背後のスクリーンにスライドが映し出されるのを確認し、無線マイクを手に取った。
「……朝比奈瑞希です――」
名乗った瞬間、ぐらりと視界が揺れる。
頭の中を大きなスプーンでかき混ぜられたみたいな感覚。 「あれ……?」と思った刹那、バタンと大きな音が響く。 自分が倒れた音だと気づいたのは、ぼんやりと板張りの床が目に映ったからだった。――いけない。起きなきゃ。発表の最中なのに……。
汗ばむ手のひらで床を押して身体を起こそうとするけれど、力が入らない。
そもそも思うように動かせない。「瑞希!」
遠くからざわめきが押し寄せる。その中を突き破るように、ひときわ鋭く切迫した声が私を呼んだ。
直後、強い腕に抱き起こされる。「……おにい、ちゃ……」
顔を覗き込むのは、血の気が引いた兄の顔。視界はすりガラス越しみたいに滲んでいるのに、私にははっきりわかる。だって、世界でいちばん大切で、ずっと想い続けてきた人だから。
――大丈夫。ちゃんと発表できるよ。だから、そんな顔をしないで。
心の中で必死に伝えようとしたけれど、声は出ない。
黒い幕が視界を覆い、意識はそこで途切れた。 ◆◇◆ 「ん……」目を開けると、真っ白な天井が視界いっぱいに広がっていた。
ここは……どこ? どうして私、こんなところに――「っ、成果発表会!」
直前の出来事が稲妻のように蘇り、私はがばっと上体を起こした。
壇上に立った。名前を名乗った。そこで、記憶が途切れている。
「心配するな。瑞希の発表は鴻野さんが代読してくれた」
落ち着いた声が左から聞こえた。
視線を向けると、スーツの上から白衣を羽織った兄が椅子に腰かけていた。「……お兄ちゃん」
「少しは楽になったか?」
<「……よかった」 後悔の涙が、歓喜の涙に変わっていく。 手の甲で乱暴に拭っても、次から次へと滴がこぼれて止まらない。兄の顔が涙でにじみ、輪郭すらぼやける。「私……今、すごくホッとしてる。お兄ちゃんが新庄さんと付き合い始めたって聞いたとき、本当に落ち込んだから……」「ごめん。あのときは綾乃と付き合ったって言えば、今度こそ妹と兄として線引きできると思ったんだ。……でも、できなかった」 兄の声は低く、でも迷いがない。 私への想いが、愛莉さんへの贖罪じゃなく、純粋な感情だと気付いたから。 スラリとした指先が、まだ頬を伝う涙をそっと拭う。 その手はこれまで数え切れない患者さんを救ってきた、頼りがいのある温かい手。今は、私を慰めるためだけに触れている。「瑞希」 名前を呼ぶ声が、ひどく優しくて胸を震わせた。「俺は瑞希が好きだ。両親のことも大切だし、周りの目を気にしなきゃいけないのもわかってる。それでも……もし瑞希が一緒に乗り越えてくれるなら、俺は自分の感情に正直になりたい」 その言葉に、真っ直ぐなまなざしに、兄の真摯な気持ちが込められている。「……ありがとう、お兄ちゃん。本当にうれしい」 きっとここに至るまで、彼にも葛藤があったのだろう。 それでも最後に私を選んでくれたことが、たまらなく嬉しかった。 頬に触れる手を自分の手で包み込み、甘えるように頬ずりをする。「私もお兄ちゃんが好き。大好き。……大変かもしれないし、傷つくこともあるかもしれないけど、それでも私はお兄ちゃんと一緒にいたい」「瑞希……」 その瞬間、兄の瞳が柔らかく細められ、もう片方の手が私の後頭部に添えられる。そして――唇に、触れるだけのキス。「ごめん。具合が悪いとき
「……瑞希は、俺にとって誰よりも大切な存在だ。瑞希のいない世界なんて、黒く塗りつぶされたみたいに真っ暗で……想像するだけで心細かった。両親や周りの目を考えて、ずっと違うって自分に言い聞かせてきたけど……もう、これ以上はごまかせない」 張り詰めていた兄の表情が、ふっと和らぐ。 そして真っ直ぐに言った。「瑞希への気持ちは、錯覚なんかじゃなくて……本物だ。俺も瑞希のことが好きだよ」 ――こんどこそ、幻だと思った。 だって、私がずっと望んでいた言葉を、やっと兄がくれたのだから。「お兄ちゃん……本当に?」 何度も心の中で反芻し、聞き間違いじゃないと確かめても、それでもまだ信じきれなくて問い返す。 兄は穏やかな笑みのまま、力強くうなずいた。 その瞬間、視界が滲み、熱い涙がつうっと頬を伝っていく。「っ、もっと早く聞きたかった……新庄さんのものになっちゃう前に……」 うれしいのと同じくらい、胸が苦しかった。 せっかく気持ちが通じても、もう遅い。 ……大好きな兄はもう、別の女性の恋人になってしまった。 けれど兄は静かに首を横に振った。「俺は綾乃のものじゃない。もう別れたんだ」「……別れた?」「もともと瑞希の実習が終わるまでっていう、期間限定の約束だったんだ。それが過ぎたから、改めて関係は終わりにするって伝えた。……向こうは納得してないみたいだけどな」 困ったように眉を下げる兄。どうやら、新庄さんとの間に摩擦が生じているらしい。「どうしてそんな……期間限定なんて?」 私が問い返すと、兄は少し考えるように間を置き、それから正直
兄に抱きしめられている――ただそれだけで、心臓は騒がしく跳ねていた。「大事な妹を助けられてこそのドクターだろ。立ち上がったときからフラフラしてて、危なっかしいと思ってたんだ」 倒れた直後、誰よりも早く駆け寄ってきてくれたのは、幻なんかじゃなかった。 兄は最初から、私の様子を注意深く見ていてくれたのだ。「……迷惑かけてごめんね。風邪引いちゃって、でも休みたくなくて」「わかってる。瑞希のことだから、どうしても自分でやり切りたいと思ったんだろうな」 うしろに回した兄の手が、そっと背を撫でる。その温かさに、胸がじんわりと満たされていく。 まるで柔らかい毛布にくるまれているみたいで、子どものころ頭を撫でてもらったときの絶対的な安心感を思い出す。 気づけば私も、自然と兄の背中に腕を回していた。 ――兄のそばにいるだけで、どうしてこんなに幸せなんだろう。 けれど、すぐに理性が冷や水を浴びせる。 兄には恋人がいる。私の立場は「大事な妹」でしかない。 こんな風に抱きしめられると、つい特別な意味を望んでしまいそうになるけれど……それはただの願望だ。「……誰か、来ちゃったら困るでしょ」 本当はもっと長く、この体温に浸っていたかった。 けれど理性を働かせて口にした。病室のカーテンに守られているとはいえ、人が入ってきてもおかしくない状況だ。 だから当然、兄はすぐに手を離すと思った。 ところが――「別に構わない。瑞希を失う恐怖に比べたら、そんなこと……」 むしろ腕の力を強められて、息を呑む。 切迫したような声色には、隠しようのない本気の感情が滲んでいた。「どうしたの……?」 予想外の返答に戸惑いながら問い返すと、兄はしばらく私を抱きしめ続け
背後のスクリーンにスライドが映し出されるのを確認し、無線マイクを手に取った。「……朝比奈瑞希です――」 名乗った瞬間、ぐらりと視界が揺れる。 頭の中を大きなスプーンでかき混ぜられたみたいな感覚。 「あれ……?」と思った刹那、バタンと大きな音が響く。 自分が倒れた音だと気づいたのは、ぼんやりと板張りの床が目に映ったからだった。 ――いけない。起きなきゃ。発表の最中なのに……。 汗ばむ手のひらで床を押して身体を起こそうとするけれど、力が入らない。 そもそも思うように動かせない。「瑞希!」 遠くからざわめきが押し寄せる。その中を突き破るように、ひときわ鋭く切迫した声が私を呼んだ。 直後、強い腕に抱き起こされる。「……おにい、ちゃ……」 顔を覗き込むのは、血の気が引いた兄の顔。視界はすりガラス越しみたいに滲んでいるのに、私にははっきりわかる。だって、世界でいちばん大切で、ずっと想い続けてきた人だから。 ――大丈夫。ちゃんと発表できるよ。だから、そんな顔をしないで。 心の中で必死に伝えようとしたけれど、声は出ない。 黒い幕が視界を覆い、意識はそこで途切れた。 ◆◇◆ 「ん……」 目を開けると、真っ白な天井が視界いっぱいに広がっていた。 ここは……どこ? どうして私、こんなところに――「っ、成果発表会!」 直前の出来事が稲妻のように蘇り、私はがばっと上体を起こした。 壇上に立った。名前を名乗った。そこで、記憶が途切れている。「心配するな。瑞希の発表は鴻野さんが代読してくれた」 落ち着いた声が左から聞こえた。 視線を向けると、スーツの上から白衣を羽織った兄が椅子に腰かけていた。「……お兄ちゃん」「少しは楽になったか?」
……あぁ、でも今はそれよりも、ただ無事に発表を終えて横になりたい。「うう~、緊張する~……っていうか、瑞希、顔色ひどいよ。大丈夫?」 午後、プログラムのちょうど半分をすぎたころ。 薬学科最後の学生が発表している最中に、となりの翠がひそひそ声で心配してきた。 薬学科の次はいよいよ臨床検査学科。発表は学科ごとに五十音順と決まっているから、次は私の番だ。私は小さくうなずく。「午前を耐えたんだもん。自分の番が終わるまでは……どうにか持たせる」 午前中は開会の挨拶のあと、看護学科の発表が続いていた。座って聞いているだけでよかったから、多少は体力を温存できた。 けれど昼を越えてからは、軽食どころか水分すら受け付けなくなり、正直いまは座っているのもやっとだ。 しかし――ここで退席したら、これまで準備した時間も、必死に耐えてきた努力もすべて無駄になる。「無理しないで。資料があるなら、私が代読してもいいんだよ?」「ありがとう。でも……ここまで来たら、自分でやり切りたいの」 こうした発表会では、体調不良のときには同じ班の学生が代読することもあるのは知っているけれど、私は首を横に振った。 ひとつの区切りとして、どうしても自分で乗り越えたいと思ったからだ。 医療従事者になれば、簡単に休めない場面がきっと出てくる。学生の私に課せられた「義務」は、与えられた課題をやり遂げること。 今この壇上こそ、その最初の関門なのだ。「瑞希ってば……ほんと無理しないでよ」 翠の声に返事をする前に、司会役のスタッフの声がマイクを通して響いた。「――以上で、薬学部薬学科の発表を終了します。続いて、医療技術学部臨床検査学科。発表者は朝比奈瑞希さん。タイトルは『病理検査における前処理工程の重要性』です。よろしくお願いします」 名前を呼ばれる。体がびくりと震え
七月末日。こまごまとしたレポートに追われているうちに、聖南大学病院での二ヶ月の実習が終わった。 けれど、ほっとする暇なんてない。実習全体のレポート提出があり、その先には「実習成果発表会」という大仕事が待っている。 発表会は、各学部の学生が病院に成果を示す場だ。 会場は大講堂。壇上に立つ学生の前には、医師や看護師、検査技師がずらりと並ぶ。病院の看護部長や医師まで見守る。 ……学生にとっては、まさに試練そのものだ。 日程は八月の第二週。準備期間はわずか二週間足らず。実習が終わったら終わったで、また課題に追われることになった。 もちろん私も例外じゃない。レポート漬けで息つく暇もなく、気が付けば夏休み目前。だけど、私にはひとつだけ救いがあった。 ――兄と新庄さんに会わなくて済む。 そのおかげで少しは楽になった……はずだったのに。 気が緩んだせいか、夏風邪を引いてしまったようだ。 最初は喉の痛みだけだった。けれどすぐに鼻が詰まり、食欲がなくなり、発表会の前日にはついに発熱。 三十八度。解熱剤でどうにか抑えても、すぐにぶり返す。倦怠感はごまかせない。 ……こんな体調で明日、壇上に立てるのだろうか? ◆◇◆ 発表会当日。 朝九時、会場の大講堂には独特の緊張感が満ちていた。 前方には演壇と大きなスクリーン。中央には発表を控える学生たち。後方には教員や実習先のスタッフ、看護部長、そして医師たちの姿。 その中には――兄と、新庄さんの姿もあった。 兄を見るのは、自宅で言葉を交わしたあの日以来。今日はスクラブではなく、ダークグレーのスーツ姿。理知的で、やっぱり格好よかった。 でも、まともに見つめられない。体が熱で重く、視界がかすむ。兄のシルエットすらはっきりしない。 薬はきちんと飲んできた。でも、効き目は薄い。