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私が一番じゃない恋は、もういらない

私が一番じゃない恋は、もういらない

By:  あおばCompleted
Language: Japanese
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映画が終わったあと、私・橘綾菜(たちばな あやな)は駐車券の精算をしに自動精算機へ向かった。 ほんの3分もかからなかったはずなのに、車のあったところへ戻ると、彼氏・周防朔(すおう さく)の車はすでに駐車場を出たところだった。 助手席には親友の水野寧々(みずの ねね)が座っていて、私の折りたたみ傘は後部座席に置きっぱなし。 駐車場の外では、激しい雨が白い壁のように降りしきっていた。 そのとき、スマホが震えた。 【寧々、胃がひどく痛いらしいから、先に病院へ送ってくる。俺のことは待たなくていいから、自分でタクシーを拾って帰ってて】 私は駐車場に立ったまま、朔の車のテールランプが見えなくなるまで見送った。 今回ばかりは、どうしてまた私を置いていったのかと問い詰める気にもならず、私はそっとスマホの画面を消した。

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第1話
雨はいつまでも止まなかった。映画館は新しく開発された街の中心部からかなり離れたエリアにあり、さらには、公共交通機関もあまりないため、配車アプリを開いても、順番待ちはかなりの人数がいた。以前の私なら、きっとすぐに朔へ電話していただろう。そして、一度出なければもう一度かけ、それでもつながらなければ、きっと運転中なのだと自分に言い聞かせていたはずだ。でも、その日は何もしなかった。終電に乗って2回乗り換え、電車が通っていない駅から家までの最後の区間は、コンビニで買ったビニール傘をさして20分歩いた。祖母の家に着く頃には、ズボンの裾までびしょ濡れになっていた。祖母はまだ起きていて、私が鍵を開ける音を聞くと、老眼鏡をかけたまま寝室から顔を出す。「綾菜ちゃん?こんな時間にどうしたの?」靴を脱ぎかけた手が止まる。「おばあちゃんに会いたくなっちゃって」祖母は嬉しそうに笑った。「まあ、口がうまいんだから」祖母はそのまま台所へ向かった。私は玄関にしゃがみ込み、濡れた靴を見つめているうちに、なぜか泣きそうになった。朔と付き合って4年。この4年間、私は彼を待つことにすっかり慣れていた。仕事が終わるのを、会議が終わるのを、図面の修正が済むのを、出張から帰ってくるのを……そして、寧々と一緒に現場を見終わるのも、何度もかかってくる「大事な電話」が終わるのも、いつだって待っていた。私がもう少し我慢すれば、彼もきっと時間を作ってくれる。ずっとそう思っていたから。すると、朔からメッセージが届いた。【家に着いたか?】その30分後、もう一通。【寧々、急性胃炎だった。今、点滴を受けてる】私は返信しなかった。すると、ほどなくして3通目が届いた。【明日の朝、仕事に行く時にさ、お前の店の塩ベーグルを二つ作ってくれないか?寧々、しばらく脂っこいものは食べられないらしいから】画面をしばらく見つめてから、私はふっと笑ってしまった。彼はようやく、私の仕事を思い出したらしい。私はパティシエだ。正確に言うと、ショッピングモールにあるチェーンのベーカリーで働くケーキ職人で、普段はデコレーションやスイーツ作りを担当している。朔や寧々の周りにいる建築家やデザイナーの友人たちから見れば、私の仕事はたいしたスキルもいらないものなの
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第2話
「昨日の夜も言ったでしょ。作れないって」「毎日作ってるんじゃないのか?」「今日はもう売り切れたの」朔の視線が、作業台の端に置かれた紙袋に落ちた。気づかれたと分かった。あれは私が自分のために残しておいた朝ごはんだ。彼は迷わず手を伸ばした。「ここに一つあるじゃないか」私は彼より先に、紙袋をサッと引き寄せた。朔はハッとして手を止め、私も一瞬固まってしまう。以前の私なら、ベーグル1個くらい喜んで譲っていただろう。それに、寧々が夜中に「キャラメルプリンが食べたい」と言えば、わざわざ起きて作ってあげたことだってある。なぜなら、寧々は私の一番の親友だったし、そんなとき朔が決まって言ってくれたからだ。「やっぱり綾菜は優しいな」でも、いつからだろう。私が何でも聞き入れるのも、自分のものを譲るのも、自分の予定を彼らのために後回しにするのも……彼らにとっては、すっかり当たり前になっていた。朔がじっと私を見る。「たかがパン一つだろ」私は紙袋を自分のロッカーにしまった。「だから、よそで買えば?」彼は少し不機嫌そうに顔をしかめた。「綾菜、最近いったいどうしたんだよ?」「別に」「昨日は急だったんだよ。寧々があんなに痛がって、顔まで真っ青になってるのに、先にお前を送っていくわけにはいかないだろ?」私は手についたクリームをきれいに拭き取った。「私を先に送ってなんて言ってない」「じゃあ、なんでそんな態度なんだよ?」私は朔を見つめたまま、何も言えなくなった。彼は、私が家まで送ってもらえなかったから怒っていると思っているのだ。でも私が本当に悲しかったのは、彼が車を出す時、私に一言の連絡すらくれなかったこと。私から電話をしなければ、彼は私がずっと地下駐車場で待っていたことにさえ気づかなかったかもしれない。けれど、そんなことを今さら説明する気にはなれなかった。私は静かに目を伏せた。「これから病院に行くんじゃないの?早く行ってあげたら?」朔はしばらくその場に立っていたが、やがて背を向けて出て行った。10分後、ガラス戸越しに、別の店の袋を提げて通り過ぎる彼が見えた。ホットミルクにサンドイッチ、それから暇つぶしになるようにと雑誌や漫画まで。まったく……至れり尽くせりだ。その姿を見て、私は半
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第3話
私が早番の日には、朝6時半に起きて車で送ってくれたし、新作スイーツの開発に失敗したときも、見た目の悪いケーキを一つ残らず食べてくれた。初めて店の社内コンテストに出たときは、緊張で一睡もできなかった私のために、控室の前で4時間も待っていてくれた。あの頃の朔は甘いものが苦手だったのに、私が作った甘さたっぷりのイチゴのケーキをきれいに平らげて、こう言ってくれた。「うちの橘シェフが作るものは、何でもおいしいよ」だから、朔がだんだん忙しくなっても、仕方がないと思っていた。いつまでも付き合い始めのようにはいかないし、今は仕事が忙しいだけなのだと。寧々が朔の設計事務所に入ってから、二人はいくつもの案件を一緒に担当するようになった。寧々は頭の回転が速く、専門知識も豊富で、人とのやり取りもうまい。朔が建築設計を担当し、寧々が内装の詳細設計を進めるうちに、二人の息はどんどん合っていって、食事中も、歩いているときも、私の家に遊びに来たときでさえ、二人は仕事の話ばかりしていた。最初の頃は、私もわざと会話に割って入っていた。「私にわからない話は禁止!」すると、寧々は笑いながら手を挙げるのだ。「了解!じゃあ、今日は仕事の話をした人が罰ゲームね!」けれど10分もしないうちに、二人はまた何かの建材をめぐって議論を始める。口を挟めない私は、仕方なくキッチンへ行ってフルーツを切り、そしてリビングに戻ると、二人はさっき私とした約束なんてすっかり忘れているのが常だった。ずっと、それが普通なのだと思っていたが、最近になって気づいた。長い間ないがしろにされ続けると、人は自分を後回しにする相手のために、いつの間にか自分から言い訳を考えるようになるのだと。午後3時、朔からメッセージが来た。【寧々が退院したよ】私は返信しなかった。しばらくして、また連絡が来る。【夜、マンションに帰ってくるか?】やっぱり返信しなかった。朔とは1年以上同棲していて、住んでいるマンションは彼が借りたものだった。今年の初め、朔はローンを組んで家を購入した。リフォームが終わったら一緒に引っ越そうと言われ、私はこっそりキッチンの寸法を測って、ビルトインオーブンを買おうと考えていた。でもその夜、仕事が終わった私はそのまま祖母の家へ向かった。朔から電話がかか
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第4話
「私の分は、もう考えなくていいよ」寧々はきょとんとした顔になり、朔も私の方を向く。「どういう意味だ?」「べつに。二人がいいと思うなら、それでいいよ」私がドアの方へ歩き出すと、朔が追いかけてきた。「綾菜、いちいち嫌味っぽい言い方するの、やめられないのか?」私は足を止めて、彼を振り返った。「じゃあ、これからは二人の好きなように内装を決めて。どうせ私は住まないから」彼は言葉を失っていた。寧々が先にふっと笑った。「綾菜、またそんな冗談ばっかり言って」私も笑った。「冗談じゃないよ」数日後、私たちが付き合って4年目の記念日がやってきた。朔は忘れていたし、実を言えば私も忘れかけていた。午前中、美咲が私に声をかけてくれた。「今日って、記念日じゃありませんでした?」それでようやく思い出したのだ。去年のこの日、朔はネックレスをプレゼントしてくれた。その前の年は一緒に海へ行ったし、もっと前には、夜11時まで店の前で待っていてくれたこともある。あのとき朔が抱えていたトルコキキョウの花束は、風に吹かれてすっかり形が崩れていた。でも今年は、メッセージが一通届いただけ。【今夜は残業になるから、先に寝てて】私は画面を数秒見つめてから、返信した。【わかった】それでも私は、とても小さなケーキを一つ焼いた。彼を待つためではなく、すでに材料を用意してしまっていたからだ。祖母が好きな、マロンクリームのケーキ。夜の8時、私はケーキを持って祖母の家へ行った。ケーキを切り分けたところで、朔から電話がかかってきた。電話に出ると、向こうは工事現場らしく、周囲がひどく騒がしかった。「今どこ?」「おばあちゃんの家」「なんでまたそっちに行ったんだ?」「残業じゃなかったの?」彼は少し言葉に詰まった。「寧々の現場で急にトラブルがあったから、様子を見に来たんだ」やっぱり。私は尋ねた。「今日が何の日か、覚えてる?」電話の向こうが急に静まり返り、数秒後に彼は言った。「綾菜、最近本当に忙しいんだよ」私はふっと笑った。「わかってる」「わかってるなら、こんな時にそんなこと言うなよ。もう4年だぞ。いちいち日付にこだわる必要があるのか?」私は答えなかった。彼は言葉を続け
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第5話
その日の夜11時すぎ、寧々からとても長いボイスメッセージが届いた。「綾菜、朔に別れ話をしたって聞いたけど、本当?お願いだから、私のことで怒らないでね。今日は本当に現場でトラブルがあって、消防関係の確認がなかなか通らなかったの。朔も仕事で仕方なく来てくれただけだし、それに、朔が記念日とか覚えない人だって、前から知ってるでしょ?あんなに仲がよかったんだから、こんな些細なことで……」半分まで聞いたところで、私は再生を止めた。午前1時、朔が帰ってきた。しかも、祖母の家まで私を探しに来たのだ。私が外に出ると、彼は疲れ切った顔で廊下に立っていた。手を伸ばして私に触れようとしたけれど、私が一歩後ろに下がると、その手は空中で止まる。「まだ怒ってるのか?」「ううん」「じゃあ、帰るか?」「帰らない」「綾菜」彼は眉間をもみほぐした。「俺ももう疲れてるんだ。毎回、何を考えてるのか察しろっていうのはやめてくれないか?」私は彼をまっすぐ見つめた。「じゃあ、これで最後にするね。私たち、もう別れたから」彼は私をじっと見つめ、しばらくしてふっと笑った。「わかったよ。ここにいたいなら、気が済むまでいればいい」そう言って背を向け、階段を数段降りたところでまた振り返った。「明日はちゃんと起きろよ。朝、ついでに迎えに来るから」もう朔の車に乗るつもりはないけれど、それを伝えることもしなかった。どうやら朔の中では、私たちはまだ別れていないらしい。一緒に撮った写真も消さず、荷物を引き取りに来いとも言わない。それどころか翌朝、本当に祖母の家の前まで車で迎えに来た。しかし、私は30分早く家を出て、先にバスで行っていた。10時すぎ、彼から連絡が来る。【先に行ったなら、どうして言ってくれなかったんだ?】私は返事をしなかった。すると、お昼にまたメッセージが来た。【夜は帰ってきて、家で飯を食おう】やっぱり私は無視する。彼もさすがに腹を立てたのだろう。それから3日間、朔からの連絡は途絶えた。以前なら、朔が急に連絡をくれなくなるだけで不安になり、こちらからコーヒーを買って届けたり、夜に設計事務所まで迎えに行ったりしていた。そして最後には、決まって私から謝る。「もう、私が悪かったって。ごめんね」でも今回、
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第6話
30分後、朔がやって来た。彼は早足で歩いてきて、暗い顔で店のドアを開ける。私はちょうど客の会計をしていたが、朔はレジの向こうに立つなり言った。「外に来い」私は手を止めずにバーコードを読み取った。「仕事中なんだけど」「綾菜」朔は声を低くした。「ここで話すのか?」隣にいた客がちらりとこちらを見たので、私は美咲に少しだけレジを代わってもらい、店の外へ出る。外に出ると、朔が開口一番こう言った。「寧々に何を言ったんだ?」予想どおりすぎて、驚きもしなかった。「言うべきことを言っただけ」「あんなに泣かせることないだろ。お前だって、最近、寧々がどれだけ大変か知ってるよな?」私は彼を見つめる。「寧々が大変だったら、私は何も言っちゃいけないの?」「そういう意味じゃない」「じゃあ、どういう意味?」彼は眉をひそめた。「俺に不満があるなら俺に言えよ。寧々を巻き込むな」私はふっと笑ってしまった。「私が巻き込んだの?」朔の表情がさらに険しくなった。「お前はそういう言い方しかできないのか?俺たち、寧々とは何年も付き合いがあるんだから、あの子がどういう人間か、お前だってわかってるはずだろ。毎日十何時間も働いて、今は若手デザイナー賞の準備までしてる。こんなちょっとした恋愛の問題で、あの子の仕事にまで迷惑をかけるのはやめてくれないか?」私は朔を見つめた。「ちょっとした恋愛の問題?」「ほかに何があるんだよ?」朔は畳みかけるように続ける。「綾菜、お前は毎日決まった時間に出勤して、店の仕事が終わればそれで帰れる。でも、俺たちの案件が今どれだけ大事な時期なのかも、寧々にとって今回のコンペがどれだけ重要なのかも知らないだろ?こっちはみんな、もう疲れ切ってるんだよ」私は何も言えなくなった。仕事が楽だと言われたからではない。引っかかったのは、「こっちはみんな」という言葉だった。朔にとって、自分と寧々は同じ側にいる「みんな」で、私はその外から事情もわからず、わがままを言って困らせる人間らしい。私は尋ねた。「朔、本当にまだ、私がただ駄々をこねてるだけだと思ってるの?」朔は一瞬黙ったが、ようやく私が折れたと思ったのか、少し声を和らげる。「最近いろいろ不満がたまってるのはわかってる。
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第7話
すぐに、もう一通届いた。【午後に寧々のデザイン賞の最終審査があるから、それが終わってから向かうよ】私はそのメッセージを見つめ、返信した。【何時に終わるの?】【6時ごろかな】【おばあちゃん、7時半過ぎには薬を飲んで寝ちゃうから】朔の返信はこうだ。【間に合う】私はそれ以上、何も言わなかった。金曜日、お店に大きなケータリングの注文が入った。ある建築事務所のイベント用で、届け先は偶然にも朔たちの会社だ。店長に言われて、私も車に乗って配達に行くことになった。到着したとき、会場ではちょうどリハーサルが行われていて、ホールの入口にはプレゼン用のパネルがずらりと並び、白いスーツ姿の寧々が照明の下に立っている。その前では、朔がパソコンを操作してスライドを調整していた。誰かが笑いながら声をかけた。「水野さん、今回も賞を取ったら、周防さんに1年間ご飯をおごらないとですね!設計から完成までずっと一緒で、建築は周防さん、内装は水野さん。あまりに息がぴったりだから、知らない人が見たら夫婦でやってる事務所だと思いますよ!」周りからどっと笑いが起きる。寧々は軽く相手を叩くふりをした。「もう、変なこと言わないでくださいよ」別の誰かが、今度は朔に話を振った。「周防さん、彼女さんはヤキモチ焼かないんですか?」私は会場の入口に立ったまま、朔を見ていた。朔は俯いて機材を操作していたが、数秒ほど間を置いてから答える。「そういう冗談はやめてくださいよ」誰も私がそこにいることには気づかなかった。私はスイーツを事務担当の人に引き渡し、そのまま帰ろうとしたのだけれど、そこで寧々に見つかってしまう。「綾菜!」彼女はすごく嬉しそうに駆け寄ってきた。「どうしてここに?」「配達」「ちょうどよかった!明日、私の最終審査を見に来ない?」「行かない」「どうして?」彼女は私の手をつかんだ。「朔も来るのに」私は自分の手を引き抜いた。「おばあちゃんの誕生日だから」寧々は、今思い出したというような顔をした。「あ、そうだったね。でも大丈夫。朔は私の審査が終わったらそっちに行くから。少し遅くなるかもしれないけど」私が黙っていると、そこへ朔が歩いてきた。「来るならどうして事前に言わなかったんだ?
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第8話
「朔、おばあちゃんが倒れたの」電話の向こうが、一瞬で静まり返った。「えっ?」「救急隊の人が、大動脈解離かもしれないって。今、病院に向かってるところなんだけど、あなたも来られない?」言い終わる頃には、もう涙声になっていた。朔はすぐに答えた。「まずは落ち着いて。俺もすぐ……」言葉の途中で、寧々が彼を呼ぶ声が聞こえた。「朔」彼女の声は震えていた。「私、本当にダメかも。頭が真っ白で……」さらに、誰かが急かす声も聞こえてくる。「水野さん、本番5分前です」私はスマホを強く握りしめた。数秒ほど黙り込んだ朔。「綾菜、寧々の最終審査がもうすぐ始まるんだ。今日はかなり緊張してて……」突然、胸の奥にひどく嫌な予感が広がった。「だから?」「お前は先におばあちゃんについて病院へ行ってくれ。医者もいるんだし、こっちが終わったらすぐに向かうから」私は目を閉じた。「朔、私、今すごく怖いの」「わかってる」彼の声が少し優しくなった。「お前のお父さんは?」「今、急いでこっちに向かってる」「じゃあ、まずは先生の指示に従ってくれ。あと40分もあれば終わるから、必ず行く」私は何も言えなかった。隣では医療機器の音が鳴り続けている。酸素マスクをつけた祖母は、目をうっすらと開けていた。手を伸ばして握ると、その指先は氷のように冷たかった。私はもう一度だけ朔に尋ねる。「今すぐには、来られない?」朔が一瞬、息を止めた。「綾菜、寧々はこの日のために1年間準備してきたんだ。俺も最後まで付き添うって約束したから」その瞬間、救急車の音が急に遠くなった気がした。人は本当に追い詰められると、かえって何も感じなくなるらしい。「……わかった」私はそれだけ言って、電話を切った。16時8分に病院に着き、16時21分に最初の同意書にサインをした。そして17時10分、祖母は手術室へと運ばれていく。その間、朔には4回電話をかけたが、一度も出なかった。5回目には、電源が入っていないという音声案内が流れた。私はたった一人で手術室の前に座っていた。手にはまだ、洗い流せなかったマロンクリームがこびりついている。目の前をたくさんの人が行き交っていた。泣いている人、電話をしている人、子供を抱きしめている人
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第9話
朔は意味がわからないようだった。「え?」「20時43分」朔の唇がかすかに動いたものの、しばらく声は出なかった。やがて突然、私を抱きしめようと近づいてきたが、私が一歩下がると、その腕は行き場を失う。「綾菜、そんなに重い状態だなんて知らなかったんだ」私は彼を見つめたが、不思議なことに、もう涙は一滴も出てこない。私はただ問いかけた。「もし知っていたら?」息を呑んで固まった朔。「え?」「もし16時の時点で、おばあちゃんが亡くなるって知っていたら、来てくれた?」朔の顔から完全に血の気が引いた。「当たり前だろ。絶対に……」「でも、私だって16時にはわからなかった」私は彼の言葉を遮った。「おばあちゃんが救急処置を受けていること、すごく怖いこと、そしてあなたにそばにいてほしいこと。私がわかっていたのはそれだけ。それだけじゃ、あなたが来る理由にはならなかったんだよね?」彼の唇が震える。「綾菜、違うんだ。病院には医者がいるし、寧々にとっては一度きりのチャンスだったから…………」私は思わず笑ってしまった。朔は今でも、自分の判断は間違っていなかったと思っていて、ただ、結果が予想以上に深刻だっただけらしい。私は小さく頷いた。「わかった。もう帰って。今夜はあなたの顔を見たくないから」祖母の葬儀は、身内だけでささやかに執り行うことになった。生前は人に迷惑をかけるのを何より嫌がっていた。父の話では、入院したときでさえ親戚には知らせたがらなかったという。葬儀までの数日間、朔はずっと手伝いに来ていた。必要な手続きを済ませ、車を手配し、買い物にも走ってくれた。私は追い返しもしなければ、話しかけもしなかった。だから、朔はそれを、ここにいてもいいという意味に受け取ったのかもしれない。3日目、寧々がやって来た。彼女は全身黒の喪服を着て、目を腫らし、私の顔を見るなり泣き出す。「綾菜、ごめんなさい。あなたのおばあちゃんがこんなことになるなんて、本当に知らなくて……」寧々はそれ以上、言葉を続けられなかった。私は葬祭場のドアの方に立ち、彼女に尋ねる。「あの日、おばあちゃんが救急搬送されてるって知ってた?」寧々の目がわずかに泳いだ。「朔から病院にいるって聞いてたけど、そんなに大変なことになって
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第10話
私はさらに言葉を続ける。「私が一人で手術室の前に座って、同意書にサインしてたとき、朔は寧々のそばにいた。先生にほかのご家族はいませんかって聞かれたときも、5回目の電話で朔のスマホの電源が切れてるってわかったときも、あなたはずっと寧々と一緒だった。おばあちゃんが手術台の上で必死に頑張ってたとき、あなたは寧々のトロフィーを持って、写真を撮ってたんだよね?それを、ただ遅れただけだって言うの?」寧々はますます激しく泣き出した。「綾菜、彼を責めないで。全部私のせいんだから。あの時は本当に精神的に追い詰められてて……」私は彼女の方を向く。「わかってる。だから、寧々とももう友達でいたくない」寧々が勢いよく顔を上げた。「えっ?」「聞こえたでしょ。今日限りで、私たちは友達じゃない」「綾菜!」朔が厳しい声で私の名を呼んだ。私はふっと笑ってしまった。「何?また私がひどいこと言ってると思った?」彼はその場に凍りつき、しばらくしてからようやく口を開く。「そうじゃない。ただ、今は冷静になれてないだろ。もう少し時間が経ってから……」「私は至って冷静だけど」私は言った。「今までで一番、自分の気持ちがはっきりしてる」ここ数日、周りからは落ち着きすぎていると言われた。父は私が無理をしているんじゃないかと心配し、美咲もこっそりたくさんのメッセージを送ってくれた。でも、私の心には本当に何の感情も湧かなかったのだ。一番辛かったあの数時間は、もう過ぎ去った。だから、今改めて朔を見ても、まるで赤の他人のようにしか思えない。私は朔の手に指輪を押し込んだ。その手は冷たく、彼は指輪を強く握りしめている。「綾菜、俺たちは4年も付き合ってきたんだぞ。たった一度の出来事で、その4年間まで全部なかったことにするのか?」私は彼をまっすぐ見つめた。「今回のことで4年間が台無しになったんじゃないよ。今回のことがあったから、今までの4年間がどういうものだったのか、やっとわかったの」朔の目がじわじわと赤く染まっていったが、私にはもう、これ以上話す気力はない。祖母の納骨の日は、小雨が降っていた。寧々は姿を見せず、朔はずっと離れたところに立っていた。すべてが終わった後、父が傘を差して迎えに来てくれた。その時、朔がふいに私を呼び止める
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