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私の恋を賭けた彼は、すべてを失った

私の恋を賭けた彼は、すべてを失った

Por:  ウィンターCompleto
Idioma: Japanese
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合同で開いた婚約パーティーの帰り際、私と親友の、それぞれの薬指には真新しい指輪がはまっていた。 宮本綾乃(みやもと あやの)の相手は中西拓海(なかにし たくみ)。私が10年ものあいだ、胸の奥で想い続けてきた人だ。 そして私、相原結衣(あいはら ゆい)の相手は瀬戸圭吾(せと けいご)。社交界の噂好きたちが「あの人は婚約者に首ったけだ」と口をそろえる男だった。 私が乾杯の挨拶に立つと、綾乃は昔の賭けを蒸し返し、招待客に向かって得意げに笑ってみせた。 「さて、うちのお姫様は、もう婚約者をちゃんと飼い慣らせてるのかしら?」 会場のあちこちから、ケーキを私の顔に押しつけろと圭吾をはやし立てる声が上がる。 彼の手が、ふと止まった。 ほんの一瞬、私は馬鹿みたいに信じてしまった。彼が皿を置き、いつも約束してくれたように、私の隣に立ってくれるのだと。 なのに拓海が「なんだよ、結婚前からもう尻に敷かれてんのか」と茶化した。 圭吾が奥歯をぎりりと噛みしめる。 次の瞬間、彼はその手で、ケーキを私の顔に押しつけていた。 どっと湧き返る笑い声のなか、拓海が私にだけ聞こえる声で告げた。圭吾が私に近づいたのは、最初から3人で仕組んだ賭けがきっかけだったからだ、と。 綾乃が、まるで今も親友であるかのように、するりと私の腕に腕を絡めてくる。 「誰も結衣を裏切ってなんかないってば。ただの冗談なのに、またそうやって大げさにするんだから」 圭吾は私の前に立ち塞がった。私が彼のしたことを許すのを、微塵も疑っていない顔で。 「結婚はやめないって言ってるだろ。これ以上、何を証明しろっていうんだよ」 3人とも待っていたのだ。私が泣きわめき、問いただし、そしてまた、彼らが私の気持ちを都合よく解釈する機会を与えるのを。 けれど私は、目元にこびりついたクリームを指でぬぐうと、遠く離れた実家の母に、たった1通のメッセージを送った。 【お母さん、みんなに伝えて。私、実家に帰る決心がついたって】

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Capítulo 1

第1話

クリームで汚れたナプキンを銀のトレーに置き、ドレスの胸元に留めていたブローチを外した。

綾乃はまだ笑っていた。拓海にしなだれかかりながら言う。

「結衣って、今回は本気で怒っちゃったみたい。誰がなだめに行く?」

拓海はグラスを圭吾のほうへ掲げた。

「そりゃ婚約者の役目だろ。来週の土曜には式を挙げるんだし、今のうちに慣れとけよ」

圭吾は、すぐには私のそばへ来なかった。指についたバタークリームを、ようやく事態を呑み込んだような顔で見つめている。

けれど周りにはまだこちらへ向けられたスマホがいくつもあって、彼は人前で頭を下げるような人ではない。彼はイニシャルの刺繍入りのハンカチで手を拭ってから、私の前に立った。

「なあ、もういいだろ」

まるで、騒ぎを起こしたのは私だとでも言うように。

「何が『もういい』の?」

私は訊いた。

「あなたたちの遊びのこと?それとも、それに怒ってる私のこと?」

圭吾の表情がわずかに揺れた。けれど彼が口を開くより先に、拓海が割って入る。

「大げさにするなよ。好きでもない相手のために、圭吾が半年もかけて結婚式の準備なんてするわけないだろ」

「そうそう」

綾乃が拓海の肩に頬を寄せる。完璧に作り込まれた、甘ったるい笑顔で言った。

「たしかに最初は賭けがきっかけだったけど、そのあと圭吾はちゃんと結衣を好きになったんだよ。結衣はハッピーエンドを手に入れたの。始まりなんかにこだわってどうするの?」

シャンデリアの光を受けて、彼女の左手にはめられたダイヤモンドがきらめいた。

4年前、拓海は私へのプロポーズの準備を綾乃に手伝ってもらっていた。そして私が彼の寝室のドアを開けたとき、ふたりは同じ毛布にくるまっていた。

綾乃はカメラを構えていて、拓海は枕の下から指輪のケースを取り出しながらこう言った。お前がヤキモチを焼くところが可愛いから、撮っておきたかったんだ、と。

10年間の想いに、私はその夜、終止符を打った。

その後、綾乃は周りに言いふらした。結衣はいつまでたっても冗談が通じない。拓海が綾乃を好きになったのは、結衣が彼を突き放したあとだ、と。

彼女に笑い者にされたのは、それが初めてではなかった。学生時代、綾乃は私に、ある慈善パーティーのテーマは「大正ロマン」だと教えた。

私は矢絣の着物に袴という姿で会場に向かった。ところがそこは正装必須の格式ばった資金集めの場で、ほかの女性は全員ドレスだった。入口で凍りつく私を綾乃は動画に撮り、同期のグループチャットに流した。

消してと頼むと、彼女は目を潤ませて、ドレスコードを勘違いしていたのだと言った。

パーティーがお開きになるころには、なぜかみんなが私に、綾乃に恥をかかせないであげてと言っていた。

彼女の冗談は、いつも同じ結末を迎える。

綾乃が見世物を仕立てる。私が傷つく。そして拓海と圭吾が、場の空気を壊しているのはお前のほうだと諭すのだ。

「わざとじゃなかったって言えば、やったことが全部なかったことになると本気で思ってるの?」

私は綾乃に問いかけた。

綾乃の笑みが陰る。

「私、ずっと結衣のことを家族みたいに思ってきたのに。どうしてそんなひどい人間だと思えるの?」

拓海の顔がたちまちこわばった。

「綾乃はちゃんと説明しようとしてるだろ。なのにお前は、みんなの前で吊るし上げかよ」

圭吾が眉をひそめる。

「結衣、俺たちの婚約パーティーを見世物にするのはやめてくれ」

思わず笑いそうになった。ほんの10分前、私をこの夜の余興に仕立て上げたのは彼自身なのに。今になって、場を見世物にしているのは私のほうだという。

さっきまで私たちの未来に乾杯していた人たちは、急にうつむくか、私と目を合わせるのを避けていた。銀行家、名家の御曹司、政界の後援者、古くからの家族ぐるみの知人。何人かは居心地が悪そうにしていた。けれど、スマホを下ろした人はひとりもいなかった。

何よりやりきれなかったのは、圭吾の愛が、まったくの嘘ではなかったことだ。

私がクローゼットの扉を開けたままでは眠れないことを、彼は知っていた。父が亡くなったときには、知らせを受けてわずか6時間で実家まで駆けつけてくれた。祖母が彼の手のひらに押しつけた古いお守りを、今でもすり切れるほど持ち歩いている。

それなのに、拓海にプライドをつつかれた瞬間、彼は愛していると言った女よりも、その場にいる人々からの承認を選んだのだ。

耳元の、クリームにまみれたダイヤの髪飾りを外し、パーティーバッグにしまう。出口へ向かうと、圭吾が私の肘をつかんだ。けれど私がその手に視線を落とした途端、彼はぱっと手を離した。

「……どこへ行くんだ」

「家に帰るの」

圭吾は声を落とした。

「わかった。頭を冷やしてこい。でも結婚式はやめないからな。土曜の朝、迎えの車を行かせる」

少し間を置いて、彼は付け加えた。

「俺はそれでもお前と結婚するんだ。これ以上、何を望むっていうんだよ」

彼にとって、結婚とはすべての過ちを帳消しにする免罪符なのだ。「妻の座を与えてやるのだから、ありがたく思え」と本気で信じている。

私は、結婚とは男が女に与えるご褒美ではないと教えられて育った。互いへの信頼の上に築かれるパートナーシップなのだと。敬意のない関係など、破られるのを待つだけの契約書にすぎない。

圭吾は、私が遠く離れた実家に残してきた家族のことを、ほとんど何も知らない。ましてや、彼の会社を成長させた資金や人脈の一部が、私を通してひそかに流れ込んでいたことなど、知るはずもなかった。

ホテルを出ると、都会の夜道が雨に濡れて光っていた。案内係に黒塗りのハイヤーへ乗せてもらい、そこでようやく母からの返信を開く。

【彼と別れるなら、うちが瀬戸ハーバーに注いできたものは、全部引き上げるわよ。本当にそれでいいのね?】

私は迷わず打ち返した。

【ええ。もう彼とは別れる】

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第1話
クリームで汚れたナプキンを銀のトレーに置き、ドレスの胸元に留めていたブローチを外した。綾乃はまだ笑っていた。拓海にしなだれかかりながら言う。「結衣って、今回は本気で怒っちゃったみたい。誰がなだめに行く?」拓海はグラスを圭吾のほうへ掲げた。「そりゃ婚約者の役目だろ。来週の土曜には式を挙げるんだし、今のうちに慣れとけよ」圭吾は、すぐには私のそばへ来なかった。指についたバタークリームを、ようやく事態を呑み込んだような顔で見つめている。けれど周りにはまだこちらへ向けられたスマホがいくつもあって、彼は人前で頭を下げるような人ではない。彼はイニシャルの刺繍入りのハンカチで手を拭ってから、私の前に立った。「なあ、もういいだろ」まるで、騒ぎを起こしたのは私だとでも言うように。「何が『もういい』の?」私は訊いた。「あなたたちの遊びのこと?それとも、それに怒ってる私のこと?」圭吾の表情がわずかに揺れた。けれど彼が口を開くより先に、拓海が割って入る。「大げさにするなよ。好きでもない相手のために、圭吾が半年もかけて結婚式の準備なんてするわけないだろ」「そうそう」綾乃が拓海の肩に頬を寄せる。完璧に作り込まれた、甘ったるい笑顔で言った。「たしかに最初は賭けがきっかけだったけど、そのあと圭吾はちゃんと結衣を好きになったんだよ。結衣はハッピーエンドを手に入れたの。始まりなんかにこだわってどうするの?」シャンデリアの光を受けて、彼女の左手にはめられたダイヤモンドがきらめいた。4年前、拓海は私へのプロポーズの準備を綾乃に手伝ってもらっていた。そして私が彼の寝室のドアを開けたとき、ふたりは同じ毛布にくるまっていた。綾乃はカメラを構えていて、拓海は枕の下から指輪のケースを取り出しながらこう言った。お前がヤキモチを焼くところが可愛いから、撮っておきたかったんだ、と。10年間の想いに、私はその夜、終止符を打った。その後、綾乃は周りに言いふらした。結衣はいつまでたっても冗談が通じない。拓海が綾乃を好きになったのは、結衣が彼を突き放したあとだ、と。彼女に笑い者にされたのは、それが初めてではなかった。学生時代、綾乃は私に、ある慈善パーティーのテーマは「大正ロマン」だと教えた。私は矢絣の着物に袴という姿で会場に向かった。ところ
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第2話
タワーマンションの最上階にある自宅に戻ると、私は納戸から茶色い革のスーツケースをふたつ引っ張り出した。持っていくものは多くない。身分証明書と数日分の着替え、祖母から譲り受けた腕時計、それから父が亡くなる前に私の手に握らせた、家紋入りの銀製の根付。招待客のリストも、テーブルセッティングの見本も、革装丁の誓いの言葉の冊子も、置いたままにしておいた。鍵の回る音がしたのは、午前1時を過ぎてからだった。入ってきたのは圭吾ひとりだった。スーツケースが目に入った瞬間、彼は足を止めた。その夜初めて、彼の顔から余裕が消えた。「どこへ行く気だ?」ふたつ目のスーツケースのファスナーを閉めながら、私は答えた。「実家」「結衣」その声には、さっきまでとは違う響きがあった。苛立ちではない。怯えだった。私の腕をつかんでいた手の力がゆるみ、もう片方の手が私の頬に伸びてくる。「やめてくれ」ほんの一瞬、危うく絆されそうになるほど、彼はかつて私が愛した圭吾に見えた。喧嘩のあとには必ず私を抱き寄せた人。わだかまりを残したまま眠るのが耐えられないと言っていた人。彼が顔を寄せてくるが、私は顔をそむけた。圭吾が凍りつく。私がそうしたのは、初めてだった。彼は私の目の奥を探るように見つめた。「本気なんだな」「ええ」その顔を、一瞬だけ焦りがよぎった。けれどそれは、すぐにプライドに塗り込められた。「怒ってるんだな。いいさ、好きなだけ怒ってろよ」親指で私の手首をなぞってから、彼は手を離した。「でも、今夜のことくらいで3年間を終わりにはさせない」「今夜のことで終わりにするんじゃないわ」圭吾の顎に力がこもる。「今夜のおかげで、やっとこの3年間の意味がわかったから、終わりにするの」しばらくのあいだ、彼は何も言わなかった。それから、信じられないというように短く笑った。「昨日まで俺を信じてたじゃないか。昨夜だって俺のベッドにいた。なのに今さら、俺たちのことは全部何でもなかったみたいな顔をするのか?」「何でもなくなんかないから、あなたのしたことがこんなに痛いのよ。人を笑い者にしておいて、今さら私があなたを愛してたことを、引き止める理由にしないで」圭吾が何か言い返すより先に、玄関のドアがまた開いた。シャンパンを手にした
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第3話
火傷の手当てを終えて戻ると、3人ともまだ私の部屋に居座っていた。「ここは私の家よ。出ていくべきなのは、あなたたちのほう」圭吾の顔色が変わった。「俺は来週、お前と結婚するんだぞ」「それも、もうすぐ白紙になるわ」一瞬、隠しきれない焦りが彼の顔に浮かんだ。けれど拓海がちらりと目をやると、圭吾はたちまち、いつもの態度を取り戻した。「わかったよ」彼は上着をつかんだ。「一晩だけ時間をやる。明日、会社に来い。パーティーの後始末をするぞ」ドアのところで、圭吾は振り返った。「結衣、お前は俺を愛してる。後悔するような決断はするなよ」綾乃はふたりに挟まれるようにして出ていった。廊下の向こうへ消えていく3人の背中を、私はじっと見送った。かつて拓海は、私がこの世で誰よりも信頼していた人だった。私たちは幼なじみで、私は10年間、彼を想い続けた。拓海と圭吾が資金繰りに苦しんでいたころも、私はふたりのそばで立て直しを支えた。実家の資金と人脈が、いくつもの扉をひそかに開いていた。それが私の力によるものだとは、ふたりとも知らないまま。やがて、悪趣味な冗談が始まった。綾乃と同じ毛布にくるまって仕掛けた、偽のプロポーズ。私が恥をかく姿を収めた、いくつもの動画。私が怒るたびに、拓海は、お前は気にしすぎだと言った。綾乃は泣いた。そしてなぜか、最後に謝るのはいつも私だった。ようやく拓海から離れたあと、ばらばらになった私を立ち直らせてくれたのが圭吾だった。眠れない夜には、一緒に起きていてくれた。誰にも言えないような恥ずかしい話にも、黙って耳を傾けてくれた。一度は、彼の会議中に私の胃の持病が悪化したとき、会議を途中で抜けて、看病しに帰ってきてくれたこともある。圭吾は違う。そう信じていた。そしていつしか、私は彼を好きになっていた。けれど私は知らなかった。拓海と綾乃と圭吾が、今夜よりずっと前から、私の気持ちを3人だけの遊び道具にしていたことを。かつて拓海は、私が彼を想うのをやめるはずがないと信じきっていた。今、圭吾は、私が彼のもとを去るはずがないと、同じように信じきっている。そして綾乃は何年もかけて、どこまで踏み込めばふたりのどちらかが自分をかばってくれるのか、その加減を正確に覚えていったのだ。3人が帰っ
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第4話
拓海が私を見下ろした。「2時間も閉じ込められれば、少しは頭も冷えただろ。綾乃に謝れ。それで帳消しにしてやる」唇はまだ寒さで感覚がなく、答えようとしても、歯がカチカチと鳴るだけだった。綾乃が一歩進み出て、私の腕に腕を絡めてきた。「拓海、圭吾、もうやめて。結衣だって、本気でこんなことしたかったわけじゃないんだから」それから彼女は、私に優しく微笑みかけた。「私たち、まだ親友だよね?」私が身を引くより先に、綾乃は片腕を私の腰に回した。そしてブラウスの下の、火傷を負ったばかりの肌を、わざと指で強く押した。私は悲鳴を上げ、反射的に彼女を突き飛ばした。綾乃は小さく悲鳴を上げてよろめいた。その目に、たちまち涙があふれる。「結衣、まだ私のこと、許してくれないの?」拓海の顔が険しくなった。「お前、いったい何考えてるんだよ!」「綾乃が、私の火傷を押したのよ」「そんなことしてない」綾乃がすかさず言う。「支えてあげようとしただけなのに」拓海が私を突き飛ばした。「結衣、いつまでこんなことを続ける気だ!」腰のあたりが壁に打ちつけられる。ちょうど火傷が水ぶくれになっている場所だった。息が詰まり、膝から力が抜けそうになる。圭吾がこちらへ歩いてきた。一瞬、支えてくれるのだと思った。けれど彼は、両手を私の肩に置いた。「もういい。綾乃に謝れ」「嫌よ」その手を振りほどこうとしたけれど、極寒のエレベーターに2時間も閉じ込められていたせいで、脚にはまだ力が戻っていなかった。圭吾が肩を押し下げ、私は綾乃の目の前で膝をついた。ロビーがしんと静まり返った。私の膝が鈍い音を立てて床にぶつかったのを見て、圭吾は一瞬固まった。それでも、手を差し伸べようとはしなかった。拓海はただ、こう言っただけだった。「いいから謝れよ」私は3人を見上げた。綾乃は拓海の背後に隠れるように立ち、潤んだ目でこちらを見ている。圭吾は私の傍らに立ったままだ。3人とも、同じものを待っていた。私が屈服する瞬間を。私が口を閉ざしたままでいると、拓海はスマホを取り出した。「結衣、ここまでさせたのは、お前だからな」彼が画面をタップする。次の瞬間、受付の上にある巨大なモニターが明るくなった。映し出されたのは、私の顔だ
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第5話
母は私をそのまま空港へ連れていった。私がマンションに戻っていないと圭吾が気づいたころには、実家へ向かう私の飛行機はとうに飛び立っていた。それでも圭吾は空港へやってきた。夜が明けるまでそこで待ち続け、私に何十回も電話をかけた。秘書にチャーター機の運航会社へ片っ端から連絡を取らせ、私の行き先を突き止めようとした。彼がようやく手を引いたのは、涼子から「これ以上の追跡は、つきまといとみなされる可能性があります」と警告を受けてからだった。圭吾がマンションに戻ると、玄関の電子錠は変更されていた。管理人が段ボール箱をひとつ差し出す。「相原様が、瀬戸様の入館登録を取り消されました。こちらは、相原様からお預かりした瀬戸様のお荷物です」箱の中には、彼の髭剃りセットと数枚のシャツ、車のスペアキー、それに書きかけの誓いの言葉を綴った冊子が入っていた。彼は廊下に立ち尽くしたまま、動けなかった。3年前、彼が初めて泊まっていった日、私はクローゼットの半分を彼のために空けた。「半分も空けてくれたって、入れる服なんか持ってないよ」と、彼はそう冗談を言っていた。けれど翌日には、そこに彼の好みのシャツが並び、いつものアフターシェーブローションが置かれ、どんな場にも合わせられるネクタイがそろっていた。誰がそれを用意したのか、彼は一度も訊かなかった。会社の融資枠が突然承認されたときも、音沙汰のなかった海外の取引先が急に連絡を返してきたときも、土壇場で取締役たちが票を翻したときも。誰が裏で手を回していたのか、彼は一度も訊かなかった。立ち尽くす彼のスマホは、鳴りやまなかった。花屋は、結婚式キャンセルの書面での同意を求めてきた。式場の担当者は、式前日の親族の顔合わせは予定どおりかと問い合わせてきた。デザイナーは私のドレスを納品しないよう指示されたと伝えてきて、ホテルは私の家族と遠方からの招待客のために押さえていた部屋の予約を、すでに解除していた。圭吾は、どの電話にも出なかった。管理人を押しのけ、もう一度ロックを試す。力いっぱい押せば古い暗証番号でも開くとでもいうように。「締め出せるわけないだろ。俺の人生の半分は、この部屋にあるんだぞ」「こちらのお部屋は、相原結衣様の所有です。瀬戸様が出入りできたのは、あくまで相原様のご厚意によるものでした」
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第6話
1週間後、瀬戸ハーバーグループは緊急取締役会を開いた。長いテーブルの両側には、銀行の融資担当者、大口投資家、社外取締役たちがずらりと並んでいる。雑談を交わす者は誰一人おらず、社長である圭吾のために上座が空けられていることもなかった。取締役会でもっとも古株の大月歳三(おおつき としぞう)が、圭吾の前にファイルを滑らせた。「6年前、この会社は倒産まであと数週間というところまで追い詰められていた。最初のつなぎ融資の保証人になったのは、相原ホールディングスだ」圭吾がはっと顔を上げた。「相原ホールディングス……?」歳三は彼をじっと見据えた。「本当に知らなかったのか」圭吾は何も言えなかった。歳三はふたつ目のファイルを差し出した。「4年前、海外航路の事業が赤字を垂れ流していたとき、結衣さんは相原家が押さえていた港の優先停泊区画を君に譲った」3つ目の書類は顧客リストだった。歳三が指先でそれを叩く。「上位20社のうち17社は、彼女の紹介によるものだ。彼女なしでもこの会社が回っていくと、いったい何を根拠に思い込んでいたんだ?」圭吾は椅子の肘掛けを握りしめた。「全部引き揚げろなんて、頼んだ覚えはない」「そもそも、彼女には支援を続ける義務などなかった」拓海が身を乗り出した。「ひとりの力でこの会社が築けたわけじゃない」「もちろんだ」歳三は言った。「だが君たちは、他人の後ろ盾を、自分たちの実力だと勘違いした。そのうえ、彼女の議決権を、貸借対照表のひとつも読めない素人に渡したんだ」会議室中の冷ややかな視線が、いっせいに綾乃へと集まった。彼女は背筋を伸ばした。「勉強すればできます。結衣にできることなら、私にだってできます」歳三は眉ひとつ動かさなかった。「では、来月返済期日を迎える負債がいくらあるか、この場で答えてもらおうか」綾乃は黙り込んだ。「燃料価格の変動リスクに対し、何パーセントまでヘッジをかけている?」部屋は静まり返ったままだった。歳三はファイルを閉じた。「君たちは結衣さんの地位が欲しかった。だが、彼女がその立場でどれほどの重圧を背負っていたか、誰一人知ろうともしなかったわけだ」銀行の担当者のひとりが、通知書をテーブルに滑らせた。「相原家の保証がなくなった今、御社のレバレッ
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第7話
民事訴訟が本格的な証拠調べの段階に入ると、調査チームは例のグループチャットの履歴を丸ごと復元した。慈善パーティーの動画から、寝室での偽プロポーズ、そして婚約パーティーのケーキまで。どの冗談にも、はっきりとした痕跡が残っていた。言い出すのはいつも綾乃だった。拓海はそれを、グループ全員で楽しめるゲームに仕立て上げた。そして圭吾は、止めるべき立場にありながら、黙認するか、一緒になって悪乗りしていた。婚約パーティーの夜のやりとりは、とりわけ決定的だった。【綾乃:みんなの前で怒り出したらどうする?】【拓海:式を台無しにするようなことはしないって】【圭吾:あんまりやりすぎるなよ。あいつ、最近いろいろ抱えてるから】その5分後、拓海が圭吾を煽っていた。【拓海:まさか、もう完全に尻に敷かれてるとか言わないよな?】圭吾は、ブーイングのスタンプを返していた。似たようなやりとりは、ほかにも何百と残されていた。圭吾が記念日のディナーをすっぽかした夜、レストランでぽつんと取り残された私の写真を、綾乃が投稿したこともあった。【綾乃:泣き出すまであと5分。賭ける人?】【拓海:3分】【圭吾:やめとけって】ところがその2分後、拓海が泣き顔のスタンプを送ると、圭吾はそこに笑い顔のリアクションをつけていた。彼の「やめとけ」は、いつだって、誰かに「お前、彼女をコントロールできてないんじゃないか」とからかわれるまでだった。私が傷つくことを、彼はわかっていた。ただそれ以上に、仲間から弱い男だと思われるのが怖かったのだ。報告書を読み終えた圭吾は、スマホをテーブルに叩きつけ、綾乃に詰め寄った。「なんでお前は、あそこまで結衣をコケにし続けたんだ」綾乃は彼を見つめ、それから笑った。「今になって、全部私のせいにするわけ?」「動画を保存してたのはお前だ。株をほしがったのもお前だろ」「結衣を撮ってたのはあなたでしょ。譲渡を承認したのもあなた!」綾乃の声が尖る。「結衣が泣いて出ていくたびに、あなたたちふたりとも笑ってた。私が結衣のことを繊細すぎるって言うたびに、あなたたちは私の味方をした。私ひとりの力で、結衣をこのグループに縛りつけておけたとでも本気で思ってるの?」部屋が静まり返った。拓海は目をそらした。この数週間、自分
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第8話
取締役会から職務停止処分を受けたあと、圭吾は高級住宅街にあった一軒家を引き払った。会社名義の不動産も車も、会員制クラブの会員権も、すべて処分の手続きに回された。家を出るころには、彼に残されたものは、段ボール箱いくつかに収まってしまった。荷造りの途中、彼は紺色の革製ファイルを見つけた。中には、私が彼のために初めて作った海外航路の計画書と、結婚式の日取りを刻んだ銀のカフスボタンが入っていた。カフスの裏には、こう彫られていた。【生涯を共に】圭吾は長いあいだ、床に座り込んでいた。かつて私から彼へのメッセージは、いつも長文だった。台風の予報、取引先の好み、取締役会の日程、彼の母親の通院予定。年を追うごとに、それはだんだん短くなっていった。最後の1通は、婚約パーティーの前に届いていた。【今夜また私が笑いものにされたら、そばにいてくれる?】そのとき拓海と飲んでいた彼は、1行だけ返した。【起きてもいないことで騒ぐなよ】圭吾は目を閉じた。私は何も言わずに彼を見捨てたわけではなかった。自分の気持ちははっきりと伝えていた。それを彼は、ただの束縛だと決めつけていたのだ。次に彼は、共通の知人に泣きつこうとした。けれど復元されたチャットのログが出回ってからは、ほとんどの人が関わるのを拒んだ。ケーキの動画を見て笑っていた女性のひとりは、彼にこう言った。「結衣さんは、あなたに助けてってはっきり言ってたじゃない。私を使って、彼女にもう一度同じことを言わせようとしないで」それでも彼は、実家の会社宛てに花を送った。花束は受付に届く前に、警備員の手で送り返された。祖母が彼に渡したあのお守りまで送ってきた。大切なものを返せば、私が応えるかもしれないと思ったのだろう。涼子は、ひと言の添え書きもなくそれを送り返した。拓海も、私に連絡を取ろうとした。10通以上のメールで、俺たちは一緒に育ったんだから、何をしてもお前ならわかってくれると思っていた、と言い訳を連ねてきた。涼子が1通だけ転送してきたところで、私は彼女に言った。「もう送ってこないで」綾乃は、業務記録の改ざんと株式の不正譲渡に関わったとして、正式に起訴された。男ふたりの関与を示す証拠と引き換えに、自分の罪を軽くしようとした。けれど検察は、彼女が思っていたよりもずっと鮮明に、金や証拠
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第9話
1年後、湾岸エリアの再開発プロジェクトが完成のお披露目を迎えた。築百年を超える赤レンガの倉庫は外壁をそのまま残し、海に面した側だけを一面のガラス張りに変えた。海岸線に沿って港の明かりが灯りはじめるなか、報道陣のカメラが、テープカットに臨む私の姿を捉えていた。母は人垣の後ろに立ち、遠くからグラスを掲げていた。自分が主導権を握っていることを誇示するために、わざわざ表舞台に立つ必要などない人だった。プロジェクトは初年度の見込みを上回る成果を上げ、取締役会は、相原ホールディングスの次の海外投資案件の責任者に私を据えることを決めた。私がかつて暮らしたあの街に戻ったのは、特定の誰かのためではない。開業記者会見で、ある記者が質問した。誰にでも開かれた公共空間を重視したこの計画は、あの婚約破棄のスキャンダルがきっかけなのか、と。1年前の私なら、ほかの誰かを守るために微笑んで、話題を変えていただろう。「いいえ」私は答えた。「このプロジェクトは、婚約が終わる前からありました。私はただ、私の献身を『あって当然のもの』として搾取する人たちのために、自分の人生を後回しにするのをやめただけです」その言葉は翌朝、経済紙の紙面を飾った。今度ばかりは、誰にも書き換えさせなかった。財界のレセプションのあと、涼子が、圭吾と拓海がホテルのロビーで待っていると伝えてきた。株式の不正譲渡をめぐる民事訴訟はすでに和解していたが、刑事事件としての捜査はまだ続いていた。ふたりとも、不正に得た権益をすべて手放し、資産回収命令と一定期間の役員就任禁止を受け入れていた。VIP専用の裏口から帰ることもできた。1年前の私なら、きっとそうしていた。けれど今の私は、ふたりの顔を見ることが怖くなかった。圭吾は、記憶にあるよりも痩せていた。花も指輪も持っていない。ただ数歩離れたところに立ち、両手を脇に下ろしたままでいた。「戻ってきてくれと頼みに来たんじゃない」彼は言った。「どうしても、言い訳なしで直接謝りたかった」その隣で拓海は床に目を落としたまま、いつものようにみんなを代弁して割り込んでくることはなかった。圭吾の声がかすれた。「お前を愛してた。ああいう冗談がお前を傷つけることもわかってた。なのに、周りがお前を笑いものにするたびに、俺はあいつらの
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