LOGIN結婚してから、私と夫の久世玲司(くぜ れいじ)はずっと別々の部屋で寝ていた。 最初の頃、一度だけ、一緒に寝ようかと誘ったことがある。 けれど玲司は、迷うことなく断った。 「いや、いい。若菜が嫌がるから。 そもそも、お前さえいなければ、俺たちはあんなことにはならなかった。今のままでいいだろ」 相沢若菜(あいざわ わかな)は玲司の初恋の相手だった。 私はその場に立ち尽くし、しばらくしてからようやくわかったと答えた。 でも後になって考えてみれば、この結婚だって、うちの会社が資金繰りに行き詰まった危機を乗り越えるためであり、同時に玲司の会社が抱えていた厄介な訴訟を解決するためのものにすぎない。 お互い、必要なものを得るための結婚だった。 すべて片づけば、自然と終わる関係なのだ。 それ以来、私は二度とその話を持ち出さなかった。 その後の三年間、玲司はどんな場にも必ず若菜を連れていった。 家族の食事会でも、会社の年次パーティーでも、私の母の誕生日でさえ、玲司の隣に立っていたのは彼女だった。 いったいどちらがこの家の妻なのか、誰もがそう噂していた。 でも、もういい。 片づけるべきことは、すべて片づいた。 だから今度は私が出ていく番だ。
View More私はマンションのエントランス前で足を止め、振り返って玲司を見た。玲司は全身ずぶ濡れだった。髪は額に張りつき、シャツも濡れて肌にぴったりと張りついている。唇は寒さで少し紫がかっていた。それでも、玲司は笑っていた。私の機嫌をうかがうような、どこか必死な笑顔で。「玲司、いったいどうしたいの?」「一緒にご飯を食べてほしい。一回だけでいい。食べ終わったら帰る。もうしつこくしない」私はしばらく玲司を見つめた。「本当に約束できる?」「ああ。約束する」少し黙ったあと、私はため息をついた。「わかった。一回だけね」玲司の目がぱっと輝いた。その瞬間だけは、まるで世界で一番欲しかったものを手に入れたような顔をしていた。「わかった!何が食べたい?この近くにいい店が……」「何でもいい。玲司が決めて」玲司が選んだのは、近所にある静かな和食店だった。店内は暖かな照明に包まれていて、案内された個室には私たち二人しかいない。向かいに座った玲司は、ずっと私から目を離さなかった。「痩せたな」「痩せてないわよ」「痩せた。前はもう少し頬に丸みがあったのに、今は顎がずいぶん細くなった」「玲司には関係ないでしょ」玲司は一瞬黙り、頷いた。「そうだな。俺には関係ない」料理が運ばれてくると、玲司は次々と私の皿に取り分け始めた。刺身の盛り合わせに、うなぎの蒲焼き。鍋まで、何かと私の世話を焼こうとする。「自分で食べるから。私のことはいいわよ」私は箸を置き、玲司を見た。「玲司、本当は何が言いたいの?」玲司の箸が止まった。やがて、それを静かに置く。「昭寧。話しておきたいことがある」「何?」「若菜と離婚した」私は思わず玲司を見つめた。「もう手続きも終わってる」玲司の声は、不思議なくらい落ち着いていた。「先週のことだ」「どうして?」玲司は自嘲するように笑った。「若菜が好きだったのは、十八歳の頃の俺だったんだ。若菜のためなら喧嘩もして、授業をさぼって、欲しいと言われたケーキを買うために街中を走り回ってた頃の俺。でも、そんな俺はもういない。お前と過ごした三年間で、俺は変わった。決まった時間に家へ帰るようになって、細かいことにも気づくようになった。相手の好みや習慣も覚えるようになった。で
カフェを出たところで、後ろから椅子を引く音がした。玲司が追いかけてきた。「昭寧!」私は振り返らず、歩く速度を上げた。けれど玲司はすぐに追いつき、私の前に回り込んだ。「お前の言うとおりだ」息を切らしながら、玲司が言う。「確かに俺は、失うことに慣れてない。でも、そんなことが言いたいんじゃない。俺が人生で一番馬鹿なことをしたのは、お前と結婚したことじゃない。お前を大切にしなかったことだ。若菜は俺の初恋だった。ずっと、若菜を愛してるんだと思ってた。でもお前と三年間一緒に過ごして、やっとわかったんだ。俺が好きなのは、お前だった。家に帰ったとき、お前がキッチンにいる姿を見るのが好きだった。お前がクローゼットを整えてくれることにも、リビングの明かりを残して待っていてくれることにも慣れてた。若菜には、そのどれもできない。できないんじゃない。若菜は、お前じゃないんだ」私は玲司を見つめた。急にどっと疲れを感じた。「玲司。玲司が言ってるその『慣れてたこと』が、私にとって何だったか考えたことある?」玲司は何も答えなかった。「三年間の孤独よ。三年間、ずっと待ち続けた時間。いつかは振り向いてくれるって、自分に言い聞かせ続けた三年間。玲司はただ、私がしてあげることを受け取るのに慣れてただけ。自分から私に何かしてくれたことなんて、一度もなかった」玲司の目が赤くなった。「昭寧、俺が悪かった」「間違ってたってわかったなら、これから直せばいいわ。でも、私が戻ることは期待しないで」玲司の横を通り過ぎ、そのまま歩き出した。今度は、追いかけてくる足音はしなかった。ただ、玲司は一度こうと決めたら、簡単には諦めない人間だ。それだけは昔から知っている。以前、若菜が厄介なトラブルに巻き込まれたときも、玲司は一か月間何度も裁判所へ足を運び、最後には不利だった状況をひっくり返したことがある。そして今度は、その執念を私に向け始めた。玲司は、私のマンションの前で待つようになった。一日や二日ではない。毎日だった。朝、私がランニングに出ようとすると、いつも植え込みのそばに立っている。手には朝食の入った袋を提げていた。「おにぎり買ってきた。温かいうちに食べろよ」「いらない」「じゃあ、走るとき気をつけろ。今日は冷えるから、
私は深く息を吸った。そして空いているほうの手でスマホを取り出し、玲司の目の前で110と押した。画面に表示された数字を見た玲司の指から、少しずつ力が抜けていく。私はその手が離れたのを確認すると、玲司の目の前でドアを閉めた。ドアが閉まった途端、私はその場にもたれかかった。心臓が激しく脈打っている。しばらくの間、玄関の外は静まり返っていた。やがて、小さなため息が聞こえる。それから足音が少しずつ遠ざかっていった。窓辺まで歩き、カーテンを少しだけめくって外を覗く。玲司はマンションの下にある植え込みのそばに立ち、こちらの窓を見上げていた。そのまま、ずいぶん長いこと立っていた。十分以上はいただろうか。やがてポケットから煙草を取り出し、一本くわえて火をつける。朝の光の中に煙が溶けていく。一人で立つ玲司の姿は、ひどく寂しげに見えた。しばらくして煙草を消すと、ようやく背を向けて歩き出した。その後ろ姿は、まるで誰かに置き去りにされたみたいだった。私はカーテンを閉じ、ベッドへ戻ったが、もう眠れそうになかった。これで玲司もさすがに諦めるだろうと、そう思っていた。けれど私は、一度執着し始めた玲司を甘く見ていたらしい。それからというもの、玲司はあらゆる形で私の生活に入り込んでくるようになった。最初は宅配便だった。毎朝のように、近距離の即日配送で何かが玄関まで届けられた。一日目は、白いバラの花束。カードには、ごめん、と書かれていた。二日目は、マカロンの詰め合わせ。カードには、甘いものが好きだったよな、と。三日目は、発売されたばかりの本。この作家の新刊、読みたいって前に言ってただろ、とメッセージ付きで。私は届いたものを、すべて開封せずそのまま送り返した。それでも玲司はやめなかった。四日目はマフラー。五日目はアロマキャンドル。六日目には、オーロラツアーのパンフレットまで届いた。オーロラツアーの文字を見たときだけ、私は一瞬手を止めた。離婚手続きに向かう車の中で、何気なく「オーロラを見たい」と言っただけなのに玲司は覚えていたらしい。でも、覚えていたから何だというのだろう。覚えていることと、大切にすることは違う。大切に思うことと、人が変われることだって同じではない。私はそのパンフレットも送り返
私はスマホを握ったまま、長い間黙っていた。「玲司」やがて、静かな声で口を開く。「今、自分がどれだけ馬鹿げたことを言ってるかわかってる?」「わかってる」「結婚した日の夜、玲司は私に言ったわよね。一生私を愛することはない。おとなしく玲司の妻という立場に収まって、抱いてもらえるなんて期待するなって。三年間、どんな記念日も若菜と過ごした。私が三十九度五分の熱を出したときも、寝室の入り口から一度見ただけで出ていった。私がテーブルいっぱいに料理を作って帰りを待ってた日には、若菜を連れて帰ってきて、『外で食べる約束がある』って言った」私は一度言葉を切った。「あの日が何の日だったか、知ってる?」「何の日だ?」「私たちの結婚記念日よ」電話の向こうが、長い沈黙に包まれた。玲司の呼吸が次第に荒くなっていく。何かを必死に押し殺しているようだった。「昭寧……」「きれいさっぱり別れましょう」私は遮った。「玲司が最初に言ったとおりよ。この結婚は、お互いに必要なものを得るためのものだった。もう全部終わったんだから、これからは別々に生きていけばいい。それに玲司はもう結婚してる。若菜は自分で選んだ相手でしょ。ちゃんと二人で幸せになって。もう私に連絡しないで」電話を切り、そのまま玲司の番号をブロックした。その夜は、なかなか眠れなかった。悲しかったからではない。腹が立っていたからだ。三年間、あれほど冷たく扱い、存在そのものを無視してきたくせに、今さら「会いたい」の一言で、全部なかったことにできると思っているのだろうか。ふざけないで。私を何だと思っているの?都合のいいときだけ呼びつけて、いらなくなったら放っておく。そしてまた欲しくなったら、手招きさえすれば戻ってくる。そんな都合のいい人間だとでも?冗談じゃない。私は寝返りを打ち、布団を頭までかぶった。無理やり目を閉じて眠ろうとした。翌朝、インターホンの音で目が覚めた。ぼんやりした頭でスマホを見ると、まだ朝七時だった。上着を一枚羽織り、玄関へ向かう。ドアを開けた瞬間、私は固まった。そこに立っていたのは玲司だった。しわだらけの白いシャツ姿で、コートすら着ていない。襟元のボタンは二つ外れ、髪もひどく乱れていた。顎にはうっすらと無精ひげ
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