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秋寒に海棠、空に舞う
秋寒に海棠、空に舞う
Author: エビチリ

第1話

Author: エビチリ
「白石さん、あなたの死亡カスタマイズが有効になりました。指定されたシナリオは交通事故です。今後、すべての身分情報は抹消され、完全にこの世から消えることになります」

冷たい機械音がスマホから流れた。白石棠花(しらいし とうか)は微笑みながら、力強く「うん」と答えた。

「スイスでの新しい身分はすでに手配済みです。プロジェクトは半月後に正式に始動します。行動にはご協力をお願いします」

通話を切った後、棠花は別のアプリを開き、数回画面をスワイプした。スマホを閉じてしばらくすると、航空券予約成功の通知が届いた。

すべてを終えた棠花は、タクシーで伊藤悠翔 (いとう ゆうと)とのデート場所である洋食レストランへ向かった。

店員に案内されて二階へ上がると、そこは悠翔が貸し切っており、一面が海棠の花で埋め尽くされていた。窓際の席だけがぽつんと空けられていた。

その席からは視界が開けていて、広がる海を一望できた。

棠花が席に着いて間もなく、砂浜の一組の男女が彼女の視線を引きつけた。

女性は男性の下に顔を埋め、日差しが彼女の裸の背中に差し込んでいた。男性は上着のジャケットを脱いで彼女の背にかけ、もう片方の手で女性の細いうなじを押さえていた。顔はよく見えなかったが、その中指に光る太陽のように赤い宝石――鳩血色のルビーの指輪がやけに目立っていた。

それは、棠花の指にある指輪と同じ原石から切り出されたものだった。

棠花はスマホを取り出し、ピン留めしてある連絡先を開いた。震える指で四、五分かけて文章を打ち、何度も消しては書き直し、最後に送ったのはたった一言。

【今どこ?】

返信はすぐに来た。

【今会社で会議中だよ。どうしたの?】

棠花は窓の外を見た。男は片手でスマホを操作し、もう片方の手で女性をしっかりと押さえつけていた。

彼女はスマホを強く握りしめ、胸に鋭い痛みが走る。目頭が熱くなりながらも、返信を打った。

【あとどれくらいかかる?】

【あと一時間くらい】

少し経ってから、またメッセージが届いた。まるで宥めるように。

【待たせちゃってごめんね。全部俺が悪いよ。君を悲しませちゃって本当にごめん。誕生日のサプライズ、ちゃんと用意してるから。許してくれる?】

棠花はもう画面を見なかった。ただ窓の外の浜辺に視線を固定した。

やがて男はスマホを横に放り投げ、女の顔を両手で包み、深く激しく口づけた。動きはさらに激しさを増していった。

涙で視界が滲む。棠花は深く息を吸い込み、胸の痛みを押し殺した。もう見たくなかった。これが、悠翔の言っていた「誕生日のサプライズ」なのだろうか。

一時間半後、階段から急ぎ足の音が響いた。

悠翔は大きな百合の花束を抱え、片手には大小さまざまなギフトバッグを提げて現れた。

棠花の目元に残っていた涙の跡はすでに乾いていた。彼女はいつものように笑顔を見せず、顔を背けて、遠くの潮の満ち引きを見つめていた。

悠翔の目に浮かぶのは罪悪感だらけだった。彼は棠花を抱きしめ、焦ったように手話で訴えた。

「棠花、ごめん、会社の人がしつこすぎて、ちょっと遅れちゃったんだ。怒らないで。罰なら何でも受けるから」

彼女はその腕を振りほどいた。鼻先に漂う甘い女性用香水の香りが胸を悪くさせる。棠花の瞳は沈みきっていて、低く問いかけた。

「悠翔、まだ私のこと、愛してる?」

彼は香水の残り香などとうに慣れていた。棠花の泣き腫らしたような目元を見て焦りながら、必死に手話を繰り出した。

「棠花、何言ってるんだよ。愛してるよ。もちろん愛してる。君がいなきゃ、生きていけないって、みんな知ってるだろ」

その熱烈な愛の告白を前にしても、棠花の心はどこまでも冷め切っていた。口元に浮かんだのは、自嘲の笑みだった。

――そうだ。誰もが知っている。悠翔は彼女を骨の髄まで愛していて、彼女のためなら何もかも捨てられる男だと。

悠翔に出会う前、棠花は「愛」というものを知らなかった。

彼女の家庭は最悪だった。両親は弟ばかり可愛がり、棠花はいつも弟の食べ残しを食べ、服は何度も繕ったもの、生理用品は期限切れのまとめ買い品、下着に至ってはゴミ箱から拾ったものだった。

両親は弟にタブレットを買うために、彼女の奨学金をすべて奪い取った。大学進学のため、彼女は家の前で丸一日ひざまずいて頼み込んだ。

寒い冬に高熱を出し、命の危機に陥っても、両親は「さっさと死ね」と罵った。

隣のおばさんが「奨学金ローンがあるよ」と教えてくれなければ、彼女は大学にも行けなかった。

やがて、彼女は業界で名を馳せるデザイナーとなった。すると両親は弟を連れて押しかけ、「育ててやった恩」で彼女の家に居座った。火事が起きたとき、両親は弟を助けさせるために彼女を火の中に突き飛ばした。その結果、彼女は聴覚を失った。

周囲は彼女を厄介者扱いし、苦労して立ち上げた事務所からも追い出された。両親は彼女の貯金をすべて持ち去り、「これからはもうお前なんか娘じゃない」と言い放った。

地獄のような人生だった。だからこそ、愛なんて信じていなかった。

そんな彼女に、大学時代、悠翔が一目惚れした。しかし棠花の心はすでに閉ざされていて、彼の想いにはまったく応えなかった。

でも、彼女が聴覚を失っても、悠翔は変わらず彼女を支え続け、世界中を連れて回って治療法を探し、手話も覚えてくれた。

日々の積み重ねが、彼女の硬い心を少しずつ溶かしていった。四年の追いかけの末、全世界が彼女を見捨てた中で、悠翔だけはずっと隣にいた。

付き合い始めた頃、悠翔の家族――大財閥の伊藤家は棠花を認めなかった。彼女が身分不相応だと。

だが、悠翔は継承権を捨て、独立して会社を立ち上げた。過労で倒れかけ、胃に穴が空くほどの接待と徹夜の末、ついに伊藤家に並ぶ企業を築き上げ、彼女を連れて堂々と実家に戻った。

ふたりの結婚式は世界的な話題となり、悠翔は街中の大型モニターを貸し切り、手話で彼女に愛を告白した。

結婚後、棠花は敵の策略で交通事故に遭い、命を落としかけた。彼は彼女をかばい、片足を失い、三日三晩昏睡状態に陥った。

目覚めた彼が最初に言ったのは――

「もし彼女に何かあったら、俺も生きてる意味がない」

その姿はメディアに撮られ、数日間トレンドを独占した。

【深すぎる愛、悠翔】

【恋人のために命を捧げた男】

【純愛の神、悠翔】

だが、そんな彼が、結婚三年目で、棠花の主治医と密かに関係を持っていた。

昼は棠花のそばに寄り添い、夜は「会議」と偽って、主治医の家に泊まり、朝まで愛し合っていた。

今日――彼女の誕生日に、わざわざレストランの隣で、あの女と堂々と抱き合うほどに。

彼女が聴力を取り戻し、嬉々としてそのことを伝えに行ったとき、耳に飛び込んできたのは彼と主治医の会話だった。

「悠翔、私と結婚して。堂々と一緒にいたいの。棠花のことは養ってあげていいよ。あなたがあれだけ愛してた人なんだから」

「俺、もう十分甘やかしてるだろ?小悪魔め。棠花とは違うんだよ、君は比べる必要ない」

真実を知ったあの日から三ヶ月、眠れぬ夜が続いた。それでも彼を責める勇気はなかった。ただ、痛みと絶望と虚しさに心が蝕まれていった。

「悠翔、あなた……結婚式の日に何て言ったか、覚えてる?」

棠花は悠翔を見つめ、微笑みながら、はっきりとした口調で言った。

「あなたが間違いを犯したら、私は黙って去る。謝るチャンスも与えない。なぜなら、あなたには許される資格がないって……そう、あなたが言ったのよ」

今こそ、その誓いを果たす時だった。

半月後――ふたりの結婚四周年記念パーティーの日、彼女は完全に姿を消す。

もう、誰にも見つけられない場所へ。
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