LOGINその言葉を聞いた瞬間、晴臣はカッとなって、佑くんのつるんとしたお腹にガブリと噛みついた。 笑いながら言う。 「じゃあやっぱりいらないな。そうすれば、もうちょっと長生きできそうだ」 佑くんはくすぐったそうにゲラゲラ笑った。 「晴臣おじさん、くすぐったいよ、助けて~」 「じゃあ俺の酸素チューブはもう抜かないか?」 「抜かないよ」 二人でじゃれ合っていると、突然ドアがバンと開いて、智哉が入ってきた。 床に転がっている二人を見て、すぐさま声を上げる。 「お前、俺の息子を床に寝かせたのか?」 晴臣は思わず睨み返した。 「何言ってやがる。お前の息子がやらかしたんだぞ、俺、溺れかけたんだよ」 そう言い終えるか終えないかで、佑くんが彼の口を手で塞ぎ、ぱちぱちと目を瞬かせた。 「晴臣おじさん、言ったこと守らないと、僕、嫌いになっちゃうよ」 智哉はそばまで歩いてきて、佑くんの服を確かめると、ひょいっと腕に抱き上げ、軽くお尻をポンと叩いた。 「昨夜、こっそり飲み物飲んだろ?」 犯行を突かれ、佑くんは黒い大きな瞳をぱちぱちさせながら、甘えた声で答えた。 「花音お姉ちゃんが飲みきれないって言うから、僕が代わりに手伝ったの。おばあちゃんが『食べ物を粗末にするのはだめ』って言ってたから、これは助けてあげただけなんだよ」 もっともらしい口ぶりに、智哉は呆れ笑いを漏らし、子どもの首筋に軽く口づけした。 「理屈をこねるのは大したもんだな。さすが弁護士の息子だ……よし、パパと一緒にお風呂入って、そのあとおばさんに会いに行こう」 「やったー!また王宮で遊べる!」 朝ごはんを終え、晴臣は花音を学校へ送り届け、智哉は佑くんを連れて王宮で麗美に会いに行った。 佑くんは今日はアイボリー色のミニスーツに黒い蝶ネクタイ姿。髪もきちんと後ろに撫でつけ、整髪料できらりと光っていた。 天使みたいに可愛らしい顔立ちと相まって、通りかかる人たちはついつい足を止めてしまう。 彼は堂々とパパの手を引き、たくさんの人々がいる王宮の中でも一切物怖じせず、ごく自然に挨拶して歩いていった。 本来なら荘厳で張り詰めた空気の場だが、突如現れたこの愛らしい子どもに、周囲はざわめいた。 「これが女王陛下の甥御さん?可愛すぎる、連れて帰りたいくら
智哉は淡々とうなずいた。 「俺は先に二階に行って佳奈に電話する。佑くん、食べ過ぎはダメだぞ。食べ過ぎたらまたお腹痛くなるからな」 ちょうど麺を一本口に運んでいた佑くんは、その言葉を聞いた瞬間びくっとして慌てて麺を口に放り込み、ぶんぶんと首を縦に振った。 「これで最後の一本だよ」 花音は彼の口の周りにべっとりついたソースを見て、その姿があまりに愛らしくて思わず笑ってしまった。 ティッシュを取って彼の口元を拭きながら微笑んだ。 「お父さんは上に行っちゃったし、じゃあお姉ちゃんの分を食べなさい。私は食べきれないから」 佑くんがキラキラした目で瞬いた。 「花音お姉ちゃん、もしお姉ちゃんのジュースをちょっと飲ませてくれるなら、今夜一緒に寝てもいいよ」 その言葉に晴臣は思わず吹き出した。 「なんだよ、一緒に寝るのは君の気分次第なのか?」 「そうだよ。晴臣おじさんがお魚もう一口くれたら、一緒に寝てあげてもいい」 「お断りだ。寝相悪いし布団蹴っ飛ばすし、この前一晩付き合ったら俺は一睡もできなかったんだぞ」 佑くんは小さな手を伸ばして、晴臣の頬をぺちぺち叩きながら、偉そうに言った。 「それは晴臣おじさんに奥さんがいないからだよ。奥さんと子どもがいる幸せを知らないんだ、大バカ」 「誰が大バカだって?かじり倒すぞ」 晴臣はそう言って、佑くんの首筋に顔を寄せてキスの真似をした。 彼はくすぐったそうにゲラゲラと笑い転げた。 結局その夜、佑くんは晴臣と一緒に寝ることになった。 翌朝。 佑くんはむくりとベッドから起き上がって、目をこすった。 あれ? どうしてお尻丸出しで寝てるんだ?パンツがどこにもない? それに晴臣おじさんはなんで床に寝てるの? 佑くんは首をかしげながらベッドから降り、晴臣の横に腹ばいになった。 頬杖をついて彼の寝顔をじっと見つめる。 すると、顔に何かがかかったような感覚がして、晴臣が目を開いた。 目の前に飛び込んできたのは、全裸の小さな天使みたいなわんぱく坊主。 ぱっちり大きな瞳を瞬かせて、きらきらこちらを見つめている。 あまりの可愛さに心臓が撃ち抜かれそうになる。 思わず抱き上げて頬ずりしようとしたが、ふと昨夜の記憶が脳裏に浮かんだ瞬間、笑みは消えた。
花音は入浴を終えてパジャマに着替え、階下へ降りてきた。 物音に気づいた晴臣が振り返ると、台所の入口に小柄で愛らしい少女が立っていた。 少女の肌は真っ白で、まるで陶器の人形のよう。 身にまとったミルクパープルのパジャマが、あどけなさと可愛らしさを引き立てている。 晴臣はすぐに声をかけた。 「ダイニングで座って待ってろ、すぐできるから」 花音が歩み寄って問いかける。 「お手伝いしましょうか?」 「いい、熱いものに触って、怪我させてしまったら、君の叔父さんに説明できないから」 「私、そんなにヤワじゃありません。お皿を運ぶぐらいなら全然大丈夫です」 花音が皿を取ろうとした瞬間、目に飛び込んできたのは丁寧に盛り付けられたフルーツプレートと、彼女の大好物である洋食の数々。 岩塩焼きのサーモン、白トリュフのきのこリゾット、松茸入りのクリームスープ、そしてトマトミートソースのパスタまで。 花音は一瞬にして呆然とした。 その大きな星のような瞳に、キラキラとした光が浮かぶ。 「晴臣おじさん、私はずっとあなたの料理の腕がブロンズ級だと思っていました。でもまさか王者クラスだったなんて……もう惚れちゃいました」 晴臣は唇の端を少し持ち上げた。 「初めて俺の家に来たんだ、ちゃんともてなさないと、君の叔父さんの前で俺のことを悪く言うだろう?」 「私そんな人じゃないですよ。ただチクるくらいです」 「よし、冷蔵庫見てきて。飲みたいもの、自分で取って」 「お酒、飲んでもいいですか?」 「ダメだ。子供が酒なんか飲むんじゃねぇ」 「もう大人です。子供扱いしないでください。お酒だって恋愛だってできます」 晴臣は鼻で笑った。 「恋愛してみろよ。君の叔父さんが足折りに来るぞ」 花音は不満そうに口を尖らせ、小声でつぶやく。 「どうせ叔父さんには見えませんよ。遠く離れてるんだから、誰にも文句は言われないよ」 晴臣は横目でにらみつけた。 「俺を死人だと思ってんのか?俺の目をすり抜けられたらの話だな」 そこまで言われて、花音は言葉を飲み込み、うつむいて黙々と料理を食べ始めた。 晴臣は元国際警察だ。どんなことも彼の目から逃れることはできない。その彼に監護されている以上、花音が好き勝手に振る舞うのは難しい
聖人はさらに涙を流しながら言った。 「俺はただ佳奈に悲しい思いをさせたくなかったんだ。彼女の生活にもう入り込みたくないし、過去のことを思い出してほしくないんだ」 「過去はもう過去のことですよ。佳奈だって細かいことを気にする人じゃないんです。あなたはしっかり養生してください。俺もこちらに数日滞在して、事が片付いたら一緒に帰りましょう。 それに、俺と佳奈の、もう二人の子どもに会いたくはないんですか?」 聖人は何度も首を縦に振った。 「会いたくないわけないだろう。夢でもずっと会いたいと思ってるんだ。みんな元気にしてるのか?」 「元気ですよ。もう六か月目です。一人は男の子で、もう一人は女の子。女の子はきっと佳奈に似て綺麗になると思います。そうしたら、また二人の子が『おじいちゃん』と呼んでくれるんです」 その言葉を聞いた聖人は、ぐっと精神が明るくなった。 闇の中で結翔を探すように声をかけた。 「結翔」 結翔はすぐに歩み寄り、聖人の手を握った。 「父さん、俺はここにいるよ」 「二人の子どもに贈り物を準備してくれ。金の腕輪とお守り……両方とも必要だ。これは母方の家族が用意するものだからな」 「わかった。帰ったらすぐに手配する」 「それから孫娘には金を少し多めに買ってやれ。将来、嫁入りのとき持たせるんだ」 「今は金の値段が高いよ。損するかもしれない」 「損なんてしないさ。もしかしたら二十歳を過ぎる頃には、倍になっているかもしれない」 そうして皆で聖人を連れて帰る話を相談した。智哉と佑くんは聖人と共に夕食をとり、その後ようやく帰路についた。 ――その頃。 晴臣は花音を連れて家へ戻った。 客間に荷物を置いたあと、彼女を見て言った。 「この部屋、気に入ったか?これから週末は気軽に遊びに来て、ここを自分の家だと思えばいい」 花音はピンクと白を基調にした内装を見回し、口元を緩めた。 「晴臣おじさん、私、本当にちょくちょく来てもいいんですか?」 晴臣は眉を上げながら彼女を見た。 「駄目な理由があるか?君の叔父さんと俺の兄貴は親友だ。つまり俺と君の叔父さんも親友同然だ。君を世話するのは当然だ」 「晴臣おじさん、私、初めて会った時から思ってたんです。あなたってすごくいい人だなって」 花音の
佑くんはすぐに椅子に登り、黒く輝く大きな瞳で聖人をじっと見つめた。 その上、小さな手を伸ばして彼の目の前でひらひらと振りながら、柔らかな声で言った。 「おじいちゃん、本当に僕のこと見えないの?」 「おじいちゃん」という呼びかけを聞いた瞬間、聖人の涙はより一層あふれ出した。 闇の中で佑くんの手を探り当て、唇にそっと触れてキスを落とす。 「佑くんに触れることはできる……それだけで十分だ」 佑くんは彼の姿を見て、父親が失明したときの様子と全く同じだと気づき、たまらず目を赤くした。 さっき大人たちの会話も耳に入っていた。角膜を提供する、という意味は理解できなかったけれど、大まかな内容は分かった。 パパの目が良くなったのはおじいちゃんのおかげ。だから今、おじいちゃんが目が見えなくなっているのだ。 佑くんは小さな手で聖人の顔をそっと撫でながら、ふんわりと声をかけた。 「おじいちゃん、大丈夫だよ。これからは佑くんが目になる。おばあちゃんのダンスだって、一緒に見せてあげるよ」 先ほどまで悲しみに沈んでいた聖人だったが、この言葉に思わず笑みをこぼした。 彼は佑くんを抱き締め、言った。 「おじいちゃんの大事な宝物だ。君にさえ会えれば、それで十分だ」 佑くんは無邪気にぱちぱちと瞬きをしてみせる。 「それなら簡単だよ。おじさんにお願いして家に連れて帰ってもらえばいいんだ。僕、毎日遊びに行くから。ママはもうすぐ弟か妹を産むんだよ、だから大きくなったら一緒におじいちゃんに会いに行くの!」 聖人の脳裏に、あたたかく幸せな光景が一気に広がった。 それは何度も夢に見た場面だった。 けれど、それはあくまでも夢。この一生、手に入らないかもしれない幻想だ。 彼は苦く唇を歪めた。 「……君のママは来ないよ。おじいちゃんは昔、彼女を傷つけた。そのことを知られたくないんだ。心に負担をかけたくない」 智哉が身を屈めて彼を見下ろした。 「遠山おじさん、佳奈はずっとドナーを探していました。もしそれがあなたと分かれば……許してくれるかもしれません」 「言わないでほしい。佳奈は心優しい子だから、このことを知れば感謝するだろう。でも同時に、過去の傷も忘れられない。そんな矛盾が彼女を苦しめる……だから言わないでいい。君と佑くんが会いに
晴臣の整った顔立ちは、佑くんを見た瞬間、とけてしまいそうな笑みを浮かべた。 彼は身をかがめて佑くんを抱き上げ、ほっぺに軽く口づけして笑った。 「晴臣おじさんも佑くんに会いたかったよ」 佑くんはすかさず後ろの花音を指さした。 「晴臣おじさん、こっちは花音お姉ちゃんだよ。一人でここで大学に通うんだって。だからちゃんと守ってあげてね」 晴臣は歩いてくる少女に視線を移した。 その子はおしゃれなジーンズに、シンプルな白いTシャツ。髪はポニーテールに結ばれていて、全体から若々しさと活力がにじみ出ていた。 智哉が花音を伴って近寄り、低い声で言った。 「彼女は任せた。明日まず入学手続きを済ませてやってくれ。誠治はしばらく来られないから」 晴臣の口元が自然に緩んだ。 「二年ぶりか……もう大人の顔になってるな。泣き虫も卒業したのか?」 そう言いながら彼は花音の頭に手を置いた。 彼ははっきり覚えている。初めてこの少女と出会ったのは、豪雨の日だった。 まだ高橋家と血縁を認め合う前のことだ。 仕事帰りにハンドルを握りながら、雨の中でひとりしゃがみ込んで泣いている彼女を見つけてしまったのだ。 小さな体でただ泣き続ける姿があまりに不憫で、車を停めずにはいられなかった。 いくら尋ねても言葉は返って来ず、泣き続けるばかり。仕方なく家へ連れて帰った。 のちに誠治の姪だと知った。その日泣いていたのは、両親を奪った誘拐犯を街で見かけてしまい、惨状を思い出したからだという。 彼女の証言を頼りに、長年逃げ続けていた犯人を捕らえることができた。 亡き両親への慰めとなったはずだった。 その記憶を思い出したせいか、晴臣の瞳には自然と年長者が後輩に向ける柔らかな色が浮かんでいた。 花音は顔を上げ、黒く澄んだ瞳をきらめかせて小声で言った。 「晴臣おじさん、よろしくお願いします」 晴臣は笑って頷いた。 「おう、これからは晴臣おじさんがついてるんだ。誰も君をいじめられやしない。さ、まずは一緒に家に帰ろう」 そう言って皆を連れて空港の外へ歩いて行った。 その時、智哉の携帯が鳴った。 画面を見てすぐに応答ボタンを押した。 「結翔、どうした?」 結翔の声は疲れきった後に掠れたものだった。 「智哉、もう着いた