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三年間別室生活だった夫は、私が家を出たら慌て始めました

三年間別室生活だった夫は、私が家を出たら慌て始めました

By:  年華Completed
Language: Japanese
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結婚してから、私と夫の久世玲司(くぜ れいじ)はずっと別々の部屋で寝ていた。 最初の頃、一度だけ、一緒に寝ようかと誘ったことがある。 けれど玲司は、迷うことなく断った。 「いや、いい。若菜が嫌がるから。 そもそも、お前さえいなければ、俺たちはあんなことにはならなかった。今のままでいいだろ」 相沢若菜(あいざわ わかな)は玲司の初恋の相手だった。 私はその場に立ち尽くし、しばらくしてからようやくわかったと答えた。 でも後になって考えてみれば、この結婚だって、うちの会社が資金繰りに行き詰まった危機を乗り越えるためであり、同時に玲司の会社が抱えていた厄介な訴訟を解決するためのものにすぎない。 お互い、必要なものを得るための結婚だった。 すべて片づけば、自然と終わる関係なのだ。 それ以来、私は二度とその話を持ち出さなかった。 その後の三年間、玲司はどんな場にも必ず若菜を連れていった。 家族の食事会でも、会社の年次パーティーでも、私の母の誕生日でさえ、玲司の隣に立っていたのは彼女だった。 いったいどちらがこの家の妻なのか、誰もがそう噂していた。 でも、もういい。 片づけるべきことは、すべて片づいた。 だから今度は私が出ていく番だ。

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Chapter 1

第1章

私は書斎で、離婚協議書を最初から最後まで改めて読み返した。

白い紙に黒い文字で、内容は明確に整理されている。

財産分与の欄では、私は何ひとつ要求していなかった。

結婚前から玲司が所有していたこの家も、車も、全て彼のもの。会社の株についても私には一切関係がない。

私が持っていくのは自分名義の貯金だけだ。

私は離婚協議書に久世昭寧(くぜ あきね)と自分の名前を書き込んだ。

三年前の私は、この結婚が利害から始まったものだとしても、きちんと向き合っていけば、いつかはうまくやっていけるかもしれないと本気で思っていた。

あの頃の私は、本当に馬鹿だった。

離婚協議書を封筒に入れ、リビングのローテーブルに置く。

それからスマホを取り出し、玲司とのトーク画面を開いた。

【今日は少し早めに帰ってきて。話したいことがあるの】

二分ほどすると、玲司のアイコンの横に一言だけ表示された。

【わかった】

私はスマホの画面を閉じ、そのままソファの上に放り投げた。

キッチンへ向かい、コップに水を注ぐ。

このキッチンは広い。観音開きの大きな冷蔵庫に、ビルトインのオーブン。ドイツから取り寄せた調理器具まで、一つひとつきれいに並べられている。

けれど私はほとんど使ったことがない。

結婚したばかりの頃は、何度か料理を作った。玲司が帰ってきたとき、せめて温かいものを食べてもらえればと思っていたのだ。

初めて作ったのは肉じゃがだった。玲司は一口食べて、悪くないと言った。

けれど、その直後に電話がかかってきて、そのまま出ていった。若菜のところで何かあったらしい。

二度目は、鶏の照り焼きを作った。その日は、玲司はそもそも帰ってこなかった。

三度目は、テーブルいっぱいに料理を作った。午後四時から始めて、夜七時までずっとキッチンに立ちっぱなしだった。

その日は玲司は帰ってきた。けれどその後ろには若菜がいた。

二人は楽しそうに話しながら家に入ってきて、テーブルいっぱいに並んだ料理を目にすると、玲司は一瞬だけ動きを止めて言った。

「今日は約束があるんだ。外で食べてくる」

若菜は玲司の後ろに立ったまま、小首をかしげて私を見ると、笑顔で言った。

「大変でしたね」

あの笑顔を思い出すだけで、今でも胃の奥がむかむかする。

それ以来、私は料理をしなくなった。

夜七時、玲司は帰ってこなかった。八時になってもまだ帰ってこない。

九時になるとスマホが鳴った。画面を見ると玲司からのメッセージだった。

【若菜のところでちょっと用事ができた。帰るの遅くなる。先に寝てて。待たなくていい】

私はそのメッセージをしばらくじっと見つめていた。

【先に寝てて。待たなくていい】

この言葉を、私は三年間ずっと聞かされてきた。

いつだってそう。玲司が口にするのはいつも若菜の名前だった。

彼女のところではいつも何かが起きて、玲司はいつだって駆けつける。

風邪を引けば付き添い、落ち込めば慰め、引っ越しをすれば手伝う。猫を飼い始めたときですら、玲司は世話を焼いていた。

前に若菜が「街の反対側にある店のケーキが食べたい」と言ったことがある。玲司は車を四十分も走らせて買いに行き、それを彼女のマンションまで届けた。彼女が食べ終わるまで一緒にいて、それからようやく帰宅した。

家に着いた頃にはもう深夜一時を回っていた。

私は聞いた。

「夕飯は食べたの?」

玲司は答えた。

「若菜のところで食べてきた」

そう言うと、玲司はシャワーを浴び、そのまま自室に入っていった。

あの日に疑うべきだったのだが、私は気づかなかった。

結婚したのだから、少しくらい時間がかかってもいい。

ずっと一緒にいれば、玲司はいつか私がそこまで悪い人間ではないと思ってくれるかもしれない。

私がもっと頑張れば、いつか玲司もこの家庭に目を向けてくれるかもしれない、そんなふうに思っていた。

けれど今ならわかる。最初から私のことなど眼中にない相手には、どれだけ尽くしたって無駄なのだ。

どれだけ頑張っても、それを理由に好きになってくれるわけじゃない。自分には関係ないと気にもされない。

私は玲司からのそのメッセージに返信しなかった。

以前なら、ちゃんと読んだという意思表示のつもりで、毎回【わかった】と返していた。

ときには【気をつけて帰ってきてね】とまで付け加えていた。自分が寛容で、聞き分けのいい妻であるように見せたかったのだ。

けれど今日はもう返したくなかった。

どうせあと数日もすれば、玲司からメッセージが届くこと自体、なくなるのだから。

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松坂 美枝
松坂 美枝
復縁するのかとドキドキしながら読んだけども… これはまだかかりそうだと思った 部屋を綺麗に整えてくれる女がいなくなって不便だから戻ってきてほしいんだろとしか思えなかった 家政婦と介護人雇えばいいよこういう男は
2026-08-28 10:47:24
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第1章
私は書斎で、離婚協議書を最初から最後まで改めて読み返した。白い紙に黒い文字で、内容は明確に整理されている。財産分与の欄では、私は何ひとつ要求していなかった。結婚前から玲司が所有していたこの家も、車も、全て彼のもの。会社の株についても私には一切関係がない。私が持っていくのは自分名義の貯金だけだ。私は離婚協議書に久世昭寧(くぜ あきね)と自分の名前を書き込んだ。三年前の私は、この結婚が利害から始まったものだとしても、きちんと向き合っていけば、いつかはうまくやっていけるかもしれないと本気で思っていた。あの頃の私は、本当に馬鹿だった。離婚協議書を封筒に入れ、リビングのローテーブルに置く。それからスマホを取り出し、玲司とのトーク画面を開いた。【今日は少し早めに帰ってきて。話したいことがあるの】二分ほどすると、玲司のアイコンの横に一言だけ表示された。【わかった】私はスマホの画面を閉じ、そのままソファの上に放り投げた。キッチンへ向かい、コップに水を注ぐ。このキッチンは広い。観音開きの大きな冷蔵庫に、ビルトインのオーブン。ドイツから取り寄せた調理器具まで、一つひとつきれいに並べられている。けれど私はほとんど使ったことがない。結婚したばかりの頃は、何度か料理を作った。玲司が帰ってきたとき、せめて温かいものを食べてもらえればと思っていたのだ。初めて作ったのは肉じゃがだった。玲司は一口食べて、悪くないと言った。けれど、その直後に電話がかかってきて、そのまま出ていった。若菜のところで何かあったらしい。二度目は、鶏の照り焼きを作った。その日は、玲司はそもそも帰ってこなかった。三度目は、テーブルいっぱいに料理を作った。午後四時から始めて、夜七時までずっとキッチンに立ちっぱなしだった。その日は玲司は帰ってきた。けれどその後ろには若菜がいた。二人は楽しそうに話しながら家に入ってきて、テーブルいっぱいに並んだ料理を目にすると、玲司は一瞬だけ動きを止めて言った。「今日は約束があるんだ。外で食べてくる」若菜は玲司の後ろに立ったまま、小首をかしげて私を見ると、笑顔で言った。「大変でしたね」あの笑顔を思い出すだけで、今でも胃の奥がむかむかする。それ以来、私は料理をしなくなった。夜七時、玲司は帰
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第2章
私はスマホをローテーブルに置き、テレビのリモコンを手に取ってチャンネルを変えた。テレビではバラエティ番組が流れていて、何人かの芸能人が大げさなくらい楽しそうに笑っている。ソファにもたれながら、ふと、この光景がひどく滑稽に思えた。六十坪ほどもあるこの家で、私は形だけの結婚生活を守りながら、永遠に私を心に留めることのない夫の帰りを待っている。その頃、玲司は初恋の相手に付き添っている。誰にも隠すことなく堂々と。まるでそれが当然であるかのように。結婚すると決まったときから、玲司ははっきり言っていた。私さえいなければ、自分たちはあんなことにはならなかったと。つまり玲司にとって、若菜と別れることになった原因は私なのだ。私が二人の間に割って入り、無理やり引き離した。実家の力とあの訴訟を利用して、玲司を無理やり結婚に縛りつけたと、玲司はそう思っているのだ。けれど本当はどうだったのか。父の会社が資金繰りに行き詰まり、早急にまとまったお金を必要としていた。一方、玲司の会社は厄介な訴訟を抱えていて、それを解決するためにうちの人脈が必要だった。両家の親たちが一度食事をした。それだけで私たちの結婚は決まった。私が結婚したいかどうかなんて、誰も聞かなかった。玲司だって、私を妻にしたいかどうか聞かれてはいない。けれど周囲にとっては、これで公平な取引が成立したのだ。玲司側は資金を出し、うちは人脈を提供する。互いに必要なものを手に入れた。ただ一人、若菜だけが、その取引の犠牲になった。玲司はきっと、私が若菜の居場所を奪ったと思っている。私のせいで、ずっと付き合っていた恋人が、不倫相手という日の目を見ない立場に追いやられたのだと。だから玲司はすべての罪悪感を若菜に向けた。そしてすべての冷たさを私に向けた。結婚式の夜、玲司はかなり酒を飲んでいて、誰かに支えられながら寝室へ入ってきた。私が上着を脱がせ、ネクタイを緩めてやると、突然手首をつかまれた。驚くほど強い力だった。「深沢昭寧」玲司は私をフルネームで呼んだ。酒に焼けたような、かすれた声だった。「この結婚がどういうものなのか、お前だってわかってるだろ。俺はお前を愛してない。これから先も一生愛することはない。身の程をわきまえて、おとなしく俺の妻っていう立場
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第3章
佐藤さんはそう答えると、キッチンへ戻っていった。おかゆを食べ終え、二階に上がって着替える。今日は不動産会社の担当者と内見の約束をしていた。この家を出る前に、新しい住まいを見つけておかなければならない。離婚協議書では財産を何ひとつ要求しなかったけれど、だからといって一文無しというわけではない。結婚前から持っていた貯金がある。この三年間は仕事をしていなかったものの、久世家からは毎月40万円の生活費が私の口座に振り込まれていた。ほとんど使わなかったので、その大半が残っている。結婚前の貯金と合わせれば、それなりにいいアパートを借りても、一年やそこらは十分暮らしていける。その先のことは、そのとき考えればいい。不動産の担当者は、ポニーテールにした若い女性だった。てきぱきした人だ。案内されたのは、市の東側にある2LDKのマンションだった。中心街からもそれほど遠くなく、周辺の環境も悪くない。「久世様、こちらのお部屋は日当たりがすごくいいんですよ。つい最近リフォームしたばかりで、家具も家電もすべて新品です。家賃は月13万円ですが、いかがでしょうか?」ベランダに出て、外を眺める。視界が開けていて、遠くには公園も見えた。決して広くはないが、一人で暮らすには十分だ。何よりここには、玲司との思い出がひとつもない。「ここにします」あまりにも早く決めたからか、担当の女性は一瞬きょとんとした。けれど、すぐに満面の笑みを浮かべる。「ありがとうございます!では、すぐに大家さんへ連絡して契約の手続きを進めますね!」私は一年契約を結び、敷金と家賃を支払った。鍵を受け取って外へ出ると、よく晴れていた。柔らかな日差しが体を包んで、心地いい。道端に立ち、手のひらの鍵を見つめる。不思議なくらい心が軽かった。午後、家に戻ると、リビングには佐藤さんが買ってきてくれた段ボールがいくつか置かれていた。二階に上がって、ウォークインクローゼットの荷物を片づけようとした、そのとき、玄関から物音が聞こえた。振り返らなかった。けれど、なぜか嫌な予感がした。案の定、次の瞬間、聞き慣れた声が背後から飛んできた。「あら、いたんですね」振り返ると、玄関に立っていたのは、若菜だった。若菜は私が持っている段ボールを見ると、一瞬だけ視線を止め
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第4章
若菜は完全に言葉を失っていた。私はそのまま二階へ上がり、彼女を一人リビングに残した。クローゼットを開け、服を一着ずつ取り出していく。三年間暮らしたわりに、服はそれほど多くなかった。玲司は一度も私と買い物に出かけたことがないし、何かをプレゼントしてくれたこともない。結婚記念日も、誕生日も、バレンタインも、何もなかった。今になって思えば本当に滑稽だ。最後のコートを畳んで段ボールに入れ、箱を閉じようとしたところで、スマホが鳴った。画面を見ると、玲司からのメッセージだった。【今夜は会食があるから、夕飯はいらない。若菜が今日から住むことになったから、ゲストルームを使えるようにしておいて】私はスマホを置き、そのまま荷造りを続けた。夕方には、ウォークインクローゼットと書斎の片づけもほとんど終わった。一階へ下りると、若菜がリビングのソファに座ってコーヒーを飲んでいた。物音に気づいて顔を上げる。その視線が、私の手に持っていた離婚協議書の入った封筒に止まった。「それ、何ですか?」私は答えず、封筒をローテーブルに置いて、向かいの一人掛けソファに腰を下ろした。若菜は数秒、じっと封筒を見つめていた。やがて、小さく笑う。「離婚協議書?」私は何も言わなかった。それが答えになった。若菜の目が、ぱっと輝いた。驚いたというより、明らかに喜んでいる。「本当に玲司と離婚するんですか?」「ええ」「いつですか?」「玲司が帰ってきたら話すわ。もともとこの結婚は、お互いに必要なものを得るためだけのものだったから。もう全部片づいたし、早く終わらせたほうがお互いのためでしょ」若菜はしばらく黙って私を見つめていた。その目には、いくつもの感情が入り混じっている。「昭寧さん」ふいに、若菜が声を落として言った。「あなた、本当に玲司のこと好きじゃないんですか?それともそういうふりをしてるだけですか?」その質問に、一瞬言葉が詰まった。好きじゃなかったのか。三年前、結婚したばかりの頃は、確かに期待していた。玲司は見た目もよく、仕事もできた。大勢の中にいても、自然と目を引くような人だった。私がもっとちゃんとして、もっと優しくして、もっと聞き分けのいい妻でいれば、いつか玲司も私を見てくれるかもしれない、そう思ってい
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第5章
リビングが一瞬静まり返った。若菜はソファに座ったまま、コーヒーカップの取っ手をぎゅっと握りしめ、まばたきもせず玲司を見つめている。玲司は私を見ていたが、その表情に大きな変化はなかった。怒りもしない。引き止めもしない。驚いた様子すらなかった。数秒黙ったあと、玲司は手を伸ばして封筒を受け取った。「いつ作った?」「先週」封筒を開け、離婚協議書を取り出すと、最初から最後まで目を通していく。財産分与の欄まで来たところで、玲司の眉間のしわが深くなった。「何もいらないのか?」「ええ」「この家も?」「結婚前から玲司のものだったでしょ。私には関係ないから」玲司が顔を上げた。その目に、私には読み取れない何かが浮かんでいた。「昭寧、お前、意地になってるのか?」思わず笑いそうになった。意地になる?まだ相手を好きだからこそ、腹を立てたり、意地を張ったりするのだ。もう好きでもないのに、何を意地になる必要があるのだろう。「そんなことないわ。本気よ。もともと両家の都合で結婚したんだし、もう必要だったことは全部片づいた。この結婚を続ける理由もないでしょ」玲司は、長い間黙って私を見ていた。その視線はどこか妙だった。私の本心を探っているようにも、何かを考え込んでいるようにも見える。「本当に決めたんだな?」「とっくに決めてるわ」玲司は協議書をローテーブルに置いた。コートのボタンを外し、そのままソファに腰を下ろす。「わかった」たった一言。あっさりとした返事だった。そこには、迷いなんて少しもなかった。隣で若菜が小さく息を呑んだ。すぐに俯いたけれど、口元に浮かんだ笑みを隠そうとしているのがわかった。その様子を見ても、不思議なくらい何も感じなかった。腹も立たない。悲しくもない。悔しくもなかった。「離婚届にはいつサインしてくれる?」玲司はソファにもたれ、眉間を指で揉んだ。「明日にする。今日は酒を飲んでるから、頭がはっきりしてない」「わかったわ」二階へ戻ろうとすると、玲司に呼び止められた。「昭寧」足を止めたが、振り返らなかった。「ここを出たあと、どこに住むんだ?」「もう部屋は契約したわ」背後から返事はなく、数秒の沈黙が落ちた。「もしまだ住むところが決まってなかった
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第6章
その質問は、あまりにも唐突だった。私は一瞬きょとんとしてから、少し考えた。「後悔ってほどじゃないわ。ただ、ちょっと時間を無駄にしたなとは思う」玲司の指が、テーブルを一度だけ軽く叩いた。ほんの小さな動きだったけれど、私は気づいた。「時間を無駄にした、か」玲司はその言葉を繰り返した。「俺と結婚した三年間が、無駄だったってことか?」「ほかに何があるの?」私は逆に聞き返した。「玲司は、この三年間の中で何か思い出に残ってることある?」玲司は答えなかった。「結婚して三年。私と何回一緒にご飯を食べた?ちゃんと家に帰ってきたのは何回?私が好きな食べ物は何か知ってる?私の誕生日が何月何日か知ってる?」私はトーストを置き、玲司を見る。「知らないでしょう。あなたは何も知らない。だって、この三年間、玲司が気にかけてたのはずっと若菜だけだったもの」ようやく玲司の表情がわずかに変わった。眉を寄せ、唇を固く結ぶ。「結婚を承諾したときから、どうなるかはわかってただろ」低い声だった。「ええ、わかってたわ」私は頷いた。「だから玲司を責めたことはない。言ったでしょう。お互い必要なものを得るための結婚だったって。もう全部終わったんだから、これからはそれぞれ自分の道を行けばいい」椅子から立ち上がり、ローテーブルまで歩いていく。封筒を手に取り、中の書類を確認した。最後のページの署名欄には、久世玲司の名前が丁寧な字で書かれている。間違いなくサインしてある。この三年間が、急に長い夢だったように思えた。そして今、夢から覚めた私の手に残っているのは、署名済みの書類だけ。「役所に行きましょう」私が言うと、玲司は頷き、そのまま二階へ上がっていった。私は一人、リビングに残された。五分ほどして、着替えを済ませた玲司が下りてくる。ダークグレーのコートに黒いスラックス。いつものように、隙のない身なりだった。玄関の棚から車の鍵を取り、私を見る。「行くぞ」役所へ向かう車内は、互いの息遣いまで聞こえそうなほど静かだった。玲司は両手でハンドルを握り、まっすぐ前を見ている。運転はいつもどおり穏やかで、一言も話さなかった。私は助手席から、流れていく街並みを眺めていた。途中、一軒のケーキ屋の前を通り過ぎる。それを見て
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第7章
私は玲司のほうを振り向いた。横顔は硬く、顎には力が入っている。視線は遠くに向けられたままだった。「この三年間、俺がお前にちゃんと向き合ってこなかったのは事実だ」「もういいわ。全部終わったことだから」私は書類をバッグにしまい、改めて玲司を見た。「玲司、若菜と幸せになってね」ようやく玲司がこちらを向いた。その目には、なんとも言えない複雑な感情が浮かんでいた。罪悪感でも、未練でもない。むしろ、戸惑っているように見えた。どうして私がこんなにもあっさりと、静かに、何の未練も残さず去っていけるのか、それが理解できない、そんな顔だった。「お前……」玲司は何か言いかけたが結局、口にしたのは一言だけだった。「お前もな」私は小さく笑い、道路脇に停まっていたタクシーへ向かった。「送らなくていい」背を向けたまま、軽く手を振る。「これからは、お互い元気でね」タクシーに乗り込み、新居の住所を告げた。車が走り出してから、バックミラーを一度だけ見る。玲司はまだ、その場に立っていた。書類を握ったまま、こちらを見ている。その姿はどんどん小さくなり、やがて人混みと車の流れに紛れて見えなくなった。私は視線を戻し、シートにもたれかかると、長く息を吐いた。終わった。本当に、全て終わったのだ。アパートの前でタクシーを降り、キャリーケースを引きながら建物に入ると、ちょうど隣の部屋の住人と鉢合わせた。くるくるとしたパーマをかけた中年の女性で、買い物袋を提げている。私を見るなり、気さくに声をかけてきた。「あら、新しく越してきた方?」「はい。今日からなんです」「一人暮らし?」「はい」女性は興味深そうに私を見たけれど、それ以上詮索することはなかった。ただ笑って言う。「若いうちに自分だけの部屋があるっていいわよねえ。私も、あなたくらいの頃にもっと自由に暮らしてみたかったわ」私も笑い返し、キャリーケースを引いてエレベーターに乗った。部屋に着くと、残っていた荷物を片づけ、シャワーを浴びた。楽な部屋着に着替えてソファに座り、スマホを手に取ると、ある番号に電話をかけた。三回ほど呼び出し音が鳴ったところで、相手が出る。「昭寧?」母の声だ。少し驚いている。「こんな時間にどうしたの?」「お母
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第8章
電話を切ると、私はソファにもたれ、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。窓の外からは、鳥たちのにぎやかなさえずりが聞こえてくる。この部屋はそれほど広くないけれど、静かで、防音もしっかりしている。玲司と暮らしていた六十坪ほどもあるあの家とは大違いだ。あそこは広すぎて、いつもがらんとしていた。話し声さえ響いてしまうほどだった。新しい部屋に越してから、一週間が経った。その間に少しずつ自分好みの部屋に整えていった。朝は目覚ましをかけず、自然に目が覚めるまで眠る。起きたら近所でコーヒーを買って、マンションの周りをのんびり散歩する。部屋に戻ったら本を読んだり、ドラマを見たり。そんな毎日は、あの家で過ごした三年間とは比べものにならないほど快適だった。八日目の朝、母から電話がかかってきた。「昭寧、お父さんがね、今週末は家に帰ってきて一緒にご飯を食べようって。あなたに会いたいみたい。それに、少し話もしたいって」私は了承した。週末、タクシーで実家へ向かった。門を入ると、父が玄関の前で待っているのが見えた。濃い色のジャケットを着た父は、三年前よりずいぶん白髪が増えていた。顔のしわも、前より深くなっている。私の姿を見るなり、その目が一瞬潤んだが、すぐに顔をそらして咳払いをする。「帰ってきたか」「うん、お父さんただいま」父は私を上から下まで眺めると、小さく頷いた。「痩せたな。入れ。お前の好きな煮込みハンバーグを作ってある」食卓についてからも、父はあまり話さなかった。ただ私が食べているところをちらちらと見てくる。母も隣から何度もこちらを見ていたけれど、なかなか口を開けずにいた。結局、先に切り出したのは父だった。「昭寧。離婚したこと、本当に後悔してないか?」「うん。ちゃんと考えて決めたことだから」「玲司にひどいことをされたのか?」その質問に一瞬返事に詰まった。ひどいこと。そう言えるほどのことをされたわけではない。だが大切にされたとも到底言えなかった。「そういうわけじゃないわ。ただ合わなかっただけ」父は箸を置いた。長い沈黙のあと、ぽつりと口を開く。「あのときのお父さんは、情けなかったと思う。会社があんなことになって、お前にあの結婚をさせてしまった」「お父さん……」「最後まで聞いて
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第9章
私はその招待状を見つめたまま、数秒固まった。そして思わず笑ってしまった。ずいぶん早いものだ。離婚してまだ半月なのに、もう招待状まで出来上がっている。きっとずっと前から準備していて、邪魔だった私が席を空けるのを待っていただけなのだろう。招待状を裏返すと、小さな文字で一文印刷されていた。【私たちの愛の門出を、ぜひ一緒に祝ってください】愛。幸せ。玲司とその二つの言葉を結びつけると、どうにも皮肉に聞こえた。招待状をローテーブルに置き、ソファにもたれてしばらく考える。行くべきか。普通に考えれば、行ったほうがいいのかもしれない。行かなければ、まだ未練があるように見える。逆に出席すれば、もう何とも思っていないことを示せる。でも正直なところ、二人の結婚式になんて少しも興味がなかった。スマホを取り出し、玲司にメッセージを送った。【招待状、届いたわよ。おめでとう】今回はすぐに返信が来た。【来る?】【どうかしら。予定次第かな】数分経って届いたのは、短い一文だった。【来てほしい】私は返信しなかった。そして十月十八日。結局、結婚式には行かなかった。未練があったわけではない。本当に、行く必要がないと思っただけだ。その日は大学時代からの友達の林美緒(はやし みお)とディナーの約束していた。二人で半日ショッピングモールをぶらぶらして、しゃぶしゃぶを食べ、最後にカフェでコーヒーまで飲んだ。楽しい気分のまま家に帰った。夜、SNSを眺めていると、共通の知り合いが玲司たちの結婚式の写真を投稿していた。黒いタキシード姿の玲司が壇上に立ち、その隣には純白のウェディングドレスを着た若菜がいる。確かに、お似合いだった。美男美女で、誰が見ても絵になる二人だ。私はその投稿に「いいね」を押し、そのまま画面をスクロールした。だがその結婚は私が想像していたようには進まなかったようだ。二人が結婚して三週間ほど経った頃、妙な噂を聞いた。「ねえ、玲司と若菜、喧嘩したらしいよ」電話口で美緒が言った。「へえ。何で?」「若菜が、玲司は自分のことを全然大事にしてくれないって怒ったみたい。いつも上の空だし、たまに名前も呼び間違えるんだって」私は少し驚いた。「呼び間違えるって、誰と?」「昭寧の名前らしい
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第10章
そのメッセージを送ると、私はスマホを伏せてローテーブルに置き、映画の続きを見た。その日から玲司から届くメッセージは、日に日に増えていった。深夜に送られてくることもあれば、明け方に届くこともある。内容もだんだん奇妙なものになっていった。【今日は遅くまで残業だった。家に帰ったとき、いつもの癖で『ただいま』って言いそうになった。でも、誰もいなかった。お前がいた頃は、いつもリビングの明かりがついてたよな】【今日あのケーキ屋の前を通った。そういえば、お前も甘いものが好きだった気がする】数日間は無視していたけれど、とうとう我慢できなくなって返信した。【玲司、あなたはもう結婚したんでしょう。話したいことがあるなら、奥さんに話して】それから丸一日、返信はなかった。翌日になって、長いメッセージが届いた。【昭寧。俺、自分でもどうしたのかわからない。若菜と結婚してから、ずっと何かがおかしい気がする。今まで気にも留めてなかったことが、急に目につくようになった。たとえば、お前は毎晩リビングの明かりを一つだけつけて、俺が帰ってきてから消してた。飲み物を出してくれるときも、いつも温度に気をつけてくれていた。熱すぎても冷たすぎても胃によくないって言ってたよな。俺のシャツがどの棚に入ってるかも全部覚えてたし、ネクタイも色ごとに並べてた。若菜は、そういうことを何ひとつしてくれない】最後まで読んでも、心は少しも動かなかった。ただ、あまりにも今さらすぎて、呆れるしかなかった。私は三年間、それを続けてきた。その間、玲司は一度だって「ありがとう」と言わなかった。まともに私を見ることさえなかった。それなのに、ずっと想い続けていた初恋の相手とようやく結婚した途端、今さら私がしていたことを懐かしんでいる?私は短く返した。【いい加減目を覚まして】それから玲司の通知をオフにしたけれど、それで終わりにはならなかった。離婚から三か月ほど経った頃、美緒から電話がかかってきた。声がやけに弾んでいる。「昭寧!ねえ、私さっき誰を見たと思う!?」「誰?」「玲司!前に二人が住んでた家の近くにいたの!一人でずっと立ってて、タバコも何本も吸ってた!たまたま通りかかったんだけど、かなり痩せてたよ」私は眉をひそめた。「美緒、玲司のことよくわかったわね。ほと
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