峡の向こう、南西の空が死んだような色をしていやがる。嵐が来るぞ。それも、村を呑み込むようなやつだ」 その警告は瞬く間に村を駆け巡った。朝のミサは中止となり、村中が水害対策の熱狂に包まれる。 その差し迫った状況は、教会も例外ではなかった。男手のほとんどは現場へ借り出され、残ったのは司祭のアーサー、墓守のアリスター、書記のピーター、そして女性使用人たちだけだった。 「アーサー様、私はアリスターと一緒に鐘楼へ。貴方はこの聖堂で、嵐を退ける祈りをお願いします」 ピーターの言葉に、アリスターが付け加える。 「鐘楼にはピーター、お前が先に行け。俺は教会周りを点検してから追う」 「分かりましたよ、アリスター」 古来より嵐は「空の悪魔」の仕業とされ、それを払うには聖別された鐘の音が唯一の武器になると信じられていた。 しかし、巨大な鐘を嵐の間中鳴らし続けるのは、屈強な男二人でも血を吐くような重労働だ。 「わかった。二人とも、どうか気を付けて」 アーサーが見送る中、二人が動き出そうとしたその時、教会の重い扉が乱暴に開かれた。村の男、キャスパーが転がり込んでくる。 「アーサー様! すまねぇ、空の動きが早すぎる。このままじゃ川の堤が持たねぇ。申し訳ないが、教会からもう少し人を出せねぇかい。あの雲の重さ、下手すりゃ雹(ひょう)も来るぜ」 緊迫した沈黙の中、ピーターが真っ先に手を挙げた。 「私が行きましょう」 「その方が良いな。力仕事なら俺の方が慣れてる。必要とあらば、一晩中だって鐘を叩いてやるから、ピーター、お前は村を頼む」 「……分かりました。では、ここはお願いしますよ、アリスター」 アリスターは不敵に笑い、ピーターの中肉中背の肩を力強く叩いた。 「助かるぜ、書記殿!」 キャスパーが安堵してピーターを促したその時、静かだが凛とした声が響いた。 「わたくしも、参りますわ」 一同が振り返ると、そこにはアーサーの母、エレインが固い決意を宿した瞳で立っていた。「母さん……!? 行くって……!」
「エレイン様、いけません! 一歩外へ出れば、嵐が過ぎるまで戻ることは叶わないのですよ」 慌てて止めるピーターに、彼女は微笑んで首を振った。 「皆さんが泥にまみれて戦っているのに、私だけが温かい部屋に引き籠もっているなんて、出来ません。そうでしょう、アーサー?」 母からの予期せぬ問いかけに、アーサーは胸を突かれた。 「え……あ、はい。そうです。僕もしっかりと神に祈ります。だから、母さんも、村の力になってあげてください」 母の意図が、痛いほど伝わってきた。新米司祭である自分の立場を、母としての行動で少しでも良くしようとしてくれているのだ。 「決まりだ。村じゃ女たちも当たり前に奔走してる。エレイン様が来てくれりゃあ、皆喜ぶでよ」 「分かりました。では、私の目が届く範囲でお願いしますよ、エレイン様」 ピーターは酷く心配そうだったが、一行はキャスパーに連れられ、嵐の中へと飛び出していった。 アーサーは三人を見送った。 残されたアーサーとアリスターが顔を見合わせると、アリスターは「良い母ちゃんを持ったな、司祭様」と言って、一人鐘楼の方へと上がって行った。 一人礼拝の広間に残されたアーサーの心は、情けなさと悔しさでひどく疼いた。 二十歳を過ぎてなお、母にこれほど気を遣わせてしまうなんて……。 先日、昇天祭を無事にトーマスはアーサーの論理的な言葉を聞き終えると、わずかに唇の端を吊り上げ、冷たい笑みを浮かべた。「ふむ。流石は我が教え子、司祭殿。理路整然とした弁舌の冴えは健在と見える。領民の動揺の原因を、私の警備犬に求めるとは」 トーマスはアーサーの指摘に対して反論は難しいと判断すると、犬の件は受け流してすぐに別の話題で反撃に移った。「司祭殿、貴方こそが最近、村人の真の不安の種となっているものに不適切な庇護を与えているではないか」 「それは……」 トーマスの言わんとすることを察してアーサーは若干顔色を悪くする。 アーサーの怯んだ隙を見逃さず、トーマスは座ったまま前にやや身を乗り出し、声を一段と落として迫った。「噂の真偽はどうであれ、得体の知れぬ流浪人の存在こそが、体調不良や不穏な噂の源だと、怯えが広がっている。そして先日、あのルーシーという女が毒草を薬に混ぜたと疑われた時、貴方はその流浪人を、護衛か何かのように横に立たせていたではないか。どこの馬の骨とも知れぬ者を、教会の権威の側に立たせるなど、代官としての私の目から見ても見過ごしがたい軽率な行為だ」「……」 痛いところを突かれてアーサーは言葉も無い。 議論を「公務」から「不適切な私的交友」へと切り替えられ、アーサーは今までの議論における優勢を一転させて追い込まれてゆく。トーマスは犬の問題を受け入れるフリをしてアーサーを油断させていた所に流浪人(ウルフ)の存在という、アーサーにとってより個人的で防御しにくい問題を突いて遣り込める手腕は見事で、彼は流石代官を任されるだけはあるだろう。 戸惑うアーサーに対しトーマスは畳みかける。「司祭殿、まずはご自身が連れ添っている『不必要な恐怖』を排除することから始めるべきではないか。それが、目上への敬意を持って私に『指導』を求める、聡明な教え子の振る舞いというものだ」 トーマスは最後に「聡明な教え子の振る舞い」という言葉を使い、目上としての権威をもってアーサーの私生活の欠点を厳しく指摘し、圧力をかけた。この反撃は、公的な治安と私的な交友の境界を曖昧にし、アーサーの立場を非常に危うくするものだった。
アーサーが犬をモフモフしながらウルフと密談をした数日後。アーサーは村人の数人を連れてトーマス・バートン邸を訪れていた。 代官邸の石壁は昼の光を受けてもどこか冷たく、門をくぐるだけで空気が一段重くなるように感じられる。連れてきた村人たちも、自然と口数が少なくなっていた。(ウルフの汚名を晴らすためにも、僕が出来る事を頑張らなくては) 村に広がる体調不良の原因をウルフが調査している間、彼の動きに代官トーマスの目が向かぬよう、アーサーは自分に出来る問題の対処に取り組むことにした。 今の立場でトーマスに働きかけられることがあるとすれば、やはり森に放たれた犬の件だろう。 村の夜警に犬を導入するなどという重要な話を、村の司祭である自分が知らぬまま進められれば──今後も教会への相談なく物事が決められていくことになる。 それは、いずれ教会そのものが村の運営に口出しできなくなることを意味していた。 信者たちの最後の拠り所を失うわけにはいかない。 そのため、森で犬を目撃した村人を探し出し、本日は証言者として同行させていた。 訪問者一同は、謁見まで通された小部屋で待機させられていた。窓は小さく、光も薄い。壁際に立つ村人たちは落ち着かない様子で手を擦り合わせたり、足元を見つめたりしている。 やがて扉が静かに開き、トーマスの妻、ヘレナ夫人が姿を現した。「お待たせいたしました。こちらへ」 柔らかな物腰でそう告げると、彼女は一同を謁見室へと導く。 重い扉が押し開かれる。 広い室内はよく磨かれているが、どこか冷ややかで、声が響く前に飲み込まれてしまいそうな空間だった。 アーサーが足を踏み入れると、トーマスが椅子から立ち上がり、慇懃に一礼する。「これは司祭様、お忙しい中、すぐにお越しいただき恐縮至極にございます。お先ぶれを頂戴し、すぐにお迎えの準備が整いました」 普段の傲岸さが嘘のような丁寧さだった。 その視線の合図だけで、従者が静かに動き、椅子を引く。 同行した村人たちは別の従者に促され、入口脇に整列させられた。 ア
■ 14世紀イングランド:カトリック教会の仕組み(一般的な基礎知識としてのです) Ⅰ.広域の統治機構(中央・階層構造) イングランド全土を統括する、高位から順に並べた権力構造です。 教皇(Pope):全教会の頂点(ローマ)。 枢機卿(Cardinal):教皇の最高顧問。 大司教(Archbishop):国内教会の長。イングランドではカンタベリーとヨーク。 司教(Bishop):【重要】 地域の絶対権力者。独自の裁判所を持ち、司務の任免権を持つ。 司教次官(Archdeacon):司教の代理。各教区を巡回し、司祭の規律や帳簿を監査する実務の責任者。 Ⅱ.聖職者の階級(オーダー) 一人の聖職者が叙階(任命)によって昇っていく、霊的な位の順序です。 司教(Episcopate):最高位の叙階。 司祭(Priesthood):ミサを執り行い、秘跡(サクラメント)を授ける権限を持つ。 助祭(Diaconate):司祭の補助。 副助祭(Subdiaconate):上級聖職の末端。 下級聖職(Minor Orders):侍者、祓魔師、読師、門番。まだ「司祭」ではない段階。Ⅲ.一般教会の運営組織(村の現場) 村の「教区教会」を実際に動かしている、役割ごとの実態です。 【聖職者側】◎教区司祭(レクター / ヴィカー) レクター:什一税の全額を受け取る権利を持つ「教区の主」。 ヴィカー:レクターの代理として実務を行う司祭。 役割:儀式の執行、村人の魂の管理、および「内陣(祭壇側)」の維持。 教区書記(パリッシュ・クラーク) 立場:下級聖職者。読み書きができる実務者。 役割:典礼の補助(鐘鳴らし、聖水運搬)と、経済的記録(什一税の受領リスト、資産目録)の管理。 【信徒側】 教区委員(チャーチウォーデン) 立場:村人から選ばれる2名の代表。
「ウルフ、いるかい?」 彼のテントの近くでアーサーが声を掛けると、テントの中からではなく外から返事が帰って来て驚く。 闇の向こうで、犬の気配がざわりと揺れた。 「なんだ」 「ウ、ウルフ……さん?」 アーサーが森の闇に目を凝らすと、そこにはランプの淡い光の中で、十頭近い犬を周囲に侍らせて座るウルフの姿があり、アーサーはさらに驚きの声を上げた。 「い、犬!? どうしてこんなにたくさん!」 「……ハア」 ウルフは目を白黒させているアーサーを一瞥しては、面倒そうに溜息を吐くばかりだ。 「その犬どうしたの?」 「最近夜になるとやってくるんだ。はぐれて野犬になると危ないから、迎えが来るまでこうやって面倒見ている」 「迎えが来るってことは、まだ野犬じゃないの、その犬達は……」 「いや、野犬というには手入れも躾も行き届いている」 「そう、なんだ……」 アーサーは最初、犬の群れを野犬か何かかと思ったが、ウルフによると飼い犬らしい。どの犬も定期的に手入れされている形跡があり、朝になると迎えが来て一斉に帰ってしまうとのこと。 迎えに来るってことはわざわざ夜の森に放っている人間がいるわけだが、そんな大事な報告をアーサーや教会の人間は一切聞いていなかった。 「犬を森に放すなんて話を、僕は聞いていないぞ。飼い犬なら、そもそもどこの犬なんだ?」 「何だ、何も知らないのか。だとしたらやっぱりアレか」 アーサーが何も聞いていないと知ったウルフだが、他に思い当たることがあるらしい。 ウルフに思い当たりがあったとしても、アーサーにはさっぱりだったので、彼に説明を促した。 「アレって?」 「俺への嫌がらせだ」 「何だって!?」 聞き捨てならな
中世イングランドの村で、粉挽き屋は欠かせない仕事でした。 小麦や大麦は、そのままではパンや粥になりません。食べるためには、まず粉にする必要があります。 そのため、水車小屋には村人の穀物袋が集まりました。 けれど粉挽き小屋は、ただ粉を作る場所ではありません。 人が集まり、順番待ちが生まれ、支払いがあり、使いの者が出入りする場所です。 そこには、村の食べ物の流れと、人の流れが集まっていました。■粉挽き小屋は村の情報交差点 粉挽き小屋には、いろいろな人がやって来ます。 農民、パン屋、大きな家の下働き、代官邸の使い。穀物袋を持った人々が順番を待ち、挽き上がった粉を受け取り、挽き賃を払って帰っていきます。 そこで見えるのは、世間話だけではありません。 どの家がどれだけ穀物を持ってきたか。 誰が急いでいるか。 どこの使いが来ているか。 誰が支払いで揉めそうか。 どの家の暮らし向きが苦しそうか。 粉挽き屋は、そうした情報を仕事の中で自然に見ています。 穀物袋の量、順番待ちの顔ぶれ、支払いの様子、使いに来た相手。それらは、村の暮らしぶりを映すものです。 だから粉挽き小屋は、村の情報ハブでもありました。 食べ物と人の流れが交わる場所だからこそ、村の変化や噂が入りやすく、小さな異変にも気づきやすい場所だったのです。■粉挽き(ミルナー)はなぜ嫌われやすいのか 粉挽きには、挽き賃がかかります。 現金で払う場合もありますが、穀物や粉の一部を取り分として渡すこともありました。 ここが、粉挽き屋が疑われやすい理由です。 村人にとって、穀物は生活そのものです。 その袋を粉挽き屋に預ける。 粉になって戻ってくる。 けれど、挽く前と後では量も形も変わっています。 すると、疑いが生まれます。 多く取られたのではないか。 目方をごまかされたのではないか。 自分の袋だけ後回しにされたのではないか。
アーサーは司祭館を出て教会に向かうと、礼拝の広間に集まった数人の体調不良の信者たちの患部に按手(あんしゅ、Laying on of hands)による祝福を施して回った。 幸いここに居る村人の中には重篤な症状の者は一人も居らず、祝福を与えると皆安心して普通に歩いて帰っていった。 それを見送ると、今度は教会から診療所に向かう。 祝福を求めている患者は診療所にこそたくさん居るだろうし、後は、ルーシーの様子が気になったからだ。 ウルフの話が出来るのは現状ルーシーだけだから、この騒ぎの中で彼がどうしてるのか何か知らないか訊きたかった。 診療所に行くと、やはりいつもより患者が多く、シスターや世話人たちが忙しなくあちこち駆け回っていた。 薬を貰うために並ぶ人の列と、施設に入りきらない患者たちが地面に蹲ったり横たわっている光景を見渡しては、アーサーは顔を青褪めさせた。 薬草を煎じた匂いに、汗と湿った布の臭いが混ざり合い、空気が重く淀んでいる。咳き込む声や苦しげなうめきが絶えず重なり、耳の奥にまとわりついた。 思わず息を詰め、アーサーは無意識に胸元で小さく十字を切る。 「どうしてこんな事に……」 体調不良で不安そうな村人達の何気ない会話に耳を傾ければ、やはりあちこちで〝流浪人の呪い〟について語り合っており、アーサーの胸を締め付けた。 流浪人──ウルフが呪いを振りまいてるなどという妄言を、どうすれば払拭できるだろうか。その方策を、今のアーサーには全く思いつかず、とにかく少しでも多くの情報を求めてルーシーの姿を人の群れの中で探した。 「あ……!」 動き回る世話人の中からやっとのことでルーシーを見付けたが、彼女は薬を抱えて特に忙しそうにしている一人だったため、アーサーが声を掛けようか迷っていると、診療所の管理者であるシスターマーガレットが、神父アーサーの登場に気付いては、表情を輝かせて先に駆け寄って来た。 「アーサー様。様子を見に来て下さったのですか?」 マーガレットが何も知らずに、心強い味方を見付