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第2話

Author: 川端まこと
また誰かが笑った。今度は有博が笑わなかったが、止めもしなかった。

私は有博から目をそらし、傘に手を伸ばした。

さっき誰かにぶつけられたせいで、骨が一本曲がっている。

開いてみると、傘は片側だけ不格好に傾いた。

私はそれを少し見つめたあと、その傘を差して雨の中へ出た。

雨音に混じって、有博の声が背中を追ってきた。

「帰りたいなら勝手にしろ。ただ、あとで俺が機嫌を取りに行くと思うなよ」

足が一瞬止まった。

それでも、私は歩き続けた。

翌日の午前中、ウェディング会社から電話があった。バックパネルに入れる名前を確認したいという。

会場に着くと、披露宴会場の中央に日菜が立っていた。白いサテンのワンピース姿で、ウェディングドレスではないのに、普通のドレスよりも花嫁らしく見えた。

有博は最前列に座り、うつむいて進行表に目を通していた。

担当プランナーは私を見るなり、ほっとしたように息をついた。

「三枝様、お待ちしておりました。本間様が、バックパネルをこちらのデザインに変更したいとおっしゃっていて……私どもだけでは判断しかねまして」

私はステージへ目を向けた。

もとのパネルには、【白川有博 & 三枝紗季】と入っていた。今はそれが英語のフレーズに差し替えられ、下のほうの小さな文字の隅に、私の名前だけが押し込まれている。

日菜が笑って説明した。

「紗季さん、誤解しないでくださいね。ただ、二人の名前を大きく並べるだけだと、ちょっとベタかなって。せっかくの式ですし、もう少し高級感を出したくて」

私が口を開く前に、有博が顔を上げた。

「俺はいいと思う」

担当プランナーは困ったように言った。

「ですが、バックパネルですので、新婦様のお名前がここまで小さいと、お写真に残したとき、ほとんど目立たないかと……」

日菜はすぐに視線を落とした。

「じゃあ、いいです。私、ただ少しでもお役に立てればと思っただけなので……紗季さんは耳が悪いですし、細かい打ち合わせも大変でしょうから」

有博は進行表を閉じた。

「日菜の案で進めてくれ」

私は有博を見た。

「有博、これ、私の結婚式なんだよ」

有博の表情は変わらなかった。

「俺の式でもあるだろ」

そう言われると、私は何も返せなかった。

日菜がこちらへ歩いてきて、親しげに私の腕に自分の腕を絡めた。

「紗季さん、そんなに怖い顔しないでください。結婚式なんですから、もっと楽しくしましょうよ。ずっとそんな顔をしていたら、有博だって疲れちゃいますよ」

日菜との距離が近すぎて、香水の匂いが強く鼻についた。

私は表情を変えないまま、絡められた腕をそっと外した。

「このデザインは好きじゃない」

日菜はみるみる目を潤ませた。

「紗季さん、私のこと嫌いなんですか?」

有博が立ち上がった。

「紗季、日菜に八つ当たりするな」

私は有博を見た。

「デザインが好きじゃないって言っただけ」

「日菜はお前のためを思ってやってくれてるんだぞ」

有博は私の前まで来ると、声を低くした。

「式まであと3日だぞ。こんなところで揉めて、周りに気を遣わせるな」

会場にいたスタッフが何人か、気まずそうに視線を落とした。けれど、みんなの耳に入っているのは分かった。

私の耳は、細かい言葉までは聞き取れない。それでも、こちらに向けられる無数の視線が小さな針のように私を突き刺す痛みだけは、はっきりと感じられた。

日菜が目元をそっと拭った。

「もういいよ、有博。紗季さんの言うとおりにして。もともと、少し繊細なところがある人なんだから」

繊細。

また、その言葉だ。

昔の有博は、私が繊細すぎるんじゃない、相手の言い方が悪いだけだと言ってくれた。

けれど今、有博は何も言わず、日菜の側に立っている。

その沈黙だけで十分だった。

やっぱり私のほうが繊細すぎるのだと、そう言われている気がした。

私はバッグから当初のレイアウト案を取り出し、担当プランナーへ渡した。

「これでお願いします」

有博の表情がすっと冷えた。

「紗季」

私は有博を見なかった。

「申込書にサインしたのは私です。申込金を払ったのも私です。会場の装飾は、私の希望どおりに進めてください」

人前で有博に逆らったのは、これが初めてだった。

有博の目に、一瞬だけ驚きがよぎった。

「こんなことで意地になって、何になるんだよ」

日菜は有博の後ろに立っていた。

「有博、もうやめて。私が帰ればいいんでしょ?」

言い終えるなり、日菜は踵を返した。有博はすぐにその手首をつかんだ。

「誰も帰れなんて言ってない」

私はその手元を見た。有博は日菜の手首を強く握っていた。まるで、彼女が本当に傷ついたのを心配しているみたいだった。

担当プランナーは、ますます居心地悪そうにしていた。

「あの……最終的には、どちらのデザインで進めればよろしいでしょうか」

有博は私を見た。

「紗季、ここまで来て、全部台無しにする気か」

聞き覚えのある言い方だった。

招待状ももう出したんだ。今さら結婚をやめられるわけないだろ。

ここまで来たら、もう引き返せない。

有博にとって、私たちの十数年は、結局その程度のものだったのかもしれない。

私は手にしていた案を、ゆっくりバッグへ戻した。

「じゃあ、二人で決めて」

有博の眉間の皺が少し緩んだ。くだらない言い争いに、やっと勝ったとでも思っているようだった。

日菜も笑った。

「紗季さん、安心してください。紗季さんの結婚式、絶対に素敵にしてみせますから」

披露宴会場を出る前に、私は一度だけ振り返った。

白い照明に照らされたステージで、あの英語のフレーズは見栄えよく浮かんでいた。けれど、少しも温かみがなかった。

私の名前は、ほとんど見えないほど小さかった。

そのとき、ふと、それでもいいと思った。

見えないなら、最初からなかったと思えばいい。

スマホが震えた。

担当プランナーから、こっそりメッセージが届いていた。

【三枝様、万が一、キャンセルをご希望の場合、契約上、申込金の60%はご返金可能です。ただし、本日17時までにご連絡をいただく必要がございます】

私はその文面をしばらく見つめたまま、画面の上に置いた指を動かせずにいた。

そのとき、背後で有博の声がした。

「紗季、日菜のブライズメイドドレスのサイズ、俺に送ってくれ」

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