Masuk私はすぐに答えた。彼女の目から再び涙がこぼれ落ちる。「十何年だよ。私たち、もう十何年も一緒にいたんだよ?」「わかってる。だから、こんな形で終わるのは残念だと思う」私は彼女を見つめた。「でも、残念だからって関係を続ける理由にはならない」私がバッグを手に取り、立ち去ろうとすると、背後から彼女が問いかけてくる。「私のこと、恨んでる?」私は少しだけ足を止めた。「前は恨んでた。でも、今はもう恨んでない」彼女はほっと息をついたようだった。私はさらに言葉を続ける。「ただ、あなたを許すことは絶対にないから」寧々の顔から完全に血の気が引いた。私は振り返らずにそのまま、店を出ていく。その夜、知らない番号から朔のメッセージが届いた。【今日になって初めて知った。あの日、寧々は電話の内容を全部聞いてたんだな】しばらくして、もう一通届く。【ごめん】私は読み終えると、そのまま削除した。着信拒否にもせず、返事もしない。なぜなら、もうどちらも必要なかったから。その後、昔の共通の知人から、朔と寧々が仕事上のパートナーを解消したと聞いた。寧々は自分から別の支所への異動を希望し、朔も二人で担当していた受賞プロジェクトから外れたらしい。けれど、そうした話も私は聞き流すだけだった。衡が私に聞いてくる。「気にならないの?」私はちょうどケーキに粉砂糖を振っているところだった。「知ったところで、何かになる?」彼は少し考えた。「それもそうだな」そう言って、イチゴをつまみ食いしようと伸ばしてきた手を、私はパシッと叩く。「手、洗って」「洗ったよ」「さっきドアノブを触ったでしょ?」「橘シェフは厳しいなあ」私が呆れたように睨むと、彼は笑いながら手を洗い直しに行った。窓の外には、明るい日差しが降り注いでいる。私はまたケーキ作りに戻った。朔と寧々の何気ない一言に、いちいち胸を締めつけられていた頃の私は、もうずいぶん遠くへ行ってしまったらしい。祖母の1周忌の日、私は父と一緒に墓参りのため街へ戻り、衡もそれに付き添ってくれた。墓地は山の上にあり、午後になると急に雨が降り出した。高齢の父は先に車へ戻り、私は一人でお墓の前にしばらく座りながら、いつも財布に入れてある祖母の写真を眺めていた。
朔はとうとう、何も言えなくなった。翌日、寧々から連絡があった。ホテルに押しかけてくるのではなく、カフェで会えないかという誘いだった。最初は断るつもりだったけれど、結局、会いに行くことにした。終わってしまった関係にも、きちんと区切りをつける機会は必要なのかもしれない。寧々は去年よりずいぶん痩せていて、テーブルのコーヒーには一口も手をつけていなかった。私が席に着くと、寧々は真っ先に謝ってきた。「ごめんなさい」私は何も答えない。寧々は指先をぎゅっと握りしめている。「ずっとあなたに、本当のことが言えなかったの」「じゃあ、今言って」彼女が顔を上げると、その目はもう赤くなっていた。「私、朔のことが好きだった」私にとって、それは予想外のことではなかった。寧々は少し戸惑ったような顔をする。「……前から気づいてた?」「知らなかったよ。でも、今聞いても別に何とも思わない」寧々の顔が青ざめた。「最初から好きだったわけじゃないの。事務所に入ったばかりの頃は、ただ仕事ができる人だなって思ってただけ。でも、一緒に案件を担当して、徹夜して、出張にも行くようになって……朔は私のことをいろいろ理解してくれた」寧々はそこで、ふと自嘲するように笑った。「ねえ、知ってる?私、高校生の頃からずっと綾菜が羨ましかったんだよ?」私は眉をひそめる。「私の何が?」「綾菜は、何も頑張って勝ち取らなくてもよかったから」彼女の声はとても小さかった。「成績は私のほうがよかったし、進学した学校だって私のほうが上。仕事も綾菜は普通の仕事なのに、あなたはいつもみんなに好かれてた。先生にも、クラスのみんなにも……それに、おばあちゃんにもすごく大切にされてたし、あんなに人付き合いが苦手な朔だって、綾菜が先に好きになって、ちゃんと付き合えたでしょ?」そんな寧々を見つめるうちに、目の前にいる人がまるで知らない人のように思えてきた。彼女は言葉を続ける。「昔は不公平だと思ってた。私のほうが何でもうまくやってるのに、どうしてみんな綾菜のことばかり好きになるんだろうって。でも、朔が私と仕事の話をするようになって、私の提案を覚えていてくれたり、図面を直すのを手伝ってくれたりして……初めてだったの。綾菜がそばにいても、私のほうを先に見
朔はずいぶん痩せて、髪も以前より短くなっていた。着ているのは見慣れた濃い色のコートだったけれど、私を見る目はまるで別人のようで、本当に私なのか信じられない様子だった。私から先に声をかける。「久しぶり」彼は唇を震わせ、しばらくしてからようやく口を開いた。「本当に、綾菜なのか?」「うん」彼の視線が、私の胸元のネームプレートに落ちた。そこにはこう書かれている。綾の葉・スイーツアトリエ、代表・橘綾菜朔はその文字を長い間見つめていた。「店を出したのか?」「うん」「いつ?」「去年」「どこに?」私が答える前に、後ろから衡が空の箱を2つ抱えてやってきた。「車、停めてきたよ」そう言ってから、彼はようやく朔の存在に気づいた。私は衡を紹介する。「高瀬衡。私の彼氏」朔の顔から、さっと血の気が引いた。衡はごく自然に朔へ会釈をした。「はじめまして」しかし、朔は何も返さず、ただ私だけを見つめていた。「彼氏?」「うん」「いつからだ?」少しおかしな質問だなと思いつつも、私は答える。「2ヶ月ちょっと前かな」彼は一歩前に踏み出した。「綾菜、今日ここに俺がいるって知ってたから、わざと……」私は呆気に取られた。「わざと、何?」朔は最後まで言わなかったが、彼が何を考えているのか。私にはわかった。私が衡を連れてきたのは、朔に見せつけるためだと思ったのだろう。以前、私が別れを切り出したのも、彼の気を引くための駆け引きだと思っていたように。こんなに時間が経っても、朔はまだ私の行動がすべて自分に関係していると考えるらしい。私はふっと笑った。「朔、これは私の仕事だし、それに彼は本当に私の彼氏。あなたには関係ないから」朔の表情が、少しずつこわばっていく。私が背を向けてデザートのチェックに戻ろうとした時、少し離れたところから寧々の声が響いた。「朔」顔を上げると、そこには寧々の姿もあった。髪をショートにした彼女は、胸にゲストパスを下げていた。私を見た瞬間、はっと息を呑み、それから早足で近づいてくる。「綾菜!やっと会えた……」彼女はたちまち目を赤くし、私に抱きつこうと手を伸ばしてきたから、私はすっと身を引いてそれを避けた。「寧々」彼女の手が空中で固ま
私がまだ迷っていると、衡はそれ以上は勧めず、申込書をカウンターに置いた。「出るか出ないかは君の自由ですので」翌日、私は申込書に記入した。これこそが、衡と朔の一番大きな違いなんだと思う。朔は私の代わりに何でも決めたがった。部屋の内装や週末の予定、友達に会う時間、それに私が怒るべきかどうかまで。でも衡は、私の代わりに決めたりしない。ただ選択肢を目の前に置いて、私が自分で選ぶのを待ってくれる。その後、私たちが付き合うことになったのも、ごく自然な流れだった。大げさな告白があったわけではない。グルメフェスティバルが終わった日、突然雨が降り出した。傘を持っていなかった私が最後の皿を片づけて外に出ると、衡がテントの外で傘を差して待っていた。私が近づくと、傘をこちらに傾けてくれる。「帰ります?」私はうなずいた。それから数歩ほど歩いて、ふと思い出した。何ヶ月も前、同じように雨が降って傘がなかった日、他の女を車に乗せて去っていった人がいたことを……でも、今回は違う。衡は私を急かさなかった。売上金を数え、棚に鍵をかけ、電源が切れているか2回確認するまで、ずっと待っていてくれた。私は尋ねる。「遅くて嫌になりませんか?」「別に急いでませんので」「本屋は閉めなくていいんですか?」「もう閉めました」「6時までじゃなかったんですか?」衡はちらりと私を見た。「今日は5時半までです」私は思わず笑ってしまった。帰り道の途中で、彼がふとつぶやく。「橘さん。僕、君のことがかなり好きみたいです」まるで天気の話でもするような口調だった。驚いて段差につまずきかけると、衡がさっと手を伸ばして支えてくれた。けれど、私が体勢を立て直すとすぐに手を離す。「今すぐ返事はしなくていいですから。僕が、ただ伝えたかっただけなので」私はうつむいたまましばらく歩き、それから口を開いた。「私、前にすごく長く付き合ってた彼氏がいたんです」「知ってます」「すごく仲の良かった友達もいました」「それも知っています」「でもそれは、あまりいい話じゃないんです」衡はふっと笑った。「恋愛って、人に聞かせるためにするものじゃないですから」私が顔を上げると、衡は続けた。「僕が好きなのは、今の君です。昔のことは
隣の建物から、懐中電灯を持った人が出てきた。「新しく越してきた方ですか?」男はグレーのTシャツを着ていて、手にはまだドライバーを握っている。私はうなずいた。「もしかして、うちのオーブンのせいですかね?」彼はちらりと中を見た。「たぶん。何ワットですか?」私が答えると、彼は数秒ほど黙り込んだ。「家ごと焼くつもりですか?」それが、高瀬衡(たかせ こう)と初めて会った日だった。彼は隣で古本屋を営んでいて、この古い商店街の再開発プロジェクトのボランティア責任者でもあるらしい。翌日、彼は電気工事の人を連れてきて、配線をやり直してくれた。午前中いっぱいかかる大仕事だった。いくら払えばいいか聞くと、彼は言った。「電気工事の費用だけ払ってくれればいいですから。僕の手間賃は、ご近所同士の助け合いってことで」それでは申し訳ないので、私はクッキーを一皿焼いて届けた。ところが、衡は一口かじると、眉をひそめる。私はドキッとした。「口に合いませんでしたか?」「いや」衡はじっくり噛んで飲み込んでから、真面目な顔で尋ねた。「しょっぱい系のクッキーを食べたのが初めてだったので。これ、何が入ってるんですか?」「パルメザンチーズです」「自分で考えたレシピですか?」「ええ」彼は感心したように頷く。「すごいですね」私はぽかんとした。「何が?」「僕なんかレシピを見るだけで頭が痛くなるのに、あなたは毎回同じ味に焼き上げるんですよね。それはもう、立派な職人技ですよ」彼があまりにも当たり前のように言うので、私は数秒経ってからようやく反応した。「そんな、大したことじゃありません」衡はふっと笑った。「橘シェフは謙虚なんですね」私もつられて笑った。不思議なことに、久しぶりにそう呼ばれても、嫌な気持ちにはならなかった。お店がオープンしてから、私はそこに「綾の葉」と名前をつけた。大きな夢なんてない。毎日4種類のパンと3種類の小さなケーキを売り、週末だけ味を2つ増やす。繁盛する日は食事を取る暇もないほど忙しく、客足が少ない日は椅子を店先に出して、海を眺めながら過ごした。ある夜、美咲から電話がかかってきた。「橘さん、周防さんがお店にあなたを探しに来ました」私は少し黙り込む。
私はさらに言葉を続ける。「私が一人で手術室の前に座って、同意書にサインしてたとき、朔は寧々のそばにいた。先生にほかのご家族はいませんかって聞かれたときも、5回目の電話で朔のスマホの電源が切れてるってわかったときも、あなたはずっと寧々と一緒だった。おばあちゃんが手術台の上で必死に頑張ってたとき、あなたは寧々のトロフィーを持って、写真を撮ってたんだよね?それを、ただ遅れただけだって言うの?」寧々はますます激しく泣き出した。「綾菜、彼を責めないで。全部私のせいんだから。あの時は本当に精神的に追い詰められてて……」私は彼女の方を向く。「わかってる。だから、寧々とももう友達でいたくない」寧々が勢いよく顔を上げた。「えっ?」「聞こえたでしょ。今日限りで、私たちは友達じゃない」「綾菜!」朔が厳しい声で私の名を呼んだ。私はふっと笑ってしまった。「何?また私がひどいこと言ってると思った?」彼はその場に凍りつき、しばらくしてからようやく口を開く。「そうじゃない。ただ、今は冷静になれてないだろ。もう少し時間が経ってから……」「私は至って冷静だけど」私は言った。「今までで一番、自分の気持ちがはっきりしてる」ここ数日、周りからは落ち着きすぎていると言われた。父は私が無理をしているんじゃないかと心配し、美咲もこっそりたくさんのメッセージを送ってくれた。でも、私の心には本当に何の感情も湧かなかったのだ。一番辛かったあの数時間は、もう過ぎ去った。だから、今改めて朔を見ても、まるで赤の他人のようにしか思えない。私は朔の手に指輪を押し込んだ。その手は冷たく、彼は指輪を強く握りしめている。「綾菜、俺たちは4年も付き合ってきたんだぞ。たった一度の出来事で、その4年間まで全部なかったことにするのか?」私は彼をまっすぐ見つめた。「今回のことで4年間が台無しになったんじゃないよ。今回のことがあったから、今までの4年間がどういうものだったのか、やっとわかったの」朔の目がじわじわと赤く染まっていったが、私にはもう、これ以上話す気力はない。祖母の納骨の日は、小雨が降っていた。寧々は姿を見せず、朔はずっと離れたところに立っていた。すべてが終わった後、父が傘を差して迎えに来てくれた。その時、朔がふいに私を呼び止める