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第380話

Author: 藤原 白乃介
玲子はこのまま、誰にも構われず見捨てられて、朽ちていくなんて絶対に許せなかった。

そう思っていた矢先、頭上に何かが降りかかる気配を感じた。

驚いて顔を上げると、女囚のひとりが湯桶を手にしながら、何かを玲子の頭にぶちまけていた。

長年、上流の暮らしに慣れ切っていた高橋夫人にとって、こんな屈辱は生まれて初めてのことだった。

玲子は怒りに任せて立ち上がり、その女に向かって突進した。

「今の、何をかけたのよ!」

歯を食いしばりながら詰め寄ると、相手の女はけたけたと笑い出す。

「嗅いでみりゃ分かるでしょ?」

玲子が鼻をひくつかせると、強烈な悪臭が鼻孔を突いた。

その臭いで、かけられた液体が何だったのか、瞬時に理解した。

怒りで顔が歪み、思わず手を振り上げてその女を打とうとした――

だが、腕が振り切られる前に、誰かに手首をがっちりと掴まれた。

次の瞬間、頭に重い衝撃が走る。

椅子が彼女の頭上に振り下ろされたのだ。

視界がぐらつき、めまいが襲ってくる。

それと同時に、数人の囚人たちから容赦ない暴行が始まった。

拳と足が、何度も何度も彼女の体に叩きつけられる。

三十分もの間、途切れることなく殴られ蹴られ続け、玲子の意識は朦朧とした。

その時、ようやく美桜の言っていた言葉の意味を理解した。

「侮辱され、殴られた」――それが、どれほどの地獄だったかを。

命だけは守ろうと、玲子は床にひざまずき、泣きながら許しを乞うた。

それを見てようやく暴行は止み、玲子は這うようにしてベッドに戻る。

ベッドに横たわったそのとき、彼女の目に入ったのは、見覚えのある顔だった。

やせ細り、色も抜け落ち、かつての輝きはどこにもない。

だが、それは紛れもなく――美桜だった。

玲子の目から、思わず涙がこぼれる。

這い寄るようにして美桜のそばへ近づき、声を震わせて言った。

「美桜……あなた、無事だったのね?」

だが美桜は、まるで悪霊でも見るかのような目で玲子を睨みつけた。

「近寄らないで!」

そう叫ぶや否や、玲子を思いきり蹴り飛ばした。

「私はあんたなんか知らない!顔も見たくない!」

玲子は信じられないような顔で見つめ返す。

「美桜……玲子おばさんよ、覚えてないの?」

「知らないって言ってんでしょ!次に近づいたら、ボスに言ってまたボコらせるから!」

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