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第6話

Author: エビチリ
もしかしたら、神様が哀れんでくれたのかもしれない――棠花の聴力は、奇跡のように戻っていた。

悠翔はまだ、愛情深い男を演じていた。

彼は知らない。棠花がすべてを知ってしまったことを。

彼がこの数日、夜になるとどこへ行っていたのか。彼の「愛」が、結局は肉体の誘惑に勝てなかったことも。

棠花の様子に異変を感じたのか、悠翔は予定より早く彼女を個室から連れ出した。

車に乗るとすぐ、彼のスマホが鳴った。画面を一瞥した彼は、「会社からだよ」と言って、棠花の目の前で電話を取った。

電話越しの女の声は甘ったるく、「悠翔」と呼んでいた。悠翔は2〜3分ほど会話を続けた後、通話を切り、申し訳なさそうに棠花を見つめた。

「ごめん、棠花。会社でどうしても俺が出なきゃいけない会議があって」

棠花はその嘘を暴くことなく、にこやかに頷いた。

「お仕事大事だもの。先に行って」

悠翔は手を伸ばし、彼女の頭を撫でようとしたが、棠花は体をひねって避けた。彼はそれを、彼女がまだ怒っているせいだと思った。以前、彼女を置いて会社に向かった時と同じように。

だが、電話の向こうで陽菜が言っていたことを思い出し、彼は一瞬だけ逡巡しながらも、結局その場を離れることを選んだ。

出ていく前、彼は手振りで「帰ったらプレゼント持ってくるから」と伝えた。

「棠花、先に運転手に送ってもらって。夜はサプライズ用意してるよ」

悠翔の姿が遠ざかるのを見届けた瞬間、棠花の胸に溜まっていた感情が一気に溢れ出した。涙が止まらなかった。

彼女は電話の内容を聞いていた。

陽菜は、家族に見合いを勧められたと言っていた。それを聞いた悠翔は、棠花を放ってまで彼女を引き止めに行った。

どうやって引き止めたかなんて、言わずとも分かる。

彼がこんなにも平然と嘘をつけるとは思わなかった。では、これまで彼がついてきた嘘は、いったいどれだけあるのだろう。

棠花は運転手の車に乗らず、ひとりでショッピングモールへ向かい、USBメモリーを購入した。

帰り道、激しい雨が降り出した。彼女はモールの入口でタクシーを待っていたが、突然、知らない番号からビデオ通話がかかってきた。

誰からか、彼女にはすぐに分かった。

ためらいなく通話を受けると、スマホの画面には隠し撮りされたような映像が映った。

だが、棠花にはすぐに分かった。画面の中の男女が誰か。

「ご主人様……痛い……もう叩かないで……」

鞭が肌を打ちつけ、赤く腫れた痕がスマホ越しにくっきりと見えた。

続いて、聞き慣れた男の声が響く。

「黙れ。飲み込め」

衣服が裂ける音、荒い息遣い、そして空に響く雷鳴が重なり、混ざり合う。

棠花の体は震え続けた。まるで魂が抜けたかのように、彼女は雨の中へと駆け出した。

ただ、あの汚れた音を洗い流したくて。

棠花が家に戻った時には、全身ずぶ濡れだった。メイドたちは驚き、すぐに彼女をバスルームへ連れて行き、熱い湯に浸からせた。

その頃、悠翔は連絡を受けて急いで帰ってきた。

彼が帰宅したとき、棠花は毛布にくるまり、リビングのソファに座っていた。虚ろな表情の彼女を見て、悠翔は彼女の前に跪き、いきなり自分の頬を強く叩いた。

「もう二度と、君を一人にしない。棠花」

その言葉も、棠花には何の意味もなかった。彼の嘘にはもううんざりしていた。

彼女は彼に目もくれず、ただ淡々と答えた。

「大丈夫。あなたの仕事の役に立つなら、それでいいの」

悠翔の目に、かすかな罪悪感が浮かんだ。

「もう仕事なんてどうでもいい。棠花、君が一番大事なんだ」

その夜、棠花は高熱を出した。悠翔は一晩中、眠らずに看病した。

棠花は病院の消毒液の匂いが嫌いだったので、悠翔は高額を払ってプライベートドクターを雇った。

彼女の食欲が落ちると、彼は古書を探し回って、美味しい薬膳を調べて作った。

家のメイドたちは、二人の愛情を羨ましがっていた。

だが、棠花だけが知っている。夜になると、この広い屋敷には、彼女ひとりしかいなくなることを。

陽菜のSNSは毎日更新されていた。悠翔は毎回、どこかに映っていた。時には腕だけ、時には裸の腹筋だけ。

今夜は、陽菜が彼の胸に顔を埋めるようにして自撮りしていた。こう書かれていた。

「愛があるところに、夜の熱も生まれる」

棠花はその写真を拡大し、彼の胸に彫られた「棠」の字を見つけた。

あれは、付き合って一年の記念に、悠翔が「君を一生心に刻む」と言って、こっそり入れたタトゥーだった。

彼女の心は、もうとっくに死んでいた。無表情で「いいね」を押す。

――人は本当に、心では一人を愛し、体では別の人と寝ることができるのだ。

しばらくして、陽菜から直接メッセージが届いた。

【奥様、あの夜のベッドの音、どうだった?さっきも彼、私の下で「ベイビー」って呼んでたよ。昼は仕事、夜は生活って言うけど、彼はもうあなたを愛してない。昼間あなたを看病するのは義務、本当に愛してるのは私。じゃなきゃ、私が妊娠するわけないでしょ】

【あなた、賢い人でしょ?そろそろ身を引いたら?知らなかった?私と悠翔、もう一年以上も一緒にいるの。彼言ってたよ、あなたってベッドの上で死んだ魚みたいだって。私とは365日、100以上のプレイを試したって。時には一つの体位を一週間続けてたって】

【あなたたちが婚約した芝生、初デートの映画館、彼が初めて稼いだ車、そしてあなたたちの寝室まで、全部私たちが試したの】

【彼がどれほど私に夢中か分かる?今、私妊娠してるの。あなた、空気読んで早く出ていった方がいいわよ。じゃないと、子供が生まれた後、世間に笑われるのはあなたよ】

……

棠花は黙ってメッセージを見続けた。一方、陽菜は焦っていた。

挑発の言葉だけでなく、写真まで送りつけてきた。

それは、棠花と悠翔が思い出を育んできた場所ばかりだった。けれど、そこにいる女はもう棠花ではなかった。ポーズはより卑猥で、愛も嘘にまみれていた。

【棠花、まさかこんなに我慢するなんて思わなかった。あなた、まだ足りないの?もっと見たい?】

棠花は無言でスマホの画面を消した。

涙が、画面いっぱいにこぼれ落ちた。

いつの間にか、彼女の頬は涙で濡れていた。

彼女は唇を噛みしめ、涙を拭った。

けれど、どれだけ拭いても、その傷ついた心は癒えなかった。

悠翔。

悠翔……!

よくも、そんなことができたわね……!

一生一緒にいるって言ったじゃない……!

愛し合えば、裏切らないって……!

永遠の誓いなんて、全部――嘘だった。
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