祭り囃子が終わる頃

祭り囃子が終わる頃

last updateLast Updated : 2026-07-24
By:  森村征爾Updated just now
Language: Japanese
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祖父を亡くした少年は、時間が止まったまま翌年の夏を迎えた。 祖父の居ない町、減っていくホタル、そして幼なじみの変化。 祭り囃子だけが、変わらず遠くで鳴っている。 止まった時間と、流れていく時間の狭間で揺れる。 二つの別れを経験する一夏のストーリー。

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Chapter 1

序章 別れの日

「じいちゃん…ありがとう…。」

桜久が中学二年の時に祖父が亡くなった。両親が共働きであった為、桜久は小さな頃から祖父に預けられて育てられた。

そんな祖父も、去年の冬から急に弱っていった。

春先までは畑に出ていた。 腰が痛いと笑いながらも、鍬を握れば誰より早く動き、夕方には縁側で夕食の煮物の匂いを漂わせていた。 だが、夏の祭りが近づく頃には布団から起きる時間の方が短くなっていた。

「今年も太鼓、聞けるかの…。」

掠れた声でそう言った祖父に、桜久は笑って答えた。

「当たり前やろ。最後まで一緒に聞くんやけん」

けれど、祭りの初日を迎える前に祖父は息を引き取った。

火葬場の煙突から白い煙が空へ昇っていく。

遠くで祭り囃子が聞こえていた、 山車を引く掛け声。

笛の高い音、太鼓の腹に響く低音。 子供の頃、祖父に肩車されながら見た夏祭りの音だった。

桜久は唇を噛んだ。

泣けば終わってしまう気がした。 祖父との時間が、本当に灰になってしまう気がした。

待合室では親戚たちが静かに話している。

「よう世話焼く人やった」

「最後まで気丈やったねぇ」

「サクちゃん寂しくなるなあ」

そんな声が遠く聞こえる。

桜久は一人、自販機の横に置かれた古いベンチへ座った。

ふと、ポケットに何か硬い感触があることに気づく。

取り出すと、小さな鈴だった。

祭りの日、迷子にならないよう祖父が浴衣につけてくれた鈴。 中学に上がってからは恥ずかしくて外したはずなのに、なぜか捨てられず持っていた。

鈴を握った瞬間、不意に祖父の声が蘇る。

「祭り囃子はな、生きとる人の音なんよ」

幼い頃、意味もわからず聞いていた言葉。

「悲しいことがあっても、太鼓は鳴る。 誰かが死んでも、笛は鳴る。 そうやって人は前に進むんよ。」

火葬場の窓が赤く染まっていた。 夕暮れが近い。

やがて職員に呼ばれ、桜久たちは収骨室へ向かった。

白くなった祖父の骨を、箸で拾う。 細く、小さく、軽かった。

最後に喉仏を見た瞬間、桜久は耐えきれず俯いた。

すると隣にいた母が、ぽつりと呟く。

「おじいちゃん、祭り好きやったね」

その一言で、張り詰めていたものが崩れた。

桜久は声を殺して泣いた。

泣きながら思い出していた。 夜店で金魚を掬ったこと。 線香花火を最後まで競ったこと。 熱いアスファルトの上を、祖父と手を繋いで歩いたこと。

気づけば、外では祭り囃子が終わりに近づいていた。

太鼓の音がゆっくり遠ざかる。

まるで一つの季節が終わっていくようだった。

骨壺を抱え、火葬場を出る。 空には薄い月が浮かんでいる。

その時、微かな音が聴こえた。

……チリン……。

ポケットの鈴が、小さく鳴った。

桜久は涙を拭き、空を見上げた。

「……また一緒に祭りに行こう…」

祭り囃子は、もう聞こえなかった。

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序章 別れの日
「じいちゃん…ありがとう…。」 桜久が中学二年の時に祖父が亡くなった。両親が共働きであった為、桜久は小さな頃から祖父に預けられて育てられた。 そんな祖父も、去年の冬から急に弱っていった。 春先までは畑に出ていた。 腰が痛いと笑いながらも、鍬を握れば誰より早く動き、夕方には縁側で夕食の煮物の匂いを漂わせていた。 だが、夏の祭りが近づく頃には布団から起きる時間の方が短くなっていた。 「今年も太鼓、聞けるかの…。」 掠れた声でそう言った祖父に、桜久は笑って答えた。 「当たり前やろ。最後まで一緒に聞くんやけん」 けれど、祭りの初日を迎える前に祖父は息を引き取った。 火葬場の煙突から白い煙が空へ昇っていく。 遠くで祭り囃子が聞こえていた、 山車を引く掛け声。 笛の高い音、太鼓の腹に響く低音。 子供の頃、祖父に肩車されながら見た夏祭りの音だった。 桜久は唇を噛んだ。 泣けば終わってしまう気がした。 祖父との時間が、本当に灰になってしまう気がした。 待合室では親戚たちが静かに話している。 「よう世話焼く人やった」 「最後まで気丈やったねぇ」 「サクちゃん寂しくなるなあ」 そんな声が遠く聞こえる。 桜久は一人、自販機の横に置かれた古いベンチへ座った。 ふと、ポケットに何か硬い感触があることに気づく。 取り出すと、小さな鈴だった。 祭りの日、迷子にならないよう祖父が浴衣につけてくれた鈴。 中学に上がってからは恥ずかしくて外したはずなのに、なぜか捨てられず持っていた。 鈴を握った瞬間、不意に祖父の声が蘇る。 「祭り囃子はな、生きとる人の音なんよ」 幼い頃、意味もわからず聞いていた言葉。 「悲しいことがあっても、太鼓は鳴る。 誰かが死んでも、笛は鳴る。 そうやって人は前に進むんよ。」 火葬場の窓が赤く染まっていた。 夕暮れが近い。 やがて職員に呼ばれ、桜久たちは収骨室へ向かった。 白くなった祖父の骨を、箸で拾う。 細く、小さく、軽かった。 最後に喉仏を見た瞬間、桜久は耐えきれず俯いた。 すると隣にいた母が、ぽつりと呟く。 「おじいちゃん、祭り好きやったね」 その一言で、張り詰めていたものが崩れた。 桜久は声を殺して泣いた。 泣きながら思い出していた。 夜店で金魚を掬ったこと。 線香花火を最後まで競ったこと。 熱
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第一話 湿度
雨は降っていなかった。 けれど、空気はじっとりと湿っていた。 窓の外では、灰色の雲が低く垂れ込めている。遠くで川の流れる音が聞こえ、開けっぱなしの網戸からは、濡れた土の匂いが部屋へ入り込んでいた。 桜久は布団の中で目を閉じたまま、小さく息を吐く。 朝だった。 学校へ行かなければならない時間だと頭ではわかっている。だが、身体が動かなかった。布団が鉛のように重い。 居間から味噌汁の匂いはもうしない。毎朝聞こえていた祖父の咳払いも、雨戸を開ける音も消えていた。 祖父が死んでから、家の時間は止まったままだった。 仏壇の線香の匂いだけが、朝になるたび薄く残る。 桜久は布団を頭まで被った。 すると、階段を駆け上がる音が響く。 勢いよく襖が開いた。 「桜久、居るーっ?」 聞き慣れた声だった。 「……勝手に入るなよ」 布団の中から低い声で返す。 「だって返事しないじゃん」 幼なじみの深雪は、当たり前のように部屋へ入ってきた。制服姿のまま鞄を床へ置き、じっと桜久の布団を見る。 「また学校休むの?」 「今日は行かない」 「今日“も”でしょ」 深雪は呆れたようにため息をついた。 窓の外では、まだ雨にもなれない風が木々を揺らしている。湿った空気が肌にまとわりつき、不快だった。 「せっかく雨降ってないのにさ。行かないの?」 「何が」 「ホタル。もう出始めてるみたい。」 桜久は少しだけ布団から顔を出した。 「……もうそんな時期か」 小さい頃、祖父に連れられて深雪と三人で川へ行ったことを思い出す。暗い土手の上を歩きながら、祖父はいつも笑っていた。 「ホタルは綺麗な水にしかおらんのよ」 その声が、不意に胸の奥へ刺さった。 桜久は視線を逸らす。 深雪は勉強机に腰掛け、小さく足を揺らした。 「桜久が今のままだと、じいちゃん心配するよ」 その言葉に、部屋の空気がさらに重くなった気がした。 桜久はしばらく黙っていたが、やがて真顔のまま口を開く。 「深雪、あのさ…。」 「……な、なによ」 少し頬を赤くする深雪。 「白、見えてるぞ」 「………。」 深雪は自分のスカートを押さえ、顔を真っ赤にした。 「馬鹿っ!」 机の上のノートを投げつける。 桜久は久しぶりに小さく笑った。 その笑い声を聞き、深雪は怒った顔のまま少しだけ
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第二話 梅雨入り
昼を過ぎても、空はどんよりと曇ったままだった。 窓の外では風が止まり、重たい湿気だけが家の中に流れ込んでくる。天気予報では、今夜から梅雨入りだと言っていた。 桜久はようやく布団から出ると、階段を降りて居間へ向かった。 テーブルには、母親が朝置いていったラップ付きの皿が並んでいる。冷めた生姜焼きと味噌汁。共働きの両親は、最近ますます桜久に強く言わなくなっていた。 学校へ行けとも、外へ出ろとも言わない。 腫れ物に触るみたいな空気だけが家に残っている。 桜久は無言のまま電子レンジへ皿を入れた。 回転する音を聞きながら、仏壇へ目を向ける。 小さく息を吐き、線香へ火をつけた。 煙が細く揺れ、祖父の遺影がぼんやり霞む。 「……じいちゃん…。」 自然と手を合わせる。 昨年の夏に祖父が亡くなってから、胸の奥に空いた穴は塞がらなかった。 何度か学校へ行こうとはした。 制服を着て、玄関まで出た日もある。 けれど、教室を思い浮かべた瞬間に耳鳴りが酷くなり、息が苦しくなった。 結局、そのまま家へ戻ることしかできなかった。 レンジの加熱が終わる音が鳴る。 だが桜久は立ち上がらず、遺影を見つめたまま呟いた。 「じいちゃん、またホタルの時期がきたよ……」 その言葉と同時に、記憶がゆっくり浮かび上がる。 まだ小学校へ入ったばかりの頃だった。 深雪が「ホタル見たい!」 と駄々をこね、祖父が困ったように笑いながら二人の手を引いてくれた夜。 田んぼ道は暗く、水の流れる音だけが静かに響いていた。 祖父の持つ懐中電灯が、細い道をぼんやり照らしている。 やがて瀬名川へ着いた瞬間、草むらの奥で淡い光が揺れ始めた。 深雪は歓声を上げながら走り回っていた。 「すごい! 星みたい!」 両手を伸ばし、夢中でホタルを追いかける。 そして、本当に捕まえそうになった時だった。 「持って帰ったらいかん」 祖父が静かな声で言った。 「ホタルはな、数日の命なんよ。見るだけにしなさい」 深雪は唇を尖らせ、不満そうに手を引っ込めた。 祖父はそんな深雪の頭を優しく撫でる。 その光景を見ながら、桜久は少しだけ面白くなかった。 今思えば、あれは嫉妬だったのかもしれない。 桜久は小さく笑った。 線香の煙がゆっくり天井へ昇っていく。 窓の外では、ぽつり、と雨の音
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第三話 夕暮れのチャイム
夕暮れ、窓の外は薄い茜色に染まり、雨上がりの空気が町に重く残っている。 桜久はスマホを握ったまま、しばらく画面を見つめていた。 電話を掛けるだけなのに妙に緊張する。 学校へ行かなくなってから、人と話す機会はほとんど無かった。声を出すこと自体が、少し億劫になっている。相手が今朝話した深雪であってもだ。 数秒迷った末、深雪へ発信する。 呼び出し音は二回で切れた。 「はいはーい。どした?」 明るい声が耳へ飛び込んでくる。 その元気さに、桜久は少し戸惑った。 自分の沈んだ声との温度差が、うまく噛み合わない。 「……もしもし。僕だけど」 「知ってるよ。通知でわかるし。で? どした?」 深雪は昔からこうだった。 遠慮がない。 だから助かる時もある。 桜久は少し黙り込んでから、小さく口を開いた。 「今夜……ホタル、見に行か――」 「行く!」 言い終わる前に返事が飛んできた。 「え?」 「早めに瀬名川着きたいし、今から準備するね。夕飯コンビニで買お。じゃねー」 「ちょ、待――」 ツーツー……。 通話は一方的に切れた。 桜久はスマホを見つめたまま、小さく息を吐く。 昔からこうだ。 人の話を最後まで聞かない。 けれど、その強引さに救われてきたことも多かった。 瀬名川までは歩いて三十分ほど。 子供の頃から何度も遊んだ場所だ。夏になれば泳ぎ、河原でバーベキューもした。 そして、この時期にはホタルが出る。 桜久は立ち上がり、洗面所へ向かった。 「……とりあえずシャワー浴びるか」 鏡の中の自分は、思った以上にやつれて見えた。 髪も少し伸びている。 蛇口を捻ろうとした、その時だった。 「桜久ーっ! 行くよー!」 外から深雪の声が響いた。 桜久は動きを止める。 連絡してから、まだ数分しか経っていない。 「……早すぎだろ」 結局シャワーは諦め、適当に着替えると家を出た。 門の前では、深雪が制服姿のまま立っていた。 肩で息をしている。 額には薄く汗が浮かんでいた。 走って来たのだろう。 「ほら、行こ!」 「だから早いんだよ……」 小声で呟くが、深雪は聞いていない。 「ねえ桜久。今年でさ、一緒にホタル見に行くの十回目だよ。覚えてた?」 振り向いた深雪が笑う。 その顔を見ていると、桜久は少しだけ昔へ戻っ
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第四話 時の歩み
川の上には、淡い光が浮かんでいた。 揺れるたびに、水面と草むらの境目がゆっくりほどけていく。 「……十回目、なんだよね」 桜久の声は小さかった。 隣で立つ深雪は、ホタルの光を目で追ったまま頷く。 「そだよ」 「でも去年は……見てなかった」 その年、桜久の祖父は寝込んでいて、外に出ることすらできなかった。 ホタルを見に来ることもなかった。 川の音だけが、間に落ちるように続く。 深雪は少しだけ視線を上げる。 「見てなくても、十回目だよ」 桜久はすぐに返せない。 胸の奥に、言葉にならない引っかかりが残る。 「意味、わかんない」 深雪は笑わなかった。 ただ川の方を見たまま言う。 「続いてるから」 ホタルが一匹、桜久の視界を横切って消えた。 草の奥へ落ちるように、光がほどける。 「間が空いてもさ、抜けてもさ」 深雪の声は静かだった。 「全部まとめて、一つの流れでしょ」 桜久は目を伏せる。 「僕の時間は、止まったままだよ」 深雪はすぐには答えなかった。 川の方を見たまま、しばらく黙っている。 それから、真顔のまま言った。 「止まってないよ」 「サクは、そう思ってるだけ」 「馬鹿だから気が付かない」 ホタルの光が、さっきより少し増えた。 水面の上に、小さな点が連なっていく。 桜久は何も言えない。 遠くで、かすかな音が混ざった気がした。 太鼓とも笛ともつかない、祭りの練習。 深雪はそれに気づかないまま、ただ川を見ている。 桜久はゆっくりと顔を上げた。 光は消えていない。 ただ、流れ続けているだけだった。
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第五話 変化
ホタルは、一昨日よりも少なかった。 川の上に浮かぶ光が、まばらになっている。 去年より確実に減っているのに、理由は誰にもわからないままだった。 「……少なくなってるな」 桜久がぽつりと言う。 深雪は川の方を見たまま、小さく頷いた。 「うん」 光が一つ、草の奥へ消える。 「去年は見てないから、余計わかんないけど」 桜久は視線を落とす。 「なんかさ……変わっちゃうなあ」 言葉にすると、余計に胸の奥がざわついた。 ホタルも、川も、じいちゃんも…。 気づいたときには、もう一年前と同じではない。 「置いてかれてる気がする?」 深雪がちらりと桜久を見る。 「サクが?」 「うん」 川の音だけが続く。 しばらくして、深雪は小さく息を吐いた。 「……うちさ」 その声は、少しだけ今までと違っていた。 「両親、離婚するんだよね」 「えっ…。」 混乱する桜久。 「母さんと暮らすことになると思う」 ホタルの光が一つ、揺れて消える。 「だからさ、たぶん……ここにも、あんまり来なくなる」 桜久は深雪を見た。 深雪は笑っていた。 いつもの笑い方のはずなのに、どこか薄い。 「サクとホタル見るのも、今年が最後かもね」 その言葉が、川の音よりも静かに落ちた。 桜久は喉の奥が詰まる。 「……そういうの、急すぎるだろ」 「急だよ」 深雪はあっさり言った。 それから、少しだけ間を置いて続ける。 「でもさ、仕方ないじゃん」 ホタルが、ゆっくりと増え始める。 増えているのに、なぜか遠く感じた。 桜久は拳を握る。 「じいちゃんの時もそうだった」 声が少しだけ震える。 「気づいたらいなくなってて……」 深雪は桜久を見た。 今度は、ちゃんと見た。 「でも私は、生きてるよ」 桜久は息を止める。 深雪は少しだけ笑った。 さっきよりも、ほんの少しだけ自然な笑い方だった。 「だからさ。また会えるよね」 桜久はすぐには答えられない。 川の上で、ホタルが一斉に揺れた。 光の数が、少しだけ増えた気がした。 深雪はそれを見ながら、何事もなかったように言う。 「ほら、まだ終わってないし」 桜久はその横顔を見た。 幼なじみだ。 だからわかる。 今の笑いは、いつものそれとは違う。 それでも深雪は、川の光から目を逸らさな
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第六話 祭り前夜
「サクーっ! おはよー!」 夏の制服姿の深雪が、少し肌寒そうに部屋へ入ってきた。 桜久は返事をしないまま、天井を見ていた。 視線だけが、動かないまま止まっている。 昨夜、深雪から聞かされた言葉が頭の奥に残っていた。 離婚すること。 この街を出ること。 転校すること。 そして秋には、いなくなること。 じいちゃんがいなくなった現実さえ、まだ胸に落ちていないのに。 隣にいるはずの人間が、いなくなる想像だけが先に形を持ってしまう。 「……おい、聞いてる?」 視界に影が落ちる。 次の瞬間、 ボフッ。 顔に柔らかい衝撃。 「痛い……」 顔面に枕を投げつけられていた。でも痛いのは、胸だった。 深雪は当然のような顔で立っている。 「何ぼーっとしてんのよ」 桜久は枕を押しのけて、小さく息を吐いた。 「痛いよ」 「知らないよ」 即答だった…。 その一言で、少しだけ日常の輪郭が戻る。 桜久は枕を返しながら言った。 「学校、行きなよ。遅れる」 深雪は一瞬だけ黙って、それから笑った。 「行ってきまーす」 いつもの声。 いつもの挨拶。 でも、そのいつもが続かないことがモヤモヤしていた。 扉が閉まる音が、やけに軽く響いた。 夕方、深雪がまた家に来た。 「暑かったー。飲み物飲み物」 自分の家のように冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を取り出す。 「麦茶作っといてよー、ったく」 「……ここは僕の家だからな」 水を飲みながら深雪は小さな声で言う。 「じいちゃん居たら、毎日麦茶作ってくれてたのに」 少しだけ間を置いて、深雪は言った。 「また飲みたいね」 じいちゃんは、いつもそうしてくれていた。 学校から帰ると、冷えた麦茶が必ずあった。 深雪の言う通り、それは確かにうまかった。 「深雪は祭り、行くのか?」 なんとなく聞いた。 「へ? サクと行くよ」 当たり前のような返事だった。 「僕と? そろそろ好きな人とか、友達とかと行かないの?」 「そろそろって何よ」 深雪は即座に言い返す。 「私はじいちゃんとサクと、毎年行くの。」学校のバックについた小さな鈴が鳴る。じいちゃんが深雪にも渡した迷子にならない鈴。 真っ直ぐな目で、迷いがない。 「そういうの、変えないし」 桜久は言葉を探したが、うまく形にならな
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第七話 祭りの日
夕方になっても、空はまだ明るかった。 山の向こうの光が抜けきらず、街の輪郭だけを柔らかく浮かせている。 その中に、遠くから祭り囃子が混ざっていた。 笛の音が細く伸びて、太鼓が低く押し返す。 同じリズムなのに、どこか揺れている。 桜久は浴衣を着ることもなく、いつもの服のまま玄関に立っていた。 「遅い」 声がして顔を上げると、深雪がそこにいた。 薄い浴衣。朝顔が咲き黄色の帯が映えていた。髪は軽く結われているだけで、いつもより少しだけ違って見える。 その手首には、小さな鈴が結ばれていた。 「それ」 桜久が視線を落とすと、深雪は軽く揺らした。 ちりん。 一度だけ音が鳴る。 「迷子にならないやつ」 「子どもじゃないだろ」 すかさず 「毎年つけてるでしょ」 当たり前みたいに言われて、桜久はそれ以上言えなかった。 桜久のポケットにも昨年夏から持ち歩いていたからだ。 二人で歩き出す。 通りに近づくほど、囃子が近くなる。 笛と太鼓が重なって、空気の中に薄い層を作っていく。 鈴は、動いた拍子にだけ思い出したように鳴った。 深雪は桜久から鈴の音が聴こえたが何も言わず微笑んでいた。 祭り会場に近付くにつれて 屋台の匂い。 焼けた油の匂い。 甘い砂糖の匂い。 全部が混ざっているのに、一つ一つ匂いがはっきりとわかる。 「サク、りんご飴」 「いらない」 「私が食べるの、買って!」 じいちゃんにもおねだりしていたが僕には遠慮がない…。 「はいはい…。」 赤い飴を渡すと無邪気な顔で笑う。 来年は見れないのかな…。 囃子の音がその表面で揺れているように見える。 境内に近づくと、人の密度が増える。 笛の音が高くなり、太鼓が腹の奥に響く。 桜久は無意識に、じいちゃんが立っていた場所を探していた。 もういないはずなのに、そこだけが空白のまま残っている。 「……今年も来たな」 小さく呟くと、深雪が横を向いた。 「来るに決まってるでしょ」 当然のような声。 その当然が、少しだけ痛い。 しばらく無言で歩いた。 肩が時々ぶつかる。 そのたびに、鈴は鳴ることもあれば、鳴らないこともあった。 囃子だけが、ずっと続いている。 「なあ」 桜久が言うと、深雪は振り向いた。 「なに」 「来年も、来るのか」 言葉は囃子
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第八話 暗闇に咲く花火
毎年祭りの最後には、花火が上がる。 その時間が近づくと、境内の空気だけが少し変わる。 さっきまで鳴っていた囃子の余韻が、ゆっくり引いていく。 深雪は慣れない浴衣のせいか、歩幅が少し遅かった。 「この階段、じいちゃんにおんぶしてもらったんだよね」 上を見ながら、ぽつりと言う。 桜久は足を止めかけて、そのまま歩き続けた。 小さい頃。 深雪が足が痛いとぐずって、じいちゃんに背負われてこの階段を上がったことがある。 そのとき、じいちゃんは桜久の手を取らなかった。 代わりに、深雪だけを背中に乗せていた。 落とさないように、ゆっくりと。 桜久は、その光景だけを覚えている。 「覚えてるんだな」 そう言うと、深雪は少しだけ笑った。 「忘れないよ、ああいうのは」 「足、痛くないのか」 「痛かったらおんぶしてくれる?」 いたずらみたいに言って、深雪は階段を一段上がる。 桜久は答えず、その横に並んだ。 歩幅を合わせるしかなかった。 上がりきった高台には、まだ花火の気配はない。 下では、まだ祭り囃子が続いている。 笛の音が遠く、太鼓だけがかすかに残っている。 夜は完全には閉じていない。 「来年も、祭り行かないか?」 口に出した瞬間、自分でも少し遅いと思った。 深雪はすぐに振り向かない。 「当たり前でしょ」 そう返ってくると思っていた。 でも、少し違った。 「私、いなくなるのかな」 静かな声だった。 桜久はすぐに意味を取りきれなかった。 「サクの中から」 その一言で、ようやく分かる。 “いなくなる”の意味が、場所や距離じゃないこと。 一緒にいた時間そのものが、薄れていくこと。 じいちゃんは今も、二人の中にいる。 でもそれは、残っているからだ。 思い出せなくなったとき、それはどうなるのか。 桜久はすぐに答えられなかった。 言葉を探している間に、空が一度だけ光った。 続けて花火が上がる。 音は少し遅れて届く。 腹の奥に、重く響く。 視界の中で、夜が裂け大輪が闇夜に咲く。 深雪はもう桜久を見ていなかった。 ただ空を見ている。 光が消えて、また上がる。 そのたびに、横顔だけが浮かび上がる。 この横顔は、忘れない。 忘れたくない、ではなく。 ただ、そう思ってしまった。 僕たちは何も言わないまま
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第九話 カウントダウン
花火が終わった夜の匂いは、まだ境内に残っていた。 焦げた火薬と、冷えた風と、人の気配の残り香。 音が消えたあとも、空だけが妙に明るく見える時間がある。 桜久は階段の途中で立ち止まっていた。 さっき見た花火が、まだ頭の奥で開いている。 大きく咲いて、すぐに消えた光。 その消え方が、じいちゃんの最後と重なっていた。 病院で看送った最後ではなく火葬場でさよならしたのが最後の記憶だ。 あのときのことは、もう受け入れたはずだった。 「サク」 深雪の声で現実に引き戻される。 隣にいるはずのその声が、少し遠く感じた。 「……なに」 「帰ろ」 それだけだった。 帰り道、深雪はよく喋っていた。少し五月蝿いくらいに…。 桜久の中では、何かが少しずつずれていた。 じいちゃんの死は、区切りとして置けた。 でも深雪の「居なくなる」は、まだ起きていないのに置き換えれない。 同じ「居なくなる」なのに、重さが違う。 桜久は歩きながら思う。 あのときは、ただ区切っただけだった。 今は、区切る前から怖い。 僕の家に到着しても深雪は帰らなかった。さっさと下駄を脱いで台所へ向かう。 「サクさ」 深雪は相変わらず冷蔵庫を開ける。 ペットボトルの水を取り出しながら 「最近、朝ちゃんと起きてるじゃん」 「……別に普通だよ」 「普通って、そういう顔しないよ」 笑っているのに、少しだけ様子を見ている目だった。 桜久は答えなかった。 朝起きるようになったのは、深雪が来てくれる毎日にリミットがあるからだ。 限られたリミットで変わった僕を見てほしかった。 深雪はペットボトルを置いて、軽く伸びをした。 「でもさ」 ぽつりと続ける。 「ちょっとだけ、つまんないかも」 深雪は笑っていた。
last updateLast Updated : 2026-07-24
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