聡美は佳奈を見つめながら言った。「この子、あなたの息子?お爺ちゃんとすごく仲良さそうね。きっと昔、お爺ちゃんがよく面倒を見てくれてたのね」その言葉を聞いた佳奈の顔に、ふっと悲しみの色が浮かんだ。父は確かに赤ちゃんのことをとても気にかけてくれていた。妊娠中の食事は、すべて父が管理してくれていたほどだ。だけど――彼女の赤ちゃんは、もういない。佳奈は苦笑いしながら唇をほんの少しだけ歪めた。「この子は、いとこの子なの」聡美は少し驚いたように目を見開いた。「そうだったの?お爺ちゃんにあんなに懐いてるから、てっきりあなたの子かと思ったわ」佳奈自身も、なぜ佑くんがあそこまで父に懐いているのか不思議だった。父もまた、佑くんに対して特別な反応を示していた。初めて彼に会った時、父の手が動いた。俊介に会った時は、目玉が動いた。本来なら、父はこの二人に会ったことがないはずなのに、なぜそんなに強く反応するのか。それは、佳奈にとってずっと解けない謎だった。今日で清司の鍼治療は三日目。聡美がすべての銀針を抜き終わり、片付けようとしたその時――佑くんの驚いた声が響いた。「お爺ちゃん、起きたの?」その声に、部屋中の視線が一斉に集まった。すると、それまでずっと目を閉じていた清司が、突然目を開けたのだ。佳奈はその瞬間、心臓が跳ねるほど驚いた。すぐさま駆け寄り、清司の手を握りしめて、興奮気味に叫んだ。「お父さん、起きたの?私のこと、わかる?」清司の目はまだ虚ろだったが、それでも機械的に瞬きを一度した。佳奈はすぐに聡美の方を振り向き、必死に尋ねた。「聡美さん、父が目を開けました!これって、意識が戻ったってことですか?」聡美は頷いた。「これは目覚めの第一歩だ。目は開いても、まだ脳が人や物を認識するまでには至っていない。これから少しずつね」「でも、それでも大きな進歩です……もう、ずっとベッドに寝たきりで、何の反応もなかったんです。あなたにはわからないと思うけど、この二年間、毎日ここに座って、私……どれだけ怖かったか……ずっとこのまま、もう二度と目を覚まさないんじゃないかって」その言葉に、俊介の目の奥がじんわりと熱くなった。彼は静かに佳奈のそばに立ち、肩に軽く手を置いて、低い声で言った。「た
俊介は花束を佳奈に差し出した。凛々しい眉の間には、隠しきれないほどの深い想いがにじんでいた。それが、佳奈にはたまらなく心地悪かった。彼女は花を受け取り、淡々とした声で言った。「偽装カップルなんだから、田森坊ちゃん、そんなに本気にならなくていいの。必要な場面だけでちゃんと合わせてくれればそれで十分よ」俊介は笑みを浮かべたまま部屋に入り、朝食をダイニングテーブルに並べた。それから、ちょうど起きたばかりの佑くんを抱き上げ、低い声で言った。「演技ってのはリアルさが命だ。普段から練習してないと、いざってときにボロが出るだろ、なあ、坊や?」佑くんはふにゃっと俊介の肩に頭を乗せ、目を細めてにっこり笑った。「でもさ、あんまり入り込みすぎて、抜け出せなくなったら困るよ」その言葉に俊介は笑いながら彼のお尻をぺしっと叩いた。「このガキ、たまには俺の味方してくれよ。昨日は一日中君のために働いたんだぞ?」「でも夜はママのご飯食べたでしょ?それでチャラだよ。僕、小さいけどバカじゃないんだから、だまされないよ」俊介はその鋭い返しに笑いながら言った。「このガキ……どうやら君のママを落とすには、まず君を攻略しないとな。よし、洗面所行こうか。ついでにオムツも替えような」佑くんはぷくっと頬を膨らませて抗議した。「僕、夜だけしかオムツ使ってないもん!昼間はもう卒業したよ!」「そうか?じゃあ見せてもらおうか、一晩でどんだけ出たか」そう言いながら、俊介は佑くんを抱えてバスルームへ。まずはお尻をきれいに洗ってから、歯磨きと顔洗いまで済ませた。佑くんはその過程をすっかり楽しんでいる様子だった。黒くてぱっちりした目をキラキラさせながら、俊介を見上げた。「イケメンおじさん、元の顔に戻れるの?」俊介は何のことかすぐに察した。しゃがんで佑くんと目線を合わせて聞いた。「どっちの顔が好きなんだ?」佑くんは少し考えてから答えた。「今の顔の方が好き」「どうして?」「だって、ママは前の顔を見ると悲しくなるから。僕、ママが悲しいのイヤなんだ」その言葉に、俊介の胸がじんと熱くなった。かつて智哉として、佳奈に多くの苦しみを与えたのは事実だった。そのことを、子どもにまで見抜かれていた。俊介は笑いながら佑くんのほっ
「これ、きっと彼にとってすごく大事なものなんだと思う。じゃなきゃ、とっくにお爺ちゃんを殺してたはずだよ」父親がそんな危険な状況に置かれていると聞いて、奈津子は悔しさに歯ぎしりした。「浩之のやつ、あいつのせいで私達の家庭が壊された……この借りは絶対に返してもらう」「安心してください。私、絶対にあいつを許さない。お父さんと佳奈さんが受けた苦しみ、何倍にもして返してやる」晴臣はローテーブルの上に置かれた宝石をじっと見つめながら、ふと何かを思い出したようにスマホを取り出した。そして、あるニュース写真を見つけ出した。それを智哉に見せながら言った。「これ見て。この宝石、うちのとちょっと似てない?」智哉がスマホを受け取ると、そこにはM国の女王・イーシャが訪問中に撮られた写真が映っていた。彼女の指にはエメラルドの指輪が光っており、その宝石の形状は確かに手元のものとよく似ていた。数秒間じっと見つめた後、智哉は言った。「イーシャ女王のはこれより少し大きいね。写真で見る限り色味は同じだけど、断定はできないな。出所を調べてみるよ。もしかしたら、俺たちの知らない秘密が隠されてるかもしれない」続けて、智哉は晴臣に一冊の計画書を手渡した。「これは佳奈と一緒に立てた作戦だ。狙いはあの浩之の配下になってる財閥連中。こいつらの手足を切り落とせば、あいつの勢力も確実に削げるはずだ」晴臣はその言葉に不安げな表情を浮かべた。「本気で……佳奈をこの泥沼に巻き込むつもりか?」「仕方ないんだ。俺が俊介の身分で一緒に動かないと、佳奈は一人で突っ走ってしまう。そうなったらもっと危険だ。俊介の存在があれば、浩之も彼女の本当の狙いには気づかない」二人は現状を踏まえ、次なる一手を話し合った。その後、智哉は車に乗ってその場を後にした。――一方その頃。佳奈は、ぐっすり眠っている佑くんを抱きながら、どうしても眠れなかった。胸に抱いたふわふわとした小さな存在に、まるで夢を見ているような気持ちになる。この瞬間が、永遠に続いてほしいと願ってしまう。「佑くんのママ」――ただその肩書きだけでいい。指先でそっと佑くんの柔らかなほっぺたを撫でながら、佳奈の口元には甘い笑みが浮かび続けていた。そのまま、一晩中佑くんを見つめて過ごした。やが
奈津子は、長年思い焦がれてきたその顔を目にした瞬間、自分が夢を見ているのではないかと思った。彼女は智哉をじっと見つめ、目に涙を浮かべて言った。「あなた、本当に智哉なの?本当に私の息子、智哉なの?」智哉の目にも、じんわりと涙が浮かぶ。奈津子が自分の生みの母だと知ってから、これはふたりにとって初めての対面だった。彼はそっと奈津子の頬に手を添え、涙を拭いながら言った。「母さん、俺はあなたの息子、智哉だ。間違ないんだ」その言葉を聞いた瞬間、奈津子はもう堪えきれなかった。決壊した堤防のように、涙が次々とこぼれ落ちていく。「私の大事な息子よ……母さん、あなたを置いていって、何年も……家にも戻れず、奥さんと子どもにも会えず……全部、母さんのせいだよね……本当にごめんなさい……」彼女は智哉を抱きしめて、声をあげて泣いた。体全体が震えていた。智哉の目からも、止めどなく涙が流れ落ちていく。何年ぶりかにこの温かい腕の中に戻ってきて、母の優しさと慈しみをはっきりと感じることができた。彼は大きな手で奈津子の背中を優しくさすりながら、やわらかく声をかけた。「母さん、もう泣かないで。あんまり泣くと体に悪いよ。少し時間が経てば、俺たち、堂々と一緒にいられるようになるから」奈津子は涙をぬぐいながら、泣き声で言った。「今日は佑くんの誕生日よね。佳奈、きっとまた子どものことを思い出してるわ……母さんが一番気になるのは、彼女なのよ……息子がいるのに、それを知らされず、失ったと思い込んで……」智哉は真剣な表情で言った。「今日は俊介として、佳奈と佑くんと一緒にいたよ。遊園地にも行ったし、ショッピングモールやスーパーで買い物もした。それから一緒にご飯も食べた。佑くんは今、佳奈のところで寝てるよ。しかも佳奈のこと、ママって呼んだんだ。きっと今日は、佳奈も幸せな時間を過ごせたと思う」その言葉を聞いて、奈津子は不安げに言った。「佳奈って、すごく勘が鋭い子だから……気づかれたりしてない?」「大丈夫、ちゃんと気をつけてる。佑くんと仲良くなってもらいたいだけで、正体に気づかれるようなことはしてないから」「それならいいけど……もし佳奈が佑くんが自分の息子だって気づいたら……きっと他人の家に預けてるなんて耐えられないわ……その時に浩
彼はアルバムを一枚一枚めくりながら、写真を見るたびに胸が締めつけられるような痛みを感じていた。一つは、息子の成長の記録を見るたびに込み上げる思い。もう一つは、佳奈と佑くんがどれほど親密かを見せつけられること。そのどちらもが、彼の心を容赦なく刺してきた。佑くんはにこにこと笑いながら、彼の大きな手をポンポンと叩いて言った。「おじさん、先に見てて。ぼく、キッチンでママの様子見てくるね」そう言って、小さな足でトコトコとキッチンへ駆けていき、小さな踏み台を持ってきて佳奈の隣に座ると、頬杖をついてじーっと佳奈の顔を見つめた。その視線に、佳奈の心は思わずとろけてしまい、つい口ずさむように童謡を歌ってしまう。キッチンの中は、二人の楽しげな笑い声で満ちていた。俊介は一人、リビングのソファで微笑みながらそれを聞いていた。引き出しを開け、アルバムを元の場所に戻そうとしたとき、ふと中にある薬の瓶が目に入った。パロキセチン。うつ病の治療薬だった。……まさか、佳奈のうつ病が再発したのか?その可能性が頭をよぎった瞬間、俊介の心は深い痛みに包まれた。目頭が熱くなる。もっと早く気づくべきだった。あれだけ大切なものを失った佳奈が、無傷でいられるはずがない。拳をぎゅっと握りしめ、喉が何度か上下に動く。薬の瓶にそっと手を添えて、低く、かすれた声でつぶやいた。「佳奈……ごめん……」謝ることしかできなかった。佳奈のすべての苦しみは、自分が与えたものだった。今の気持ちをどう表現すればいいのか、言葉が見つからない。俊介はすぐに気持ちを整理し、キッチンへ向かい、佳奈の料理を手伝い始めた。三人で食卓に着いた。テーブルには四品とスープ、さらに果物が並べられていた。佑くんは二人の間に座って、両方からしっかり可愛がられていた。まるで本当の家族のような、温かく幸せな時間。その空気に、佳奈も思わず心を溶かされてしまう。夕食を終えた後、佳奈は佑くんを寝かしつけた。二つの絵本を読み聞かせると、小さな腕で首にしがみついて、すやすやと眠りについた。眠る直前、佳奈の首に抱きついたまま、佑くんは小さな声でささやいた。「ママ、だいすきだよ……」そして目を閉じ、静かに眠りについた。その可愛らしい寝顔を見つめな
佑くんは話しながら、小さな手で佳奈の頬をそっと包み込んだ。その真剣な姿に、佳奈はついに堪えきれなくなった。涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。「本当に……君を私の赤ちゃんって思っていいの?」嗚咽まじりにそう尋ねると、佑くんは力強くうなずいた。「もちろんいいよ。おばちゃん、綾乃ママも怒らないって言ってたし、むしろ喜んでくれてるんだ」その一言で、佳奈の胸にあった全ての迷いが吹き飛び、彼女は思わず佑くんをぎゅっと抱きしめた。「もう一回……呼んでくれる?」声は震え、傷ついた心の奥から絞り出すようだった。佑くんは佳奈の耳元で、優しい声でそっと囁いた。「ママ」その一言を聞いた瞬間、佳奈の心の堤防が完全に決壊した。それは、彼女が何度も夢で見た光景だった。赤ちゃんが「ママ」と呼んでくれる夢を、彼女は毎晩のように見ていた。でも目が覚めると、枕はいつも濡れていて、赤ちゃんの姿はどこにもなかった。佳奈は佑くんをしっかりと抱きしめ、苦しげにうなずいた。「ママは……君のこと、大好きよ」そんな二人の姿を見て、俊介の目にはうっすらと赤みがさした。彼は静かにその場に立ち、抱き合う母子を見守っていた。もし自分があの時、自分のせいじゃなければ――佳奈がこんなにも深く子どもを失う痛みを味わうことはなかった。そう思うと、俊介の胸は締めつけられるように痛んだ。気づけば、彼は二人のそばに歩み寄り、そっと二人を腕の中に包み込んでいた。それは、彼がずっと夢に見ていた光景だった。けれど、それを手に入れるまでに二年という時間がかかり、しかも自分ではない別の存在としてしか関われない。俊介の胸は張り裂けそうだった。彼は大きな手で佳奈の頭を優しく撫でながら、かすれた声で言った。「もう、泣かなくていい……俺が、買い物に連れてってやるよ」佳奈はようやく我に返り、俊介という『部外者』が近くにいることを思い出した。すぐに感情を収め、涙が残る目で俊介を見つめる。「今日は田森坊ちゃんの時間を一日もらっちゃって……これ以上ご迷惑かけられない。私たちだけで行くから、お仕事に戻ってください」俊介は佳奈の頬に残る涙を見て、思わず手を伸ばしたくなった。けれど、それがあまりにも親密すぎる行動になることを恐れ、思いとどまった。