「……仕事のあとに急に呼び出してごめん。新庄さんに、聞きたいことがあって」
いたずらっぽく名前を呼び直された瞬間、彼女と恋人同士だったころを思い出す。
けれど俺はあえて一線を引いた呼び方をし、遠回しに拒絶の意を示した。「よそよそしいなぁ。プライベートなんだから、綾乃って呼んでほしい。あのころみたいに」
カフェオレに口を付け、小首をかしげて笑う綾乃。
本題に入ろうとする俺を、からかうように引き止めてくる。「俺たちはとっくに別れてる。今は、この距離感で接したい」
別れてから一年半。俺自身、綾乃に恋愛感情を抱いたことはなかった。それなのに馴れ馴れしくするのは違う。
「でも、『気が済むまで想い続けてもいい』って認めてくれたのは漣でしょ?」
「…………」
笑っていながらも、目の奥は鋭く光っている。まるで「それが条件だったはず」と告げるように。
たしかに了承したのは俺だ。勝手に別れを切り出した以上、彼女の希望を突っぱねられなかった。別れてしばらくは近況を尋ねる連絡もあったが、返事を控えるうちに数も減り、気持ちは整理されたのだと思っていた。
……瑞希から話を聞くまでは。こうして面と向かってみれば、俺の思い込みだったのかもしれないと痛感する。
「で、呼び出した理由は? あなたのかわいい妹ちゃんのこと?」
どう返すか言葉を探していると、綾乃のほうから核心を突いてきた。
「……君を傷つけたことは申し訳なく思ってる。でも、瑞希に報復するのは違う」
なぜ綾乃が瑞希を攻撃するのか、確信はまだ持てていない。
一昨日までは「俺の想い人が瑞希だと気づかれたのかもしれない」と思ったが、そんなことを綾乃に伝えるはずがない。だとすれば、やはり俺への恨みか。結果として瑞希まで巻き込まれたのなら、本当に申し訳
「綾乃と……もう一度付き合うことにした。綾乃のことが好きだから」 はっきりと告げられた瞬間、目の前が真っ暗になった。 言葉の意味は理解できるのに、頭がついていかない。 心臓を鷲づかみにされたように苦しくて、呼吸さえ乱れそうになる。 ――あの夜、私に言ってくれた「好き」は、うそだったの? 私を想い続けてくれていたからこそ苦しんでいたんじゃなかったの? 混乱で胸がかき乱されて、もうなにが本当なのかもわからない。 けれど、いくら私が縋ろうとしても、兄の気持ちを縛ることはできない。 兄が綾乃さんを好きだと言い、付き合うと決めたのなら――私には口を出す権利なんてないのだ。「……そうなんだ。わかった。……それだけ確認したかったの。答えてくれてありがとう」 必死に平静を装って言葉を返す。 けれど本当は、身体がバラバラに砕け散ってしまいそうで、立っているのもやっとだった。 兄の心はもう、私には向いていない。別の場所へ行ってしまった。 そう突きつけられ、涙が込み上げてくるのを必死で堪える。「瑞希のほうは……上手くいってるのか?」「私?」「大学の同級生。デートしたって言ってたろ」「そんな――」 思わず言葉を飲み込む。 ――そんなわけない。私はお兄ちゃんがこんなにも好きなのに。 ほかの人を好きになる余地なんて、心のどこにも残っていない。 けれど、反発しかけて気づく。兄はまだ、私が『デートに行ったふり』をしていたことを知らないんだ。 だから、私と亮介がこれから関係を深めていくと勘違いしているのかもしれない。 ……だとしたら、なおさら残酷だ。 どうしてそんな無神経なことが言えるの?
「うん?」 自然に聞き出す方法を模索したけれど、回りくどい言い方では真実に辿り着けそうにない。 胸がきゅっと締めつけられるのを感じながら、私は思い切って核心に触れた。「……新庄さんと付き合ってるって、本当なの?」 声に出した瞬間、心臓が早鐘を打ち始める。 返事を待つわずかな間が、とてつもなく長く感じられた。どうか、あの人の言葉がうそでありますように――そう祈らずにいられなかった。 けれど。「……どうして、それを?」 硬い調子の声。 わずかに動揺を含んだ響きは、兄が完全には否定しなかった証のように聞こえた。 ――やっぱり、本当なんだ。 心の奥で「きっと否定してくれる」と信じていた期待が、音を立てて崩れていく。「今日……新庄さんと話をする機会があって。そのときに、聞いたの」「……そうか」 短く応じただけで、兄は気まずそうに黙り込んでしまう。「正直、びっくりした。だって、新庄さんとはもう別れたって言ってたから」 それでも、私は希望を手放したくなくて、言葉を重ねる。 「でも違うんだよ」「相手がそう思ってるだけで」――そんな都合のいい台詞を、どこかでまだ期待していたのだと思う。 しかし。「……ごめん」 返ってきたのは、謝罪だけだった。 ――やめてよ。それじゃ、新庄さんの言ってることが本当みたいじゃない。「お兄ちゃんが、なにを考えてるのか……全然わからないよ」 苛立ちが混じった声になってしまう。責めたいわけじゃない。けれど、このままでは納得できない。 ほんの数日前――私に「好きだ」と言ってくれた兄が。どうして今さら彼女と。「瑞希のことを、綾乃に訊ねたとき…&hellip
自宅に戻ると、家の中は静まり返っていた。 両親はふたりとも勤務中で、まだ帰宅していない。誰もいないのは寂しいけれど、無理に元気な顔を作らなくていいのは助かる。 私はそのまま二階の自室へ向かい、バッグを放り出すように床へ置くと、力尽きたようにベッドへ倒れ込んだ。 シーツに顔を押しつけ、ぎゅっとまぶたを閉じる。『あなたのおかげで、また付き合い始めることができたの。今、すごく幸せ』「っ……」 忘れようと思っても、新庄さんの言葉が何度も脳裏で再生される。 頭のなかに強制的に浮かび上がってきて、どうしても振り払えない。 ――兄と新庄さんが付き合っている? 本当に? だって、土曜の夜に兄と話したとき、そんな素振りはまったくなかったのに。『疑わしいなら、漣に直接訊いてみたら? かわいい妹になら、本当のことを話してくれるんじゃないかな」』 彼女の声が甦る。 ……そうだ。本人に訊けばいい。 正直、怖さもある。 けれど、きっと大丈夫。あの夜、私を「好きだった」と言ってくれた兄の言葉が、どうしてもうそだとは思えないから。 兄ならきっと正直に答えてくれる。誠実な人だと、昔から誰よりも知っている。 私は思い立つや否や、バッグからスマホを取り出し、兄の番号を押した。 コール音が数度鳴ったのち、留守番電話に切り替わる。仕事中なのだろう。胸にわずかな失望が広がるが、兄は着信さえ残せば必ず折り返してくれる人だ。 スマホを枕元に置いたまま、ぼんやりと時間を過ごす。 夕食時なのに、食欲が湧かない。 ソファに腰かけても、机に向かっても、頭のなかでは新庄さんの「幸せ」という言葉が回り続けて、心を押し潰してくる。まるで、停止ボタンの壊れたリモコンだ。 不意にスマホが震えた。兄からの折り返しだ。 慌てて掴み取り、通話ボタンを押す。
「えっ?」「あなたのおかげで、また付き合い始めることができたの。今、すごく幸せ」 ――付き合い始めた? 兄と新庄さんが?「そんな……うそです」「うそ? どうしてそう思うの?」「っ……それは……」 『俺もずっと、瑞希のことが好きだったんだ』 兄自身の言葉が蘇る。だけどそれを新庄さんに告げるわけにはいかない。「疑わしいなら、漣に直接訊いてみたら? かわいい妹になら、本当のことを話してくれるんじゃないかな」 答えを探せずにいる私に、不敵な笑みを浮かべて首を傾げる。 その声音には、あの廊下で話したときと同じトゲが混じっていた。「は……話っていうのは、それ、ですか?」 なぜ、彼女はわざわざ私にそんなことを伝えるのだろう。 どうにか言葉を返すと、新庄さんはにこやかにうなずいた。「まぁ、そうね。だから、これからも仲良くしましょうって話と――」 そこまで言った瞬間、表情から笑みが消える。「私と漣の仲を、邪魔しないでねってこと」 冷え冷えとした瞳で見据えられる。普段より低い声に、心臓がいやな鼓動を刻んだ。 そのまなざしに射すくめられた私を、再び人懐こい笑みで包み込みながら、彼女は続ける。「ほら、漣とあなたって血がつながってないんでしょ? 戸籍上も他人だって言うし。あんな素敵な人だから、憧れを抱くことくらいあるかもしれない。だから前もって言っておかないと、って思って――それとも、もう手遅れだった?」 まるで、私の気持ちを見抜いているかのような言い方。 笑っているのに、その瞳の奥は鋭く、探るように私の反応を窺っていた。「いえ……あの……し、失礼します」 恐ろしくなり、曖昧な言葉を残して長椅子から立ち上がる。 彼女の顔を見られないま
「うわさをすれば……だね」 隣の翠が、私だけに聞こえる声でぽそりとつぶやく。「帰りがけにごめんなさい。ちょっといい? 提出してもらった書類のことで、確認したいことがあって」「あっ……は、はい」 申し訳なさそうな声音。けれど二重の愛らしい瞳には、有無を言わせぬ鋭さが宿っている。 私は心細さを覚えつつも、うなずいた。「瑞希、ついて行こうか?」 翠が小声で気遣ってくれる。「ありがとう。でも平気。……ごめん、先に帰ってて」 本音を言えば、前に二人きりで話したときの新庄さんが怖かった。そばにいてほしい気持ちもある。 けれど、ただの事務処理に付き合わせるのは気が引けた。 ……書類の確認だけなら、すぐに終わるはず。大丈夫。「……わかった。なにかあったらちゃんと言うんだよ?」「うん。本当、ありがとう」 短い会話を交わし、翠は「失礼します」と新庄さんに一礼して通用門へ向かった。「そんなに時間は取らせません。こちらへお願いします」「は、はい」 新庄さんが一瞥して歩き出す。その背を追いながら、少しの不安を抱えつつ後に続いた。 たどり着いたのは、診察が終わったあとの外科待合室。 患者はもちろん、医師や看護師の姿もない。 ――人の気配が消える時間を見越して、ここを選んだのかもしれない。「どうぞ、座って」「……はい。えっと、書類というのは……?」 長椅子に腰かけた新庄さんの隣に、おずおずと座りながら尋ねる。 すると彼女は、いたずらが見つかった子どものように照れ笑いを浮かべた。「ごめんなさい。書類の話は口実なんです。あなたと話がしたくて」
「はぁ~、今日も疲れたね」「そうだね」 生理検査室での実習が続く週の半ば。 夕方、ロッカーで着替えを終えた私と翠は、それぞれバッグを抱えて職員用通用門へ向かう廊下を歩いていた。 翠がオーバーにため息をつく横で、私がうなずく。 すると突然、彼女がぴたりと立ち止まり、くるりとこちらを向いた。「もうっ、瑞希。ここ最近ずーっと顔が暗いよ! どしたの?」 ちょっと怒ったような顔で言うと、小首を傾げて覗き込んでくる。「えっ」「私が気づかないと思う? 今週は新庄さん、静かだけど……実習以外のとこでなにか言われたとか?」「ううん、そういうんじゃないよ」 ――そんなに暗かったのかな、私。 落ち込んだ様子を見せないよう気をつけていたはずなのに。 改めて翠の鋭さに驚きつつ、私はなんでもない風に首を横に振った。 言われてみれば、たしかにここ数日は新庄さんから指摘されていない。巡回に来ても、私の班には目もくれずに別へ行ってしまうくらいだ。「じゃあ亮介のこと?」 不意に出された名前に、胸がちくりとした。 実習が始まってからは班が分かれ、彼とはほとんど顔を合わせていない。 お互い実習に追われていて、キャンパスと違い昼休みを合わせることもできなくなった。 廊下ですれ違うことはあるけれど、交わすのは挨拶くらい。会話らしい会話は、ここしばらくなかった。 それでも彼は気遣ってくれていて、夜や休日に「実習どう?」「元気?」とメッセージをくれる。 最後に届いたのは日曜の朝。ある実習の感想を綴った内容だった。 ……でも、私は返せていない。正確に言えば、返す気力がなかった。 あの夜の兄とのやりとりで、心をすり減らしてしまったから。「それも違う。ただ……ちょっと疲れてるだけ」 返していないメッセージ