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第900話

作者: 藤原 白乃介
こんな最低なこと、本当に自分がやったのか?

誠健はギリッと歯を食いしばった。

「……それは確かに、最低だな」

その言葉を聞いた知里は、ふっと笑った。

「やっぱりそう思うよね。昔のあんたってほんと最低だったもん。ただの最低じゃないよ、女の同僚とわざと曖昧な関係になって、私を嫉妬させて後悔させようとしてた。

それに、私の悪口をわざと目の前で言って、独りぼっちになっても私なんかと結婚しないって……おかげでおじいちゃんが何度も倒れたんだから。

でも、今はもういいよ。あんたは全部忘れたんだし、昔のことは水に流そう。

これからは、お互い干渉しないで、それぞれの道を歩こう」

そう言って、椅子にもたれかかり、目を閉じた。

もう何も言わなかった。

誠健にはわかっていた。知里は平然を装っていても、心の奥底では、今でもその傷を引きずっている。

彼は知里の整った顔をじっと見つめ、喉の奥からかすれた声を絞り出した。

「……過去のこと、ちゃんと償うよ」

知里はその言葉を気にも留めず、冷たく口元を歪めただけで、何も言わなかった。

誠健は車で知里を大森家へ送り届けた。

二人が一緒に家に入ってきたのを見て、大森お爺さんは少し驚いた。

「知里、誠健、君たちなんで一緒にいるんだ?」

誠健は丁寧に頭を下げた。

「昨日、彼女が撮影中に倒れました。熱が39度まで上がっていて、しばらく家で休ませたほうがいいです」

大森お爺さんは心配そうに知里の頭を撫でた。

「このバカ娘、そこまで頑張らなくてもいいだろ。大森家が破産したわけでもあるまいし、君を養えなくなるわけじゃないよ」

知里は笑いながら言った。

「だって、おじいちゃんを世界一周旅行に連れて行きたいんだもん。私は大丈夫。ちょっと休めば元気になるよ」

「君の気持ちくらい、ちゃんとわかってるさ。さあ、早く部屋に戻って休みなさい。何か食べたいものあるか?」

知里は心配する祖父の顔を見て、笑顔で抱きついた。

「私は大丈夫だから、安心して。千代ばあやが作ったうどんが食べたいな」

「よし、今すぐ作らせるよ。誠健、君も一緒に食べな」

誠健は軽く頷いた。

「はい、まず彼女を部屋まで送ります」

「そうしてくれ。階段も多いし、高熱の後じゃ力も出ないだろう。ちゃんと支えてやりな」

知里は、祖父の言外の意味にすぐ気づいた。

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