白石は訳がわからないという顔で彼女を見た。「たとえあいつが内臓全部取り替えたとしても、癖ってのはなかなか変わらないもんだよ。特に、悪巧みするときに鼻を触る癖は昔からのもんだ。どうした?何か疑ってるのか?」佳奈は首を振った。「ただの推測よ。俊介を入れてちょうだい」「わかった」五分後、俊介がドアを開けて入ってきた。腕には花束を抱え、その整った顔には優しげな笑みが浮かんでいた。「彼女さん、ハッピー七夕!」そう言って花束を佳奈に差し出す。瞳の奥には隠しきれない想いが滲んでいた。佳奈は花を受け取り、口元を少しだけ緩めた。「田森坊ちゃんって、昔からこうやって口説いてたの?受付まで買収したって聞いたけど」俊介は笑って答えた。「だって、君があまりにも手強いからさ。ちょっとくらい賄賂使わないと、入り口すら通れないよ。今やもう、事務所全体が俺が君を口説いてるって知ってるしね。きっとこの情報もすぐに浩之の耳に入る。俺たちの第一段階の作戦は、これで成功ってわけだ」「次は、ABグループを狙いたい。麗美さんの案件から切り込むつもりだけど……田森坊ちゃんのご意見は?」俊介は彼女をじっと見つめながら、ゆっくりと語った。「ABグループは二年前、意図的に騒ぎを起こして、智哉の半導体技術を潰しにかかった。結果的にグループ全体が混乱した。君が今、俺と手を組んでABグループを狙うってことは……俺を使って、元旦那の復讐をしようとしてるんじゃないのか?藤崎弁護士、俺を甘く見ないでくれよ」佳奈は静かに言った。「ABグループは大手財閥の一角。かつてはZEROグループと最大のライバルだった。あなたの元カノもその財閥の令嬢……二年前の事故が彼女と関係あると、あなたは疑わないの?麗美さんの案件は、あくまで入口。もし彼らの犯罪の証拠を掴めれば、芋づる式に色々と暴けるはずよ」「藤崎弁護士って、俺のことそんなに興味あるんだ?俺の元カノまで調べたとは」「それが弁護士の基本よ。どんな小さな手がかりも見逃さない。あなたも気づいてるんでしょう?彼女があなたに近づいたのは偶然じゃない。実は商業スパイで、あの事故にも彼女が関与していた……私の推測、当たってる?」俊介は佳奈をじっと見つめながら、指先で机を軽く叩きはじめた。ただのリズムではない。手のひ
佳奈はそう思った瞬間、心臓を鋭く抉られたような衝撃を受けた。俊介に対する特別な感情、そして父の彼に対する態度を思い出しながら、佳奈の脳裏に信じがたい一つの仮説が浮かんだ。その考えが頭を離れず、無意識に拳を強く握りしめる。俊介の車が遠ざかっていく方向を見つめながら、小さく呟いた。「智哉、本当にあなたなの……?」翌日。佳奈がオフィスに入るや否や、秘書が駆け寄ってきた。「藤崎弁護士、お客様がお待ちです。名前は岸本とのことです」その名字を聞いた瞬間、佳奈は誰が来たのかすぐに察した。すぐに応接室へと足を運ぶ。扉を開けると、スポーツウェアに身を包み、キャップをかぶり、黒いマスクで顔を隠した女性が窓辺に立っていた。物音に反応して、彼女はゆっくりと振り返り、マスクを外すと、そこには里佳の顔があった。「藤崎弁護士」佳奈は余計なことは聞かず、ただその瞳の奥を見ただけで、彼女が瀬名お爺さんの鑑定を受け、隆三にも会ってきたことを理解した。軽く頷いて、ソファを指し示す。「お父さんに会ったの?」里佳の目が瞬時に赤く染まり、声を震わせながら言った。「本当に……浩之が殺したの?」佳奈は冷静な表情を崩さずに答える。「警察はすでに実行犯グループを逮捕したわ。ただ、今のところ浩之との直接的な証拠は見つかっていない。でも、黒幕が彼だということは間違いない。瀬名グループは製薬会社で、浩之はこの数年、莫大な利益を得るためにウイルスを開発していた。ウイルス戦争を引き起こし、自社の抗ウイルス製品を売り込もうとしていたの。あなたのお父さんたちは、その実験台にされたのよ。結局、失敗に終わったけど。現在、国際警察がこの事件の合同捜査を進めているから、すぐに彼の罪も明るみに出るはずよ」その言葉を聞いた瞬間、里佳は両手を握りしめ、目に怒りの炎を宿した。「もし本当に彼が犯人なら、絶対に許さない!」「彼はあなたのお母さんの無知を利用し、お爺さんを誘拐した。もう全部知ってるでしょ?だから聞きたいの。私と手を組む気はある?」里佳はうつむき、苦しそうな声で答えた。「昨日……母に会ったの。彼女、本当に知らなかった……自分が外祖父の娘だって。浩之はずっと騙してた。全部終わったら、私とお母さんを海外に逃がすって言ってた」「真実は
言い終えると、彼女はその書類を手にして雅浩の家を出て行った。車に乗り込むと、俊介は後部座席に置かれた書類の束を見て、眉をひそめた。「麗美の弁護をするつもりか?」佳奈は淡々と答えた。「うん。何か問題ある?」俊介は複雑な表情で彼女を見つめた。「この案件がどれだけ厄介か、浩之がずっと目を光らせてるのも知ってるだろ。下手すりゃ、奴に嵌められるかもしれないんだぞ。それでも、元夫のためにそこまでやる気か?」「彼のためじゃない。奈津子おばさんのためよ。この前、桃花村で聞いたでしょ?奈津子おばさんが智哉と麗美の本当の母親だって。あの人、昔から私にすごく優しくしてくれた。そんな人に、娘を失わせたくないの」その言葉に、俊介は何も言い返せなかった。彼の瞳は深く、静かに佳奈を見つめ、声が少しかすれた。「佳奈……もうこれ以上、智哉のために自分を危険に晒すな」「ちゃんとわきまえてるわ」佳奈は視線を窓の外に移した。その瞳には、じわりと涙がにじんでいた。無視なんてできない。智哉を一人で背負わせるなんて、絶対にできない。麗美を助けて、外祖父の安全さえ確保できれば、智哉は思い切って戦える。二人は車で佳奈のアパートへ向かった。建物の下に着くと、佳奈は「ありがとう」と一言だけ言って車を降りようとした。だがその手首を、俊介がぐっと掴んだ。その顔が、突然佳奈の方へと近づいてくる。二人の視線がぶつかり、呼吸が絡み合う。俊介は喉を鳴らしながら、佳奈の顔を見つめて低く問いかけた。「佳奈……いつから鬱が再発したんだ?」その言葉に、佳奈は一瞬驚いて固まった。反射的に彼を突き飛ばすこともなく、ただその場で動けずにいた。おかしい……昔の彼女なら、男に触れられるだけで嫌悪感を覚えていた。手を引かれるだけでも不快だったはずなのに――俊介とのこの距離、鼻先が触れそうなほど近いのに、拒絶しなかった。ようやく我に返った佳奈は、俊介を軽く押し返し、緊張した声で言った。「田森坊ちゃん、ちょっとお節介が過ぎるわよ」だが俊介は引き下がらなかった。佳奈を座席に押し留めたまま、深い瞳で彼女を見つめる。その瞳には、言葉にできないほどの痛みが滲んでいた。「俺の知り合いに、いい精神科医がいる。今度M国に出張する時に、そい
佑くんの黒くて大きな瞳がパチパチと瞬きをしながら、清司をじっと見つめていた。 ベッドの上で小さな足をぶらぶらさせて、まるでとんでもない秘密を見つけたかのように興奮している。 彼の一言に、その場にいた全員がつられて笑い出した。 聡美は笑いながら彼の頭を撫でた。 「この子、本当に頭がいいわね。それにこんなに可愛いんだから、将来はきっとすごい人になるわ」 褒められるのが大好きな佑くんは、小さな頭をコクコクとニワトリのように何度も頷いた。 「お爺ちゃんの目は確かだね。キレイなお婆ちゃんは顔だけじゃなくて、話し方も上手なんだよ。佑くん、あの人のこと好きだな。お爺ちゃん、早く元気になって、佑くんと一緒にキレイなお婆ちゃんを口説こうね」 俊介は笑いながら近づき、佑くんのお尻を軽く叩いて抱き上げた。 その目には隠しきれない愛情がにじんでいた。 佑くんは見た目だけでなく、性格や観察力、論理的な思考まで母親にそっくりだった。 まだたったの二歳なのに、物事の本質を一瞬で見抜くなんて、将来が楽しみで仕方がない。 俊介は得意げに口元を緩め、優しい声で言った。 「この野郎、君もお母さんと一緒で、口が達者だな」 佑くんは首を傾けながら答えた。 「綾乃ママはそんなに口が強くないよ。いつもパパとケンカすると負けちゃうもん。こっちのママの方がすごいんだよ。宇宙一のスーパー弁護士なんだから。ぼくはこっちのママに似たんだ」 俊介は深く頷いて同意した。 「うん、確かに似てるな」 佳奈は特に気にする様子もなく、二人のやり取りを微笑ましく見ていた。 その日、佳奈と俊介は佑くんを連れて水族館で一日中遊び、たくさんの写真を撮った。 夜になって雅浩の家に佑くんを送り届けたときには、もうすっかり眠っていた。 佳奈の顔に浮かぶ幸せそうな笑顔を見て、雅浩はあの日の判断が間違っていなかったと確信した。 佑くんがそばにいることで、ようやく佳奈の心も少しずつ癒されてきている。 彼は執事に子どもを部屋へ連れて行かせた後、佳奈に向き直って言った。 「佳奈、麗美さんの件だけど、進展があったよ。ただ、今は別の案件で手がいっぱいでさ。代わりに君に引き継いでもらえないか?」 佳奈は特に躊躇うこともな
聡美は佳奈を見つめながら言った。「この子、あなたの息子?お爺ちゃんとすごく仲良さそうね。きっと昔、お爺ちゃんがよく面倒を見てくれてたのね」その言葉を聞いた佳奈の顔に、ふっと悲しみの色が浮かんだ。父は確かに赤ちゃんのことをとても気にかけてくれていた。妊娠中の食事は、すべて父が管理してくれていたほどだ。だけど――彼女の赤ちゃんは、もういない。佳奈は苦笑いしながら唇をほんの少しだけ歪めた。「この子は、いとこの子なの」聡美は少し驚いたように目を見開いた。「そうだったの?お爺ちゃんにあんなに懐いてるから、てっきりあなたの子かと思ったわ」佳奈自身も、なぜ佑くんがあそこまで父に懐いているのか不思議だった。父もまた、佑くんに対して特別な反応を示していた。初めて彼に会った時、父の手が動いた。俊介に会った時は、目玉が動いた。本来なら、父はこの二人に会ったことがないはずなのに、なぜそんなに強く反応するのか。それは、佳奈にとってずっと解けない謎だった。今日で清司の鍼治療は三日目。聡美がすべての銀針を抜き終わり、片付けようとしたその時――佑くんの驚いた声が響いた。「お爺ちゃん、起きたの?」その声に、部屋中の視線が一斉に集まった。すると、それまでずっと目を閉じていた清司が、突然目を開けたのだ。佳奈はその瞬間、心臓が跳ねるほど驚いた。すぐさま駆け寄り、清司の手を握りしめて、興奮気味に叫んだ。「お父さん、起きたの?私のこと、わかる?」清司の目はまだ虚ろだったが、それでも機械的に瞬きを一度した。佳奈はすぐに聡美の方を振り向き、必死に尋ねた。「聡美さん、父が目を開けました!これって、意識が戻ったってことですか?」聡美は頷いた。「これは目覚めの第一歩だ。目は開いても、まだ脳が人や物を認識するまでには至っていない。これから少しずつね」「でも、それでも大きな進歩です……もう、ずっとベッドに寝たきりで、何の反応もなかったんです。あなたにはわからないと思うけど、この二年間、毎日ここに座って、私……どれだけ怖かったか……ずっとこのまま、もう二度と目を覚まさないんじゃないかって」その言葉に、俊介の目の奥がじんわりと熱くなった。彼は静かに佳奈のそばに立ち、肩に軽く手を置いて、低い声で言った。「た
俊介は花束を佳奈に差し出した。凛々しい眉の間には、隠しきれないほどの深い想いがにじんでいた。それが、佳奈にはたまらなく心地悪かった。彼女は花を受け取り、淡々とした声で言った。「偽装カップルなんだから、田森坊ちゃん、そんなに本気にならなくていいの。必要な場面だけでちゃんと合わせてくれればそれで十分よ」俊介は笑みを浮かべたまま部屋に入り、朝食をダイニングテーブルに並べた。それから、ちょうど起きたばかりの佑くんを抱き上げ、低い声で言った。「演技ってのはリアルさが命だ。普段から練習してないと、いざってときにボロが出るだろ、なあ、坊や?」佑くんはふにゃっと俊介の肩に頭を乗せ、目を細めてにっこり笑った。「でもさ、あんまり入り込みすぎて、抜け出せなくなったら困るよ」その言葉に俊介は笑いながら彼のお尻をぺしっと叩いた。「このガキ、たまには俺の味方してくれよ。昨日は一日中君のために働いたんだぞ?」「でも夜はママのご飯食べたでしょ?それでチャラだよ。僕、小さいけどバカじゃないんだから、だまされないよ」俊介はその鋭い返しに笑いながら言った。「このガキ……どうやら君のママを落とすには、まず君を攻略しないとな。よし、洗面所行こうか。ついでにオムツも替えような」佑くんはぷくっと頬を膨らませて抗議した。「僕、夜だけしかオムツ使ってないもん!昼間はもう卒業したよ!」「そうか?じゃあ見せてもらおうか、一晩でどんだけ出たか」そう言いながら、俊介は佑くんを抱えてバスルームへ。まずはお尻をきれいに洗ってから、歯磨きと顔洗いまで済ませた。佑くんはその過程をすっかり楽しんでいる様子だった。黒くてぱっちりした目をキラキラさせながら、俊介を見上げた。「イケメンおじさん、元の顔に戻れるの?」俊介は何のことかすぐに察した。しゃがんで佑くんと目線を合わせて聞いた。「どっちの顔が好きなんだ?」佑くんは少し考えてから答えた。「今の顔の方が好き」「どうして?」「だって、ママは前の顔を見ると悲しくなるから。僕、ママが悲しいのイヤなんだ」その言葉に、俊介の胸がじんと熱くなった。かつて智哉として、佳奈に多くの苦しみを与えたのは事実だった。そのことを、子どもにまで見抜かれていた。俊介は笑いながら佑くんのほっ