LOGIN白石さんがさらっと続けた。「氷室さん、昔はセンターで煽ってましたよね」「してない」「してました」「してない」「してました」すごい。この人たち、所長への圧が全然引かない。「望月さん……所長って、本当にそんなにすごかったんですか?」思わず聞くと、望月主任は少しだけ口元を緩めた。「ええ。研究室にいる時とサークルにいる時で、別人みたいでした」「余計なことを言うな」「事実です」「望月まで乗るな」「乗るも何も、今日はそういう場では?」うわあ。望月主任、ちゃんとしてるのに容赦ない。「じゃあ、まず曲どうする?」莉子さんが手を叩く。「うちの営業と賃貸管理、合同なんだから、王道でいきたいわよね」「王道って何ですか」蒼くんが真面目に聞く。「王道は王道よ」「説明になってません」「じゃあ、氷室さんが一番いやがるやつ」「それは王道じゃなくて趣味だろ」「まあ、趣味ね」「認めるな」榊くんが、小さくため息をついた。「……僕、何でここにいるんでしょう」「忘年会の余興のためだろ」瑛が即答する。「所長は?」「監督」「ずるくないですか」「ずるくない」「いや、ずるいです」「榊さん」久世さんが明るく割り込んだ。「どうせなら一緒に踊りましょうよ!」「どうせなら、の意味がわかりません」「もう運命共同体ってことで!」「嫌です」「でも榊さん、顔は踊れる人の顔してますよ」「初めて言われました」「言われてないだけですって!」「その理論怖いな」「じゃあ、曲どうするか決めましょうよ」神谷さんが手を打った。「話題性あって王道なら、BTSどうですか?」「今年カムバしたしねぇ」莉子さんがすぐ乗る。「いや、それ、ただの莉子さんの趣味では?」榊くんが冷静に言う。「違うわよ。知名度よ、知名度」「でもまあ、BTSなら誰でも一回は聞いたことあると思います」蒼くんが真面目に補足する。「王道でいくなら……Dynamite? Butter?」久世さんが首をひねる。「Butterはちょっと洒落すぎてる気がします」白石さんが静かに言った。「コロナの時、よくカラオケで踊ってたの、Dynamiteでしたね?」その瞬間、瑛の顔が険しくなる。え?コロナの時に、踊ってた……だと?「白石」「事実ですよね」「余計なことを言うな」「じ
……ん?見間違い?社内の一斉メール。社長からだ。『今年の忘年会は各部署で余興を用意してください。楽しみにしてます』……余興?余興って、かくし芸とかする、あの余興?顔を上げて周りを見回す。私と同じく、ディスプレイを見たまま固まっているのが蒼くんと榊くん。口角上がってるのが莉子さん。表情が全く変わっていないのが我らが所長、瑛。アオバ賃貸パートナーズ代表取締役社長である、真田剣《さなだけん》社長。現場経験のある叩き上げタイプと聞いている。数字には厳しいが、人を見る目があるとか。たまに無茶振りをするという噂もあった。まさか全社員にこんな平和な無茶振りをするとか。お茶目さんだなあ。いや、私にも関わること。困ったことになったなあ。こういうのって、やるのはだいたい下っ端だ。蒼くんと榊くん。……年齢順でいけば、私もギリ入るかもしれない。逆に、莉子さんと瑛はたぶん安全圏。うん、困った。「……蒼くん。榊くん」「はい」反応早いのは蒼くん。榊くんはまだ固まっている。「社長のメール、見た?」「はい。これ、毎年なんですか?」「ううん。私が入社して初めて」「僕当たり年ですか」「……僕は当たりたくなかったですね。面倒ですが」やっと言葉を発した榊くん。“面倒です”って何。いや、わからなくはないけど、ちょっと引っかかる。「ねえ所長」「何だ」莉子さんの呼びかけに、瑛は露骨に嫌そうな顔をした。「所長……特技あるよね?」「無い」即答。瑛の特技?莉子さん、何か知ってそうな顔してる。え、何。めちゃくちゃ気になるんだけど、瑛の特技。「所長、特技……あるんですよね?」私も乗っかって瑛に振る。……うわ、何?氷の氷室レベルの冷たい視線が飛んできたんですけど。これはもう、追及せねば。「莉子さん、所長の特技、ご存じなんですか?」「そりゃ大学の研究室仲間ですからねえ、所長」「やめろ」「いいじゃん言えば。全国大会常連だったくせに」瑛の顔が引きつった。え? 全国大会?しかも常連?で、何の?「所長。これは、所長にも参加していただくやつでは」ひええ。蒼くん、怖いもの知らず。それ、新卒しか許されないやつね?「そうですよ。所長、僕たちも頑張るんで!」榊くんも加勢する。氷の氷室レベルの視線、榊くんにも発動。やべ、って顔をし
実家に向かう車内。瑛はずっと無言だった。「……そんなに緊張しなくていいんだよ?」「してない」いや、してるしてる。「そこ、右ね」左に車線変更する瑛。「右だよ?」「……そうか」右に車線変更し直して、そのまま右折レーンへ入る。後続車がいなくて、本当によかった。……だめだ。瑛、今日絶対何かやらかす。どうしよう。“今日は緊張でこういう感じだけど、普段はできる上司なんです♡”なんて、通用するわけがない。あああああ。心の中でこっそり頭を抱えているうちに、車はうちの実家の近くのパーキングに停まった。「行こうか」「瑛、そっちじゃない。こっち」瑛の手を取る。震えてはいなかった。ただ、真っ直ぐには歩けなくて、何度か私にぶつかる。焦点は今も合っていない。……事故を起こさなくて、本当によかった。インターホンを鳴らす。ドアを開けたのは、お母さんだった。「来たよ」「ようこそ、おいでくださいました」よかった。お母さん、普通の笑顔だ。「氷室瑛です。本日は時間に遅れてしまい、申し訳ありません」ぴしっとした、45度のお辞儀。やらかした榊くんを連れて謝罪に行ったときも45度だったと、莉子さんから聞いたことがある。「あらあ、いいのよ。お顔を上げて」「いえ、そういうわけには」「顔を上げないと家に入れないだろう」「あ、お父さん」苦笑いした父と目が合った。お母さんから『緊張しすぎて……』のくだり、聞いていたんだろう。先に伝えておいて、正解だったかもしれない。居間には、長方形の座卓と座布団が四人分。両親の向かいに、瑛と私が並んで座っている。お父さんの表情は、実はあまりよくない。夏に帰省した時、「どうして結婚を決めたのに、すぐに来ないんだ」と真顔で聞かれたことがある。「仕事の都合がつかないから」としか言えなかった。だって私たち、不動産業界って土日も出勤するもの。お父さんはカレンダー通りの勤務をしているから、そこまでの実感がない。「相手が所長なら土日の休みぐらい都合つくだろう」って。所長だからこそ、土日の休みは取りづらいのに。「……で? どうしてこんなに遅くなった? 結婚を決めたのは、もっと前だったと聞いているが」……やばい。お父さん、カチンコチンの瑛に、慈悲も優しさも全然ない。「はい。もっと早くに伺うのが筋でした。
「ほら」瑛のお母さまにそう言われて、瑛はわずかに眉を寄せた。「お前も乗るな」「でも、してると思います」「……」耳が少し赤い。やっぱりレアだ。職場の人たちに話しても、たぶん信じない。そんなことを考えていた時、廊下の奥から足音がした。「帰ったのか」低く落ち着いた声。振り向くと、瑛のお父さまがいた。スーパーで会った時と同じ、静かな雰囲気。でも家の中だからか、その時より少しだけやわらかく見える。「あ、はい。お邪魔しております、朝比奈りおです」「この前ぶりだな」「……はい」「父さん」「聞いてる。結婚するんだろ」瑛のお父さまはそう言って、私の手元の菓子折りをちらりと見た。「気を遣わせたな」「いえ、そんな」「栗饅頭と栗どら焼きよ」瑛のお母さまがすかさず口を挟む。「秋らしくていいでしょ」「そうか」お父さまは短く頷いた。その感じが、なんというか……瑛っぽい。ああ、やっぱり親子なんだな、と変なところで納得する。「りおちゃん、座っててね。今、お茶とお菓子出すから」「ありがとうございます」「俺が運ぶ」瑛が立ち上がる。「まあ、珍しい」「茶くらい出せる」「そういう意味じゃないのよ」お母さまの声に少し笑いが混じる。瑛は聞こえないふりをして、そのままキッチンへ向かった。その背中を見送っていると、お父さまが向かいのソファに座った。「瑛が、ちゃんと連れてくるとは思わなかった」「父さん」キッチンからすぐに牽制の声が飛ぶ。「聞こえてるぞ」「聞こえるように言った」お父さま、意外と容赦ない。「すみません、あの……」「謝ることじゃない」「……はい」「むしろ安心した」その一言が思いがけなくて、少しだけ目を瞬いた。「安心、ですか」「瑛は昔から、変に頑固なところがあるからな」「父さん」またキッチンから声。「さっきからうるさい」「本当のことだろ」瑛のお父さまは表情をほとんど変えないまま、そう返した。でも、どこか少しだけ楽しんでいる気がする。「でも、こうして家に連れてきたなら、本気なんだろうと思った」「……」「それなら十分だ」胸の奥が少しだけあたたかくなる。大げさな歓迎の言葉じゃない。でも、その簡潔さが逆にうれしい。その時、瑛が盆を持って戻ってきた。湯のみが四つ。急須。お菓子の皿。妙に
「着いた」瑛の声に、心臓が一段跳ねる。「……うん」シートベルトを外せない。手が、いつもと違う。カチャカチャ音を立てて、やっと外せた。瑛はそれを見て、また苦笑した。「だから、そんなに緊張しなくていい」「無理です」「即答だな」「だって、瑛の実家だよ?」「そうだけど」「瑛が育って、瑛のお母さまがいて、瑛のお父さまがいて」「……ああ」「で、私、薄パープルだし」「そこは問題ないだろ」「むしろ問題ないといいなって話なの!」瑛はもう何も言わなかった。言わない代わりに、車を降りたあと、さりげなく私の歩幅に合わせてくれる。そういうところがずるい。緊張してるのは私だけみたいで、ちょっと悔しい。玄関までの数歩がやたら長く感じた。瑛が「来たよ」と言いながらドアを開けた。奥の方から音がする。「いらっしゃい、りおちゃん」瑛のお母さまの声が、思っていたよりずっとやわらかくて、肩に入っていた力が少し抜けた。「お邪魔します」「まあ、今日はまた素敵な色のお洋服ねえ」来た。薄パープル、合格らしい。「ありがとうございます……」よかった。そこ、よかった。この色で来た自分、今だけ全力で褒めたい。「わたし、紫好きでね。こういうやさしい色、いいわね」「母さん」「いいじゃないの、本当のことだもの」瑛のお母さまはそう言って笑って、それから私の手元の菓子折りに目をやった。「気を遣わなくてよかったのに」「いえ、あの、栗饅頭と栗どら焼きで迷って……」「まあ」「結局、両方入っているものにしました」「うれしい。秋らしくていいわねえ」よかった。栗饅頭と栗どら焼き、正解だった。和菓子も、服の色も、どうやら外してはいなかった。今日は出だしがいい。このままいける。たぶん。そう思ったところで、ふと玄関の内側の棚に視線が行った。白いぬいぐるみ。丸い顔。もこもこ。見覚えしかない。「……えっ」思わず声が漏れた。瑛のお母さまが、私の視線の先を見て、ふっと笑う。「あら、気づいた?」「RJ……ですか?」「そうなの。名前、わかるのね」「はい」「私、ジンくん好きでねえ」「……っ」だめだ。緊張の方向が変わった。さっきまでの“彼のご両親にご挨拶する緊張”から、今度は“推し関係の話をどこまでしていいのか”の緊張に変わる。でもその
「あの、莉子さん……」「ん? どしたの、りおちゃん」「ちょっとご相談が」莉子さんは壁時計に目をやった。「じゃ、ランチ、今日一緒に行こっか」「はい」即決だった。助かった。今日は莉子さん、お弁当じゃなかったのね。こんな相談は、莉子さんにしかできない。アオパ社員行きつけの定食屋は避けて、少し歩いた先にあるカウンターだけのパスタ屋へ入った。目の前でマスターがスパゲティを茹でて、手際よく仕上げてくれる店だ。……莉子さんとマンツーマン相談のはずだったのに、なぜか蒼くんまでついてきたけど。「……で、氷室のこと?」「今週末、挨拶に行くことになりまして」「おっ! ご実家訪問じゃん。いいねえ、教科書通りに進んでんね」「はい……。で、服装とか、髪型とか、菓子折りとか、悩ましくて」「りおさんの私服だったら、どれでもオッケーじゃないですか? うちの親だったら問題ないですよ」蒼くんが、なぜか当然みたいな顔で口を挟む。「蒼くん、“どれでもオッケー”ってわけじゃないのだよ」莉子さんは、目の前に置かれたペペロンチーノを食べ始めた。にんにくのいい匂いがする。「だって、りおさん基本清楚じゃないですか。ももちゃんにも、もうちょい、うちの親の前では大人しい服着てほしいですもん」「それは幼馴染だからセーフなんじゃないか?」「いやあの、私の服装について考えてほしいんですけど」私の前には、ほうれん草とベーコンのホワイトソース。蒼くんの前にはカルボナーラが置かれた。……おいしそう。「ワンピースでよくない? パステルカラーの。ほら、薄いパープルのワンピース、こないだ着てたじゃん。リボンタイのやつ。あれ、いいと思う」薄いパープルのワンピースは、推し色を意識して買ったものだけど。……いいだろうか。「いいと思います。で、髪型も今日と同じでよくないです?」「うん、ハーフアップは最強。でも編み込みは入れずに、シンプルな方が無難かもね。初対面?」「それが……こないだスーパーで、ばったりご両親に」「ありゃ」「所長のお母さんの感じ、どうでした?」「軽く挨拶した直後に、お刺身の値引きが始まっちゃって。私も氷室さんのお母さまも、挨拶そこそこに夕方のセールへ……」莉子さんが、口の中のパスタを危うく吹き出しかけて堪えた。蒼くんも笑いを噛み殺している。え?何か私、







