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第302話

Author: 山田吉次
蒼生は軽く手を上げると、ヴァイオリニストは恭しく退き、周囲は静けさに包まれた。彼は口を開いた。「伝八は小泉勝望の手下だ」

伝八とは、牢獄で正志と喧嘩し、正志の足を骨折させ、下手をすれば加刑になりかけたあのムショ仲間のことだ。

美羽が我に返って口にしたのは――

「霧島社長はどうして伝八を知っているんですか?」

「君、伝八が小泉の手下であることに、驚いていないな」蒼生は敏感に彼女の着眼点のずれに気づいた。もし知らなければ、最初に訊くのは伝八そのもののことのはずだ。

美羽は反論しなかった。彼女はすでに知っていたからだ。

最初から、正志が伝八と争った件には裏があると疑っていた。星璃に打ち明けると、彼女が刑務官の友人に聞いてくれたのだ。

伝八には仲の良い獄中の友がいて、何でも話していた。その友が裏切り、刑務官に漏らした――勝望が伝言を入れ、「隙を見て真田美羽の父の足を折れ」と命じていたのだ、と。

「慶太が小泉の足を折った。小泉は恨みを抱いたが、慶太にも夜月社長にも手は出せない。だから君を狙った。君の父の足はもう治らない。そう考えると、慶太こそが元凶だ」

蒼生はゆっくりと告げた。「彼は君を害したんだ」

美羽の指先がぎゅっと強張り、心は乱れていた。

その時、足音が近づき、彼女は思わず顔を上げた。そこに立っていたのは慶太だった。

驚きが走った。

蒼生は振り返らずとも、誰が来たのか分かっていたようだ。ナプキンを外しテーブルに置くと、にやりと笑った。「まだ料理も来ていないし、ちょっと手を洗ってくる」

そう言って席を立ち、美羽と慶太の二人だけの場を残した。

美羽は席に座ったまま、慶太が歩み寄るのを見つめた。

彼は相変わらず金縁のメガネをかけ、メガネチェーンが肩に垂れ下がり、初めて会った時と同じく上品で端正な佇まいだった。

「相川教授も食事ですか」なんて空虚な言葉は言わなかった。どうせ霧島社長が呼んだに決まっているのだ。「霧島社長に呼ばれたんだね?」

慶太は腰を下ろし、開口一番に言った。「すまない」

彼は、勝望が彼女の父に復讐するとは思ってもみなかったのだ。

美羽は伝八が勝望の人間だと知った時点で、ある程度察していた。

首を振り、冷静に口にした。「あなたは私のために小泉を懲らしめただけ。後のことはあなたのせいじゃない。元凶は小泉よ。もう弁護士に資料
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