LOGIN一階のエントランスには、黒く磨き上げられた二台の大型ワゴン車が静かに停まっていた。使用人が荷物を積み終え、澪安のもとへ歩み寄る。「周防様、出発できます」その瞬間、思慕がまた泣き出した。小さな身体をひねって振り返り、家の方を見つめながら、迷子の子猫みたいな声で絞り出す。「ママ……」澪安は息子の頭をそっと寄せ、言葉にしない慰めを与えた。思慕はぎゅっと澪安の首に腕を回す。澪安もまた、視線を上階へ向けた。――どうか、彼女が降りてくるように。――思慕を望んでくれるなら、どんなことだって許せるのに。――自分自身のことだって、やり直せるのに。しかし、夜は静まり返ったままだった。階段の方からは、彼女の足音は聞こえてこない。澪安の端正な横顔に、滅多に見せない迷いの影が過った。それでも彼は思慕を抱き上げ、低く声を落とす。「行くぞ」運転席の高原は、何か言いたげにミラー越しに振り返った。慕美のことをよく知る彼には、どうしても「彼女が冷たい母親」とは思えなかった。あれほど思慕を大切にしていた人が、理由もなく手放すはずがない――そう感じていた。スライドドアが閉まり、車内に闇が落ちる。思慕はまた泣きそうになったが、ママに言われた「男の子はそんなに泣かない」という言葉を思い出し、必死に堪えた。小さな拳はぎゅっと握られ、肩は震えている。澪安はその小さな頭を軽く抱き寄せる。「泣いていいんだ、思慕。お前はまだ小さいんだから、我慢しなくていい」彼の声は低く温かい。「ママは思慕を捨てたんじゃない。ただ暮らし方が少し変わるだけだ。時間ができたら、ちゃんと会いに来てくれる」しかし、「暮らし方が変わる」なんて抽象的な言葉を、思慕が理解できない。彼はただひたすらに、ママが恋しいだけだった。……三十分ほど走った頃、車は大きな邸宅へと滑り込んだ。澪安がここ二年のあいだに新しく購入したもので、思慕が暮らすには十分すぎるほどの場所だった。白い外壁に、赤い瓦屋根がよく映える広い庭付きの洋館。夜の闇の中、庭の噴水はライトアップされ、神様の像がまるで息づくように浮かび上がっていた。その優しい顔立ちが、思慕にはママと重なって見えた。わぁ……と声にならない息が漏れ、また涙が滲む。周防本邸より
夜の八時。慕美は思慕の荷物を、すべてリビングに並べていた。思慕がずっと欲しがっていたおもちゃ、好きな文具箱やペン、そして衣服まで。春から冬へ――一年を通して、思慕が十歳になるまでのものを、彼女は買いそろえていた。十歳を過ぎた頃、もし自分がもうこの世にいなければ、思慕はきっと自分のことを忘れてしまうのだろう。そんな思いが胸を刺す。荷物の小山の前で、思慕はぽつんと立ち、涙をぼろぼろ零していた。慕美は最後に服を整え、丁寧にファスナーを閉め、ランドセルを背負わせてから顔を上げる。「これからは、パパとおじいちゃん、おばあちゃんの言うことをちゃんと聞くのよ。学校で誰かにいじめられたら、すぐにパパに言うんだよ。いいね?」思慕は泣き続けていて、声も弱々しかった。「わかった……」慕美はその柔らかい頬にそっと口づけし、強く抱きしめた。――どれほどの時間、抱きしめていたのだろう。やがて、かすれた声で言う。「思慕……パパと行こうね」傍らで使用人が荷物を持ち、次々と階下へ運んでいく。すべてが運び終わる頃、慕美は思慕を澪安に渡そうと抱き上げた。だが、思慕は激しく抵抗し、張り裂けそうな声で泣き叫ぶ。「いやだ……いやだよ、ママ!ママがいい、思慕はママがいい!」慕美は心を鬼にして、彼を澪安に渡した。思慕は絶叫する。「行かない!ママと一緒がいい!思慕は行きたくない!」小さな顔は涙でぐしゃぐしゃだ。ただ抱いてほしいだけなのだ。生まれてからずっと慕美と暮らし、親子で寄り添い、支え合い、笑い合ってきた。なのに突然、「ママはいなくなる。これからはパパと暮らす」と言われても、受け入れられるはずがない。たとえパパがどんなに優しくても――ママにかなう人なんて、この世界にいるはずがない。思慕の泣き声は、胸をえぐるように激しかった。その一声一声が、慕美の心に鋭く突き刺さる。澪安は何度も宥めようとしたが、思慕は暴れ続けた。ついに慕美が、震える声でしかし強く言い放つ。「思慕、言うことを聞きなさい」その一言に、思慕はぴたりと動きを止めた。涙が頬に貼りついたまま、ゆっくりと滑り落ちる。そして、小さく、小さく呟いた。「ママ……」慕美はそっと近づき、頬に触れる。「パパの言うこと、ちゃん
その言葉のあと、澪安の目尻から涙が落ちた。彼はいつから泣くことを忘れたのか思い出せなかった。けれど、この年齢になって、慕美の言葉ひとつで涙がこぼれた。鼻先から耳の後ろまで赤く染まり、声はわずかに震えていた。「慕美、何を言ってる?自分が何を言ってるのか分かってる?俺をいらないならまだ理解できる。男を選ぶ権利はお前にある。でも、どうして思慕まで手放す?十ヶ月も身ごもって、命がけで産んだ子だろう。どうしていらないなんて言える?思慕を何だと思ってる?俺と同じ扱いか?都合のいいとき使って、都合が悪くなったら捨てる……擦り切れた雑巾か?」「違う……」慕美は小さく呟いた。次の瞬間、澪安の手が彼女の手首を掴んだ。車の鍵は奪われ、そのまま歩き出した澪安に引かれるように、慕美はよろめきながらついて行った。地下駐車場に着き、車に押し込まれると思っていた。だが背中が車体に叩きつけられ、次の瞬間、息が止まるほどのキス。怒りも、悔しさも、痛みも、全部その中にあった。慕美は最初こそ抵抗した。けれど、途中からもう抗わなかった。心が砕ける音の中で、静かに彼の肩を掴んだ。――これが最後の記憶でいい。そう思った。澪安は、きっとこれからの人生で幸せになる。そうでなくてはいけない。キスが途切れ、澪安は慕美の顔を両手で包み、荒い息のまま涙を拭った。「全部取り消せ。結婚しよう。今日午前、籍を入れる」彼は細かいことには触れなかった。裏切りも、嘘も、過去も――全て許すような声音だった。その優しさに触れた瞬間、慕美の涙は堰を切った。運命を恨んだことは一度もなかった。けれど今だけは――胸の底から恨んだ。こんなにも愛しているのに、手放さなければならないなんて。思慕のことは、何度考え直しても、澪安に託すしかない。それが、自分にできる最後で、いちばんの償いだった。震える身体で、慕美は笑った。笑いながら泣いて、泣きながら首を横に振った。澪安の瞳が深く沈む。彼は再び手首を掴み、強引に車へ連れていった。シートに押し込まれ、気づけばシートベルトが締められていた。「市役所へ行く」低くかすれた声。「澪安……」慕美は息を乱しながら呼んだ。しかし彼は答えず、アクセルを踏み込んだ。白い
全身が冷えていくような感覚だった。慕美がまだ何も言えずにいると、澪安は彼女を強く抱き締めたまま、まるで未来がすでに始まっているかのように語り始めた。「結婚したら、また別荘に戻ろう。お前のために庭を作る。バラでも、ユリでも、ヒヤシンスでも、お前が好きな花を全部植える。裏庭には大きな金木犀を一本植えて、秋になったらその下で一緒に座って……ブランコも作ろうか。慕美、俺はお前を大切にする。それから思慕が『アヒルを飼いたい』って言ってただろ?なら小さな池を作って、何羽か飼わせてやろう」言葉はどれも穏やかで、未来へ向かっていた。慕美は肩に頬を預けたまま黙っていた。瞳が滲み、涙が静かに落ちる。言ったはずなのに――ダウンを着ろと、彼は聞かずに黒いコートを着てきた。似合っている。悔しいほど。黒い生地が涙を吸ってくれた。澪安はまだ気づいていなかった。唇が震える。今すぐ「いい」と言ってしまえば、すべてが終わり、すべてが始まる。――でも、できない。彼に未来を賭けさせることはできない。彼女は知っている。もし病気のことを告げれば、澪安は迷わず籍を入れ、最後までそばにいる。けれどそれは愛ではなく、足枷になる。慕美は思った。自分はすでに多くを手に入れている――家族も、愛も、思慕も。思慕はきっと健やかに成長する。澪安なら、無理を強いたり、望まない未来へ追い立てたりしない。あの人は、自分の代わりに、思慕にすべての愛情と思いを注ぐだろう。澪安も、きっといつかいい人と出会い、別の幸せを築く。子どもに囲まれ、笑っていてほしい。慕美は澪安の指を握り、そしてそっと離した。一歩、後ろに下がる。澪安はまだ微笑んでいた。「どうした?嬉しくて言葉が出ないのか?」慕美は深く息を吸い、そして――最後の微笑みを浮かべた。その目には、ほんのわずかな名残が滲んでいた。「澪安、ごめん。私、允久に返事したの」庄司允久?澪安の視線が止まった。黒い瞳は深く沈み、何かが静かに崩れていく。慕美はもう彼の目を見られなかった。視線を落とし、力を振り絞るように、もう一度言った。「そう。私、允久を選んだ。立都市より、海外の生活のほうが私には合う。允久といるほうが…落ち着くの。それから、嘘をついてた。あの頃、海外
「まずは家族と相談してみてください」そう言われた言葉が頭の中で反芻され続けた。病院の長い廊下は冷え切っていた。慕美は手探りでベンチを見つけ、ゆっくり腰を下ろす。震える指先で診断書を何度も、何度も見返した。紙の上には、涙の跡が滲んでいる。遠く、若い恋人同士が寄り添って歩いていく。指を絡め、笑い合い、未来なんか何も疑っていない顔。慕美は静かに目を伏せた。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。――澪安に会いたい。もし、自分が死ぬのだとしたら、もう一度でいい。彼の手を握って、雪景色を見たい。もう一度だけでいい。思慕を迎えに行きながら、二人で並んで歩きたい。華やかなドレスで舞踏会に出たい。一度。たった一度でいい。でも、現実は残酷だった。病気は治らない。生きるための唯一の方法は、腎移植だ。だが腎臓は、望んで手に入るものではなかった。医師は知り合いの紹介で、すぐにドナーを探し始めてくれた。だが、結果は不適合。つまり、彼女はただ待つしかない。一ヶ月か。半年か。それとも、間に合わないまま終わるのか。けれど、慕美には待つ時間がなかった。もうすぐ澪安が戻ってくる。「迎えに来て。そこで答えを聞かせて」そう言った彼に――自分はまだ「未来」を渡せるのだろうか。澪安は初婚だ。思慕はいるが、籍が入っていない今なら、彼にはもっと相応しい女性が現れる。もし結婚して妻が死ねば、澪安の人生に影が残る。その選択を、彼に負わせたくなかった。――彼の人生を縛るくらいなら、嫌われる方がいい。そう思った。……数日が過ぎても、ドナーの連絡は来なかった。痛みは悪化し、頻度も強さも増していく。処方された痛み止めを飲み、誤魔化しながら日々をやり過ごす。ある朝、思慕がいない時間。鏡の前でそっと顔に触れた。頬がわずかにむくんでいる。いずれ、病状が進めば、もっと崩れてゆくだろう。慕美は、かすかに笑った。――神様は、最後まで意地悪だ。寝室から着信音が響く。表示された名前に胸が痛む。澪安。通話ボタンを押すと、弾む声が飛び込んできた。「今から搭乗だ!周防夫人、十時、空港で待ってて」慕美は返事ができず、ほんの数秒、息を止めた。喉が熱
クリスマスの夜。立都市中の女性たちが羨む存在――それが、今夜の慕美だ。だが当の本人は、今すぐでもH市へ飛んで行きたい気持ちを必死に抑えていた。――もし思慕の世話がなければ、とっくに飛行機に乗っていただろう。辛うじて残った理性が、彼女の足を止めた。マンションへ戻り、思慕を寝かしつけると、慕美は待ちきれないようにスマホを取り上げ、澪安に電話をかけた。通話が繋がった途端、声が自然と甘くなる。「いつ帰ってくるの?」受話器越しに、低く笑う声。「恋しくなった?」慕美は否定しなかった。子供じみた照れ隠しをする年齢でもない。大人の女性は、自分の感情も欲望も、正しく認められる。声は少し掠れていた。「あとどれくらい?」笑い声が止まり、澪安の声が落ち着いた。「H市でトラブルだ。前に会った副社長……覚えてるだろ?裏でかなり大きな問題を起こしててな。現地の社長じゃ収拾できない。だから処理が終わるまで、もう少し残る」昔なら、きっとここまで説明はしなかった。聞かれても仕事を理由に曖昧に笑い、濁していたはずだ。今の二人の関係には、もうそういった壁はない。慕美は口を挟まない。栄光グループのことに余計な意見を言うつもりもない。ただ、少し優しい声で告げる。「寒い場所なんだから……ちゃんとダウン着てね。コートだけで若い女に見られても知らないよ」彼が低く笑った。その笑いには余裕と幸福が混ざっていた。しばらくして、わざと意地悪く囁く。「慕美、まだ答えてないだろ。十分可愛がってやったんだ。そろそろ見返りが欲しい」「澪安、ほんと最低」――快楽を得ていたのは自分だけじゃない。むしろ、彼のほうが深く沈んでいたはずだ。数秒の沈黙。次に戻ってきた声は、驚くほど優しかった。「すぐ帰る。そのとき迎えに来て。そこで答えを聞かせて」答えなど、お互い分かりきっている。これは、恋人同士の甘い儀式。その夜、二人は眠れなかった。距離は離れていても、心はそばにいた。深夜。思慕の寝顔を確認した慕美は、リビングの大きな窓辺に立つ。外では雪が降り続いていた。初めて雪が甘く感じた。ガラスに落ち、溶けて消えるその儚さが、胸の奥まで染みた。……翌朝。慕美は思慕を連れてマンションを出た瞬