Share

第374話

Author: 風羽
白川は観念したように答えた。

「はい」

輝はエレベーターの階数表示を見上げ、三十二の数字をしばし眺めたのち、鼻で笑った。

「大したもんだな。岸本だけじゃ飽き足らないらしい」

その時、ハイヒールの音が近づき、絵里香が姿を現す。

「輝」

あっという間に目の前まで来て、後方を一瞥する。

「今の子、どこかで見たことがある気がするわ」

輝は表情ひとつ変えずに言う。

「見間違いだ」

絵里香は白川に目を向け、何かを探るような視線を投げた。

輝は淡々としたままで言った。

「会議じゃなかったのか?一般社員に興味なんて珍しいな」

二人は並んで歩き、白川は後ろをついていく。

彼女の胸中には、ひとつの思いが過る——英国帰りのアシスタント絵里香は、まるで瑠輝グループの女主人のような風格だ。

だが「瑠輝」という社名、それ自体が皮肉めいている。

創業時、輝は気づいていただろうか。そこには、赤坂瑠璃の名の一部が刻まれている。

——愛しすぎて、無意識に?

白川はもちろん口には出さない。

会議は滞りなく進み、輝の機嫌も幾分か和らぐ。

ところが、戻り道でまたあの赤坂さんを見かけた。相変わらず涙目で、知らぬ者が見れば瑠輝グループが社員を苛めているとでも思うだろう。

執務室に戻ると、輝は白川に命じた。

「あの新人、辞めさせろ」

白川は軽口を叩く。

「代わりの……代用品がお望みかと思いましたけど?」

輝は書類をめくりながら、気のない声で言う。

「人間は猫や犬じゃない。代わりが効くもんじゃない」

「分かりました。すぐ手配します」

ドアノブに手をかけた白川の背に声が飛ぶ。

「いや、しばらく置いておけ。ただし、最上階には上げるな。目障りだ」

胸の内に疑問を抱きながらも、白川は頷くだけだった。

輝は椅子に深く身を預け、心の中でひとりごちる。

——瑠璃はお見合いをするんだろう?なら、その相手に若くて野心的な義妹をおまけに付けてやるのも、なかなか趣がある。

そう思うと、少し面白くなってくる。

瑠璃は澄佳の母親だ。そんな軽薄な男に心を許すはずがない。

思案に沈んでいたところで、スマホが鳴った。

画面には「周防京介」の名。

躊躇なく通話ボタンを押す。

「京介様、何の用だ」

京介は開口一番に言った。

「明日の夜は忘れずに帰ってこい。それと、絵里香も
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 私が去った後のクズ男の末路   第648話

    舞台上では、真琴がスピーチに立っていた。本来なら翔雅に感謝を述べ、二人の仲睦まじさを見せつけ、ネットの人々に羨ましがらせるつもりだった。豪門に嫁ぐ未来を誇示するために。だが、視線を上げた瞬間、翔雅が澄佳の後を追って退場していくのを見てしまう。歯を食いしばり、怒りを飲み込む。壇上の彼女は、それでも笑顔を崩さなかった。人前の「キャラクター」を守り抜こうとした。……会場の外、室内のフォトスポットにはちらほらとファンが集まっていた。翔雅は辺りを見回し、澄佳の姿を見つける。近づこうとした矢先、楓人が彼女に歩み寄り、耳元で何かを囁いた。澄佳は頷き、手にしたスマートフォンを差し出す。写真を撮ってほしいのだろう。彼女は真琴のように背景パネルの前には立たず、落地窓の外に広がる夜景を選んだ。楓人を見上げる眼差しには、柔らかく温かな光が宿り、見惚れるほどに美しい。——いつからだろう。彼女が自分を、こんな風に見つめなくなってしまったのは。翔雅の胸に込み上げたのは、痛切な懐旧。楓人は何枚かシャッターを切り、二人は頭を寄せ合い、どの写真が良いか楽しげに語り合う。その姿は、まるで恋人同士。翔雅の目には棘のように刺さった。ふいに、澄佳が視線を上げる。翔雅と目が合った。その瞳には、責めと嫉妬がないまぜになった複雑な色が宿る。澄佳はすぐさま楓人の肩に頬を預け、白い肌と黒のスーツが鮮烈なコントラストを描き出す。そこに漂うのは、紛れもない親密さ。楓人は微笑みながら、そっと彼女の頬に触れた。その仕草には、溢れるような優しさと独占欲が滲んでいた。——美男美女の戯れは、それだけで絵になる。真琴のファンでさえ思わず写真を撮り、ネットに投稿する。【真琴の彼氏の元妻、そしてその元妻の新しい恋人】【ビジュアルの破壊力、半端ない】【あぁ……かつて澄佳と翔雅も最強カップルだったのに】……会場内に戻れば、翔雅の顔はすでに蒼ざめ、苦渋に染まっていた。彼の前で、澄佳は他人の腕に抱かれている。かつては妻だった。二人の子をもうけた女だった。今はもう——互いに別の相手と歩んでいる。夜が深まるにつれ、翔雅の胸に広がるのは耐え難い悲哀。それでも彼は視線を逸らさず、自らを痛めつけるように見つめ続けた。や

  • 私が去った後のクズ男の末路   第647話

    翔雅はしばし呆然としていた。真琴は彼の胸中を分かっていて、わざと甘く呼びかける。「翔雅、どう?似合ってるかしら?このドレスはオフシーズンの限定品で、国内には二着しかないの。私のは特別に取り寄せてもらったのよ」翔雅は仕方なく視線を向けた。確かにドレス自体は美しい。だが、身長百六十そこそこの真琴には分が悪く、ハイヒールを履いてもフロア丈のドレスを着こなすことはできない。むしろ低身長が際立ち、身体のバランスは崩れ、五分五分に見えてしまう。さらに重々しいエメラルドのセットは首元を押し潰し、全体を鈍重に見せていた。翔雅の胸に浮かんだのは、澄佳がこのドレスを纏った姿。彼女なら、腰のラインがすらりと映えて優雅さを引き立て、色石ではなく繊細なジュエリーを選んで気品を演出するだろう。——だが、翔雅は水を差す男ではなかった。彼は黙して口を閉ざした。真琴は鏡に映る自分を見つめ、大粒のエメラルドのセットを愛おしそうに撫でる。この宝石は2億円規模の品で、彼女がこれまで手にした中で最も高価なジュエリー。触れるたびに喜びが溢れ出すのを抑えられなかった。やがて時刻となり、二人は立都市の超高層ビルで開かれる初日上映会場へと向かった。黒塗りのリムジンがレッドカーペットの先に停まる。翔雅が車を降り、真琴の手を取って主催側のサインボードへと歩み出す。彼女と手をつないで歩くその瞬間、翔雅はほとんど澄佳を諦めかけていた。——もう彼女は自分を許さない。二度と共に歩むことはない。そう、皆が言っているように。翔雅はほとんど運命を受け入れていた。再会は予期しながらも、やはり唐突に訪れた。星耀エンターテインメントの社長として、澄佳は当然レッドカーペットを歩き、スピーチを行う。翔雅が到着したとき、澄佳はちょうどサインをしていた。白のドレスに繊細なダイヤのネックレス。華やかでありながら凛とした気品を漂わせている。——それは、真琴と同じデザインのドレス。皮肉にも、二人は同じ衣装をまとっていた。かつての夫婦は、今や赤の他人。澄佳は翔雅を視界に入れながらも、空気のように扱った。真琴は翔雅を見るその瞳に、かすかな不満を宿していた。彼の腕にしがみつくようにして、澄佳へと笑みを向ける。「葉山社長、お久しぶりですわ。私と翔雅の嬉しい報

  • 私が去った後のクズ男の末路   第646話

    今夜、澄佳は突然高熱を出した。夕刻、京介が彼女を病院へ運び込み、途中で一度周防家に戻って荷物を取りに行き、また駆けつけてきた。この夜、病室には周防家の者たちが勢ぞろいし、二人の子どもだけが家に残された。一晩中の看病の末、澄佳の熱はようやく下がった。澪安は医師を送りに階下まで降りた。ちょうどそのとき、翔雅が病院を後にしたところだった。佐伯楓人(みずきふうま)は周防家と旧知の仲であり、立都市での澄佳の病状は彼が一手に診ていた。階下に降りると、彼は澪安に言った。「しばらくは安静が第一です。仕事はもちろん、怒ったりするのも厳禁ですよ」澪安は静かにうなずいた。「分かっています。彼女にも伝えます」看護師が先に立ち去ると、楓人は澪安を見据えた。「絶対に再手術だけは避けてください。命に関わります。この病気の怖さは再発にあります。できるだけ気を楽に、慰めてあげてください」澪安心の奥でため息をつき、それでも結局は黙ってうなずくしかなかった。医師を見送ったあと、澪安はすぐに病室へ戻らず、向かいの縁石に腰を下ろして煙草に火をつけた。だが、ふと目に入ったのは足元に積まれた吸い殻の山。七、八本はある【白鶴】の煙草だ。その銘柄を見た瞬間、澪安の脳裏に浮かんだのは、あの男の姿だった。——翔雅というやつ。目を細めて火を点け、吸い殻を見つめながら二階を仰ぎ見る。兄としての眼差しには、ただ深い憐憫が滲んでいた。夜はますます更けてゆく。澪安が病室へ戻ると、間もなく二階の灯りは消えた。さらに三十分後、翔雅が戻ってきて、同じ縁石に腰を下ろした。地面の吸い殻の山には、今度は【立都】の煙草が二本、加わっていた。翔雅の胸に去来するのは一人の男の影。——澪安。あの野郎はいつもこの銘柄を吸っていた。……運命のいたずらのように、翔雅は真実とすれ違った。彼は知らなかった。自分が真琴を慰め、結婚を約束していたその頃、澄佳は病床で必死に耐え、苦しみながら、彼との婚姻を心の奥で拭えぬ傷として抱えていたことを。時は流れ——次に顔を合わせたのは五月末。ドキュメンタリー映画「暗渠」の初日舞台挨拶だった。この作品は星耀エンターテインメントが制作し、澄佳が全身全霊を注いだ結晶。どんな状況であれ彼女は必ず姿を見せるつもりで、上映が終わ

  • 私が去った後のクズ男の末路   第645話

    「わかった」そう口にした瞬間、翔雅の胸に広がったのは、言いようのない虚しさだった。心の奥がごっそりと抉り取られ、宝物のように大切にしていたものを奪われ、二度と戻らない——そんな感覚。だが真琴は歓喜に震えていた。弱り切った体のまま、彼に飛び込み、小鳥のようにさえずる。「翔雅……本当なの?本当に、私を受け入れてくれるの?」翔雅の指先が震え、言葉が喉に詰まる。かつて深く惹かれた女。しかし今は、疲労しか残らない。それでも彼女は、まるで世界を手に入れたように幸福そうに笑う。胸をかすめる微かな温もりに、翔雅は小さく頷いた。真琴はしがみつき、夢見るように囁く。「ねえ、秋に結婚しましょう。冬にはスイスへスキーに行って、来年は可愛い子どもを……男の子ならあなたに似て、女の子なら私に似て。私は芸能界を引退するわ。翔雅の妻として、洗濯も料理もする。朝はスーツを用意して、あなたにキスをして送り出すの。庭から手を振って……子どもが大きくなったら、私が送り迎えをして、芸術家に育てるの。素敵でしょう?」——甘い幻想の数々。だが翔雅には、もう届かなかった。彼の胸に浮かぶのは、芽衣と章真の顔。もし自分の再婚を知れば、あの子たちは泣くだろう。だが澄佳もまた、いずれ再婚するのだろうか。——京介が言っていた。「澄佳にはもう耐えられない」と。もしかすると、もう縁談が進んでいるのかもしれない。真琴の瞳は上気していたが、ふと翔雅の心が遠くにあることを察した。彼女は笑みを引き攣らせ、冷ややかに心の中で嗤う。——いい、我慢できる。私はすぐに一ノ瀬夫人になる。彼がどれほど葉山を想っても、無駄なこと。彼女はさらに身を寄せ、愛を求めた。だが翔雅は口実をつけて部屋を出た。——幸せを感じない愛ほど、男を家から遠ざけるものはない。病院でさえ例外ではなかった。深夜。翔雅は病院の敷地内を歩き、煙草を燻らせていた。二階建ての独立棟。その一棟に一部屋だけの特別VIP病棟。そこは一ノ瀬医薬グループの直営病院だった。気に留めることもなく、植え込みの縁に腰を下ろす。長い脚を投げ出し、煙を吐きながら仰ぎ見る。二階の窓には明かり。人影が揺れていた。窓際のハンガーには、淡い灰色のカシミヤのマフラーが掛かっている。——澄佳にも

  • 私が去った後のクズ男の末路   第644話

    メディアに定義され、翔雅は真琴と「付き合っている」ことにされた。ただし大々的に発表されたわけではない。彼女を連れてイベントに出席し、事実上「彼女」として扱われただけだった。公の場では翔雅は真琴に気遣い、優しく振る舞った。だがプライベートでは冷淡で、必要以上の言葉は交わさなかった。彼の心は子どもたちへ向かっていた。礼の葬儀以来、一度も会っていない芽衣と章真。四月の終わり、夜。黒いレンジローバーが周防邸の門前に停まっていた。時刻はすでに十時近く。だが澄佳や澪安の車は現れず、代わりに現れたのは一台の黒いリムジンだった。窓が半ば降ろされ、そこから覗いたのは、なおも端正さを保つ中年の男の顔——京介だった。黒塗りのリンカーンがゆるやかに停まり、後部座席から矜持を漂わせた男が降り立つ。翔雅は慌てて車を飛び降り、その前に進み出て、小さく声を絞り出す。「父さん」夜風が京介の黒髪を揺らす。その姿は昔と変わらず、気高く、美しかった。京介の表情は崩れなかった。だが次の瞬間、容赦のない平手打ちが翔雅を襲う。——ぱん、と乾いた音が、夜気を裂いた。運転席のドライバーは震え上がり、慌てて窓を閉めた。頬に火傷のような熱を感じながら、翔雅は立ち尽くす。かつて一世を風靡したその男は、今はただ厳しい面持ちのまま、冷ややかに言葉を落とした。「父と呼ぶのなら、澄佳と夫婦であったこと、そして芽衣と章真の父であることを忘れてはいまい。その分の責めを受けるのは当然だ。だが翔雅……お前にはもう彼女がいるのだろう?ならば周防家に何をしに来た?誇示しに来たのか?優越感を見せに来たのか?澄佳は決して完璧な女ではない。だがお前よりは遥かに筋が通っていた。相沢真琴などという女と関わり、この家を壊した責任の九割はお前にある。もう手放せ。自分の人生を生きろ。澄佳にはもう耐えられない。芽衣と章真は我々が育てる。お前には新しい妻も、新しい子どももできるだろう。だから心配は要らん」……翔雅の胸に突き刺さる言葉。言い返したかった。真琴とはそんな関係ではないと。だが、口から出なかった。——恋に「偽物」など存在しないのだ。夜の静寂の中、京介は最後に告げた。「今後は互いに干渉せず。それが筋だ」そう言って車に乗り込んだ。

  • 私が去った後のクズ男の末路   第643話

    翔雅はソファに腰を下ろし、甘い笑みを浮かべる女を見据えた。「なぜ、あの投稿をした?」真琴の顔から笑みが消える。彼女は静かに皿をテーブルに置き、かすかな声で答えた。「好きだから。あなたが苦しんでいるのを見るのが辛いから。一緒にいたいの」「俺がそんなに哀れに見えるか?」カタン、と音を立てて牛乳が倒れ、サンドイッチが床に散らばった。翔雅は低く唸り声を上げ、これまでにないほどの荒れた姿を見せる。「はっきり言ったはずだ。ドキュメンタリーの初上映が終わったら、お前をスイスへ送る。二度と戻ってくるなと」真琴の目に涙が浮かぶ。「怒ってるのね?まだ葉山を愛してるんでしょう?でも彼女はもうあなたを捨てたのよ。嫌われたのよ。二人が戻れるわけないじゃない!私がスイスに行ったって何の意味があるの?」翔雅の力が抜けていく。確かに、その通りだ。スイスへ行こうが行くまいが、もう意味はない。澄佳は二度と彼を受け入れない。だが、それでも彼は真琴を選ばない。愛していない。とうの昔に終わった想いだ。何より、彼には二人の子がいる。翔雅はソファに深く背を預け、天井を仰ぎながら低く言った。「投稿を削除しろ。ただの誤解だと説明し、俺たちの関係をはっきりさせろ」真琴の目が赤く染まる。「本当に私を受け入れられないの?私はあなたを大切にする。ご両親も、二人の子どもたちも。そして葉山さんにも敬意を払うわ」翔雅は冷ややかに天井を見つめる。「そんなに卑屈に生きる必要はない。真琴、これで終わりだ。俺たちに未来はない。俺はすべてを失い、あまりに大きな代償を払った」視線を下げ、真琴を真っ直ぐに見据える。その意味を女なら誰でも理解できた。数秒の抵抗ののち、真琴は彼の目に屈し、投稿を削除した。代わりに新たな言葉を載せる。【ただの美しい誤解でした】……だが、もう手遅れだった。彼らの「恋物語」は立都市の大手新聞に大々的に掲載され、主流メディアは祝福と称賛を送り、シャンパンで乾杯するかのようにその愛を讃えた。これで「公認」の関係となり、百を超える公式アカウントが一斉に祝福を拡散した。翔雅は火の上に立たされた。耀石グループもまた、火に炙られるように逃げ場を失った。簡単に身支度を整えた翔雅は、広報部の会議に向かうため玄関に立った。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status