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第454話

Author: 藤原 白乃介
「それ、いつのこと?」

初めて出会ったのは、あの路地裏だったはず――佳奈の呟きに、智哉は目を伏せたまま何も答えなかった。

眠ってしまった彼女を起こしたくなかった。ただ、その疑問を心の奥にそっとしまい込むしかなかった。

翌朝、佳奈が目を覚ますと、目の前には無精髭を生やした智哉の顔があった。

その目の下には濃いクマができていて、思わず胸が痛くなった。

彼女は手を伸ばし、優しく頬に触れながら、寝起きのかすれた声で言った。

「……ねぇ、あなた。そろそろ髭、剃ったほうがいいよ」

智哉は彼女の額にキスを落としながら、穏やかに尋ねた。

「髭があると、もう好きじゃなくなる?」

佳奈はくすっと笑う。

「そんなことないけど……ちょっと違和感あるだけ」

「じゃあ、あとで剃るよ。傷はまだ痛む?」

「だいぶマシになったよ。あなた、一晩中起きてたんでしょ?」

智哉は佳奈の髪を撫でながら、やさしく言った。

「俺のことはいい。君と赤ちゃんが無事なら、それだけで充分だよ」

そう言って起き上がろうとしたそのとき、自分の腕が佳奈の枕になっていたことに気づいた。

感覚がほとんどなくて、力が入らない。

バランスを崩し、そのまま佳奈の上に倒れ込んでしまった。

もう片方の腕でなんとか支えたから、彼女の傷口は避けられたものの……その体勢は、かなり際どかった。

ちょうどそのタイミングで、病室のドアが開いた。

白衣姿の誠健が立っていた。

その目が一切逸れることなく、じっと二人を見つめ――

「おい、智哉。お前、ほんとに人間か?妊娠して怪我してる女に、今それやるか?」

智哉は体を起こしながら、無言で睨みつけた。

「医者もノックぐらいする決まりあったろ?」

誠健はおどけたように肩をすくめて笑った。

「いやいや、心配だったんだよ。朝っぱらから知里に呼び出されてさ、絶対佳奈の様子見て動画送れって言われたんだよ」

そう言いながらスマホを取り出し、録画ボタンを押した。

カメラを佳奈に向けながら、にやにやと笑って言う。

「見てるか、知里?佳奈はだいぶ元気になったぞ。さっきなんかイチャついてたから、もう傷も平気だろ?」

佳奈は真っ赤になりながら、慌てて言い返した。

「ちがうの……さっきは、智哉の腕を枕にしてたら痺れちゃって、それで転んだだけ」

誠健は意味ありげにうなずいて
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