Mag-log in曲が終わった瞬間、会場が大きな拍手に包まれた。立ち上がって拍手している人もいる。社長なんて、子どもみたいに笑っていた。ステージの上で、瑛たちが軽く頭を下げる。その時、瑛がまた私を見た。余興は終わったのに。もう踊っていないのに。それでも目が合った瞬間、胸が苦しくなった。「……もう無理です」「うん、見てて分かった」莉子さんが小さく笑いながら、私の背中を支えてくれた。その後の歓談の時間、私は壁際の椅子に移動させられた。少し休めば平気だと思った。倒れたわけではない。ただ、立ち上がると足元がふわふわするだけだ。「りお」低い声がして、顔を上げる。瑛がいた。ステージから降りたばかりのまま、ネクタイは外したまま。袖もまくったまま。少しだけ汗ばんだ額が、普段より近く見えた。「顔、赤い」誰のせいですか。そう言いたかったのに、言葉にならない。瑛は私の前に片膝をつき、目線を合わせた。「水、飲める?」やめて。今その王子様ポジション、私にはとどめでしかない。プロポーズのときと同じシチュエーションなんですけど。瑛、狙ってやってる?差し出されたグラスを受け取ろうとした指が、少し震える。瑛はそれに気づいたのか、グラスを持ったまま、私の手元まで近づけた。「無理するな」その声が、さっきまでステージで会場を煽っていた人と同じだなんて、信じられない。少し離れたところで、莉子さんの声がした。「所長、介抱するなら責任持ってくださいね」瑛は振り返らずに答えた。「当然だ」その一言で、私は本日何度目かの限界を迎えた。「──山王通まで」忘年会の帰り。ダンス隊の二次会を断って私とともにタクシーに乗り込んだ瑛は、運転手さんに自宅の住所を告げた。「二次会、良かったの?」「いつも顔を出している。たまにはいいだろ」「瑛は管理職だから良くても。私は下っ端だし出た方が」カフスもネクタイも、ジャケットもすっかり元通りの瑛が指を絡めてきた。顔を上げると、熱っぽい目をした瑛が私を見つめていた。「りお。俺、頑張ったんだよ」「う、うん。すごかった」何がすごいって、私が倒れる一歩手前までいったことだ。「りおが……踊って欲しそうだったから」「うん」「久しぶりに、人前で踊った」「うん」破壊力、半端無かったです。スマホで撮ってた人は、今ごろショート動画
「……りおちゃん」莉子さんが、耳元で囁いた。「今の顔、だいぶまずいよ」「何がですか」「恋してる人の顔」私は返事ができなかった。ステージ上のコントが終わり、大きな拍手が起きる。司会者が再びマイクを握った。「ありがとうございました! いやあ、今年からなのに、レベルが高いですね!」会場が笑う。「それでは、いよいよ本日のラストです」胸の奥が、どくんと鳴った。司会者が、わざと少し間を置く。会場中が、次の言葉を待っている。「トリを飾りますのは──」私は無意識に息を止めた。「賃貸営業部と賃貸管理部選抜の皆さんによる、BTS『Dynamite』です!」その瞬間、会場が一気に沸いた。拍手。歓声。口笛。誰かが「待ってました!」と叫ぶ。私はその渦の中で、ただステージ袖を見つめていた。照明が少し落ちる。ステージの中央に、柔らかい光が集まる。冒頭。蒼くんのグクパート。神谷さんがナムさんのパートで出てきて。そして、瑛が現れた。ホビのパートだ。一瞬だけ、目が合った気がした。けれど、すぐに瑛は視線を客席の奥へ流して、何事もなかったみたいに笑った。その笑い方が、ずるかった。いつものスーツ姿とは少し違う。ジャケットはなく、白いシャツに黒いパンツ。ネクタイは外していて、袖は軽くまくっている。それだけなのに、会場の空気が変わった気がした。隣で莉子さんが、小さく息を呑む。「……これは、ずるいね」本当に、ずるい。私はグラスを持つ手に力を込めた。美味しい料理と美味しいお酒。余興を見るだけの私は、気が楽だった。そう思っていた数時間前の自分を、少しだけ恨んだ。こんなの、気楽に見られるわけがない。音楽が鳴った瞬間、瑛の空気が変わった。それまでの瑛は、いつもの瑛だった。落ち着いていて、余興のステージに立っていることすら、会議のひとつみたいな顔をしていた。なのに、最初のステップを踏んだ瞬間、会場がわっと沸いた。白いシャツの袖をまくった腕。無駄のない動き。少し伏せた視線が、音に合わせて上がる。──まずい。そう思った時には、もう遅かった。瑛はセンターにいた。普段、感情を表に出さない人が、音楽に合わせて肩を揺らし、軽く顎を上げる。それだけで、会場の視線が一斉に集まる。「……りおちゃん」隣で莉子さんが、楽しそうに囁いた。「呼吸
私はステージから目を逸らし、会場の向こう側をちらりと見た。所長たち、管理職の部署のテーブルは、私たちの席から少し離れている。瑛は上着を椅子の背にかけ、白いシャツにネクタイ姿で座っていた。隣の人に何か話しかけられて、いつもの涼しい顔で短く返している。忘年会の空気の中にいても、やっぱり瑛は瑛だった。落ち着いていて、少し近寄りがたくて、だけど視線を向けると不思議と目で追ってしまう。──あの人が踊る。その事実が、まだうまく結びつかない。「りおちゃん」「はい」「今、見てたでしょ」「何をですか」「所長」莉子さんがにやっと笑う。私はすぐにグラスを口に運んだ。中身は烏龍茶なのに、喉が少し熱い。「見てません」「見てた顔だったけど」「ステージを見てました」「ステージの延長線上に所長がいたんだ?」「莉子さん、酔ってます?」「まだ一杯目」まだ一杯目でこれなら、先が思いやられる。料理はどれも美味しかった。前菜は綺麗すぎて、最初どこから箸をつけていいのか迷った。魚料理にはソースがきらきら光っていて、肉料理が運ばれてくる頃には、会場のざわめきもだいぶ大きくなっていた。乾杯から一時間ほど経つと、司会を担当する総務部の二人がステージに上がった。「皆さま、お待たせいたしました」マイクを持った男性社員の声が、会場に響く。「これより、今年から恒例、部署対抗余興大会を始めます!」拍手と歓声が上がった。今年から恒例。社長、恒例にしたいのね。最初に出てきた営業部は、流行りの芸人さんのネタをかなり本気でコピーしていた。衣装まで用意していて、動きも揃っている。次の企画部は、社内あるあるを替え歌にしていた。誰もが思い当たる節のある歌詞に、会場は笑いっぱなしだった。経理部は、なぜかハンドベル。最初は静かすぎると思ったけれど、最後にはクリスマスソングをきっちり完成させて、妙な感動が生まれていた。「みんな、仕事以外でもちゃんとしてますね」私が小さく呟くと、莉子さんが頷いた。「採用時に特技聞かれなかった?」「……そういえば。あれ、忘年会の余興のためだったんですか?」「社長、結構昔に余興のために質問させたのに、実行するの忘れてたんだって。総務課の子が言ってた。りおちゃん、来年は出るでしょ?」「絶対に嫌です」「所長とペアダンスとか」「莉子さ
たぶん、瑛自身が一番できてしまうからだ。見本として前に立たれると、“できる人が言っている”の説得力が強すぎて、ぐうの音も出ない。「……そこ、もう一回」瑛が言って、軽く実演して見せる。足の運びは無駄がなく、腕の角度はぴたりと決まり、一瞬だけ流しただけなのに、会議室の空気がまた変わる。「ほら」蒼くんが小さく笑った。「所長がやると一発で分かるんですよね」「ずるいですよね、それ」榊くんが息を切らしながらぼやく。「見本がうますぎると、逆に心折れるんですけど」「折れるな」「即答!」神谷さんが笑い、莉子さんも吹き出した。私はポカリを配り終えたあと、机の端に腰を寄せて、その様子を見つめた。榊くんは死にかけながらも、ちゃんと食らいついている。蒼くんは何だかんだでマスターし始めている。神谷さんは全体を明るく回し、白石さんは淡々と音源を止めたり戻したりしている。そして瑛は、鬼コーチの顔で、全員をちゃんと引っ張っている。「……いいな」思わず呟くと、隣で莉子さんがにやっとした。「でしょ?」「うん」「りおちゃん、完全に楽しんでる顔してる」「だって、楽しいですもん」「うんうん」莉子さんは満足そうに頷き、それからもう一度スマホを見た。「……ほんとにそろそろ行かないとまずい」「やっぱり!」「でももう少しだけ見たいのよねぇ」「気持ちは分かります」その時だった。「休憩、五分」瑛が言った。一斉に「はぁーっ」と空気が抜ける。榊くんなんて、その場に座り込みそうな勢いだ。「所長! 五分って短くないですか!」「十分にしたら、戻らないだろ」「よく分かってる!」「当たり前だ」私は思わず笑ってしまった。ああ、やっぱり。この人、こういう時、本当に容赦ない。でも──厳しいだけじゃない。ちゃんと全員の限界を見て、折れない範囲で追い込んで、できたところは次へ繋げていく。鬼なのに、信頼できる鬼。それがまた、悔しいくらい似合っていた。「りお」休憩の合間、瑛が私を呼ぶ。「はい?」「ポカリ、助かった」「……どういたしまして」たったそれだけなのに、私の心臓は、また変な音を立てた。だってずるいでしょう。鬼コーチの顔をしていたくせに、そういう時だけ、少しだけ声がやわらかいなんて。「はいはい」莉子さんが、もう帰り支度をし
翌日から、勤務時間後の会議室は、にわかに熱を帯び始めた。白石さんが持ってきたスピーカーから音源が流れ、机は端に寄せられ、いつもの会議室は、数十分だけ“練習場”に変わる。「はい、そこ違う」瑛の声が飛ぶ。「え、今のですか?」榊くんが半分死んだ顔で振り返る。「今のだ」「えーっと……どの部分ですか?」「全部だ」「全部⁉︎」神谷さんが吹き出した。「榊、どんまい」「どんまいで済まないですよ! 所長、今のはどこのどれですか!」「どこも何も、リズムも足も角度も全部合ってない」「急に解像度高過ぎですっ!」会議室に笑いが起きる。でも瑛は笑わない。腕を組んだまま、真面目な顔で榊くんを見る。「まず音を聞け」「聞いてます」「聞けてない」「聞けて……ますって!たぶん」「聞けていたら、そこで逆足は出ない」ぴしゃりと言われて、榊くんはうっと詰まった。「……え、逆足なんですか」「逆だ」「蒼! 今の逆だった!?」「逆でしたね」蒼くんが涼しい顔で答える。「うわ、もうやだ」蒼くんは不思議なくらい覚えが早かった。最初こそ「いや、無理でしょ」と笑っていたのに、いざ曲が流れると、二、三回目にはもう身体が馴染んでいる。派手に目立つタイプではないけれど、要領よくコツを掴んで、気づけば全体の流れを外さない。「何で蒼くん、そんな普通にできてるの?」私が思わず聞くと、蒼くんは肩をすくめた。「見るの好きなんですよ、ダンス動画。ももちゃんが」「え、そうなの?」「ずっと一緒に観てると、何となく覚えるんですよ。カウントの取り方が分かると、意外と動けるようになる」「動ける、のレベルが高いのよ」莉子さんが笑う。その莉子さんは、練習の輪の少し外で、楽しそうに見守っていた。「いやぁ、青春だわぁ」と、口ではのんびり言いながら、時々スマホをちらりと見る。時間。たぶん、息子さん達のお迎えがあるんだろう。それでもすぐには帰らず、「ちょっとだけ見ていこうかな」みたいな顔で、その場に残っている。「莉子さん、時間大丈夫ですか?」私が小声で聞くと、「大丈夫大丈夫。あと少ししたら動く」と笑って返しながら、またスマホの画面を見る。全然“あと少し”じゃない気がする。「ほら、そこのマネージャー」急に瑛の声が飛んだ。「え、私?」「ポカリ」「あっ
片腕を上げる仕草ひとつで場が明るくなる。足を踏み替えるたび、リズムが見える。笑っていないのに、どこか楽しそうで、それが余計にずるい。「ちょっと待って、所長、何それ」神谷さんが吹き出した。「普通にうまいじゃないですか」「動きが素人じゃないですね」蒼くんが腕を組む。「身体が覚えてるんですよ」「覚えてない」瑛は踊りながら、しかも息も乱さずに言った。「いや、覚えてる人の動きなんですよ、それ」白石さんが淡々と返す。私はもう返事もできなかった。だって、見たかった。見たかったけど、まさかこんなに──こんなに、似合うなんて思わないじゃない。スーツ姿のまま、きっちり閉じていた人が、音に合わせて一瞬だけ何かをほどく。その感じが、腹立たしいくらい格好いい。サビ終わり、瑛が最後の動きを小さく止めた。ほんの一拍、会議室が静まり返る。次の瞬間、「きゃーーー!」莉子さんが最初に叫んだ。「うわ、ずるっ」神谷さんが笑いながら頭を抱える。「それ反則でしょう」「ほら、りおさん」蒼くんが私を見る。「見たかったんでしょ?」私は首がもげそうなくらいうなずいた。「見たかったどころじゃないです」「所長、何なんですか今の」「何でもない」「何でもなくないです!」「りお」瑛が少しだけ息をついて、私を見た。その目が、踊る前より少しだけ熱を帯びている気がして、心臓が変な跳ね方をした。「……一回だけと言っただろう」「もう一回」「調子に乗るな」「今のは乗るでしょ!」「乗らない」「私は乗ります!」会議室のあちこちで笑いが起きる。瑛は呆れたように眉を寄せた。でも、さっきまでの“今日いちばん渋い顔”ではなかった。そのわずかな緩みを見つけた瞬間、私は確信した。この人、たぶん昔、とんでもなくモテた。あの後──。私達、賃貸営業部と賃貸管理部は合同で余興をすることが決定した。賃貸管理部の鈴木部長は、社長の無茶振りメールを読んで頭を抱えていた。ところが即日余興が決まったので、相当喜んでいたらしいと望月主任が話していた。いつもの車内。いつもの助手席。いつも通りに運転する瑛の、整った横顔。いつもと違うのは、私の脳内だ。いやいやいやいやいや!何あれ⁉︎前から思っていた。瑛って、私の推しと少し雰囲気が似ている。そ