狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない

狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない

last updateDernière mise à jour : 2026-05-03
Par:  酔夫人Mis à jour à l'instant
Langue: Japanese
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元恋人・岡本蒼太の突然の訃報を朝のニュースで知った花邑美咲。 一年前、蒼太の浮気をきっかけに別れた彼とはそれきりで、憎んで終わったはずの関係を思い出すこともなかった。それなのに「もう二度と会えない」と突きつけられた瞬間、胸の奥に沈んでいた感情がざわめき出す。 動揺を振り払うように入ったバーで、美咲は一人の男と出会う。木崎司狼と名乗るその男は、小説家だという。 穏やかで優しく、どこか野性的な鋭さを秘めた男。美咲の心の揺れを見抜くような視線に、美咲は戸惑いながらも惹かれていく。

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Chapitre 1

1

『昨夜未明、都内のマンションで男性が死亡しているのが見つかりました。死亡したのは、会社員のオカモトソウタさん──』

それは、美咲の耳に、あまりにも唐突に飛び込んできた音だった。

何の前触れもなく、ただいつも通りの朝の延長として流れていたはずの情報が、不意に美咲の現実を引き裂いた。

「……え?」

時間を知るためだけに流していた朝のニュース。

その役割以上の意味を持つはずのない音の羅列が、ある一点で引っかかり、美咲の意識を強引に引き寄せる。

オカモトソウタ。

聞き覚えのある名前だった。いや、聞き覚えがあるどころではない。反射的に顔を上げた美咲の視線は、テレビ画面に釘付けになる。

【死亡した岡本蒼太さん】

そう表示されたテロップの上に映し出された顔写真を見た瞬間、美咲の中でかすかに残っていた「同姓同名かもしれない」という希望は、あっさりと砕け散った。それは紛れもなく、美咲の知っている岡本蒼太だった。

.

『死因は転落とみられ、警察は事故と自殺の両面で捜査を進めています』

アナウンサーは、いつもと変わらぬ抑揚で、淡々と事実を読み上げていく。朝のニュースで誰かの死が報じられることなど、珍しいことではない。これまでも何度となく耳にしてきた。

けれど今、この瞬間だけは違った。

同じ調子で流れる言葉の一つひとつが、まるで異物のように美咲の中に引っかかり、滑らかに流れていかない。違和感の原因はニュースではなく、それを受け取る自分の側にあるのだと、どこかで理解していながらも、どう処理していいのか分からなかった。

コーヒーメーカーの低く唸る音が、やけに大きく耳に響く。いつもなら気にも留めない機械音が、今日に限ってはやけに存在感を主張してくる。

テレビのアナウンサーの声と、ゴボゴボと不規則に鳴る抽出音が混ざり合い、頭の奥にじっとりと染み込んでくるようだった。

耐えきれず、美咲はリモコンを手に取り、テレビの電源を落とした。

画面が暗転した瞬間、今度は逆に、部屋の静寂が一気に押し寄せてくる。先ほどまで確かに存在していた音の層が消え去り、残されたのは、自分の呼吸音と、コーヒーメーカーの単調な振動だけだった。

.

「……別に、関係ないし」

静けさを振り払うように、美咲はあえて声に出す。だが、その声は思った以上に頼りなく、かすかに震えていた。

自分に言い聞かせるための言葉であるはずなのに、その言葉自体が、何かをごまかそうとしていることを暴いてしまう。

美咲はいつも通りの動作をなぞるように、コーヒーメーカーの前に立った。

マグカップを手に取り、サーバーへと視線を落とす。湯気を立てる黒い液体は、普段と何も変わらないはずなのに、どこか現実味が薄い。

「……あ」

次の瞬間、間の抜けた声が漏れた。

シュゴーッという音とともに、抽出途中のコーヒーがサーバーに落ちるはずの軌道を外れ、直接、熱された保温プレートの上へと滴り落ちる。まだ、コーヒーは落ち切っていなかったのだ。サーバーを外すのが早すぎた。

 ジュッ

焼ける音が小さく弾ける。黒く艶のあるプレートの上で、コーヒーは瞬時に沸騰し、じわじわと端から焦げていく。その匂いは、苦味と焦げ臭さが混じり合い、鼻腔を刺激した。

美咲はマグカップを両手で包み込んだまま、その光景をぼんやりと見つめていた。

何かを考えようとしているのに、何もまとまらない。思考が空転し、ただ時間だけが滑っていく感覚だった。

やがて、時計に急かされるようにして、美咲はいつも通りの時間に部屋を出た。鍵を閉める音がやけに大きく響く。

廊下を歩きながら、普段なら意識にも上らない景色が、妙に鮮明に目に入ってくる。

マンションの八階。

手すり越しに見える外の景色。

向かいのマンション。その五階付近の高さから地面までの距離を、美咲は無意識に目でなぞっていた。転落死、という言葉が、脳裏にくっきりと浮かび上がる。

事故か、自殺か。それとも、別の可能性か。ニュースの曖昧な表現が、かえって想像の余地を広げてしまう。

そして次に浮かんだのは、岡本蒼太の部屋だった。

最後に訪れたのは、一年ほど前。部屋の間取り、置かれていた家具、カーテンの色、曖昧になりかけていた記憶が、嫌に鮮明さを取り戻していく。

その三日後、美咲は彼が別の女性と腕を組み、ラブホテルへ入っていく姿を目撃した。

あのときの胸の奥を締めつける感覚が、時間を越えて蘇る。怒りでも悲しみでもなく、ただ自分の中の何かが静かに崩れていくような、あの感覚。

廊下の端に差し込む朝の光が、やけに白く感じられた。

現実は何も変わっていないはずなのに、自分の認識だけがずれていく。

美咲は足を止めることなく歩き続けながら、胸の奥に生まれた微かな違和感の正体を、まだ言葉にできずにいた。彼の死に対して、悲しむ資格が自分にあるのかどうかすら、分からなかった。だが同時に、何も感じていないふりをするには、その名前はあまりにも深く、自分の過去に刻まれていた。

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岡本蒼太の浮気相手の女性は、彼の会社の上司だった。役職も年齢も岡本蒼太より上で、仕事の延長線上にある関係だと説明されれば、表向きは納得できなくもない。実際、美咲も最初はそう思おうとした。岡本蒼太が「ただの業務連絡だよ」と軽く笑って言ったとき、その言葉を完全に信じたわけではないにせよ、否定する決定的な証拠もなかったからだ。(ただの業務連絡だと言っていたけれど、あれをただの業務連絡だと信じるほど私は馬鹿じゃないわ)胸の奥で燻る違和感は、時間が経つにつれて形を持ち始めていた。確かに業務連絡もあったのだろう。納期や会議、資料の確認。そういったやり取りは実在していた。だが、それだけでは説明のつかないやり取りが、確かに混じっていた。【いま何をしているの?】から始まるメッセージ。業務とは無関係な、相手の時間や私生活に踏み込むような言葉。その一文が画面に表示されるたびに、美咲の中で何かが静かに軋んだ。岡本蒼太は、そのやり取りを隠そうとはしなかった。隠す必要がないと、本気で思っているかのように。美咲と並んでソファに座っているときでも、スマートフォンが鳴れば、その場で画面を開き、ためらいもなく返信する。画面を伏せることも、席を外すこともない。むしろ、見せつけているのではないかと思えるほど自然な動作だった。(堂々と浮気してくれちゃって……思い出したらイライラしてきたわ)胸の奥に沈んでいた苛立ちが、時間差で浮かび上がる。美咲はそれを押し込めるように、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。冷静でいようとするほど、かえって感情の輪郭がはっきりする。岡本蒼太は、美咲を裏切った男だ。その事実だけは、どれだけ時間が経っても揺らがない。彼に彼女とホテルに入ったのかと問い詰めたときも、岡本蒼太は一切の躊躇なく「そうだ」と認めた。その潔さは誠実さとは程遠く、ただの無神経さだった。言い訳も取り繕いもなく、事実だけを差し出されることが、こんなにも人を傷つけるのかと、そのとき初めて知った。信じられない思いと、裏切られた怒りが一気に込み上げた。言葉では足りないと感じた感情は、衝動的に身体へと変換され、美咲は拳を握りしめ、岡本蒼太を殴った。乾いた音が、室内に響いた。定期的にトレーニングしていると言っていた彼の体は、予想通り、びくともしなかった。手応えは薄く、こちらの拳のほうが痛
last updateDernière mise à jour : 2026-04-23
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(……最悪)駅の改札口を、いつもと同じリズムで抜けようとした瞬間、美咲は足を止めた。バッグに手を入れたまま固まり、指先が空を切る。ない。定期券が、ない。数秒遅れて、その事実がじわじわと現実味を帯びる。頭の中で、玄関の光景が浮かんだ。トレーの上、鍵の隣に置いてある定期券と腕時計。(ああ……)思い出した瞬間、同時にため息が漏れそうになる。定期券を取った覚えがない。恐らく、忘れた。腕時計もないから、ほぼ確実。どちらも致命的ではない。切符を買えばいいし、時間だってスマートフォンで確認できる。ほんの少し手間が増えるだけ。それだけのことなのに、胸の奥に溜まっている何かが、じわりと重みを増した。(気が晴れない)理由は分かっているはずなのに、認めたくないから、別の小さな不具合に苛立ちを押し付けている。そんな自分に気づきながらも、どうにもならない。仕事に行く気力が、薄く削がれている。鏡の前で仕上げたはずのメイクも、今となってはどこか手を抜いたように思えてならない。胸の奥に、鈍い石が沈んでいるようだった。重くて、冷たくて、取り出せない。気づけば呼吸が浅くなっていて、美咲は慌てて大きく息を吸い込んだ。肺の奥まで空気を押し込み、ゆっくりと吐き出す。(今朝は、何もなかった)そう、何も起きていない。少なくとも、自分の身に直接降りかかった出来事は一つもない。ただ、ニュースを見ただけだ。ただ、名前を聞いただけだ。ただ、それだけなのに。もう会えない。もう話せない。その事実を頭の中で反芻しても、どこか実感が伴わない。最後に岡本蒼太に会ったのは一年前。それからの一年間、会いたいとも、話したいとも思わなかった。思い出すことすら、ほとんどなかった。(それがただ“絶対”になっただけ)偶然、どこかで再会する可能性も、街中で似た背中を見かけて振り返ることも、すべて消えた。ただ、それだけの変化。そう言い聞かせるしかない。「……バカみたい」小さく呟き、美咲は首を振る。意識的に思考を切り替え、足を切符売り場へと向けた。いつもと違う動線が、やけに遠く感じる。. * .「疲れた……」パソコンの電源を落とし、画面が暗転したのを確認してから、美咲はようやく大きく息を吐いた。肩の力が抜けると同時に、どっと疲労感が押し寄せてくる。今日は一日、どこか集中しきれなかった。ミス
last updateDernière mise à jour : 2026-03-04
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美咲は重い木の扉に手をかけ、わずかに躊躇してから押し開けた。軋むほどではないが、確かな重みを伴って開くその感触が、日常から一歩外に踏み出す合図のように思える。駅前の雑居ビルの地下一階、上から覗き込んだときに見えた柔らかな灯りと、どこか閉じた空気に惹かれて、ほとんど衝動的にここを選んだ。小さなバー。普段の自分なら、まず入らない場所だ。そもそも美咲は、外で一人で酒を飲むこと自体がほとんどない。飲めばすぐに眠くなるし、わざわざ外でそれをする理由もなかった。だが、今日だけは違った。眠りたかった。何も考えずに、ただ意識を手放したかった。その一心で階段を下り、扉を押したのが数分前のことだ。そして、いま。(……早まった、かな)心の中で呟いた言葉は、予想以上に重かった。店内は薄暗く、目が慣れるまでに数秒かかる。照明は間接的で、壁や棚に柔らかく反射し、空間全体を落ち着いた色に染めていた。カウンター席が数席と、奥に小さなテーブルが一つ。決して広くはないが、その分だけ空間に無駄がなく、整えられている印象を受けた。静かなジャズが流れ、音量は控えめなのに、不思議と耳に残る。客は数人。誰も大声を出すことなく、それぞれが自分の時間を過ごしていた。場違いな場所に来てしまった、という感覚がじわじわと広がった。「いらっしゃいませ。ご注文は?」穏やかな声が、美咲の意識を引き戻した。カウンターの向こうに立つバーテンダーは、柔らかい笑みを浮かべている。その落ち着いた佇まいに、ほんの少しだけ救われた気がして、美咲は言われるままにカウンター席の、脚の長い椅子に腰を下ろした。背筋が自然と伸びる高さで、居心地が悪いような、逆に気が引き締まるような、曖昧な感覚に包まれる。注文を待つバーテンダーの視線に気づき、美咲は一瞬言葉を失った。(……何を頼めば、いいのかしら)目の前に差し出されたメニューを開く。だが、そこに並ぶ文字の多くは、見慣れない単語ばかりだった。かろうじて分かるのはビールくらいで、あとはリキュールの名前と、それを割るための「炭酸」や「水」といった表記。(チューハイって、どれ?)思わず内心で首をかしげた。普段飲むのはコンビニで買う缶チューハイ程度。味とアルコール度数しか気にしたことがない。こんな場所で、どう振る舞えばいいのか、まるで分からなった。(確実だ
last updateDernière mise à jour : 2026-04-23
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その男の年齢は、美咲よりも少し上に見えた。黒いロングコートに、白いニットとジーンズというラフな装いは、会社帰りの自分とは明らかに違う温度をまとっている。きちんと整えられているのに、どこか肩の力が抜けているような雰囲気。落ち着いているのに、視線だけが鋭い。けれど、その鋭さは威圧ではなく、どこか観察するような、そして美咲に向けられるときには柔らかさを含んでいた。「え……」戸惑う美咲に、男は軽く笑う。その笑い方に、説明のつかない懐かしさが混じっていて、美咲の胸の奥をかすかに揺らした。誰に似ているのかは分からない。ただ、どこかで知っているような感覚だけが残った。「スプモーニ」男は迷いなくバーテンダーに告げた。その言葉が酒の名前だということくらいは分かるが、それがどんな味で、どれくらいの強さなのか、美咲には見当もつかない。自分がこの場に不慣れであることは、もう十分すぎるほど自覚している。そして同時に、女が一人でこういう場所にいることの、ぼんやりとした危うさも。「どう? 初心者でも飲みやすいよ。強くないし」誘うような、しかし押しつけがましくない声音。その距離感に、美咲の胸の奥がわずかに騒いだ。居心地の悪さを紛らわせるように、美咲は視線をバーテンダーへと向ける。この男の言葉を裏付ける何かを求めるように。「カンパリをグレープフルーツジュースとトニックウォーターで割ったものです。甘いものがお好みなら、カシスオレンジもおすすめですよ」丁寧な説明に、美咲は小さく頷く。(カシスオレンジは……アレか)以前、居酒屋で飲んだとき、思ったほど美味しく感じなかった記憶が蘇る。(カンパリが何かは分からないけれど)知らないものに手を伸ばすことへのためらいと、ここまで来て引き返せないという気持ちがせめぎ合う。「いいえ……同じので」結局、美咲は曖昧な逃げ方を選んだ。男が口にした名前を思い出せなかったから、「同じの」で済ませるしかなかった。バーテンダーは静かに頷き、タンブラーを二つ取り出す。氷がグラスに落ちると、カラン、と軽やかな音が響いた。琥珀色の照明が氷に反射して、グラスの中で細かく揺れる。その様子を見ているだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。(あれが、カンパリかな?)洒落た瓶から注がれた紅い液体が、二つのグラスに同じ分量で満たされる。対になるように並べられた
last updateDernière mise à jour : 2026-03-04
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グレープフルーツジュースが注がれ、グラスの中の色は淡いピンクへと変わる。(女の子受け、しそうだな)無意識にそう思いながら、隣の男をちらりと見た。整った顔立ち。シンプルな服装でも隠しきれない体の線。場慣れしている空気。こういう場所に違和感なく溶け込める人間。(慣れていそうな男)そう判断した瞬間、男の視線がこちらに向いた。見られていたことに気づいていたかのようなタイミングで、わずかに口元が緩む。「どうぞ」差し出されたグラスが、二人の前に並ぶ。男はすぐには手を伸ばさない。そのためらいが、先に飲んでもいいという合図のように思えて、美咲はおそるおそる手を伸ばした。薄いグラスの縁が、指先に繊細な緊張を与える。割ってしまわないかという不安を押し込みながら、何でもないふりをして口をつけた。こわごわしていると悟られないことを願いながら。「美味しい……」思わず言葉が漏れる。甘さが先に広がり、その後にわずかな苦味が追いかけてくる。飲みやすいのに、単調ではない。そのバランスが心地よかった。隣で男が微笑む。「よかった」その一言と笑顔に、美咲の胸がまたざわつく。(この感覚……久し振り、かも)忘れていたはずの何かが、ゆっくりと浮かび上がる。「俺は木崎司狼。あなたは?」「……花邑美咲です」「美咲さん、ね。いい名前だ」名前を呼ばれた瞬間、心臓が強く跳ねた。自分の名前が、こんなふうに響いたのはいつ以来だろう。一年前よりも、もっと前のような気がする。(蒼太が死んだと知った日なのに……)胸の中に、矛盾する感情が同時に生まれた。久しぶりのときめきに対する高揚と、それを感じてしまったことへの理由のない罪悪感。どちらも否定できず、ただ胸の奥でぶつかり合った。司狼は、美咲の表情の変化を見逃さなかったらしい。わずかに首を傾げ、不思議そうな顔をする。「何かあった?」「……別に、何も……」「嘘だね」責めるでもなく、決めつけるでもなく、ただ事実をなぞるような言い方だった。その声音は優しく、距離を詰めすぎない絶妙な位置にある。「美咲さんって、普通の会社員だろ?」(……普通)その言葉に引っかかりを覚えながらも、美咲は曖昧に頷く。普通ではない会社員、という言葉が頭に浮かび、一瞬だけ妙な連想をしてしまい、すぐに打ち消した。「今日は月曜日、週の始まり。それなのに
last updateDernière mise à jour : 2026-04-23
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バーのカウンターに座り、初対面の男性と向き合っている―――その状況は、美咲の日常からすればあまりにも異質だった。普段の彼女の生活には存在しないはずの空間と距離感。それなのに、手の中には司狼から渡された名刺があり、無意識のうちに自分の鞄を探って名刺入れを取り出そうとしていた。反射的な動作に、自分でもわずかな驚きを覚える。薄暗い照明も、丁寧に磨かれたカウンターも、今この瞬間には背景でしかない。氷が触れ合う乾いた音と、低く流れるジャズは確かにロマンチックな空気を作っているのに、それとは裏腹に、現実が妙に鮮明に美咲を捕まえて離さない感覚があった。「緊張が抜けた……」不意に、上から落ちてくるような司狼の呟きが耳に届く。「え?」反射的に顔を上げると、思っていたよりも近い位置に彼の顔があった。(近い……)一瞬の驚きと同時に、美咲は咄嗟に身体を引いた。椅子の脚がわずかに音を立てる。(しまった……あからさま、だったかな)距離を取る動作があまりに直接的だったことに気づき、内心で小さく舌打ちする。これでは、まるで自分が彼を意識していると宣言しているようなものだ。美咲は表情を整えながら、ゆっくりと顔を戻し、司狼の様子を窺う。そして、その表情に戸惑った。「どうした?」「……いえ、何でも」問いかけに対して、とっさにそう答えながらも、心の中では混乱が広がる。(なに、この表情……)司狼は不機嫌でもなければ、気まずそうでもない。むしろどこか満足げで、肯定的ですらある。まるで、美咲の取った行動が「正しい」とでも言いたげな顔だった。その意味が分からず、胸の奥がざわつく。視線を逸らすように、美咲はグラスへと目を落とした。淡い桃色の液体が、氷に揺られてゆっくりと波打っている。それを見つめるふりをしながら、内側の混乱を押し込める。美咲は、この状況をどこかで単純化して理解しようとしていた。司狼の目的はナンパ―――そう決めつけていた。(この見た目だし、自信はあったと思う)整った顔立ちと、余裕のある振る舞い。こういう男が、こういう場所で声をかけてくる理由としては、もっとも分かりやすかった。恋人同士でなくとも、偶然の流れで一夜を共にする男女の話は珍しくない。美咲自身にその経験はないが、想像できないわけでもなかった。そして、ほんの一瞬だけ、思ってしまったのだ。蒼太の死に
last updateDernière mise à jour : 2026-03-05
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死んだ男の影にまで揶揄われているような感覚が、美咲の胸の奥でじわりと広がった。自分の内側にあるはずの記憶が、いま目の前にいる男と勝手に重なり、勝手に意味を持とうとする。その不快さは、外から与えられたものではなく、自分の中から湧き上がっていると分かっているからこそ、余計に逃げ場がなかった。 カランッ 美咲は逃げるようにグラスへ手を伸ばし、そのまま一気に中身を煽った。氷がぶつかる音が鋭く響き、淡いピンクの液体が喉を滑り落ちていく。グレープフルーツの苦味が舌に広がる。その奥に、さっきまでは感じなかった別の苦味が混じる。アルコールのものなのか、それとも自分の感情なのか、判別がつかなかった。「ちょっと……」隣から制止するような声がかかるが、それよりも先に、美咲の中で結論は出ていた。「不愉快なので、帰ります」言葉にしてしまえば、あとは早かった。これ以上ここにいても、自分の中のざわつきは収まらない。それどころか、余計に輪郭を持ってしまいそうで怖かった。(グラスで千円をこえた飲み物は、カクテルにはなかった)冷静さを装うように、現実的な計算が頭をよぎる。チャージを含めても、二千円もあれば足りるはずだ。美咲は鞄に手を伸ばし、財布を取り出そうとした。そのときだった。「待って……」司狼の声が、わずかに引っかかるように耳に届いた。その後に続くはずだった音が、途中で切り落とされたような、不自然な間がある。(今……)一瞬、思考が止まる。気のせいかもしれない。だが、確かに何かがあった。まるで―――名前を呼びかけて、飲み込んだような、そんな違和感。(あっ!)気づいた瞬間には遅かった。司狼の腕が伸び、美咲の鞄をすっとさらっていく。視線で追うよりも早い動きだった。気づいたときには、もう彼の手の中にある。あまりにも自然で、無駄のない動作。その速さに、美咲は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。鞄を奪われたという事実よりも、その反射的な動きの鋭さに、先に驚きが立つ。「悪かった!」次の瞬間、司狼が勢いよく頭を下げた。ためらいのない、見事なまでの動きで、深く、深く頭を垂れる。つむじがはっきり見えるほどの角度に、店内の空気がわずかに揺れた。近くにいた客の視線が一斉に集まり、美咲のほうが慌ててしまう。「あの、頭をあげて……」周囲の目を気にしながら小声で言う
last updateDernière mise à jour : 2026-04-23
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「美咲さん」話している途中で、不意に司狼が名を呼んだ。その声音は先ほどまでと変わらず穏やかだったが、視線は美咲ではなく、その向こうの空席に向けられている。「悪いけど、席を変わってくれないか?」「別にいいですけれど……」理由を聞く間もなく、美咲は頷いて立ち上がった。視線を向けた先の空席に首を傾げるが、ちょうどエアコンの風が気になっていたこともあり、その申し出は都合がよかった。(お店に入ったときは気にならなかったけれど、思ったよりも長居しちゃっている)そんなことを考えながら席を移動したタイミングで、扉のベルが鳴るよりも少し早く、階段の方から人の気配が流れ込んできた。次の瞬間、男性の二人組が店に入ってくる。声はやや大きく、笑い方にも遠慮がない。整えられた空間の中では、ほんの少しだけ粗野に見える空気だった。そのうちの一人の視線がこちらをかすめ、美咲は無意識に背筋を固くする。しかし、「お二人様ですね」とバーテンダーが自然に声をかけ、司狼の向こう側にある空席を示したことで、その視線も流れていった。「タイミングが良かったですね」バーテンダーの言葉に、美咲は小さく頷く。席を変わったことで、先ほど感じた居心地の悪さが嘘のように薄れていた。安堵した途端、喉の渇きを自覚する。美咲はグラスを持ち上げ、ジンウーロンを一口飲んだ。さっぱりとした苦味が、さきほどのざわつきを少しだけ洗い流す。「それにしてもお客さん、耳がいいですね」バーテンダーの何気ない言葉に、司狼が肩をすくめる。「そうですか?」「先ほどから、扉が開く前に扉を見ているでしょう?」その指摘に、美咲は思わず司狼を見る。確かに、彼は何度か無意識のように扉へ視線を向けていた。「階段を下りる足音が聞こえただけですよ」あっさりと答える司狼に、美咲はわずかに目を見開く。(そう、なの?)「ここの階段はタイル張りで、革靴やヒールの人は慎重に降りるから、一歩一歩の音がはっきりするんです」そう説明されて、美咲は自分が階段を降りたときのことを思い出した。確かに滑らないように、少し気をつけていた気がする。「さすが、小説家さんですね」「ありがとうございます。ああ、ほら、また」司狼が視線を扉へ向ける。まだ閉じられたままの扉を、まるでその先にある気配を見透かすように。次の瞬間、カラン、とベルが鳴った。扉が
last updateDernière mise à jour : 2026-03-06
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司狼の声は変わらず落ち着いていた。それなのに、その奥に含まれている“何か”が、美咲の意識の表面をかすめていく。ただ言葉を交わしているだけなのに、まるで気づいていなかった感覚を指先でなぞられるような、そんな居心地の悪さと奇妙な引力が同時にあった。何かを示唆しているようで、しかし明確には何も言っていない。その曖昧さが逆に、美咲の中にあるものを浮かび上がらせようとしている気がして―――思わず、グラスを持つ手が止まった。「……匂いで、覚えてるって?」「あるだろ、そういうこと」あまりにもあっさりとした返答だった。肩の力が抜けたような、何の含みもない声音。その拍子抜けするほどの軽さに、美咲の方が戸惑う。さっき感じた“何か”は、自分の思い過ごしだったのではないか。そう思わせるような態度だった。「家の匂いで、懐かしさを感じたり……しないか?」問いかけられて、美咲は一瞬だけ考える。「それは……まあ、ありますね」自然と浮かんだのは、祖母の家だった。少し湿気を含んだ畳の匂い。古びた木材の、乾ききらない香り。夏になると開け放たれた窓から入り込んでくる、雨の気配を含んだ風。その空気を吸い込んだ瞬間、時間が巻き戻るような感覚。遊び疲れて昼寝をした畳の感触や、遠くで鳴く蝉の声まで、連鎖するように蘇る。匂いは、ただの刺激ではなく、記憶の入口なのだと、改めて実感する瞬間だった。沈黙が一拍落ちる。その余韻を壊さないように、司狼がゆっくりと口を開く。「恋人のことだって、同じじゃないか?」グラスの中で氷が静かに触れ合い、小さな音を立てる。「香水とか、煙草とか、シャンプーとか……匂いは、記憶に残りやすいから」淡々とした説明のようでいて、その言葉は美咲の胸に引っかかった。引っかかる、というより、無理やり引きずり出されるような感覚だった。(なんで……)喉の奥が、わずかに詰まる。思い出したくなかったわけではない。けれど、自分から思い出そうともしなかった記憶が、勝手に形を持ち始めた。岡本蒼太は煙草を吸っていた。コーヒーもよく飲んでいた。近づくと、いつもほんの少しだけ苦い匂いがした。煙草の焦げた香りと、コーヒーの深い苦味が混ざったような、独特の匂い。それは嫌いではなかった。むしろ、どこか安心する匂いだったことを、美咲は思い出してしまう。「……思い出したのか?」その声
last updateDernière mise à jour : 2026-03-07
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