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第三話『立場逆転。地上に下りてきた教師』

Author: 揚羽渓名
last update publish date: 2026-10-13 23:02:18

「だったら今の蓮さん見て驚いたでしょ?」

 須藤の言葉に葵は間髪入れずに頷いた。そんな葵を見て須藤が困ったように笑う。

「蓮さんにも色々あったんだよ。まぁでも言動が冷たくてキツイのは今もだから安心して」

「……そこは少しは丸くなってて欲しかったですね」 

「言えてる」

 須藤はあえて深くは尋ねてはこなかった。きっとそれほど葵の表情が酷かったのだろう。

 あれほど雲の上の人物だと思っていた人が、 今は葵に使われる立場に居るだなんて、ここに来るまでは考えもしなかった。

 研究所にもランクがあり、権威の高い研究所ほど研究者としての立場も高い人たちが揃う。そんな所にプロジェクトを頼む時は企業側もへりくだるような態度を取るが、 そうではない研究所に対しては辛辣だ。

 葵には自負があった。新進気鋭で倍率の高い飲料メーカーに内定が決まり、努力に努力を重ねてコンペを勝ち取るまでの実力をつけた事を誇 りに思っていた。

 その自負があるからこそ、余計に自分の気持ちに折 り合いをつける事が出来ない。

 おまけに葵の人生の道しるべになっていた人は、今や葵よりも下の立場で訳の分からない計算式を組み立てて遊んでいる。

 それでも心の何処かで未だに蓮と過ごしたあの高校生活に縋るような気持ちもあった。

 だからだろうか。こんな蓮を見て、もしかしたら蓮の人生にも何かがあったのではないだろうか、などと理由を探してしまうのは。

 とはいえそれとこれとは話が別だ。蓮に同情をしたり過去の気持ちに振り回されていては、また葵は自分の人生の主導権を握れなくなってしまう。

 ここまで築き上げてきたキャリアや頑張りは葵が自分で積み重ねてきたもので、それは蓮にも言える事である。

 蓮がここでどんな振る舞いをしようと蓮の勝手だが、そんな蓮に足を引っ張られる事は絶対にしたくない。

「私、決めました。 絶対に諦めません。このプロジェクト」

 夢中になってキーボードを打つ蓮にも聞こえるように言うと、葵は フンと息を吐いて資料をパソコンに取り込み始めた。

◇

 蓮は今日も計算式を組み立てながら、葵の決意を背中で聞いていた。

 本当は葵の存在を覚えているし、蓮自身も葵に投げつけた言葉を忘れた事はない。

 けれど蓮には葵の存在を忘れた振りをするだけの理由がちゃんとあった。

『かつての生徒が上司だと? 笑えるじゃないか。どこまで落ちぶれたんだ、俺は』

 心の中で自嘲気味に笑い、 蓮はどこに発表する訳でもない計算式を今日も組み立てる。これが今の蓮の精一杯の虚勢だった。

◇

 翌日、葵はまず皆に自分の作ったコンペの膨大な資料を配った。

「皆さんそれぞれにお忙しいとは思いますが、まずはこれに目 を通してください」

有無を言わせない態度で言うと、皆が面倒そうに資料を捲り始める。蓮以外は。 「先生もですよ」

「読まなくてもお前の考えそうな事は分かる」

「そうですか?    私の事なんて覚えてもないのに?」

 あの頃に比べて葵は強くなった。まさか自分が蓮にこんな風に言い返す事が出来る日が来るだなんて、思ってもいなかった。

 そんな葵を、無精髭だけ剃ってきた蓮が見つめてくる。

「言うじゃないか。 確かにお前の言う通りだな」

 それだけ言って蓮がようやく資料を捲り始めた。そんな蓮を見て葵は自席に戻ると、新商品にさらなる改良を加えようとマーケティングを始める。

 シンとした研究所の中には、静かに紙を捲る音だけが響いた。昨日 まではガチャガチャと好き勝手に鳴っていた音が、今はたった一つの音に集約している。

 一番に資料を読み終えたのは須藤だ。

「はい、質問」

「はい、なんでしょう?」

「ここのさ、効能のとこなんだけど、ここまで効能絞ると従来のスポドリと変わらない気がするんだけど」

「でもそんなに沢山の効能を同時に持たせる事なんて出来ますか?」

 健康食品にしても何にしても、大体の効能は大きく一つに絞ってある。それは成分の組み合わせによって互いの良い所を打ち消してしまう事が多々あるからだ。

「出来るよ。それを調整するのが俺等の仕事じゃん?」 

「……それはそうですけど」

 本当にそんな事が出来るのか?   Qラボに? そう思いつつ皆を見渡すと、皆も頷いている。

 葵は何かに特化した方が売り出す時の武器になると思ったのだが、どうやらメンバー達はそうは思わないらしい。

「じゃ、決まり。真中 っち、相互作用のある成分全部出して。タケルは薬効の持

続力と瞬発力判定な。蓮さんはー——」 

「……俺は組み立てだ」

「だ、そうだよ。頑張ろうね、橘さん」 

「はい」

 何だかいつの間にか須藤に主導権を握られているような気がしないでもないが、色んな事に効果が出るのが望ましいのはその通りである。そうすればその分、買い手の枠は増えるのだから。

 けれどそんな単純な話だろうか?

 葵はとりあえず頷いてさほど期待はしていなかった。期間はまだ十分にあるし、いざとなったら葵が持ち込んだ資料通りに修正をしてもらえば良いのだから。

 この時の葵はまだQラボの本当の正体を知らなかったし、ここに移されたメンバーの事など何も知らなかったのだ。

 葵の毎日は研究所と会社の行き来で大半が潰れてしまい、このプロジェクトが始まってからというもの、ほとんど自分の時間を取る事が出来ないでいた。

 家に帰ってもずっと仕事の事を考えているような状態で、これではいけないと思 い立ったのはこの二重生活が始まって半月が過ぎた頃だ。

「ヤバい……私、本気でずっと仕事してる……」

 葵はソファ にだらしなく転がりながら、SNS のアプリを閉じた。

 葵のタイムラインは今やマーケット関連の事ばかりで、元々流れてきていたアイドルグループや推しの事など一切流れて来なくなってしまっている。

 ため息をついてスマホの電源を落とすと、 ココアを入れて一息つく。

「ココアか……はは、先生にバレンタインチョコ渡そうとしたの思い 出 しちゃうな……」

 バレンタインの苦い思い出を思い出してココアを飲むと、甘いはずのココアに苦いものが交じる。

「先生との思い出なんて、こんなのばっか。苦いばっかりだったのに、どうしてあんなに好きだったんだろう……」

 自分でも、もう蓮に惹かれたきっかけを思い出すことが出来ない。それぐらい静かに蓮は葵の心の中に入り込んできて、気がつけば根付いてしまっていた。そしてそれはやがて苦い思い出となり、恋愛そのものに臆病になってしまったのかもしれない。

 シンク に飲み終えたカップを置きその中に勢いよく水を流し入れると、黒 く濁った水は全て新しい水に押し出されていく。

「……こんな風に私の心も簡単に入れ替えられたらいいのに……」

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