LOGIN祖父を亡くした少年は、時間が止まったまま翌年の夏を迎えた。 祖父の居ない町、減っていくホタル、そして幼なじみの変化。 祭り囃子だけが、変わらず遠くで鳴っている。 止まった時間と、流れていく時間の狭間で揺れる。 二つの別れを経験する一夏のストーリー。
View More「じいちゃん…ありがとう…。」
桜久が中学二年の時に祖父が亡くなった。両親が共働きであった為、桜久は小さな頃から祖父に預けられて育てられた。 そんな祖父も、去年の冬から急に弱っていった。 春先までは畑に出ていた。 腰が痛いと笑いながらも、鍬を握れば誰より早く動き、夕方には縁側で夕食の煮物の匂いを漂わせていた。 だが、夏の祭りが近づく頃には布団から起きる時間の方が短くなっていた。 「今年も太鼓、聞けるかの…。」 掠れた声でそう言った祖父に、桜久は笑って答えた。 「当たり前やろ。最後まで一緒に聞くんやけん」 けれど、祭りの初日を迎える前に祖父は息を引き取った。 火葬場の煙突から白い煙が空へ昇っていく。 遠くで祭り囃子が聞こえていた、 山車を引く掛け声。 笛の高い音、太鼓の腹に響く低音。 子供の頃、祖父に肩車されながら見た夏祭りの音だった。 桜久は唇を噛んだ。 泣けば終わってしまう気がした。 祖父との時間が、本当に灰になってしまう気がした。 待合室では親戚たちが静かに話している。 「よう世話焼く人やった」 「最後まで気丈やったねぇ」 「サクちゃん寂しくなるなあ」 そんな声が遠く聞こえる。 桜久は一人、自販機の横に置かれた古いベンチへ座った。 ふと、ポケットに何か硬い感触があることに気づく。 取り出すと、小さな鈴だった。 祭りの日、迷子にならないよう祖父が浴衣につけてくれた鈴。 中学に上がってからは恥ずかしくて外したはずなのに、なぜか捨てられず持っていた。 鈴を握った瞬間、不意に祖父の声が蘇る。 「祭り囃子はな、生きとる人の音なんよ」 幼い頃、意味もわからず聞いていた言葉。 「悲しいことがあっても、太鼓は鳴る。 誰かが死んでも、笛は鳴る。 そうやって人は前に進むんよ。」 火葬場の窓が赤く染まっていた。 夕暮れが近い。 やがて職員に呼ばれ、桜久たちは収骨室へ向かった。 白くなった祖父の骨を、箸で拾う。 細く、小さく、軽かった。 最後に喉仏を見た瞬間、桜久は耐えきれず俯いた。 すると隣にいた母が、ぽつりと呟く。 「おじいちゃん、祭り好きやったね」 その一言で、張り詰めていたものが崩れた。 桜久は声を殺して泣いた。 泣きながら思い出していた。 夜店で金魚を掬ったこと。 線香花火を最後まで競ったこと。 熱いアスファルトの上を、祖父と手を繋いで歩いたこと。 気づけば、外では祭り囃子が終わりに近づいていた。 太鼓の音がゆっくり遠ざかる。 まるで一つの季節が終わっていくようだった。 骨壺を抱え、火葬場を出る。 空には薄い月が浮かんでいる。 その時、微かな音が聴こえた。 ……チリン……。 ポケットの鈴が、小さく鳴った。 桜久は涙を拭き、空を見上げた。 「……また一緒に祭りに行こう…」 祭り囃子は、もう聞こえなかった。深雪が引っ越したあともしばらくは連絡を取り合っていた。 最初は他愛のない話ばかりだった。 新しい街のこと。アルバイトのこと。大学のこと。 時々、写真も送られてきた。 けれど互いに県外の大学へ進学してからは、少しずつ連絡の回数も減っていった。 返事を返すまでの日数が伸び、 やがて一年に数回になり、 そして、気づけば途絶えていた。 社会人になり、地元企業への就職が決まって迎えた最初の夏。 久しぶりに祭り囃子を聞いた時、胸の奥が少しだけざわついた。 祭りの準備をする笛の音。 太鼓の低い響き。 夕方になるとチャイムの鳴る街、少し浮き足立つ感じ。 全部、あの頃と同じだった。 変わってないな…。 瀬名川へ向かう途中、橋の上で足を止める。 川面を見下ろしても、もう蛍はいなかった。 昔は夏になると、川辺に小さな光が浮かんでいたのに。 あの夜。、蛍に照らされながら笑っていた深雪の横顔を思い出す。 …もう何年前だろう…。 祭り囃子が遠くから聞こえてくる。 その音を聞きながら、ふと祖父の言葉を思い出した。 『悲しいことがあっても、太鼓は鳴る。 誰かが死んでも、笛は鳴る。 そうやって人は前に進むんよ。』 あの頃は、よく分からなかった。 祖父を亡くした悲しみだけで精一杯だったから。 でも今なら少しだけ分かる気がした。 大切な人を失うことも、 大切だった存在が、少しずつ記憶の奥へ遠ざかっていくことも、 結局は同じ“喪失”なのだ。 それでも祭りは来る。 太鼓は鳴る。 笛は響く。 人は、前へ進いていく。 ……僕は、ちゃんと進めているんだろうかな…。 未だに分からなかった。 夜になり、祭りの人混みはさらに増えていく。 甘い匂いやソースの匂い。 屋台の灯り。 子どもたちの笑い声。 汗ばんだ夏の空気。 桜久は、祖父との記憶を辿り階段に向かう。子どもの頃、深雪と並んで座った石もあった。 …懐かしいな。 階段を上がり始めた時だった。 親子連れとすれ違う。 小さな女の子が、母親の手を握っていた。 その瞬間。 ……ちりん……。 小さな鈴の音が聞こえた。 桜久は思わず立ち止まる。 今でも迷子の鈴はポケットに入れている。 けれど、今鳴った音は違った。 聞き覚えのある、 懐かしい鈴の音。 胸の奥が、強く脈を打つ。 ゆっくり振り返
祭りが終わってから、街は静かだった。 あれほど毎晩聞こえていた祭り囃子も、もうない。 九月に入っても暑さは残っていた。 それでも夕方の風だけは少し変わり始めていて、窓を開けると夏の終わりみたいな匂いがした。 深雪の引っ越しの日は、もう決まっている。 祭りが終わってから、時間だけがやけに早かった。 あの日から桜久は深雪の家に行き一緒に歩いた。夕方は深雪が桜久の家に来ていた。 学校帰りに制服のまま来る日もあれば、何も言わず冷蔵庫から麦茶を取り、桜久の部屋へ来る日もある。 二人で特別な話をするわけじゃない。 テレビを見たり、 宿題をしたり、 縁側でぼんやり夕方を眺めたり。 ただ、一緒に居た。 それだけだった。 でも桜久には分かっていた。 この時間は、少しずつ別れに近づいている。 深雪の家の前を通るたび、玄関には段ボールが増えていた。 見慣れた窓の奥からは、荷物をまとめる音が聞こえる。 引っ越し屋の車も、何度か見かけた。 そのたび胸の奥が重くなる。 けれど深雪は、引っ越しの話をあまりしなかった。 桜久も聞かなかった。 言葉にした瞬間、本当に終わってしまいそうだったからだ。 その日も、深雪はいつものように桜久の部屋にいた。 床に座り、冷たい麦茶を両手で持っている。 窓の外では、遠くから秋の虫の声が聞こえ始めていた。 深雪は窓の外を見たまま、小さく呟く。 「もうすぐだね。」 桜久はゲーム機を持つ手を止めた。 「……ん。」 それしか返せなかった。 深雪は少し笑う。 その笑顔を見るたび、桜久は苦しくなる。 もうすぐ、この時間が無くなる。 そんな事ばかり考えてしまう。 「サクさ。」 「なに。」 「私が居なくなったら、ちゃんと学校行きなよ。」 桜久は顔をしかめた。 「なんだよ急に。」 「ね?」 深雪は笑う。 でも、その声は少しだけ弱かった。 「サク、じいちゃん居なくなってから自分だけ止まってると思ってるからさ」 図星だった。 桜久は何も言えなくなる。 夕方の風がカーテンを揺らした。 深雪は包帯の無くなった右腕を見つめながら、小さな声を落とす。 「私ね。」 桜久は深雪を見る。 「サクの家があったから、自分に戻れた気がする。」 胸の奥が強く痛んだ。 深雪は少し困ったように笑う。 「だから
落ち着いた深雪を家まで送った頃には、もう夜になっていた。 街灯に照らされた道を、二人でゆっくり歩く。 蝉の声だけが遠くで鳴いていた。 結局、帰り道でほとんど会話はなかった。 深雪も何かを話そうとしていた気がする。 でも、お互い言葉が見つからなかった。 深雪の家の前で足を止める。 「……また明日な。」 それが僕の精一杯だった。 深雪は少しだけ笑って、小さく頷く。 「うん…。」 それだけ言って、静かに家へ入っていった。 玄関の灯りが消えるまで見届けてから、僕は家へ戻った。 居間には、じいちゃんの遺影がある。 祭壇の線香の匂いは、まだ少し部屋に残っていた。 僕は遺影の前に座る。 「じいちゃん。」 声に出した瞬間、胸の奥が苦しくなった。 「じいちゃんが深雪を気にしてたのってさ。」 「守ってたんだろ?」 遺影の中のじいちゃんは、いつも通り笑っている。 「深雪、おんぶしてくれてたの覚えてた。」 「すげぇ嬉しかったんだって。」 言いながら、夕方の深雪の顔を思い出す。 笑っていたのに、どこか壊れそうな顔。 僕は拳を握る。 「じいちゃん…。おれ。」 喉の奥が詰まった。 「深雪の事、何も知らなかったよ…。」 悔しかった。 じいちゃんは知っていた。 深雪のお母さんも、きっとずっと苦しんでいた。 なのに僕だけ何も知らず、 自分の事ばかりで塞ぎ込んでいた。 いつも強気な性格の深雪。 でも違った…。 今の深雪は小さな女の子だから。 「じいちゃん、今度はおれが深雪を守るよ。」 祖父の遺影が優しく笑ってくれた気がした。 翌朝、桜久は深雪の家へ向かった。 学校へ行くためじゃない。 深雪を迎えに行きたかった。 自分でも理由はうまく分からない。 ただ、早く深雪の顔が見たかった。 昨日のあの弱そうな笑顔を、一人にしたくなかった。 終わりかけの夏の朝でも、蝉の声だけがやけにうるさい。 桜久は深雪の家の前で立ち止まった。 昨日までと同じ家なのに、違って見える。 あの玄関の向こうで、 深雪はずっと感情を殺して生きていた。 そう思うと胸が苦しくなった。 インターホンを押す。 しばらくして玄関が開いた。 「……サク?」 制服姿の深雪が驚いた顔をする。 「どしたの?」 桜久は少し視線を逸らした。 「迎え。」
僕の部屋で、深雪が力なく床に座り込んでいた。 さっきまで話していた言葉を全部吐き出してしまったせいか、肩から糸が切れたみたいに動かない。 開けたままの窓から、少し湿った匂いが入ってきた。 「深雪…。」 名前を呼ぶことしか出来なかった。 何を言えば良いのか分からない。 慰めるのも違う気がした。 でも黙っていることも苦しかった。 深雪は俯いたまま、ぽつりと呟く。 「…私ね、辛いときは自分を殺してしまえば楽になれたんだ。」 静かな声だった。 「…一つ一つね…。」 僕は息を飲んだ。 深雪は畳を見つめたまま続ける。 「嬉しそうにしてると、アイツ機嫌悪くなるんだ。」 「だから嬉しいって思わないようにした。」 まるで昔話をするみたいな口調だった。 「欲しいものねだったら叩かれるし。」 「だから欲しがらないようにした。」 夕方の光が、深雪の包帯だけを白く浮かび上がらせる。 「泣いても怒鳴られるから、泣かなくなった。」 その言葉が胸に刺さる。 泣かなくなった、という言い方が痛かった。我慢した、じゃない。 出来なくなったのだ。 「感情が無くなれば、私はあの家で暮らすことが出来たんだ。」 部屋の空気が重くなる。 僕は何も言えなかった。 僕は何も知らなかった。 悔しさで、ポケットの鈴を強く握った。 深雪はそんな僕を見ず、小さく笑った。 「でもね。」 その声だけ少し柔らかかった。 「サクの家に来ると、駄目だったんだ。」 「……え?」 「戻っちゃうの。」 深雪は窓の外を見る。 赤くなり始めた夕焼けが、横顔を照らしていた。 「楽しいとか…。」 「安心するとか…。」 「ここに居たいとか…。」 一つ一つ確かめるみたいに言う。 「じいちゃん、普通に笑うでしょ?」 「ご飯食べろって言ってくれるし。」 「頭撫でてくれて。」 「汗だくでおんぶしてくれて…。」 「サクと同じ様に…さ。」 「だから忘れそうになるんだ。」 「あの家で生きるために、自分を殺してた事。」 胸の奥が苦しくなる。 深雪は小さく息を吐いた。 「しんどかったよ…。」 「また家に帰ったら、自分を殺さなきゃいけなくなるのが。」 夕方の風がカーテンを揺らす。 僕は何か言わなきゃと思った。 でも言葉が…出ない。 だから…。 気づけ