Se connecter「補足してもいいですか」いつの間に来ていたのか、入り口近くに立っていた蒼くんが、静かに手を挙げた。神崎管理本部長が視線を向ける。「速水くん、どうぞ」「昨日、朝比奈主任が様子を見に行こうとした時点で止めました。理由は、相手が氷室所長を目的に来ている可能性が高かったからです。所長の現在の近しい相手を見せるのは、リスクになると思いました」会議室が、少しだけ静かになった。蒼くんは、いつもの柔らかい顔をしていなかった。「今後も、朝比奈主任を一人で表に出す場面は減らした方がいいと思います。少なくとも、鷹野さんの顔と名前を受付、店舗、営業、総務で共有するまでは」森田先生が、低く笑った。「速水くん、君は弁護士向きだね」「いえ。以前、似たようなことがありまして」それ以上、蒼くんは言わなかった。──何があったの蒼くん。恐らくその場の蒼くん以外の全員が思ったのだろうけど、誰も口にしなかった。その後、鷹野さんの情報共有と来訪時の対応手順だけが、淡々と決められていった。営業所の自席に戻ると、今度は莉子さんが瑛に耳打ちをした。両眉を上げた瑛は莉子さんとまたどこかに消えた。何か情報があったのかもしれない。目の前には、仕事。家に帰ると、結婚準備。プランナーさんの出す宿題の量がえぐい。──やりますよ。宿題ぐらい。無事に結婚式の日を、迎えられるならね?その日、香世さんは来なかったと聞いた。いつも通りに仕事を終えて、今日は私の家に瑛も帰ってきた。今日は、じゃない。今日も、だ。香世さんは、今の瑛の住所を知らないはずだ。けれど、念には念を入れるに越したことはない。会社のエントランスで、あれだけ騒ぐ人だ。瑛の家を探そうと思えば、探せてしまうのかもしれない。「──江崎から、聞いたか?」遅い夕食を、向かい合ってとっていた。仕事の疲れも当然ある。けれど今の瑛は、香世さんの件でさらに疲労が深い。最近の瑛は、魚を好む。お刺身はなかなか買いに行けないから、今日も煮魚にした。煮魚は、慣れれば案外簡単だ。「香世さんのこと?」「そう」「昔、婚約してたって」「じゃなくて。最近の話」「最近?」最近の香世さん。瑛に執着して、会社のエントランスで騒いだ。私が知っている情報は、それくらいしかない。「エントランスの件しか……」「そうか」瑛は箸を置い
自席に戻ると、今度は私が会議室に呼ばれた。瑛は、まだ戻っていない。なら、さっきの呼び出しは終わっていないのだ。ということは、この呼び出しの目的は、瑛と私に関わることだ。つまり、昨日の一件について、私たちは会社から何か確認される。本社ビルの一階にある営業所兼店舗。私たちの職場は、そこにある。けれど、呼ばれた会議室は店舗奥ではなく、上階の本社フロアだった。会議室のドアをノックする。返事を待ってから、「失礼します」と中へ入ると、神崎管理本部長を中心に、瑛と森田先生、八神先生が着席していた。神崎管理本部長が出てきた、ということは。この件は、単なる私事ではなく、危機管理・人事総務案件として扱われている。「朝比奈主任。氷室所長から、昨日の件について説明は受けていますか」神崎管理本部長は、穏やかに、けれど逃さない目で私に尋ねた。瑛が、わずかに目を伏せる。ああ。瑛、今朝よりさらに消耗している。「氷室所長は、昨日の件でかなりお疲れのようでした。直接、氷室所長からは聞いておりません。ただ、先ほど江崎副所長から、鷹野香世さんの件について教えていただきました」「どのように説明されましたか」「学生の頃からのお付き合いで、かつて婚約されていたと伺いました」神崎管理本部長は、瑛に視線を移した。「氷室所長。合っていますか」憔悴しきっていても、瑛は姿勢を崩さなかった。「はい。間違いありません。朝比奈主任には、私から説明するべきでした」「おふたりは現在婚約されている、という認識でよろしいですね」一拍、会議室の空気が止まった。瑛は、私を見なかった。けれど、逃げもしなかった。「はい。まだ公表していませんが、朝比奈主任と婚約しています」「朝比奈主任。鷹野香世さんと直接会ったことはありますか」「ありません」「昨日の騒ぎのときに、あなたは顔を出さなかった。ということでよろしいですか?」「はい。様子を見に行こうとしたのですが、うちの課の速水くんに止められました」瑛が、深いため息をついた。香世さんに私の顔を見られることを、瑛はきっと恐れていた。「発言してもよろしいですか?」「はい、八神先生」「森田法律事務所の八神です。朝比奈さんは鷹野さんに顔を見られていないとのこと。だからこそ今、情報を共有しておく必要があります」「情報というと?八神くん
瑛が何を話しているのかは、とても気になる。でも、今の私は姿を現してはいけない、らしい。三十分が経った。気になりながらも手をつけた仕事は、片付いてしまった。今日も瑛と帰るつもりなんだけど……。瑛、解放されたかな。店舗には、もう私しか残っていなかった。先に出た蒼くんからは、念押しのLINEが来ている。『朝比奈さん、まだ出ない方がいいです。所長が戻るまで、待機してください。危険です』絵文字がない。いつもは絵文字を多用する子なのに。それだけで、切迫感があった。扉が開いた。瑛だった。その表情は、ぐったりとしていた。「……大丈夫?」声をかけた瞬間、瑛は私の名前を呼んだ。「りお」そのまま、腕に包まれる。他に人がいなくてよかった。瑛は何も言わない。聞きたいことは、たくさんある。あの人は誰なのか。何を言われたのか。どうして、あんなふうに瑛の名前を呼んだのか。でも、この人が今、回復するためには、私を黙って抱きしめることが必要なのだとわかった。だから、何も聞かなかった。腕の力が、少しだけ緩む。私は顔を上げた。「大変、だったね」「ああ……」瑛は私をそっと離すと、所長席へふらふらと戻った。椅子に沈み込んだ彼は、そのまま眠ってしまいそうだった。こんなに瑛を消耗させた女性。久しぶりの再会に、運命という言葉を使うことにためらいのない人。ここまで聞こえてきた台詞だけで、その人が瑛の過去の人だということは、瑛に聞かなくてもわかった。そして、瑛がその人を歓迎していないことも。「りおちゃん、今、いい?」翌日。朝の仕事の準備をしていた私は、莉子さんに呼ばれた。瑛は出社して早々、誰かに呼ばれて出ていったきり、まだ戻っていない。昨夜も今朝も、瑛は説明しようとしてくれた。でも、そのことにまつわる言葉を発しようとするだけで、瑛の疲労が濃くなる気がして、私は止めた。結局、何も聞けていない。案内されたのは、誰もいない会議室だった。人目を避けての話。昨日のことだろうか。「これ、見た?」莉子さんは、スマホの画面を私に向けた。『瑛! まだアオパにいたのね! ……』昨日、エントランスで起きた騒ぎの動画だった。誰かがスマホで撮影したものらしい。「莉子さん、これ……」「ずいぶん、社内で出回ってるみたい」難しい顔をし
瑛は、言葉が遅い。遅すぎる。こちらが泣くまで、追い詰められるまで、気がつかないところがある。でも、軽くはなかった。その違いを、私はもう知ってしまった。軽い言葉は、欲しかった言葉に似ている。でも、似ているだけ。似て非なるもの。私が欲しかったのは、誰かに「大丈夫?」と覗き込まれることではなかった。誰かに「話、聞くよ」と逃げ場を差し出されることでもなかった。瑛の口から、私が何なのかを聞きたかった。ただ、それだけだった。そして返ってきた答えは、思いのほか、だいぶ重かった。瑛には悪いけれど、少し笑ってしまうくらいに。でも、幸せだった。エレベーターの扉が開く。フロアに戻ると、いつもの空気がそこにあった。電話の音。キーボードを打つ音。誰かが書類をめくる音。そして、少し離れたところに榊くんがいた。誰かと話していて、笑っている。その笑顔は、たしかに人目を引いた。さっきの人たちが騒ぐのも、少しだけわかる。でも、私の足は止まらなかった。そのまま自分の席へ向かう。途中で、榊くんがこちらに気づいた。一瞬だけ目が合う。榊くんの笑顔が、ほんの少しだけ変わった。いつもの軽さの下に、探るような色が混じる。私が何を考えているのか、知りたがっている顔。かつてはその顔に、だいぶ振り回された。どう思っているんだろう、って。けれど私は、何も返さなかった。ただ軽く会釈をして、席に戻った。その時だった。奥の方から、低い声がした。「朝比奈」瑛だった。書類を手にこちらを見ている。いつもの所長の顔。でも、その目だけは少し違う。私が榊くんから視線を外したことに、気づいている。たぶん、全部ではなくても。「この件、あとで確認する」「はい」私は書類を受け取った。指先が触れたわけではない。距離も、職場としては自然だった。それでも、瑛の視線が一瞬だけ私の左手に落ちたのがわかった。指輪。まだ社内では大きく言っていない。でも、もう隠しきれるものでもない。仕事中はつけない約束にしていた。そのはずだった。でも、瑛がどうしてもつけてほしそうな顔をするから、結局、私が根負けした。言葉は遅いくせに、こういう主張だけはやたら強い。氷室さんの婚約者。森田先生と八神さんにそう言われた時、まだ自分のものではないように感じた言葉。でも今、フ
私が聞き返すと、森田先生は楽しそうに目を細めた。「八神岳くん。うちの事務所に入ったばかりなんだけどね。まあ、見た目ほど怖くはないよ」「森田先生」低い声で、その男性がたしなめる。声まで、落ち着いていた。その響きに、さっきまでざわついていたエントランスの空気が、一瞬だけ静かになる。「八神です。よろしくお願いします」差し出された名刺を受け取る。八神岳。まだ新しい名刺なのに、そこに印刷された肩書きだけが、妙に重たく見えた。「弁護士、さん……」思わずそう呟くと、八神さんはほんの少しだけ目を伏せた。「まだ一年目です」「一年目にしては、ずいぶん落ち着いてるでしょ」森田先生が横から言う。「先生」もう一度、八神さんが短く止める。そのやり取りに、蒼くんが小さく笑った。「りおさん。八神さんは僕の大学からの友人なんです」「え、そうなの?」「バイト先が一緒だったんです。喫茶ロミオ」喫茶ロミオ。会社の近くにも店舗がある、チェーン店だ。微笑み合う八神さんと蒼くん。けれど榊くんだけは、こちらを見たあと、どこか面白くなさそうな顔をしていた。「氷室さんには、いつもお世話になってますからね。朝比奈さんにも、一度ご挨拶しておこうと思いまして。婚約されたとか……」「あ、はい。えっと、いえ、こちらこそ……」急にそう言われて、私は慌てて頭を下げた。氷室さんの婚約者。その言葉はまだ、少しだけ自分のものではないみたいだった。莉子さんは途中で総務に寄ると言って、私は先にフロアへ戻ることになった。エントランスからエレベーターホールへ向かうと、ちょうど昼休み終わりの人たちが何人か集まっていた。私は少し離れたところで、スマホを鞄にしまいながら待っていた。その時だった。「ねえ、忘年会の動画見た?」聞こえてきた声に、指が止まった。忘年会。その単語だけで、嫌な予感がした。「見た見た。榊くん、意外と踊れるんだね」「わかる。あれちょっと反則じゃない?」「Dynamiteでしょ?若い子って感じだったよね」「いや、若いだけじゃなくてさ。顔もいいし、ノリもいいし」楽しそうな声。悪口ではない。むしろ、褒めている。だからこそ、聞き流せなかった。私はエレベーターの階数表示を見上げたまま、耳だけが勝手にそちらを向いていた。「榊くんって彼女いるのかな」「
──雨が、築年数を感じさせるアパートの窓を打ちつけていた。その片隅の一室に、その女はいた。暗い部屋の中で、スマートフォンの画面だけが白く光っている。指先が、画面の上をゆっくりと滑った。何度も、何度も再生された動画の中で、その男は笑っていた。忘れるはずがない。忘れられるはずがない。「瑛……」女はスマートフォンを持つ手を、そっと頬に寄せた。「私の、瑛……」細い手首には、いくつもの白い線が走っている。古いものも、新しいものも、もう見慣れてしまった傷だった。画面の中で、瑛が笑っている。誰かに向かって。あの頃と同じ顔で。「……瑛。今もまだ、踊ってたんだ」その顔を見た瞬間、女の唇がゆっくりと弧を描いた。「私の瑛……。やっと、見つけた……!」けれど、その笑みはすぐに消えた。画面の端に映り込んだ、真っ赤に染まった頬。瑛は、その頬の持ち主に向かって笑いかけていた。女の目が、すっと細くなる。「……え?」動画を止めた。指先で、数秒だけ戻す。もう一度、再生する。そこには、確かにいた。瑛の視線の先で、頬を赤く染めている女が。「何……? どういうこと?」女の顔が、ゆっくりと険しく歪んでいく。「同じ職場……?」低く呟いた声が、雨音に溶けた。「同じ職場なのね……?」次の瞬間、女は立ち上がった。部屋の隅に置かれたノートパソコンを開く。青白い光が、女の顔を照らした。キーボードを叩く音だけが、雨音に混じって響く。『このダンス会場と、忘年会をしていた会社を特定してください。三百ポイント進呈します』投稿ボタンに、指を置く。一瞬だけ、女は画面の中の瑛を見つめた。「待っててね、瑛」クリック音が、小さく鳴った。「……特定班って、便利」女の口角が、ゆっくりと上がる。スマートフォンの白い光だけが、その笑みを照らしていた。「ふう……」思わず、ため息が落ちた。「ため息、珍しいね。結婚準備?」向かいの席で、莉子さんが湯呑みを手に笑う。昼休みの”太郎さん”は、今日も居酒屋ランチのお客さんで賑わっていた。厨房からは焼き魚の匂いがして、隣のテーブルでは唐揚げ定食を頼んだ男性社員たちが、午前の会議の愚痴をこぼしている。「あ、すみません」私は慌てて背筋を伸ばした。「結婚するのに、こんなにやることがあったんですね」「そうよ? 式







