Partager

やられっぱなしじゃ、ない。①

Auteur: 藍沢咲良
last update Date de publication: 2026-09-04 15:43:02

開店前のカウンター。コピー機の音が規則的に続く。紙の角を揃えるたび、気持ちが整う。整う。こういう単純作業が、今日は救いだ。本当は何も、考えたくない。

机に戻る途中、スマホが短く震えた。個別じゃない。社内グループの通知特有の乾いた振動。

画面を見なくても分かった。このタイミングで、榊が何かを投げる匂いがした。

案の定、社内の全体LINE。

『【共有】本日10:30 荒木様 内見追加

急で恐縮ですが、皆さんよろしくお願いします。

対応:榊(車出します)

資料:朝比奈さん作成の一式を使用

注意点:鍵の受け渡し、現地で確認します』

……出た。

(車出します)

(朝比奈さん作成)

(注意点)

短い文の中に、彼の自己像がぎゅっと詰まっている。

“仕事できる俺”

“段取り回せる俺”

“朝比奈さんとも連携してる俺”

個別で入れなかった距離を、全体の空気で押し戻してくる。人目という圧力に紛れて、さっきの境界線を薄めるやり方。

私は、指先でスマホを伏せた。見たことは分かる。既読もつく。でも、反応はしない。ここで彼の投げた球に触れ
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Dernier chapitre

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   染み②

    瑛が何を話しているのかは、とても気になる。でも、今の私は姿を現してはいけない、らしい。三十分が経った。気になりながらも手をつけた仕事は、片付いてしまった。今日も瑛と帰るつもりなんだけど……。瑛、解放されたかな。店舗には、もう私しか残っていなかった。先に出た蒼くんからは、念押しのLINEが来ている。『朝比奈さん、まだ出ない方がいいです。所長が戻るまで、待機してください。危険です』絵文字がない。いつもは絵文字を多用する子なのに。それだけで、切迫感があった。扉が開いた。瑛だった。その表情は、ぐったりとしていた。「……大丈夫?」声をかけた瞬間、瑛は私の名前を呼んだ。「りお」そのまま、腕に包まれる。他に人がいなくてよかった。瑛は何も言わない。聞きたいことは、たくさんある。あの人は誰なのか。何を言われたのか。どうして、あんなふうに瑛の名前を呼んだのか。でも、この人が今、回復するためには、私を黙って抱きしめることが必要なのだとわかった。だから、何も聞かなかった。腕の力が、少しだけ緩む。私は顔を上げた。「大変、だったね」「ああ……」瑛は私をそっと離すと、所長席へふらふらと戻った。椅子に沈み込んだ彼は、そのまま眠ってしまいそうだった。こんなに瑛を消耗させた女性。久しぶりの再会に、運命という言葉を使うことにためらいのない人。ここまで聞こえてきた台詞だけで、その人が瑛の過去の人だということは、瑛に聞かなくてもわかった。そして、瑛がその人を歓迎していないことも。「りおちゃん、今、いい?」翌日。朝の仕事の準備をしていた私は、莉子さんに呼ばれた。瑛は出社して早々、誰かに呼ばれて出ていったきり、まだ戻っていない。昨夜も今朝も、瑛は説明しようとしてくれた。でも、そのことにまつわる言葉を発しようとするだけで、瑛の疲労が濃くなる気がして、私は止めた。結局、何も聞けていない。案内されたのは、誰もいない会議室だった。人目を避けての話。昨日のことだろうか。「これ、見た?」莉子さんは、スマホの画面を私に向けた。『瑛! まだアオパにいたのね! ……』昨日、エントランスで起きた騒ぎの動画だった。誰かがスマホで撮影したものらしい。「莉子さん、これ……」「ずいぶん、社内で出回ってるみたい」難しい顔をし

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   男運について考える③/染み①

    瑛は、言葉が遅い。遅すぎる。こちらが泣くまで、追い詰められるまで、気がつかないところがある。でも、軽くはなかった。その違いを、私はもう知ってしまった。軽い言葉は、欲しかった言葉に似ている。でも、似ているだけ。似て非なるもの。私が欲しかったのは、誰かに「大丈夫?」と覗き込まれることではなかった。誰かに「話、聞くよ」と逃げ場を差し出されることでもなかった。瑛の口から、私が何なのかを聞きたかった。ただ、それだけだった。そして返ってきた答えは、思いのほか、だいぶ重かった。瑛には悪いけれど、少し笑ってしまうくらいに。でも、幸せだった。エレベーターの扉が開く。フロアに戻ると、いつもの空気がそこにあった。電話の音。キーボードを打つ音。誰かが書類をめくる音。そして、少し離れたところに榊くんがいた。誰かと話していて、笑っている。その笑顔は、たしかに人目を引いた。さっきの人たちが騒ぐのも、少しだけわかる。でも、私の足は止まらなかった。そのまま自分の席へ向かう。途中で、榊くんがこちらに気づいた。一瞬だけ目が合う。榊くんの笑顔が、ほんの少しだけ変わった。いつもの軽さの下に、探るような色が混じる。私が何を考えているのか、知りたがっている顔。かつてはその顔に、だいぶ振り回された。どう思っているんだろう、って。けれど私は、何も返さなかった。ただ軽く会釈をして、席に戻った。その時だった。奥の方から、低い声がした。「朝比奈」瑛だった。書類を手にこちらを見ている。いつもの所長の顔。でも、その目だけは少し違う。私が榊くんから視線を外したことに、気づいている。たぶん、全部ではなくても。「この件、あとで確認する」「はい」私は書類を受け取った。指先が触れたわけではない。距離も、職場としては自然だった。それでも、瑛の視線が一瞬だけ私の左手に落ちたのがわかった。指輪。まだ社内では大きく言っていない。でも、もう隠しきれるものでもない。仕事中はつけない約束にしていた。そのはずだった。でも、瑛がどうしてもつけてほしそうな顔をするから、結局、私が根負けした。言葉は遅いくせに、こういう主張だけはやたら強い。氷室さんの婚約者。森田先生と八神さんにそう言われた時、まだ自分のものではないように感じた言葉。でも今、フ

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   男運について考える②

    私が聞き返すと、森田先生は楽しそうに目を細めた。「八神岳くん。うちの事務所に入ったばかりなんだけどね。まあ、見た目ほど怖くはないよ」「森田先生」低い声で、その男性がたしなめる。声まで、落ち着いていた。その響きに、さっきまでざわついていたエントランスの空気が、一瞬だけ静かになる。「八神です。よろしくお願いします」差し出された名刺を受け取る。八神岳。まだ新しい名刺なのに、そこに印刷された肩書きだけが、妙に重たく見えた。「弁護士、さん……」思わずそう呟くと、八神さんはほんの少しだけ目を伏せた。「まだ一年目です」「一年目にしては、ずいぶん落ち着いてるでしょ」森田先生が横から言う。「先生」もう一度、八神さんが短く止める。そのやり取りに、蒼くんが小さく笑った。「りおさん。八神さんは僕の大学からの友人なんです」「え、そうなの?」「バイト先が一緒だったんです。喫茶ロミオ」喫茶ロミオ。会社の近くにも店舗がある、チェーン店だ。微笑み合う八神さんと蒼くん。けれど榊くんだけは、こちらを見たあと、どこか面白くなさそうな顔をしていた。「氷室さんには、いつもお世話になってますからね。朝比奈さんにも、一度ご挨拶しておこうと思いまして。婚約されたとか……」「あ、はい。えっと、いえ、こちらこそ……」急にそう言われて、私は慌てて頭を下げた。氷室さんの婚約者。その言葉はまだ、少しだけ自分のものではないみたいだった。莉子さんは途中で総務に寄ると言って、私は先にフロアへ戻ることになった。エントランスからエレベーターホールへ向かうと、ちょうど昼休み終わりの人たちが何人か集まっていた。私は少し離れたところで、スマホを鞄にしまいながら待っていた。その時だった。「ねえ、忘年会の動画見た?」聞こえてきた声に、指が止まった。忘年会。その単語だけで、嫌な予感がした。「見た見た。榊くん、意外と踊れるんだね」「わかる。あれちょっと反則じゃない?」「Dynamiteでしょ?若い子って感じだったよね」「いや、若いだけじゃなくてさ。顔もいいし、ノリもいいし」楽しそうな声。悪口ではない。むしろ、褒めている。だからこそ、聞き流せなかった。私はエレベーターの階数表示を見上げたまま、耳だけが勝手にそちらを向いていた。「榊くんって彼女いるのかな」「

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   褒美④/男運について考える①

    ──雨が、築年数を感じさせるアパートの窓を打ちつけていた。その片隅の一室に、その女はいた。暗い部屋の中で、スマートフォンの画面だけが白く光っている。指先が、画面の上をゆっくりと滑った。何度も、何度も再生された動画の中で、その男は笑っていた。忘れるはずがない。忘れられるはずがない。「瑛……」女はスマートフォンを持つ手を、そっと頬に寄せた。「私の、瑛……」細い手首には、いくつもの白い線が走っている。古いものも、新しいものも、もう見慣れてしまった傷だった。画面の中で、瑛が笑っている。誰かに向かって。あの頃と同じ顔で。「……瑛。今もまだ、踊ってたんだ」その顔を見た瞬間、女の唇がゆっくりと弧を描いた。「私の瑛……。やっと、見つけた……!」けれど、その笑みはすぐに消えた。画面の端に映り込んだ、真っ赤に染まった頬。瑛は、その頬の持ち主に向かって笑いかけていた。女の目が、すっと細くなる。「……え?」動画を止めた。指先で、数秒だけ戻す。もう一度、再生する。そこには、確かにいた。瑛の視線の先で、頬を赤く染めている女が。「何……? どういうこと?」女の顔が、ゆっくりと険しく歪んでいく。「同じ職場……?」低く呟いた声が、雨音に溶けた。「同じ職場なのね……?」次の瞬間、女は立ち上がった。部屋の隅に置かれたノートパソコンを開く。青白い光が、女の顔を照らした。キーボードを叩く音だけが、雨音に混じって響く。『このダンス会場と、忘年会をしていた会社を特定してください。三百ポイント進呈します』投稿ボタンに、指を置く。一瞬だけ、女は画面の中の瑛を見つめた。「待っててね、瑛」クリック音が、小さく鳴った。「……特定班って、便利」女の口角が、ゆっくりと上がる。スマートフォンの白い光だけが、その笑みを照らしていた。「ふう……」思わず、ため息が落ちた。「ため息、珍しいね。結婚準備?」向かいの席で、莉子さんが湯呑みを手に笑う。昼休みの”太郎さん”は、今日も居酒屋ランチのお客さんで賑わっていた。厨房からは焼き魚の匂いがして、隣のテーブルでは唐揚げ定食を頼んだ男性社員たちが、午前の会議の愚痴をこぼしている。「あ、すみません」私は慌てて背筋を伸ばした。「結婚するのに、こんなにやることがあったんですね」「そうよ? 式

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   褒美③

    指を添えると、瑛の身体がぴくりと揺れた。その反応だけで、胸の奥が甘く疼く。私は見上げたまま、そっと唇を寄せた。塩のような、熱のような味がした。「……りお」瑛の声が、湯気の中で掠れる。いつも瑛に翻弄されてばかりの私が、今は瑛の余裕を少しずつ奪っている。そう思ったら、たまらなく意地悪な気持ちになった。ゆっくり。焦らすように。ときどき瑛の顔を見上げて、反応を確かめながら。「……っ」瑛の手が、私の髪に触れた。止めるためなのか、耐えるためなのか分からない。でも、指先に力がこもるたび、私はちゃんと効いているのだと分かってしまう。「瑛」名前を呼ぶと、瑛は一瞬だけ目を伏せた。それから、深く息を吐く。「……りお、もう」その声が限界に近いことくらい、私にも分かった。それでも私はやめなかった。私が、したかったから。瑛の身体が大きく震える。低く押し殺した声が、浴室に落ちた。熱がほどけていく気配を、私はすぐ近くで受け止める。次の瞬間、瑛は私の腕を取って、引き上げるように立たせた。「……瑛?」返事の代わりに、唇を奪われた。さっきまで私に翻弄されていた人とは思えないほど、強く、深い口づけだった。「手、ついて」低い声に逆らえず、私はバスタブの縁に両手をついた。背後から抱き寄せられた瞬間、息が止まる。「……っ、瑛……!」身体の奥まで、熱が届いた。瑛は何も言わなかった。ただ私の腰を支え、逃げられないほど近くで、何度も私を満たしていく。浴室の壁に、シャワーの音と、乱れた息が跳ね返る。「りお」耳元で呼ばれるたび、膝から力が抜けそうになる。さっきまで私が握っていたはずの主導権は、あっけなく奪い返されていた。悔しい。でも、それ以上に嬉しい。私はバスタブの縁を握りしめたまま、瑛の名前を何度も呼ばされた。やがて、瑛の呼吸が大きく乱れた。「……りお」低く名前を呼ばれた瞬間、腰を支えていた手に力がこもる。次の拍子に、瑛は私を抱き寄せたまま、苦しそうに身体を離した。「……っ」押し殺した声が、湯気に溶ける。熱いものが、私の太ももを伝って落ちた。一瞬遅れて、それが何なのか分かって、顔まで熱くなる。こんなときでも、ちゃんと外してくれるんだ。ずるい。あんなに余裕をなくしていたくせに。最後の最後で、そういうところだけは瑛

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   褒美②

    「そう。早く言わないと、もっとやらしい格好にするよ」ブラとショーツだけのこの姿以上の、やらしい格好。瑛の望む褒美って、一体どんなレベルなの。「きょ、今日……」「うん」「かっこよかった、です……」瑛はまだジャケットを脱いだだけだった。ネクタイだけが、いつの間にか緩んでいる。「それだけ?」「え、えっと……」首筋に、胸元に、口付けが落ちる。甘いだけじゃない。微かな痛みが、そこに瑛の熱を残していく。瑛はネクタイを外すと、私の両手首を頭の上でまとめた。「え、瑛……っ」「逃げられないだろ」低い声に、身体が反応する。胸元の布が、瑛の指でゆっくりとずらされた。見られている。そう思っただけで、息が浅くなる。「りお。まだ足りない。ちゃんと褒めて」耳元で囁かれた声が、鼓膜の奥を震わせる。息がかかっただけなのに、一瞬、意識が遠のきそうになった。「ほら、りお。ちゃんと俺を見て」触れたのか、触れていないのか分からないほどの距離で、瑛の指先が私を追い詰めていく。ほんの少しの刺激に、身体中が勝手に反応してしまう。「褒めて?」「はあっ……瑛……」「何?」「かっこよかった、の……誰よりも……」言い終える前に、また胸元に痛みが走った。瑛が残した印が、熱を持っていく。『お風呂が沸きました♪』人工的な音声が、脱衣所までやけに明るく響いた。「え、瑛。お風呂、入ろ?」もう、頭の芯はとっくにほどけていた。それなのに、瑛はまだ余裕のある顔をしている。私を腕の中に閉じ込めたまま、背中に回した指先で、プツン、とホックを外した。「続きは、身体を洗ってからな?」耳元に落ちる低い声。この人は、全部わかっていてやっている。暖房の効いた浴室。瑛がシャワーの温度を確かめている隙に、私は慌ててクレンジングを手に取った。きっと、今しか落とせない。湯気の向こうで、瑛が小さく笑った気がした。何も言わないまま、彼は私を椅子に座らせ、迷いのない手つきで髪を濡らしていく。指が頭皮に触れるたび、身体の力が抜けていく。悔しいくらい、気持ちいい。でも。私だって、やられっぱなしじゃない。大人しく従っているふりをしながら、私は瑛の背後にあったボディソープへ手を伸ばした。手のひらに泡を広げ、そっと彼の胸元へ滑らせる。「……りお?」一瞬、瑛の手が止まった

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status