Masuk彼氏が海外出張から帰国したその日、私は別れを切り出した。 「あのバッグを買ってこなかったからって、拗ねてるのか?」 彼は笑った。 「そうよ」 私は真剣な顔で頷いた。 7日前、彼氏の瀬崎湊(せざき みなと)はチームを連れてフランシアへ出張に行った。 帰国した際、彼は全員にお土産を買ってきており、会社の警備員にまでクロコダイルのベルトを渡していた。 だが、私、結城澪(ゆうき みお)が2ヶ月も前からねだっていた誕生日プレゼントのことだけは、綺麗さっぱり忘れていたのだ。 SNSのタイムラインには、彼が新しく雇った女性秘書・新山胡桃(にいやま くるみ)が、もらったバッグを見せびらかす自撮り写真をアップしていた。 【世界で一番最高の社長に感謝!何気ない一言をこんなに覚えててくれるなんて。ありがとうございます!】 その投稿には、湊からのコメントがついていた。 【お安い御用さ】 私はこの投稿をずっと見つめ、LINEのトーク画面に入力しかけていた「おかえり」の文字を消した。 私と湊は7歳で出会い、18歳で付き合い始め、20年という月日を共に過ごしてきた。 以前は何よりも私を気にかけてくれていたのに、いつしか他の人たちのほうが私より優先されるようになってしまった。 今だってそうだ。別れ話をしている最中だというのに、彼はスマホを見て、胡桃からのランチの誘いを確認すると、笑ってこう言った。 「わかったから、もうわがまま言うなよ。 ただのバッグだろ。次は絶対に買ってきてやるから。 胡桃からランチに誘われてるから、お前はタクシーで帰れよ」 彼は足早に去っていき、私は引き留めもしなかった。 代わりに、私を7回も誘ってくれたフランシアの首都ルミエールにあるアトリエに返信を打った。 【そちらのオファーをお受けします。明日の夜のフライトで向かいます。ルミエールでお会いしましょう】 送信し終えると、私は指にはめていた婚約指輪を外し、彼のデスクの引き出しにしまった。 瀬崎湊。これからは遠く離れた場所で、お互い別の道を歩んでいこう。
Lihat lebih banyak「ありがとう」湊はしばらく沈黙した。「今は幸せに暮らしてるか?」私は軽く笑った。「とても幸せよ」その言葉は、心からの真実だった。湊もそれに気づいていた。彼の目元は少し赤くなっていたが、それでも無理に微笑みを作った。「それならよかった。澪、今日ここに来たのは、復縁を迫るためじゃないんだ。ただ、俺から直接ごめんと言いたかった。それと……かつて俺を愛してくれて、ありがとう」私は彼を見つめた。心の中に憎しみはなく、愛情もなかった。ただ、ごくごく薄い未練のような惜しむ気持ちだけが残っていた。私は言った。「謝罪は受け入れるわ」湊の瞳が一瞬だけ輝いた。しかし次の瞬間、私は続けた。「でも、私たちに未来はもうないの」その小さな光は消え去った。彼はうつむき、長い時間が経ってから言った。「分かってる」展示会場で誰かが私を呼んだ。「結城先生、メディア向けの記念撮影です」私は返事をした。背を向ける直前、湊が突然尋ねた。「澪、もしあの時、俺がもっと早く気付いていたら、まだ挽回するチャンスあったのかな?」私は足を止めた。今回は沈黙しなかった。「ええ、チャンスがあったでしょうね」彼は弾かれたように顔を上げた。私は彼を見つめ、はっきりと告げた。「私が最初に失望した時、あなたが振り返ってくれていたら、挽回できたかも。私の誕生日の夜、あなたが慌てて帰ってきてくれていたら、まだ挽回できたかも。私が別れを告げた時、バッグのせいだと笑うんじゃなくて、真剣に理由を聞いてくれていたら、それも挽回できたかも。でもね湊、人生に『もしも』はないの。あなたが見落としたのは、たった1つのターニングポイントじゃない」私があなたに与えた、すべてのチャンスだったのよ」彼の顔から少しずつ血の気が引いていった。私はもう何も言わなかった。振り返り、スポットライトが当たる場所へと歩き出した。背後から湊が追いかけてくることはなかった。記念撮影の時、無数のフラッシュが一斉に光った。私は人混みの中央に立ち、晴れやかな笑顔を浮かべた。後になって咲から聞いた話だが、閉館の時間が来るまで湊は展示会場の外に長く座り込んでいたらしい。私の個展のポスターを見つめる彼の目は、
しかし、罰を受けたからといって時間が巻き戻るわけではない。私の誕生日の夜のケーキが、再び甘くなるわけでもない。私の心に刻まれた17回の失望が、消えてなくなるわけでもないのだ。半年後、エコーは国際的な新人デザイナー賞を受賞した。授賞式はルミエールで行われた。私は自分でデザインした黒のイブニングドレスを着てステージに立った。スポットライトが私を照らす。客席からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。司会者が私に尋ねた。「結城さん、今日一番感謝を伝えたいのは誰ですか?」この質問は、3年前にも受けたものと同じだった。あの時の私は、湊に感謝した。その場に不在だった人に感謝したのだ。今回、私はトロフィーを握りしめ、微笑みながら答えた。「私自身に感謝します。愛の中で迷子になりながらも、最後にはそこから抜け出した自分自身に感謝します」客席の拍手はさらに大きくなった。ハワードとエマが立ち上がり、私に向けて拍手をしているのが見えた。わざわざルミエールまで飛んで来てくれた咲は、化粧が崩れるほど泣いていた。彼女は口パクで私に伝えた。「あなた、最高よ!」私の目頭も熱くなった。しかしそれは、喜びの涙だった。その夜が終わった後、1通のメールを受信した。送信者は湊だった。私はメールアドレスの着信拒否を解除していたのだ。なぜなら、私はもう彼の名前を見ても怖くなくなっていたから。メールは長文だった。彼は私の授賞式の生中継を見ていたと書いてあった。ステージの上で輝いている私の姿を見て、何年も前のことを思い出したという。あの頃の私も、あんな風にまぶしく輝いていたのだと。ただその後、彼が私の存在に慣れきってしまい、私が本来輝ける人間であったことを忘れてしまったのだと。彼は、私たちが昔よく行っていた行きつけの定食屋に行ったと書かれていた。女将さんが彼に聞いたらしい。「結城さんはどうして一緒に来ないの?」彼は何も答えられなかったそうだ。彼は部屋の片付けをしていた時、本棚の一番上に置かれた3年半前の私のトロフィーを見つけたと言った。そこにはうっすらと埃が積もっていた。彼はそれを長い時間をかけて拭き取った。拭いているうちに、涙が溢れて止まらなくなったという。彼か
「俺たちは出会って20年、付き合って9年、婚約して3ヶ月だぞ。澪、本当にすべてを捨てられるのか?」私は彼に問い返した。「私があなたから離れた時、痛まなかったと思う?」彼は固まった。私は彼を見つめ、ひどく平坦な声で言った。「空港に座っていた時、私も引き返そうかと考えたわ。私を庇って前に立ってくれた7歳のあなたを思い出した。私に告白してくれた18歳のあなたを思い出した。プロポーズしてくれた25歳のあなたを思い出した。思い出すたびに、胸が痛かった。でもね湊、痛いからといって、戻らなきゃいけないわけじゃないの。痛いというのは、私が本当にあなたを愛していたという証でしかないのよ」彼の目から涙がこぼれ落ちた。大人になった湊が、こんなにも無様に泣くのを見るのは初めてだった。「俺が悪かった……俺が本当に間違ってた。胡桃はもう追い出したし、会社にも影響が出てる。俺はもう何もいらない……ただお前に戻ってきてほしいんだ」私は首を横に振った。「やっぱりあなたは分かってないね。私があなたから離れたのは、胡桃を罰するためじゃないわ。あなたに何かを失わせるためでもない。私が離れたのは、もうこれ以上自分を押し殺してはいけないと、ようやく気付いたからよ」湊はむせび泣きながら言った。「これからは直すから。お前が言うことは全部直すから」私は彼を見つめた。「もちろん直せばいいわ。でもそれは、もう私とは関係のないことよ」彼はその言葉に打ちのめされたように、体をよろめかせた。私は続けた。「湊、私は今まであなたに何度もチャンスをあげてきたわ。私があなたに注意するたび、私が沈黙するたび、私が『わかった』と言うたび、本当はすべてがチャンスだったの。ただあなたが、それを一度も真剣に受け止めなかっただけ。もう今は、そのチャンスをあげる気にもなれないの」彼の手にある箱が、ゆっくりと力なく垂れ下がった。長い時間が経ってから、彼は尋ねた。「じゃあ、指輪は?本当にもういらないのか?」私は彼のオフィスの引き出しにしまった婚約指輪を思い出した。かつてその指輪が私の指に嵌められた時、私も心から結婚式を楽しみにしていた。私たちが白髪になるまで添い遂げることを期待していた。し
その喜びはとてもささやかだった。毎朝の1杯のホットコーヒーのように。退勤する道すがらに見る夕焼けのように。いつも私のことを忘れる人が家に帰ってくるのを、もう待たなくていいという安堵のように。アトリエが重要なプロジェクトを請け負った。ルミエールで開催される小規模なウェディングドレスの展示会から、出展の招待を受けたのだ。ハワードは、メインビジュアルとなるウェディングドレスの1着を私に任せてくれた。彼は言った。「結城、君には君自身を表現してほしい。市場に迎合したり、誰かの機嫌を取ろうとしたりしなくていい。君が一番表現したいものを形にしてくれ」私は長く考え込んだ。そして最終的に、そのウェディングドレスに「エコー」という名前をつけた。インスピレーションの源は、過去9年間の経験だ。応えてもらえなかった数々の期待と空回りに終わった待ち時間、そして蔑ろにされながらも、それでも懸命に人を愛そうとしていた自分自身がインスピレーションの源だ。私はドレスの裾を、幾重にも重なる波紋のようにデザインした。まるで谷間に落ちた声が、最後には自分の耳元へと返ってくるかのようだ。襟元には伝統的なハートカットを使わず、すっきりと洗練された直線的なデザインを取り入れた。私が表現したかったのは、愛されることではない。自分自身で立ち上がることだ。ウェディングドレスが完成した日、アトリエ全体が間静まり返った。その後、エマが一番に拍手をした。「本当に美しいわ」ハワードは私を見つめて言った。「結城、これは間違いなく君の代表作になるよ」展示会の当日、エコーはメインホールのど真ん中に飾られた。ライトが当たると、純白のチュールが水面のように広がって見えた。多くの人がその前に立ち止まり、写真を撮っていた。メディアからもインタビューを受けた。「この作品で何を表現したかったのでしょうか?」私はマイクを握り、カメラを見つめて答えた。「一人の人間が、ようやく自分自身の声を聞き届けることができた、ということを表現しています。私たちはよく、愛とは相手からの反応を待つことだと勘違いしてしまいます。でも後になってようやく気付くのです。一番大切な応えは、まず自分自身に返すべきなのだと」インタビューが終わった