Mag-log in橘弁護士は、録音を二度は聞かなかった。
最初の再生が終わると、スマートフォンを置き、紗月に尋ねた。
「このファイルを受け取った経緯を、最初からお話しください。推測ではなく、ご自分で見聞きしたことだけを」
紗月は受領確認書を見つけたところから説明した。言葉がもつれるたび、修吾が悪い人だという説明を付け加えたくなった。橘は、どうしてそんなに長く気づかなかったのかとは聞かなかった。代わりに、曖昧な日付だけを確かめた。
「もとの録音全体は、相沢里香さんが持っていると、そう言っていたんですね」
「はい。もらったのは一部です」
「受け取ったファイルは、そのまま保管してください。全体の録音を入手する方法は、こちらで検討します」
橘が受取日を書き留めた。
「紗月さんが、もう一度一人で会って取りにいく必要はありません」
「私を、信じてくださるんですか」
弁護士のペンが止まった。
「お話を伺い、検討するのが私の仕事です。信じてもらおうとして、覚えていないところまで埋める必要はありませんよ」
紗月はペンを持った。時刻まで正確には思い出せない日付の横に、疑問符を書く。修吾の前だったら、彼の記憶している時刻に直していただろう。
橘は疑問符を消さず、次の質問へ進んだ。紗月も初めて、背もたれに背をつけた。
机には相談申込書が置かれていた。氏名と生年月日の下に、連絡の取れる番号を書く欄がある。緊急連絡先を書こうとした手が、癖で動きかけて止まった。
一条修吾。
名前の一文字目さえ、最後まで書けなかった。
「その欄は、あとで決めていただいても構いません」
橘が別の紙を差し出した。紗月は自分の携帯番号だけを書いた。
「今日の話は、鷹宮社長に全部伝わるんですか」
「誰に何を伝えるかは、まず紗月さんと決めます。鷹宮さんの紹介だからといって、自動的に報告するわけではありません」
「それなら今日は、相談したことだけ、自分から伝えます」
「ええ。そうなさってください」
橘はまず、母の診療計画と支払いの記録を尋ねた。転院するなら何を準備すべきか。母自身は、どこで暮らしたいのか。
「同じ病院に通い続けられるようにしたいです。急に知らないところへ移すのも、怖くて」
「では、移ることだけを答えにしないでおきましょう。病院から誰へ連絡するかを変えるところから始めることもできます。実際の状況を確認したうえで、ですが」
紗月は病院に尋ねることを書いた。最初の行の横に、担当者の番号を添えた。
* * *
事務所を出ると、蓮司からメッセージが来ていた。
【ご相談は終わりましたか。返事が難しければ、あとでも構いません】
紗月は少し考えてから返した。
【終わりました。ファイルは、まだ公開しないでください】
【わかりました】
それだけだった。
相談の中身を尋ねてこないと確かめてから、紗月は病院へ電話した。今度は修吾の秘書に取り次いでもらった番号ではなく、前の面会で自分が受け取った担当者の連絡先だった。
午後にもう一度面会できるという返事をもらった。運転手へ予定変更を伝える。修吾に聞かれたら、母の診療の説明を聞いたと答えられる。本当に、そうするつもりだった。
母は窓際の椅子に座っていた。紗月が入ると、また短くなった髪に触れた。
「まだ、変?」
紗月が聞いた。
「寝て起きたら、悪くないと思った」
母は少し笑い、娘の鞄を見た。
「食べた?」
「今日は食べた」
「それならいい」
紗月は母の隣に座り、小さな声で話し始めた。修吾と別々に暮らそうと思っていること。まだ準備しているところだということ。彼が何をしたかは話さなかった。母が一度に受け止められるか、判断する自信がなかった。
「喧嘩したの?」
「うん。少し」
母は、長く娘の顔を見た。
「少し、じゃなさそうだけど」
紗月は鞄のファスナーを触った。開けて、また閉じた。
「あの人について、知らないことがあったの」
母の手がゆっくり動き、膝に触れた。
「家を出るの?」
簡単にはうなずけなかった。
「お母さんが、ここにいるから」
「私は、ここにいるよ」
母は窓の外を指してから、手を下ろした。
「あんたは、あんたの家にいなきゃ」
「お母さんが、困ることになったら?」
母は簡単に、大丈夫とは言わなかった。外を眺め、それから娘の手を引いた。紗月が椅子を寄せると、力のない手のひらが背中をたたいた。
「あんたが、居づらい家で暮らすのは?」
紗月は母の肩に額をつけた。病院の匂いがした。家で使っていた石鹸の匂いはしない。それでも、ここに来てようやく泣けた。
「それも……嫌だ」
母が、もう一度背をたたいた。
「出ていったら、もっとこまめに電話するね」
「うん」
「もし別の病院に移ることになったら、先に話す。お母さんが嫌なら、嫌って言って」
母が自分の髪を指した。
「髪も、今度は先に聞いて」
紗月は泣きながら笑った。
「聞いたでしょう」
「後ろまで切るとは、思わなかったのよ」
面会を終え、担当者と話した。今月の費用は、すでに支払われていた。次の精算日を確かめた。場所が変わっても、母に必要なケアを途切れさせない準備が要るという説明を受ける。
紗月は次の精算日をカレンダーに記した。今日、自分が家を出ても、母が今日ここを出なければならないわけではなかった。
その数日のうちに、住む場所を探すことにした。連絡先欄には、自分の番号を書いた。
* * *
帰り道、自分の口座を開いた。
秘書としての給料が残っていた。生活費には修吾のカードを使っていたが、彼の誕生日の贈り物や催しで必要な品は、自分の給料で買っていた。残金は多くなかった。
紗月はメモに、数日分の宿泊費と相談費用を書いた。家を出て、考える時間が欲しかった。橘からは安全に滞在できる場所を探していると聞いていたが、すぐに空きがあるという返事はまだなかった。
ひとまず、自分で払える範囲の宿を探した。きらびやかなロビーも、隅田川を望む窓もない、小さな長期滞在型ホテルだった。予約前に事務所へ所在地を送り、確認を頼んだ。予約金が引き落とされても、暮らすための金は少し残った。
確認画面に、自分の名前が出た。
チェックイン予定日は、チャリティーオークションが開かれる翌週の水曜日。そこへ行けるかは、まだわからない。それでも、日付ができた。
家へ戻ると、黒田室長がリビングで待っていた。
「奥様、今日も病院へ行かれたのですか」
紗月は鞄を置いた。
「はい。診療の説明を伺いに」
「先に代表へお知らせいただければ、こちらで手配しましたのに」
「自分で聞けば済むことでした」
黒田の目が、少し細くなった。
「お母様については、代表が責任を持って対応されています。途中で連絡先が変わると、病院側も混乱します」
紗月は、さっき書いた連絡先を思い出した。誰がもう伝えたのかはわからない。突き止めようとすれば、先に声が震えそうだった。
「私の母ですから。私の番号でも、連絡を受けます」
黒田はすぐには反論しなかった。代わりに、彼女の鞄を一度見た。
「お考えは承知しました。代表にも、そのように申し上げます」
紗月はうなずいた。脚の力が抜けるようだったが、病院へ電話し直すとは言わなかった。
黒田が帰ったあと、蓮司に電話した。
「私、連絡先を変えたんです。病院から、私に先に連絡してもらうように」
少し間を置いて、蓮司が尋ねた。
「先方に、何か困らされませんでしたか」
「困っていた人は、こっちにいました」
紗月は、黒田が座っていた空のソファを見た。
「でも、自分の番号を書いてきました」
「元に戻すって、病院には言っていません」
紗月は付け足した。
「黒田さんが、修吾さんに伝えても」
「今、ご自宅ですか」
蓮司の声が低くなった。紗月は予約した宿の日付を伝えた。彼の心配する声よりも、家を出る日を告げる自分の声のほうが、少しだけ大きく聞こえた。
通話を終えてから、膝が震えだした。紗月はソファに座り、宿の予約画面を開いた。カードの支払明細の下に、七瀬紗月とある。取り消せば、予約金は戻るかもしれない。
確認画面を保存した。チェックインまで、あと5日。
母の面会予定の隣に、水曜日を書き込んだ。その日を過ぎれば、修吾に帰る時刻を報告しなくてもいい一日が、できるはずだった。
篠原直人は、保管センターへ着く前に天城総合へ呼び出された。月曜の午前、地下鉄の出口を出ようとしていたときだった。黒田室長から電話があり、閲覧前に確認する書類ができたと言われた。午後三時に代理人たちと会う約束までは、時間があった。篠原は自分の弁護士に、訪問することを知らせた。予定の時刻までに連絡がなければ確認してほしい、とも伝えた。それから天城総合の建物へ入った。長年持ち歩いた入館証が、ロビーで通らなくなった。「臨時の入館証をお受け取りください」警備員が言った。篠原は首に下げていたカードを見下ろした。昨日までは、他の人が待つドアを、このカードで先に開けていた。今日は警備員の前で、自分の名前をもう一度告げなければならなかった。ストラップが耳に引っかかった。強く引くと、カードが胸にぶつかった。代表室に修吾がいた。窓辺のテーブルには、見慣れたファイルが置かれていた。「ここに座ってください」修吾は言った。篠原は椅子を引いた。鞄は両足の間に置いた。「今日の原資料の閲覧の件で、呼ばれたと伺いました」「その前に、なぜ外で別の約束をしたのか、聞かせてもらいたいですね」修吾は紙を向けた。外部保管センターへ送った、相談室の利用申請だった。篠原の申請名の下に、代理人同席と書いてあった。「自分の責任について、相談しているところです」「誰に、私の責任を説明するつもりで?」「私自身の責任と申し上げました」修吾は笑
遠山は褒めるより先に、抜けているページ数を尋ねた。日曜の午前、紗月は宿から最終リストを送り、電話を受けた。昨日のリハーサルで刷り直した伴奏譜の枚数が、返却リストに反映されていなかった。「前のものは捨てたんですか。それとも演奏者が持っていきましたか」紗月はメモを開いた。演奏者が比較のために両方の版を持っていった。確かに見たのに、返却の数から一つを落としていた。「最後に、数量を直していませんでした。両方とも貸出中として整理します」「そうしてください。それ以外は伝わっています。現場の担当者も、次はまず確認の場を設けると言っていますよ」紗月は修正したリストを送り直した。今回の現場確認とリスト整理の報酬、1万8,000円は、その日の午後に入った。楽譜室の6万円とは別だった。入院費の表の今日の欄を埋め、来月の欄を見た。まだ空いていた。少しして、小劇場からまた連絡が来た。「次の公演もお願いできますか。今回より資料が多いんです」紗月は予定から先に送った。月曜は資料を引き継ぐ約束があり、平日にはもともとの楽譜室の仕事もあった。担当者は日程が迫っているため、まず他の人を探すと言った。紗月はメッセージ欄に、午前中だけでもやりますと書いた。けれど資料の量を聞いたのに、終えるべき量を少なく見積もっていた。月曜の約束には代理人も来るし、篠原がまた気を変えるかもしれなかった。文章を消した。遠山にもう一度電話をかけた。「次の現場の仕事は、引き受けられないとお伝えしました。楽譜室の作業は、約束どおりできます」「それは別ですから。月曜に来る時間は、
ピアノが止まったのに、ヴァイオリンは先へ進んだ。悠真の弓が宙で止まった。ピアニストは鍵盤に手を置いたまま、自分の楽譜をめくった。二人は同時に相手を見た。「そこは繰り返さないことにしましたよね」「繰り返していません。ここへ飛ぶことにしたでしょう」土曜の朝の小劇場は、まだ暖房が行き渡っていなかった。紗月は客席の二列目に、メモを膝に置いて座っていた。昨日貼った付箋は、伴奏譜の上にそのままあった。演奏者たちはリハーサルを始めるのに忙しく、読まなかったらしい。担当者が客席で手を上げた。「すみません。整理した資料に、手違いがあったようです」視線が紗月に向いた。体が先に立とうとした。謝って楽譜を取ってくれば、この気まずい瞬間は早く過ぎる。紗月は肘掛けを掴み、離した。「整理するときに間違えた箇所ではありません」舞台の上の二つの楽譜を指した。「昨日から、書き込みが違っていました。お二人に尋ねるために貼った付箋が、今もそこにあります」小さな声だったが、舞台まで届いた。担当者が黙った。ピアニストは付箋を読み、スマートフォンのファイルを開いた。「私が送ったファイルですね。でも宮坂さんは、一つ前の版をお持ちです」悠真が自分の楽譜を見下ろした。誰が間違えたのかを決める会話になりかけた。紗月は舞台脇のテーブルへ行き、二つの資料を広げた。「どちらにするか決めていただければ、合わせます。お二人が決めた日付が違っていたんです」演奏者二人がテーブルに来た。紙を指で
「秘書をなさっていたなら、進行の電話も受けていただけますね」金曜の午前、小劇場の事務室で、担当者が公演の連絡先を紗月のほうへ向けた。遠山から聞いていた仕事は、リハーサル資料の照合だった。紗月は紙を受け取らず、向かいの空いた椅子を見た。「今日は、連絡業務も含まれているんですか」「難しく考えなくていいですよ。電話が来たら、何時までに来てくださいと伝えるだけです」担当者はもう別の電話に出ていた。慣れない職場で、最初の返事から断りたくはなかった。けれど楽譜を開く時間も足りなかった。通話が終わるのを待って、紗月は言った。「連絡を受けている間は、楽譜の確認が止まります」電話の横に、開いた楽譜を置いた。「両方終わったとは、お伝えできません。今日、必ず終えるほうを先に決めてください」担当者は手の中の電話と、テーブルのファイルを交互に見た。「では、資料からお願いします。演奏者からの連絡は、私が受けます」大した争いもなく終わった。紗月だけが、椅子に座っても少しの間、背を伸ばせなかった。明日、演奏者たちが同じ場所で止まり、また入れるよう、ページと書き込みを合わせる仕事だった。入力より、自分で読んで聴く必要があるため、紗月に声がかかった。ピアノ譜とヴァイオリンのパート譜を並べた。印刷された音符は同じなのに、演奏者たちの手書きが違った。一方には繰り返さないという印、もう一方には繰り返しの区間から別のフレーズへ進む矢印があった。「この印は、いつ決めたものですか」紗月が尋ねると、担当者がメールを探してくれた。
「4万円、今、振り込みました」遠山がスマートフォンを置いた。紗月は机の角にある自分の電話を、すぐには見なかった。最後に直した編曲者の項目がきちんと反映されているか確認し、それから画面を点けた。入金の通知が出ていた。先にもらった2万円と、今日の4万円。約束の6万円がすべて入った。残りの仕事も引き受けます、と言わなければならない気がして、唇が動き、止まった。「次の束は、どれくらいありますか」まず作業量を尋ねた。遠山は脇の箱を指した。「今回より少し多いです。同じペースでは、日程がきついかもしれません」紗月は橘と約束した来週の予定を見た。作業できない日があった。空いている時間を伝えると、一部は別の人に分けると遠山は言った。「全部私がやると、遅れそうです」「だから、前もって聞いているんです。引き受けた分だけ、日を守ってください」紗月は頷いた。遠山は次の束から、彼女の分を分けた。箱が一つ減った。その分、次にもらう金も減った。検収を終えた行の横に署名し、楽譜を閉じた。階段で銀行アプリを開き、入院費と宿泊費を差し引いた。長く残る金ではなかった。次にもらう分も減ったが、今日した仕事の代金は、すべて入っていた。蓮司にメッセージを送った。【検収が終わりました。今夜、お時間は大丈夫ですか】返事には、少し時間がかかった。【飛行機を降りました。遅くても構わなければ、会いたいです】紗月は代理人の事務所に寄ったあとで行ける店を探した。高い店を選びかけ、自分が
母の新しいベッドには、陽が差していた。水曜の午後、窓側の相部屋へ移る間、紗月は小さな収納ケースを膝に載せていた。看護師が母をベッドに移してくれてから、ようやくテーブルの下に入れた。せっかく寸法を測って買ったのに、奥へ押すと引き出しが壁につかえた。「もう少し前に」母が言った。「ここ?」「それじゃ足に当たる。横に置いて」紗月はケースの向きを変えた。三度目でようやく、母はそれでいいと言った。隣のベッドの患者が笑いながら、場所一つ変えるほうが引っ越しより難しいね、と口を添えた。カーテンを閉めれば一人で、開ければ隣の人が見えた。夜、体を起こしてもらうケアも、そのまま続くとあらためて説明を受けた。紗月は担当者と次の支払日を確かめてから、ベッドのそばへ戻った。母は陽射しを避け、少し顔を背けていた。「眩しい?」「好きだからって、全部顔に浴びることはないでしょう」紗月がブラインドを下ろすと、母はそこで止めてと言った。窓の外の枝が見えるくらいだけ、残った。椅子に座った。今日受け取った提案への返答が、スマートフォンに入っていた。一度署名すれば、もっといい部屋で暮らせただろうか。また、その考えが浮かんだ。「何かあったの?」母が尋ねた。「お母さんに、いいことをしてあげられなかった気がして」「ここ、よくないって?」「そうじゃなくて……」母は布団の下で足を動かした。&n