LOGIN林の視線がすべてを物語っていた。結安の起用は、もはや決定事項だった。「蒼穹の花」の助演女優枠は間違いなく結安のものになる。琴葉は悔しさのあまり足を踏み鳴らした。――全部、葉山章真のせいだ。そう思わずにはいられなかった。結安が章真と特別な関係にあるから。だからこそ、こんな待遇を受けているのだと。最近、業界内ではある噂が流れていた。巨石エンターテインメントに新しいオーナーが入るらしい、と。そして、その相手はほぼ間違いなく葉山章真だともっぱら噂されていた。結安は昔の情を利用して章真を取り戻し、その見返りとしてこの役を手に入れたのだ。そうに違いない。なら、まだ負けたわけではない。章真を振り向かせればいい。そうすれば役だって取り返せる。琴葉は密かに決意を固めた。そして気高い態度を崩さぬまま、その場を後にした。……一方その頃。芽衣は結安の手を引き、車へ乗せていた。運転席には陽白。林監督の車が後ろを追走する。三十分ほどして、車は一軒の邸宅へと入っていった。芽衣と陽白の自宅だった。新婚当初は都心の高級マンションに住んでいたが、二年前に双子の男児が生まれてからは、広い邸宅へ引っ越している。家政婦も雇いやすく、子育てにはこちらの方が都合が良かった。双子はまもなく三歳になる。長男――古河芽人(ふるかわ めいと)。次男――古河湊人(ふるかわ みなと)。陽白が車を降りた途端、二人の幼い男の子が駆け寄ってきた。「パパー!」「遊んでー!」左右の脚にしがみつく。陽白は思わず頬を緩めた。片腕に一人ずつ抱き上げ、順番に頬へキスをする。だが心の片隅では思う。――できれば娘が欲しかったな。本当は女の子を望んでいた。だが芽衣は出産時に大量出血を起こした。あの時の恐怖を思い出すだけで胸が締め付けられる。もうこれ以上子どもを望む気にはなれなかった。結安も車を降りる。そして双子の姿を見た瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。チョコを思い出したのだ。血の繋がりがあるからだろうか。芽人と湊人はチョコとどこか似ていた。六割ほど面影が重なる。だからこそ愛おしく、だからこそ切なかった。結局――自分と章真の縁は切れない。幾重にも絡み合った糸
そんな和やかな時間の最中だった。コンコン――再びドアがノックされる。高梨が微笑みを浮かべながら入室した。「葉山社長、林雅人(はやし まさと)監督がお見えです。候補者を一度見ておきたいとのことですが……」芽衣は即答した。「その役は結安で決まりにしましょう。シェリーという芸名も海外向けにはちょうどいいわ。国際映画賞を狙う作品なのでしょう?林監督には、賞レースの件はこちらで動くと伝えておいて」高梨は思わず結安を見た。内心では驚いていた。芽衣がここまで肩入れする相手はそう多くない。しかも、これほど露骨な厚遇となればなおさらだった。すると芽衣は何か思い出したように言葉を続けた。「それから、林監督には一階で待っていてもらって。今日はうちで食事をするから。助演女優も一緒だと伝えてちょうだい」「承知しました」高梨は笑顔で頭を下げた。芽衣は再び結安へ向き直る。乱れた黒髪を整えながら、その眼差しには隠しようのない愛情が宿っていた。そして陽白へ言う。「先に車を回しておいて。私と結安はあとから行くわ」陽白は軽く頷き、先に部屋を出ていった。扉が閉まる。室内には芽衣と結安だけが残された。その時だった。芽衣は机の引き出しを開け、一冊の通帳を取り出した。静かに結安の手へ置く。「……え?」結安は戸惑いながら表紙を開いた。次の瞬間、目を見開く。そこに記されていた金額は百億円。思考が止まるほどの大金だった。結安は顔を上げる。理由が分からなかった。芽衣は穏やかな声で言った。「母から預かってきたの。何としてもあなたを引き留めてほしいって。結安、行かないで。兄とどうなるかは関係ないわ。ここに残って。私があなたを守るから。女優を続けたいなら、必ず大スターにしてみせる。芸能界に飽きたら休んでもいい。世界中を旅してもいいし、大学へ行ってもいい。結安……これは兄があなたに負っているものなの。もちろん、こんなものでは到底足りない。でも私たちはみんな、あなたが好きなのよ」葉山家と立花家の因縁。芽衣もすべて知っていた。たしかにビジネスの世界は非情だ。だが立花家の破綻に関しては、少なくとも七割は章真にも責任がある。彼がもう少し手加減
高梨に案内され、結安は応接室を後にした。――シェリーとして。部屋に残された面々はしばらく言葉を失っていた。やがて琴葉が紫苑へ視線を向ける。息を呑むような声だった。「紫苑さん……どういうことですか?シェリー、本当に葉山社長と知り合いなんですか?」紫苑は彼女を見て鼻で笑った。「本当に鈍いわね。昔の葉山章真がどれだけ女優と噂になったと思ってるの?週刊誌を賑わせるたびに、いちいち否定したことがあった?どうでもいい相手なら、わざわざ声明なんて出さないのよ」……琴葉はようやく理解した。確かに二人の間には何かがある。ただ、その感情は綺麗なものではない。章真は明らかに怒っている。だからこそ――自分にもチャンスがある。琴葉は化粧室へ向かった。鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。艶のある黒髪。卵型の小さな顔。清楚で柔らかな雰囲気。よく見れば、自分とシェリーはどこか似ている。二十八歳とはいえ、業界では「永遠の清純派」と呼ばれてきた。――葉山章真はシェリーに腹を立てている。だったら、自分がその隙間に入り込めばいい。琴葉は胸の内で静かに計算を巡らせた。……その頃。高梨は結安を最上階の社長室へ案内していた。コンコン――軽くノックする。「葉山社長、立花様をお連れしました」中からは男女の話し声が聞こえていた。芽衣と陽白だった。一人はソファに腰掛け、一人は執務机の前に立っている。高梨の声を聞いた瞬間、芽衣は立ち上がり、静かに入口へ目を向けた。四年。結安は二十四歳になった。それでも芽衣には、あの頃と変わらない少女に見えた。胸の奥がじんと熱くなる。芽衣にとって結安は、かつて可愛がっていた少女というだけではない。兄――章真がどうしても忘れられなかった人でもあった。四年間。兄は一度も彼女の名を口にしなかった。だが蝶野から聞いている。結安の私物は今も主寝室にそのまま残されていることを。誰にも触れさせず、一つたりとも失くすことを許さなかったことを。その間、恋人も作らなかった。……それなのに、海外にいたあの女性のことはどう説明するつもりなのだろう。芽衣の頭は混乱するばかりだった。――本当に厄介な縁だ。だからこそ、彼女は
あまりにも出来すぎた偶然だった。結安が口を開くより先に、琴葉が不満そうに顔をしかめた。もともとその役のオーディションは自分だけに声がかかっていた。シェリーは候補にも入っていなかったはずだ。それが一夜にして状況が変わった。ただスキャンダルが出ただけで、自分と同じ土俵に立たされたのだ。琴葉は皮肉たっぷりに言った。「紫苑さん、まさか本気でこの人が葉山社長の彼女だなんて思ってるんじゃないでしょうね?葉山社長ほどの人なら、付き合うにしたって一流か二流の人気女優でしょ。どうしてこの人ですか?昨夜の声明だって見ましたよね?完全に否定されたじゃないですか。交際なんて認めてもらえなかったんですよ。髪をストレートにして、清楚な服を着たからって清純派になれるわけじゃないんです。その路線で勝負するなら、この業界で食べていけるのは私です。紫苑さん、ちゃんと人を見る目は持ってくださいね」琴葉は巨石エンターテインメントの看板女優だった。結安より芸歴も長い。立ち回りも上手い。社内には彼女の味方が多かった。そして何より――彼女の言葉には一つだけ否定できない事実があった。章真は結安との関係を否定した。もし認めていたなら、周囲の態度はまったく違っていただろう。今頃は媚びる人間が結安の周囲を埋め尽くしていたかもしれない。だが現実は違う。後ろ盾のない者は踏みつけにされる。それが芸能界だった。小野が反論しようとした瞬間、紫苑が鋭く声を上げた。「もうやめなさい!」会議室が静まり返る。紫苑は冷ややかに続けた。「これは星耀エンターテインメント側からの要望よ。不満があるなら今すぐ帰りなさい。オーディションを受ける必要もないわ」……琴葉はようやく口を閉じた。だが内心では納得していなかった。むしろ腹立たしさは増していた。――シェリーは何を考えているの?セクシー路線で順調だったくせに。急に清純派へ転向するなんて。どう考えても自分の仕事を奪うつもりではないか。なら見てやろう。どれほどの実力があるのか。本当に自分を押しのけられるのか。巨石側が用意した二台の送迎車は、三十分後、星耀エンターテインメント本社へ到着した。琴葉は自分が事実上のナンバー2だと思っている。
章真の車が楓ヶ丘邸へ戻った頃だった。まだ車を降りてもいないうちに、桐生から電話がかかってきた。その声は珍しく切迫していた。「葉山社長、大変です。ネットのトレンド一位になっています。ご覧になりましたか?社長とシェリーさんが密会していたとか、彼女が恋人だとかいう噂です。国家代表チームの敗戦ニュースまで押しのけてしまっています。どう対応しましょうか」章真は眉をひそめた。「彼女は結安だ」電話の向こうが静まり返る。長い沈黙のあと、桐生はようやくその意味を飲み込んだ。――あのシェリーが結安だった?結安が帰ってきた?いや、帰ってきたのではない。ずっと立都市にいたのだろう。ただ、この街はあまりにも広すぎる。幹線道路は何車線も続き、人が偶然出会うにはあまりに難しい。だが、社長がどうやって結安と再会したのか。桐生にそれを尋ねる勇気はなかった。「……どのように対応なさいますか?」そう小さく問いかける。章真は迷いなく答えた。「広報に声明を出させろ。女優シェリーとのスキャンダルを否定する」桐生は思わず息を呑んだ。これは事実上、関係を公表する絶好の機会だった。もし社長が結安と本気で一緒になるつもりなら、今こそ彼女に正式な立場を与えるべきではないのか。否定してしまえば、結安はまた日陰の女のままだ。桐生の中では、結安は今でもあの十八歳の少女だった。何か言ってあげたかった。けれど、章真の意思は固かった。彼は腹を立てていた。胸の奥にくすぶる不快感を抑えきれない。自分にもかつて多くの女性がいた。だが、結安と出会って以降は違った。それなのに彼女は芸能界に身を置き、何人もの男と関係を持ったと言った。男なら受け入れられるはずがない。正式な立場など与えたくない。何より、彼女自身も望んではいないのだ。章真は電話を切った。車のドアを開け、邸内へと入っていく。その夜、耀石グループは異例の速さで声明を発表した。【厳正なる声明現在インターネット上で拡散されております葉山章真氏と女優シェリー氏との交際報道につきまして、耀石グループは以下の通り見解を表明いたします。当社は悪質な誹謗中傷およびネット上の暴力行為に対し、今後さらに厳正な対応を取ってまいります。法令に抵触する行
車に乗り込む。章真がシートベルトを締めながら、何気ない口調で尋ねた。「寄っていくか?」家へ帰ろう、とは言わなかった。そんな言葉を口にする資格などないと思っているのだろう。彼女ははっきり言ったのだ。すべては彼の独りよがりだったと。自分たちは恋人ではなかったと。だから彼は、ただ「寄っていくか」とだけ言った。結安はすぐには答えなかった。窓越しに広がる夜景を見つめながら、小さく呟く。「やめておきます」隣から短い笑い声が聞こえた。章真が顔を向ける。その視線は真っ直ぐだった。「蝶野さんには世話になっただろう。家の使用人たちも、お前を可愛がっていた。会いたくないのか?この数年、ずっとお前のことを気にかけていた」結安は黙ったままだった。ここで折れてはいけない。章真は飽きれば離れていく。彼には女がいくらでもいる。若くて綺麗な女性など、望めばいくらでも手に入る。けれど一度あの家へ戻れば話は変わる。曖昧な関係のまま、また過去へ引き戻されてしまう。それだけは嫌だった。彼女には彼女の計画がある。十分な資金を貯めたら、チョコを連れて海外へ行く。そこで新しい人生を始めるのだ。章真は知らない。自分に娘がいることを。この先きっと彼は結婚し、家庭を持ち、自分の人生を歩いていく。それでいい。結安の沈黙は、はっきりとした拒絶だった。章真もそれ以上は言わない。彼女が距離を置きたいなら好きにすればいい。男はスマートフォンを彼女へ投げるように差し出した。「住所」声は冷たい。「送ってやる」スマートフォンにはまだ彼の体温が残っていた。結安は妙に熱く感じる。結安は視線を落とし、マンションの住所を入力した。それを彼へ返す。返す際、指先がわずかに触れた。結安は慌てて手を引っ込める。すると耳元で、男が小さく嗤った。「昼間はあんなだったのに、指が触れただけで照れるのか?結安、お前はもう十八歳の小娘じゃないだろう」……彼女はもう他の男を知っている。そう思うと、どうしても許せなかった。他の男と関係を持つくらいなら。あちこちの男のもとを渡り歩くくらいなら。なぜ自分と家庭を築こうとはしなかったのか。あの半年余り。章真にと
二人が振り返ると、そこには玲丹がいた。玲丹はお腹を突き出しており、妊娠四ヶ月といったところだ。一年ほど前、玲丹は富豪に嫁いだ。最初の年に娘を産んだが、相手の母はあまり喜ばず、娘がまだ生後三ヶ月の頃から、次の子作りを迫られ、運良くすぐにまた妊娠したのだ。第一子は帝王切開だったから、まさに命がけの出産だ。玲丹の事情はわざわざ聞かずともゴシップニュースに書かれている。夕梨はこの女に何の感情も抱いていなかった。彼女は寒真の手を振りほどき、一言だけ残した。「昔のご縁、大事にしてらっしゃい」寒真は彼女を引き留め、車のキーを彼女の手に握らせた。「車で待っててくれ、すぐ
冷たい氷水が、頭から足先まで容赦なく浴びせられた。寒真は目を覚ました。目を開けると、そこには激怒した仁政と、情けないものを見るような両親の姿があった。ソファには弟の寒笙が座り、悠々とサプリメントを飲んでいる。その横では翠乃が静かに刺繍の本を読んでいた。寒真は頭を振った。氷の雫が祖父の顔に飛び散った。仁政はさらに激昂し、罵声を浴びせた。「家にまともな人間がもう少し多ければ、私は今頃H市の豪邸で安穏とした余生を送っておったわ!こんな辱めを受けることもなくな!見ろ、今の自分のザマを。バーで泥酔なんぞしおって、野垂れ死にしなかったのが不思議なくらいだ!」晴臣が思わず口を
夕梨は彼の黒髪をそっと撫でた。普段の寒真はとにかく甘えるのが好きだ。190センチの大男なのに、恥ずかしくないのかしら。けれど――夜になり、ベッドの上にいる彼は甘え方がまるで違う。その瞳に宿る熱は触れれば溶かされてしまいそうなほどで、夕梨は時折視線を逸らしてしまう。そんなことを考えただけで、頬が少し熱くなった。彼女は何でもないふりをして言った。「あとでお義母さんがひかりを連れてくるわ。ずっと会いたがってたでしょう?今夜はここに泊まるから、ベビー用品も一緒に持ってくるわよ」寒真は最初は喜んだが、後になって少し名残惜しそうにした。手が怪我をしていて子供の世話ができず、
憂いに沈む者がいれば、喜びに染まる者もいる。その夜、晩餐会を終えた寒真は、休む暇もなく深夜便でスイスへと飛ばなければならなかった。夕梨は、今回は同行することができない。宴が幕を閉じると、寒真は彼女を連れて車に乗り込んだ。夕梨はシートベルトを締め、隣の彼に視線を向けた。「フライトは何時?」寒真は彼女の頬に手を伸ばした。その声は、わずかに熱を帯びて掠れている。「午前一時だ」彼は手元の時計を確認した。現在は夜の十時。つまり、あと一時間半は猶予があるということだ。彼は少し考えた後、率直に願いを口にした。「……俺のマンションへ行かないか?数日会えなくなると思うと、どう







