LOGINただでさえお荷物研究所に配属されてショック を受けていたというのに、そこに来てまさか、かつての恩師であり初恋の相手がこうも見て分かるぐらいに落ちぶれているなどとは思ってもいなかった。
あの雲の上に居た桐生蓮が、今や葵よりもはるか下の方に居るように思えた。それと同時にほんの少しの安心感が湧いてくる。 当時は一生かかっても追いつけないと思っていた蓮が、今は葵のすぐ側に居るような気がして。 この短期間の間に蓮の人生に一体何があったのかは分からないが、蓮と再会した事であの時の気持ちが今もありありと蘇ってくる。 とっくに精算出来たと思っていた感情は、どうやら月日がどうにかしてくれた訳ではなかったようだ。 『俺は、お前のその主体性の無さが嫌いだ』 最後に蓮に言われたこの言葉は良くも悪くも葵の人生を大きく変えた。 嫌がりながらも卒業写真を皆と撮 っている蓮を見て声をかけると、蓮は葵を見下ろしてそう言 ったのだ。 結局、葵だけが蓮と写真を撮ることが出来ず、親友の日向 菜摘に朝まで慰めてもらったのは苦い 思 い 出である。 葵はそんな事を考えながらチラリと視線を蓮に向けた。 蓮はまだスマホを見ているが、 突然何か思い 出したかのようにパソコンの電源を入れたかと思うと、おもむろにキーボードを打ち始める。 「あの、先生急にどうしたんですか?」 何気なく隣に座っていた研究所のメンバーである芝浦タケルに話しかけると、芝浦は肩を竦めて笑った。 「蓮さんの日課。ああやっていっつも俺達には理解出来ないような数式考えてんの」 「数式?」 「そ。あの人天才だからさ、何か考えてないとバグるんじゃない? ここめっちゃ暇だからさ」 そう言って芝浦はデスクの引き出しを開けると、中から漫画を取 り 出して読み始めてしまう。 周りを見渡すと芝浦だけでなく、須藤も紅一点の真中瞳すら各々好きな事に興じていた。 「……流石Qラボ」 絶望にも近い気持ちで呟いた葵は、今回のコンペで勝ち取った物の虚しさを噛みしめる。 こんな調子で本当にプロジェクトは成功するのだろうか? それともコンペに出場すらしなかったチームが結局全てを持っていってしまうのだろうか。 葵はため息をついて席につくと、 皆で話し合おうと思っていた資料をたった一人で読み込む。 新しい飲料のターゲット層は全年代だ。大抵のチームは年代を絞ってコンペに挑んでいたが、葵はそれをあえてしなかった。 「それさ、今回のプロジェクトの奴?」 気がつけば葵の直ぐ側に須藤と真中がやってきていて、背後から葵が持っている資料を覗き込んでくる。 「あ、はい。見ますか?」 「あ、大丈夫。 もう覚えたから」 「は?」 後ろからじっと見ていただけなのに? そう思いつつ須藤を見ると、須藤は口元に手を当てて何やら考え込んでいた。 「全年代をターゲットにしたのは思い切ったね。そしてその手法はスポドリなんだ」 「はい。どこかの年代に絞っても良かったんですけど、色々とマーケティングしてるうちにある事に気づいてしまって」 「ある事?」 「そうなんです。どの年代も悩みは違えど健康に気をつけようとする人たちが増えてきてるんですよね。若 い女性や男性ならダイエットや筋 トレ、中年期の方たちはメタボや美容、そして高齢者は言わずもがな。そしてその全ての年代に受け入れられているのはスポーツドリンクなんです。もしくは栄養ドリンク」 「……確かに」 「でもこれ見る限 りじゃクリーンラベルも目指してるんですねぇ」 今度はいつの間にか隣に移動している真中が黒縁眼鏡を押し上げながら言う。 「そうなんです! 最近のSNSを見ていると、添加物などを敬遠する方が増えてきているように思って」 今回のマーケティングで、葵は徹底的に各 SNS を登録しまくった。最近の風潮 として SNS でバズるとその商品は売れるからだ。 「これで全年代を網羅か。確かにオーガニックとか有機とか好きな層っているもんな」 「まぁ、うちだってそこまでは行かなくても、職業柄あんまり添加物入ってるのは飲みたくないですもんねぇ」 「あとこの年代別ペルソナの分析ヤバいね。これもう小説の設定集じゃん!」 「あ、好きなんです。ペルソナ作るの」 苦笑いを浮かべて言うと、須藤が感心したように笑う。 「この資料見る限 り、君はどうやらマーケティングと分析が得意みたいだ。これ、面白そうじゃん」 「ありがとうございます」 得意というよりは、葵は努力をしなければ自分には価値が無いと思っている。そしてその努力のおかげでここまで来る事が出来たのだとも。 どこにでも居るような普通の女子高生は、一人の教師に出会って人生観を変えた。誰かに必要とされるような人間になるには、何かに特化しなければならないのだと。 「これは当時の先生のおかげなんですけどね」 「そうなんだ?」 「はい。当時の先生は一人の人間の人生を変えてしまうほどの影響力を持っていたんですよ」 葵は自嘲気味に笑った。 「そんなに?」 驚く須藤に葵は真顔で頷いた。 実際に人生を変えられた葵が言うのだ。 それまでことなかれ主義で周 りに合わせて生きてきた葵にとって、 蓮の最後の言葉は衝撃であり、最も傷ついた言葉でもあった。 「そんなにです。何せそれまで高卒で就職しようと思っていた私に大学進学を決めさせたんです。何かを学んで、自分で自分の人生を切 り 開かなければならないって思わせてくれたのが先生でした」 蓮の言葉を、葵は決して忘れない。事なかれ主義で流されるままに生きてきた葵を見透かしたようなあの言葉。 「凄い信頼。 どうしてそこまで心酔しちゃったの」 心酔とは少し違う。最後だと言うのにあんな事を言われ、悔しくて仕方なくて絶対に見返してやると強く思った事が葵の原動力になったというだけだ。 けれど葵はあえて須藤の言葉を否定はしなかった。 どんな感情であったとしても、蓮の行動や言動によって葵がその後の人生に積極的に働きかけるようになったのは事実だったから。 「どうして……だったんでしょうね。 自分でも、もう分かりません」 葵はどこか投げやりにそう言ってちらりと蓮を見る。 そこまで葵に思わせたその相手は、今やもう見る影もなかった——。「久しぶり~! 葵~!」 親友の日向菜摘は高校時代と何も変わらない笑顔を浮かべ、カフェのテラス席に座っていた葵の元に駆け寄ってきた。 彼女は葵とは違って高校の時から既に服飾関連の仕事に就きたいと言って、美大に入った後なぜかネイリストになった不思議な人だ。 「菜摘! 本当に久しぶり! それに相変わらず凄いネイルだね!」 葵は菜摘の爪を見て目を丸くした。彼女の爪の上は最早キャンバスなのだろう。世界の名画がその小さな爪の上で異彩を放っている。 「はは! そりゃプロだから! 最近はね、渉君の足の爪も借りて練習してる!」 「渉君嫌がってない?」 「ぜ~んぜん! あの人は基本的に私が何をしても放任だから。それに会社で皆に自慢してくれてるんだって」 「そっか。相変わらず仲良さそうで安心した!」 瀬戸渉は菜摘の彼氏だ。高校の時に葵が蓮に熱を上げているのを知った菜摘は身辺調査と称して蓮が通っていた大学に学生の振りをして潜り込み、そこで出会った渉と付き合い出した。 「当然じゃん! で、どしたの? 急に。コンペで優勝した~ってあんなに喜んでたじゃん!」 「うん、そうなんだけどね……ほら、あのQラボと組まされたって話覚えてる?」 「ああ、あの落ちこぼれ集団って言われてるとこ?」 「そう。そこのね、責任者がね、桐生先生だったの……」 「はあ⁉ えっ⁉ ど、どういう事⁉ 私何にも聞いてない!」 そう言って菜摘は困惑したような顔をして葵を見つめてくる。 「うん、だって言ってなかったから。何か今さら言いづらくって」 「あ、うん。それはそうなんだけど……で、それがどうしたの? もしかしてまた当時の気持ちが蘇ったとか?」 何だか煮えきらない菜摘の言動を不思議に思いながらも、葵は今の蓮の事を菜摘に全て話した。 すると、少しだけ心の中がスッキリして気持ちが徐々に整理され始めていく。 「——と、言うわけなの。それから何か毎晩悪夢みたいなのを見るようになっちゃって」 「悪夢? 当時の夢は葵にとって悪夢なの? あんだけ楽しそうだったのに」 「だって思い出すのは苦い思い出ばっか
「コンペの勝利者は桐生蓮の教え子ですかぁ」 大手研究所で責任者をしている御堂悠は、会議室で最近台頭してきている飲料会社の専務と打ち合わせしていた。 悠はTVや雑誌でも引っ張りだこの若き天才研究者として名を馳せている。 薬科学においての第一人者、新城真の元で研究をしていた分、周りからの期待も熱い。 そんな悠の研究所に持ち込まれた商品は、今まで必ず大きな成功を収めていた。「そうなんだよ。まさかの事態にこちらも驚いていてね」「おたくはそういう詰めが甘いんですよねぇ。でもまだ新人なんでしょ?」「新人というほどでもないけれど、優秀な子ではあるよ」「それはそれは、勿体ない事をしましたねぇ」 悠は髪を無造作にかきあげると、足を組み直して笑みを浮かべて役員を見る。「今回のコンペの特別枠を受け入れてくれた事には感謝していますよ。その代わりうちからは多大な功績をそちらに残すとお約束もします。ですがねぇ……社員の手綱はしっかり取っておいてくださいねぇ?」 笑みを深めて圧をかけるように忠告すると、役員は分かっているのかいないのか、何故かニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた。「送り込んだのは若い女性だ。もし何かあったらすぐに何かしらの理由をつけて下がらせればいい。若い女に言う事を聞かせるなんて簡単な事だよ」「なるほど。だからその子を送り込んだんですか?」「もちろん優秀だからだよ。けれど、何か不祥事を起こした時に見返りを頂くには若い女性の方がそりゃ良いからね」 どうやらこの男は下心があってその女を蓮の元へと送り込んだらしい。優秀なのも事実なのだろうが、恐らくこの男の好みだったのだろう。 男が身を滅ぼす原因の大抵がプライドか金か女だ。そのどれも踏襲しようとしている男に呆れ返りながらも、悠は資料と資料に隠した万札の束を差し出した。「仕方ないですねぇ。それじゃあ次の資料はこれです。頼みましたよ」「ああ。ではまた月末に」 男は書類の束を嬉々として受け取り会議室を出て行く。 悠は男が出て行った事を確認すると、舌打ちをして控えめに怒鳴った。
「だったら今の蓮さん見て驚いたでしょ?」 須藤の言葉に葵は間髪入れずに頷いた。そんな葵を見て須藤が困ったように笑う。 「蓮さんにも色々あったんだよ。まぁでも言動が冷たくてキツイのは今もだから安心して」 「……そこは少しは丸くなってて欲しかったですね」 「言えてる」 須藤はあえて深くは尋ねてはこなかった。きっとそれほど葵の表情が酷かったのだろう。 あれほど雲の上の人物だと思っていた人が、 今は葵に使われる立場に居るだなんて、ここに来るまでは考えもしなかった。 研究所にもランクがあり、権威の高い研究所ほど研究者としての立場も高い人たちが揃う。そんな所にプロジェクトを頼む時は企業側もへりくだるような態度を取るが、 そうではない研究所に対しては辛辣だ。 葵には自負があった。新進気鋭で倍率の高い飲料メーカーに内定が決まり、努力に努力を重ねてコンペを勝ち取るまでの実力をつけた事を誇 りに思っていた。 その自負があるからこそ、余計に自分の気持ちに折 り合いをつける事が出来ない。 おまけに葵の人生の道しるべになっていた人は、今や葵よりも下の立場で訳の分からない計算式を組み立てて遊んでいる。 それでも心の何処かで未だに蓮と過ごしたあの高校生活に縋るような気持ちもあった。 だからだろうか。こんな蓮を見て、もしかしたら蓮の人生にも何かがあったのではないだろうか、などと理由を探してしまうのは。 とはいえそれとこれとは話が別だ。蓮に同情をしたり過去の気持ちに振り回されていては、また葵は自分の人生の主導権を握れなくなってしまう。 ここまで築き上げてきたキャリアや頑張りは葵が自分で積み重ねてきたもので、それは蓮にも言える事である。 蓮がここでどんな振る舞いをしようと蓮の勝手だが、そんな蓮に足を引っ張られる事は絶対にしたくない。 「私、決めました。 絶対に諦めません。このプロジェクト」 夢中になってキーボードを打つ蓮にも聞こえるように言うと、葵は フンと息を吐いて資料をパソコンに取り込み始めた。◇ 蓮は今日も計算式を組み立てながら、葵の決意を背中で聞いていた。 本当は葵の存在を覚えているし、蓮自身も葵に投げつけた言葉を忘れた事はない。 けれど蓮には葵の存在を忘れた振りをする
ただでさえお荷物研究所に配属されてショック を受けていたというのに、そこに来てまさか、かつての恩師であり初恋の相手がこうも見て分かるぐらいに落ちぶれているなどとは思ってもいなかった。 あの雲の上に居た桐生蓮が、今や葵よりもはるか下の方に居るように思えた。それと同時にほんの少しの安心感が湧いてくる。 当時は一生かかっても追いつけないと思っていた蓮が、今は葵のすぐ側に居るような気がして。 この短期間の間に蓮の人生に一体何があったのかは分からないが、蓮と再会した事であの時の気持ちが今もありありと蘇ってくる。 とっくに精算出来たと思っていた感情は、どうやら月日がどうにかしてくれた訳ではなかったようだ。 『俺は、お前のその主体性の無さが嫌いだ』 最後に蓮に言われたこの言葉は良くも悪くも葵の人生を大きく変えた。 嫌がりながらも卒業写真を皆と撮 っている蓮を見て声をかけると、蓮は葵を見下ろしてそう言 ったのだ。 結局、葵だけが蓮と写真を撮ることが出来ず、親友の日向 菜摘に朝まで慰めてもらったのは苦い 思 い 出である。 葵はそんな事を考えながらチラリと視線を蓮に向けた。 蓮はまだスマホを見ているが、 突然何か思い 出したかのようにパソコンの電源を入れたかと思うと、おもむろにキーボードを打ち始める。 「あの、先生急にどうしたんですか?」 何気なく隣に座っていた研究所のメンバーである芝浦タケルに話しかけると、芝浦は肩を竦めて笑った。 「蓮さんの日課。ああやっていっつも俺達には理解出来ないような数式考えてんの」 「数式?」 「そ。あの人天才だからさ、何か考えてないとバグるんじゃない? ここめっちゃ暇だからさ」 そう言って芝浦はデスクの引き出しを開けると、中から漫画を取 り 出して読み始めてしまう。 周りを見渡すと芝浦だけでなく、須藤も紅一点の真中瞳すら各々好きな事に興じていた。 「……流石Qラボ」 絶望にも近い気持ちで呟いた葵は、今回のコンペで勝ち取った物の虚しさを噛みしめる。 こんな調子で本当にプロジェクトは成功するのだろうか? それともコンペに出場すらしなかったチームが結局全てを持っていってしまうのだろうか。 葵はため息をついて席につくと、 皆で話し合おうと思って
「誰だっけ? お前」 初恋の男、桐生蓮は確かにそう言 った。 その一言に葵は凍りつき、すっかり落ちぶれてしまった蓮を見下ろす。 「……臨時講師だったとは言え、たったの数年でもう生徒の顔と名前すら忘れてしまいましたか? 先生」 冷たい声でそれだけ言うと、 説明しようの無い苛立たしい気持ちを押し殺した。 高校三年の時、葵のクラスに臨時講師としてやってきた蓮の所作はいつだって洗練されていて、理知的な瞳の奥には常に知的な光が灯っており、誰も、校長すらも蓮にまるで平伏すかのように接していたのを今でも思い 出す。 ところが今はどうだ。見るからにボサボサの頭、無精髭、更には ヨレヨレのシャツを着ている。 蓮の今の姿を見て葵は酷く傷ついた。 勝手な話だとはおもうけれど、蓮にはいつまでも憧れのままで居てほしかった。いつまでも孤高のような存在のままで居てほしかった。 高校時代にどれほど冷たくされても、ほとんどの思い 出が苦いものだったとしても、たまに見せてくれた甘い記憶だけで十分だったのに。 ◇ 大手飲料企業に入社した葵は、同期の中でも群を抜いて良い評価を得ていた。 けれどそれは別に葵に特別な能力があった訳ではない。地道な努力を重ね、ここまでコツコツと積み上げてきた評価がようやく実を結んだだけの事だ。 そして勝ち取ったのは社内を上げての一大プロジェクトのコンペの出場権だった。 「今回の大型プロジェクトのコンペには、うちの部署からは橘さんに出場してもらう事になった。彼女の成績を見た上層部からの人選だ。橘さん、頑張ってね」 「は……はい!」 葵が舞い上がりそうなほど嬉しい気持ちをどうにか押し込めて返事をすると、部長はにこやかに頷いてデスクに戻っていく。 これをやり遂げれば、もしかしたら誰かに必要とされるような存在になる事が出来るかも知れない。 それを聞いて部署の皆はそれぞれ葵にお祝いの言葉をかけてくれる。 「橘さん、すご~い! 同期の期待の星だよ!」 「頑張ってね! 応援してるから!」 「うん! ありがとう!」 素直にお礼を言った所で休憩時間になりお手洗いに行 くと、少 ししてさっきの同期達がやってきた。 それに気づいて慌てて個室から出