FAZER LOGIN合同で開いた婚約パーティーの帰り際、私と親友の、それぞれの薬指には真新しい指輪がはまっていた。 宮本綾乃(みやもと あやの)の相手は中西拓海(なかにし たくみ)。私が10年ものあいだ、胸の奥で想い続けてきた人だ。 そして私、相原結衣(あいはら ゆい)の相手は瀬戸圭吾(せと けいご)。社交界の噂好きたちが「あの人は婚約者に首ったけだ」と口をそろえる男だった。 私が乾杯の挨拶に立つと、綾乃は昔の賭けを蒸し返し、招待客に向かって得意げに笑ってみせた。 「さて、うちのお姫様は、もう婚約者をちゃんと飼い慣らせてるのかしら?」 会場のあちこちから、ケーキを私の顔に押しつけろと圭吾をはやし立てる声が上がる。 彼の手が、ふと止まった。 ほんの一瞬、私は馬鹿みたいに信じてしまった。彼が皿を置き、いつも約束してくれたように、私の隣に立ってくれるのだと。 なのに拓海が「なんだよ、結婚前からもう尻に敷かれてんのか」と茶化した。 圭吾が奥歯をぎりりと噛みしめる。 次の瞬間、彼はその手で、ケーキを私の顔に押しつけていた。 どっと湧き返る笑い声のなか、拓海が私にだけ聞こえる声で告げた。圭吾が私に近づいたのは、最初から3人で仕組んだ賭けがきっかけだったからだ、と。 綾乃が、まるで今も親友であるかのように、するりと私の腕に腕を絡めてくる。 「誰も結衣を裏切ってなんかないってば。ただの冗談なのに、またそうやって大げさにするんだから」 圭吾は私の前に立ち塞がった。私が彼のしたことを許すのを、微塵も疑っていない顔で。 「結婚はやめないって言ってるだろ。これ以上、何を証明しろっていうんだよ」 3人とも待っていたのだ。私が泣きわめき、問いただし、そしてまた、彼らが私の気持ちを都合よく解釈する機会を与えるのを。 けれど私は、目元にこびりついたクリームを指でぬぐうと、遠く離れた実家の母に、たった1通のメッセージを送った。 【お母さん、みんなに伝えて。私、実家に帰る決心がついたって】
Ver mais1年後、湾岸エリアの再開発プロジェクトが完成のお披露目を迎えた。築百年を超える赤レンガの倉庫は外壁をそのまま残し、海に面した側だけを一面のガラス張りに変えた。海岸線に沿って港の明かりが灯りはじめるなか、報道陣のカメラが、テープカットに臨む私の姿を捉えていた。母は人垣の後ろに立ち、遠くからグラスを掲げていた。自分が主導権を握っていることを誇示するために、わざわざ表舞台に立つ必要などない人だった。プロジェクトは初年度の見込みを上回る成果を上げ、取締役会は、相原ホールディングスの次の海外投資案件の責任者に私を据えることを決めた。私がかつて暮らしたあの街に戻ったのは、特定の誰かのためではない。開業記者会見で、ある記者が質問した。誰にでも開かれた公共空間を重視したこの計画は、あの婚約破棄のスキャンダルがきっかけなのか、と。1年前の私なら、ほかの誰かを守るために微笑んで、話題を変えていただろう。「いいえ」私は答えた。「このプロジェクトは、婚約が終わる前からありました。私はただ、私の献身を『あって当然のもの』として搾取する人たちのために、自分の人生を後回しにするのをやめただけです」その言葉は翌朝、経済紙の紙面を飾った。今度ばかりは、誰にも書き換えさせなかった。財界のレセプションのあと、涼子が、圭吾と拓海がホテルのロビーで待っていると伝えてきた。株式の不正譲渡をめぐる民事訴訟はすでに和解していたが、刑事事件としての捜査はまだ続いていた。ふたりとも、不正に得た権益をすべて手放し、資産回収命令と一定期間の役員就任禁止を受け入れていた。VIP専用の裏口から帰ることもできた。1年前の私なら、きっとそうしていた。けれど今の私は、ふたりの顔を見ることが怖くなかった。圭吾は、記憶にあるよりも痩せていた。花も指輪も持っていない。ただ数歩離れたところに立ち、両手を脇に下ろしたままでいた。「戻ってきてくれと頼みに来たんじゃない」彼は言った。「どうしても、言い訳なしで直接謝りたかった」その隣で拓海は床に目を落としたまま、いつものようにみんなを代弁して割り込んでくることはなかった。圭吾の声がかすれた。「お前を愛してた。ああいう冗談がお前を傷つけることもわかってた。なのに、周りがお前を笑いものにするたびに、俺はあいつらの
取締役会から職務停止処分を受けたあと、圭吾は高級住宅街にあった一軒家を引き払った。会社名義の不動産も車も、会員制クラブの会員権も、すべて処分の手続きに回された。家を出るころには、彼に残されたものは、段ボール箱いくつかに収まってしまった。荷造りの途中、彼は紺色の革製ファイルを見つけた。中には、私が彼のために初めて作った海外航路の計画書と、結婚式の日取りを刻んだ銀のカフスボタンが入っていた。カフスの裏には、こう彫られていた。【生涯を共に】圭吾は長いあいだ、床に座り込んでいた。かつて私から彼へのメッセージは、いつも長文だった。台風の予報、取引先の好み、取締役会の日程、彼の母親の通院予定。年を追うごとに、それはだんだん短くなっていった。最後の1通は、婚約パーティーの前に届いていた。【今夜また私が笑いものにされたら、そばにいてくれる?】そのとき拓海と飲んでいた彼は、1行だけ返した。【起きてもいないことで騒ぐなよ】圭吾は目を閉じた。私は何も言わずに彼を見捨てたわけではなかった。自分の気持ちははっきりと伝えていた。それを彼は、ただの束縛だと決めつけていたのだ。次に彼は、共通の知人に泣きつこうとした。けれど復元されたチャットのログが出回ってからは、ほとんどの人が関わるのを拒んだ。ケーキの動画を見て笑っていた女性のひとりは、彼にこう言った。「結衣さんは、あなたに助けてってはっきり言ってたじゃない。私を使って、彼女にもう一度同じことを言わせようとしないで」それでも彼は、実家の会社宛てに花を送った。花束は受付に届く前に、警備員の手で送り返された。祖母が彼に渡したあのお守りまで送ってきた。大切なものを返せば、私が応えるかもしれないと思ったのだろう。涼子は、ひと言の添え書きもなくそれを送り返した。拓海も、私に連絡を取ろうとした。10通以上のメールで、俺たちは一緒に育ったんだから、何をしてもお前ならわかってくれると思っていた、と言い訳を連ねてきた。涼子が1通だけ転送してきたところで、私は彼女に言った。「もう送ってこないで」綾乃は、業務記録の改ざんと株式の不正譲渡に関わったとして、正式に起訴された。男ふたりの関与を示す証拠と引き換えに、自分の罪を軽くしようとした。けれど検察は、彼女が思っていたよりもずっと鮮明に、金や証拠
民事訴訟が本格的な証拠調べの段階に入ると、調査チームは例のグループチャットの履歴を丸ごと復元した。慈善パーティーの動画から、寝室での偽プロポーズ、そして婚約パーティーのケーキまで。どの冗談にも、はっきりとした痕跡が残っていた。言い出すのはいつも綾乃だった。拓海はそれを、グループ全員で楽しめるゲームに仕立て上げた。そして圭吾は、止めるべき立場にありながら、黙認するか、一緒になって悪乗りしていた。婚約パーティーの夜のやりとりは、とりわけ決定的だった。【綾乃:みんなの前で怒り出したらどうする?】【拓海:式を台無しにするようなことはしないって】【圭吾:あんまりやりすぎるなよ。あいつ、最近いろいろ抱えてるから】その5分後、拓海が圭吾を煽っていた。【拓海:まさか、もう完全に尻に敷かれてるとか言わないよな?】圭吾は、ブーイングのスタンプを返していた。似たようなやりとりは、ほかにも何百と残されていた。圭吾が記念日のディナーをすっぽかした夜、レストランでぽつんと取り残された私の写真を、綾乃が投稿したこともあった。【綾乃:泣き出すまであと5分。賭ける人?】【拓海:3分】【圭吾:やめとけって】ところがその2分後、拓海が泣き顔のスタンプを送ると、圭吾はそこに笑い顔のリアクションをつけていた。彼の「やめとけ」は、いつだって、誰かに「お前、彼女をコントロールできてないんじゃないか」とからかわれるまでだった。私が傷つくことを、彼はわかっていた。ただそれ以上に、仲間から弱い男だと思われるのが怖かったのだ。報告書を読み終えた圭吾は、スマホをテーブルに叩きつけ、綾乃に詰め寄った。「なんでお前は、あそこまで結衣をコケにし続けたんだ」綾乃は彼を見つめ、それから笑った。「今になって、全部私のせいにするわけ?」「動画を保存してたのはお前だ。株をほしがったのもお前だろ」「結衣を撮ってたのはあなたでしょ。譲渡を承認したのもあなた!」綾乃の声が尖る。「結衣が泣いて出ていくたびに、あなたたちふたりとも笑ってた。私が結衣のことを繊細すぎるって言うたびに、あなたたちは私の味方をした。私ひとりの力で、結衣をこのグループに縛りつけておけたとでも本気で思ってるの?」部屋が静まり返った。拓海は目をそらした。この数週間、自分
1週間後、瀬戸ハーバーグループは緊急取締役会を開いた。長いテーブルの両側には、銀行の融資担当者、大口投資家、社外取締役たちがずらりと並んでいる。雑談を交わす者は誰一人おらず、社長である圭吾のために上座が空けられていることもなかった。取締役会でもっとも古株の大月歳三(おおつき としぞう)が、圭吾の前にファイルを滑らせた。「6年前、この会社は倒産まであと数週間というところまで追い詰められていた。最初のつなぎ融資の保証人になったのは、相原ホールディングスだ」圭吾がはっと顔を上げた。「相原ホールディングス……?」歳三は彼をじっと見据えた。「本当に知らなかったのか」圭吾は何も言えなかった。歳三はふたつ目のファイルを差し出した。「4年前、海外航路の事業が赤字を垂れ流していたとき、結衣さんは相原家が押さえていた港の優先停泊区画を君に譲った」3つ目の書類は顧客リストだった。歳三が指先でそれを叩く。「上位20社のうち17社は、彼女の紹介によるものだ。彼女なしでもこの会社が回っていくと、いったい何を根拠に思い込んでいたんだ?」圭吾は椅子の肘掛けを握りしめた。「全部引き揚げろなんて、頼んだ覚えはない」「そもそも、彼女には支援を続ける義務などなかった」拓海が身を乗り出した。「ひとりの力でこの会社が築けたわけじゃない」「もちろんだ」歳三は言った。「だが君たちは、他人の後ろ盾を、自分たちの実力だと勘違いした。そのうえ、彼女の議決権を、貸借対照表のひとつも読めない素人に渡したんだ」会議室中の冷ややかな視線が、いっせいに綾乃へと集まった。彼女は背筋を伸ばした。「勉強すればできます。結衣にできることなら、私にだってできます」歳三は眉ひとつ動かさなかった。「では、来月返済期日を迎える負債がいくらあるか、この場で答えてもらおうか」綾乃は黙り込んだ。「燃料価格の変動リスクに対し、何パーセントまでヘッジをかけている?」部屋は静まり返ったままだった。歳三はファイルを閉じた。「君たちは結衣さんの地位が欲しかった。だが、彼女がその立場でどれほどの重圧を背負っていたか、誰一人知ろうともしなかったわけだ」銀行の担当者のひとりが、通知書をテーブルに滑らせた。「相原家の保証がなくなった今、御社のレバレッ