Share

第390話

Author: 山田吉次
美羽は何も言わなかった。

蒼生は一拍置いて、少し柔らかい声で探るように尋ねた。「……怒ってる?」

別にそういうわけではない。

実際のところ、美羽はずっと彼がこの話を切り出すのを待っていた。彼が必ずそう言い出すと分かっていたから。

血のつながった従妹で、しかも仲も良い。結意のために口を利かない方がおかしい。

美羽は薄く笑った。「ただ思ったんです。一千万から二億まで、値段の幅がずいぶん広いなって」

二十倍。――笑ってしまうほどの「柔軟性」だ。

蒼生は鼻で笑った。「真田さんがうちの叔父に一億を提示したのは知ってる」

そして、彼は率直に続けた。「あの金は夜月社長に渡すためのものじゃない。正直に言えば、『未来の婿』への投資なんだ。叔父夫婦は夜月家と縁を結びたがってる。もし本当に結婚すれば、それは夫婦の共有財産になる。つまり一億は支出じゃなくて、先行投資さ」

美羽は合点がいった。

――なるほど、そういうことだったのか。

もし翔太がその金を受け取っていたら、美羽への情などその程度だと証明される。

そうなれば、宮前家は遠慮なく美羽に手を出せるだけでなく、結意が翔太と結びつくことも望める。

これは試しの一手であり、一石二鳥の作戦だったのだ。

蒼生は彼女に茶を注ぎながら、言葉を続けた。「叔父夫婦は結意を溺愛してる。もし本当に彼女が服役することになったら、何としてでも真田さんを敵に回すだろう。もちろん、これは脅しじゃない。もし彼らが真田さんに何かしようとすれば、俺は必ず止める……たとえ認めたくなくても、夜月社長も真田さんを守るはずだ」

彼は少し間をおいて、諭すように言った。「ただ、そうだからといって安心はできないさ。これからはずっと何か仕掛けられるのではないかと、心配しながら暮らしていくことになるだろう。結局、人は普通の生活に戻るんだ。家に籠り続けることも、四六時中ボディーガードをつけることもできないよ」

美羽は黙って聞いていた。表情に波はなかった。

「真田さんが一人になる時は必ずある。その時、彼らが仕掛ければ……命までは取られなくても、傷つくことになるかもしれない。だったら、いっそ恨みを残さず、和解して穏やかに終わらせる方がいい」

軽薄そうに見えて、蒼生は意外と現実をよく見ている。

以前、「大人の世界では、コネがないよりある方がいい」と言った時から
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 社長、早く美羽秘書を追いかけて!   第392話

    美羽の最初の反応は、彼を突き飛ばすことだった。だが次の瞬間に気づいた。彼の体が、異様に熱い。手のひらが胸に触れた瞬間、服を隔てているにもかかわらず、まるで火を抱いたように熱が伝わってきた。そして押し返した拍子に、翔太はほとんど抵抗もせず、そのまま床に座り込んでしまった。リビングの灯りが彼の白い頬を照らし、そこに淡い紅が差している。前髪が少し垂れて、鋭い目元を隠した。そのせいで、いつものような冷たさが薄れ、どこか儚げに見えた。美羽は唇を結んだ。唇に残る彼の感触がまだ消えず、顔色が冴えない。そうだ。彼の手元には、自分の部屋のカードキーがあるのだ。「……何しに来ましたか?」今夜、何人もが似たようなことを言ってきたのを思い出し、彼女は冷たい声で言った。「まさか夜月社長も、私に『和解』を勧めに来たんですか?今の提示額は二億ですけど、夜月社長はどこまで上げるおつもりですか?」一億上乗せ?いや、翔太のような男なら――倍額を提示してくるかもしれない。美羽の口元に、嘲るような笑みが浮かんだ。もし本当にそんなことを言い出したら――と、思考の続きを描こうとしたとき、彼がゆっくり顔を上げ、焦点の定まらない目で彼女を見つめた。その視線に、彼女の思考は一瞬止まった。すると彼は、まったく別の話題に切り替え、かすれ声で言った。「……いい子、俺、熱がある」喉の奥がきゅっと詰まった。まだ完全には目が覚めていないのか、頭もぼんやりしていて、この瞬間の翔太の姿から、なぜか彼女の脳裏には一匹の野良犬の幻影が浮かんだ。耳を垂らし、哀れげな目で、誰かに助けを求める野良犬。「……」あの雪の夜、彼の姿が脳裏をよぎり、胸の奥がざわめいた。彼女は視線を逸らし、無理に平静を装った。「熱があるなら、加納秘書にでも連絡して、病院へ行けばいいじゃないですか。私に何の用?医者じゃありませんよ」彼は、淡々と事実を述べた。「前に俺が病気になった時、世話してくれたのは君だろ」美羽の瞳がかすかに揺れた。風が湖面を撫でるように、静かな波紋が広がった。翔太の体は丈夫だ。彼女が傍にいた三年間で、倒れたのはたった一度だけ。そのとき彼は、大規模な買収案件を自ら陣頭指揮し、一か月以上の激務の末に成功させた。祝賀会の夜、気が緩んで酒を少し飲み、翌朝には

  • 社長、早く美羽秘書を追いかけて!   第391話

    美羽がホテルに戻って間もなく、星璃から電話がかかってきた。彼女が部屋にいると知ると、星璃はそのままこちらにやって来た。星璃も今、このホテルに滞在している。部屋に入るなり、星璃はマフラーを外し、その華やかな顔をあらわにした。「美羽、ごめんね。午後、哲也に『ちょっと急ぎの用がある』って呼び出されて……そのまま彼と行っちゃって、美羽に声もかけられなかったの」「大丈夫。用事は済んだの?」「……」どう言えばいいのだろう。哲也の言う「急用」とは、占い師が選んだ「一年に一度の妊娠の好機」――その時間に合わせて彼が彼女をホテルへ連れ戻した、というものだった。事が終わった後、彼女は思わず彼の頬を平手で打った。白く整った顔にくっきりと赤い跡が残り、かえってその美貌を際立たせた。けれど彼は気にも留めず、煙草に火をつけ、紫煙の向こうで笑いながら言った。「母さんが占い師に頼んで見てもらったんだ。この時間にやれば、一人でも十分、運がよけりゃ双子だってさ」哲也は「マザコン」ではない。母親の言うことに盲従するタイプでもない。ただ――星璃のために翠光市まで来たのに、彼女が仕事ばかりでかまってくれない。ひとりで過ごすのが退屈で、ふと思いついたように、彼女をからかってみたくなったのだ。二十代の男なんて、どんな馬鹿げたことでもやりかねない。星璃は深く息を吐き、話題を切り替えた。「まあ……済んだわ。それより、帰り際に霧島社長を見かけた気がしたけど?」美羽はソファの肘掛けに身を縮め、手にしたカップを抱いていた。雪の中を少し歩いたせいで、鼻先がほんのり赤い。「うん。彼、示談金を二億まで上げて、『従妹を見逃してほしい』って」星璃は眉を寄せた。「それで、美羽は?」「断ったわ」星璃の表情に一瞬のためらいが走ったのを、美羽は見逃さなかった。「星璃も、和解したほうがいいって思ってる?」星璃は正直にうなずいた。「法的に見れば、今の証拠で訴訟に勝つのは確実。結意は一年から三年の実刑になるはず」そんな前置きのあとに続くのは、決まって「でも」だ。美羽は淡く笑った。「でも?」やはり、星璃は小さくため息をついた。「でもね、宮前さんの計画では、被害者は彼女自身だったの。そうなっている以上、裁判所は『実際の被害者なし』『社会的影響も小さい』と判断する

  • 社長、早く美羽秘書を追いかけて!   第390話

    美羽は何も言わなかった。蒼生は一拍置いて、少し柔らかい声で探るように尋ねた。「……怒ってる?」別にそういうわけではない。実際のところ、美羽はずっと彼がこの話を切り出すのを待っていた。彼が必ずそう言い出すと分かっていたから。血のつながった従妹で、しかも仲も良い。結意のために口を利かない方がおかしい。美羽は薄く笑った。「ただ思ったんです。一千万から二億まで、値段の幅がずいぶん広いなって」二十倍。――笑ってしまうほどの「柔軟性」だ。蒼生は鼻で笑った。「真田さんがうちの叔父に一億を提示したのは知ってる」そして、彼は率直に続けた。「あの金は夜月社長に渡すためのものじゃない。正直に言えば、『未来の婿』への投資なんだ。叔父夫婦は夜月家と縁を結びたがってる。もし本当に結婚すれば、それは夫婦の共有財産になる。つまり一億は支出じゃなくて、先行投資さ」美羽は合点がいった。――なるほど、そういうことだったのか。もし翔太がその金を受け取っていたら、美羽への情などその程度だと証明される。そうなれば、宮前家は遠慮なく美羽に手を出せるだけでなく、結意が翔太と結びつくことも望める。これは試しの一手であり、一石二鳥の作戦だったのだ。蒼生は彼女に茶を注ぎながら、言葉を続けた。「叔父夫婦は結意を溺愛してる。もし本当に彼女が服役することになったら、何としてでも真田さんを敵に回すだろう。もちろん、これは脅しじゃない。もし彼らが真田さんに何かしようとすれば、俺は必ず止める……たとえ認めたくなくても、夜月社長も真田さんを守るはずだ」彼は少し間をおいて、諭すように言った。「ただ、そうだからといって安心はできないさ。これからはずっと何か仕掛けられるのではないかと、心配しながら暮らしていくことになるだろう。結局、人は普通の生活に戻るんだ。家に籠り続けることも、四六時中ボディーガードをつけることもできないよ」美羽は黙って聞いていた。表情に波はなかった。「真田さんが一人になる時は必ずある。その時、彼らが仕掛ければ……命までは取られなくても、傷つくことになるかもしれない。だったら、いっそ恨みを残さず、和解して穏やかに終わらせる方がいい」軽薄そうに見えて、蒼生は意外と現実をよく見ている。以前、「大人の世界では、コネがないよりある方がいい」と言った時から

  • 社長、早く美羽秘書を追いかけて!   第389話

    「この店、霧島社長の経営なのか?霧島社長が来られるのに、俺が来ちゃいけない理由は?」翔太はそう言って椅子を引き、美羽の隣に腰を下ろした。美羽はメニューをめくる指を、ほんの一瞬だけ止めた。蒼生が眉をひそめた。「もちろん構わないよ。でも、夜月社長がなぜわざわざ俺たちのテーブルに?」「満席だからだ」翔太は美羽の横顔を見つめたまま、平然とした声で言った。――見え透いた嘘だ。店内にはまだ空席がいくつもある。蒼生が何か言いかけた瞬間、今まで姿を見せなかった翔太のボディガードたちが、ぞろぞろと入ってきて、二人一組で残りの席をすべて埋めてしまった。「……」蒼生は仕方なく言葉を飲み込み、言い方を変えた。「たとえ空席がなかったとしても、俺たちが同席をお願いした覚えはないな。俺たち今、デート中なんだよ。第三者が隣にいたら、雰囲気が壊れるだろ?」翔太は美羽を見たまま、低く問うた。「君と彼、そういう関係なのか?」美羽のまつげが小さく震えた。答えなかった。蒼生が鼻で笑った。「否定しないってことは、認めるってことだよ。夜月社長、もういいだろ?」「霧島社長のその理屈でいくなら――」翔太の顎がきゅっと引き締まった。「俺は君の男ってことになるか?年末年始の数日間、毎晩一緒にいたのは事実だろう?」「っ!?」美羽は、まさか彼がそんなことを人前で言い出すとは思ってもみなかった。「否定しないってことは、認めるってことだよな?年明けまでは俺と一緒にいて、今は他の男の女か?」翔太の声は冷たく、それでいてどこか痛ましかった。「……最低だな」「……」――頭おかしいんじゃないの!?美羽は、苛立ちと怒りでいっぱいだ。翔太が彼女に話しかけさせようとしているのは分かっているが、どうしても口を開きたくない。立ち上がってそのまま出て行こうとしたが、翔太が彼女の行き先を塞いだ。彼女が翔太を睨みつけると、蒼生の手がテーブル越しに伸び、彼女の手首を掴んだ。「出て行くのは彼の方だ。夜月社長が来たせいで、俺の彼女はご飯も食べられなくなってるんだぞ」「手を引っ込めろ」翔太の声は一段低くなり、空気が凍った。「彼女に触るな」蒼生は条件反射のように手を放した。翔太は無表情のまま、淡々と言った。「それは霧島社長が選んだ店が悪いだけだ。俺が用意した食事なら、彼女が食べ

  • 社長、早く美羽秘書を追いかけて!   第388話

    美羽はようやく視線を翔太に移した。表情には何の波も立たない。「こんな『痛い』女が、夜月社長を見る資格なんてありませんわ」翔太は一瞬、動きを止めた。彼ほどの頭の切れる男なら、すぐに気づいた――さっきの自分の言葉は宮前家を皮肉ると同時に、彼女をも傷つけたのだと。「君のことを言ったわけじゃない」低く掠れた声で続けた。「それに、分からないのか?今の俺は、君が好きなんだ」美羽は、相手の言葉をそのまま返すように言った。「私を好きだって言う人なんて山ほどいますよ。全員に応えないといけないですか?」「……」いいだろう。彼女のために庇った言葉を、逆に自分を攻撃する武器にされるとは。翔太が言葉を詰まらせるのは滅多にないことだ。彼の呼吸が、ゆっくりと深くなった。何かを言おうとしたその時――個室の扉の方から、唐突で嘲るような拍手が響いた。扉は元々少し開いていたが、誰かが押し開けた。蒼生が枠にもたれかかり、息を弾ませながら笑っている。「いいね、いいねえ、真田さん!『私を好きだって言う人なんて山ほどいる』って、まさにその通りだ。俺もその一人さ。しかも俺は彼と違って、真田さんに見返りなんて求めない。真田さん、あいつより俺を選んだ方がずっといいぜ?」美羽は冷淡に返した。「どうしてお二人のどちらかを選ばなきゃいけないのですか?」「二人のどちらか」――蒼生を自分と同列に並べるなんて。翔太の声が冷えた。「霧島社長。さっき叔父夫婦が帰ったばかりだろう?送らなくていいのか?」蒼生は肩をすくめた。「運転手がいるから心配いらないさ。真田さん、久しぶりだね。俺が送るよ」翔太は鋭く遮った。「彼女はたとえ俺と行かなくても、友人が外で待っている。霧島社長の手は煩わせない」蒼生はさらりと受け流した。「織田弁護士のこと?さっき彼女の旦那さんが迎えに来て、一緒に帰ったよ。急ぎの用でもあったんじゃない?」星璃がもう帰ったなら――美羽が蒼生について行かなければ、翔太に強引に連れ戻される。二つの害のうち、軽い方を選ぶ。彼女はためらいなく蒼生の方へ歩き出した。翔太は咄嗟に彼女の腕をつかみ、張り詰めた声を落とした。「本気で、彼と行くつもりか?」美羽は振り返り、瞳の奥に彼の姿を映した。「夜月社長の言い分だと、私は自分が誰と行くかを決める資格もないって

  • 社長、早く美羽秘書を追いかけて!   第387話

    美羽は淡々と言った。「娘さんも、今回のことで少しは学んだでしょう。これからは行動を慎んで、もっと大きな過ちを犯さないように」その瞬間、洋子はテーブルを回り込み、美羽の目の前に突進しようとした。「うちの娘のことに、あんたみたいな小娘が口を出すな!よく考えるのね!もし娘が本当に刑務所に入るようなことになったら、宮前家は黙っていないわよ!」星璃がとっさに彼女を制し、きっぱり言い放った。「宮前夫人、今のは私の依頼人への『脅迫』と受け取っていいんですか?」「脅迫じゃないわ。ただ、お互い分かり合おうってだけよ。真田さん、あなたは実際、身体的に傷ついたわけでもない。お金を受け取って、普通の生活に戻る。それでいいじゃないの?どうしてわざわざうちと敵対するの?」隆が冷ややかに笑った。「君の個人情報、ネットに全部出てるんだろう?世の中には過激なやつも多い。……君も、君の家族も、ずっと恐怖の中で生きたいわけじゃないだろう?」それが「警告」だということは、美羽にも分かっていた。彼女はゆっくりと立ち上がり、目を細めて言い放った。「……できるのなら、どうぞやってみてください」洋子が即座に返した。「その言葉、後悔しないで!」その瞬間、氷のように冷たい男の声が空気を切り裂いた。「――いいね。俺も見てみたいですよ。本当に『できる』のかどうか」美羽は思わず唇を結んだ。翔太が姿を現すと、先ほどまで勢いづいていた宮前家の両親の顔色が、一気に青ざめた。彼が星煌市にいるはずだと調べていたのに、どうして翠光市に――翔太は淡々とした目で宮前家の両親を一瞥し、問いかけた。「……で?何をしようとしていました?」「……」翔太がいる以上、彼らに何ができるはずもなかった。それでも、洋子が怒りに震えながら口を開いた。「翔太!あんたという男は――!結意は十年もあなたを想い続けたのよ!十年の青春を全部、あなたに捧げたのに……どうして他の女のためにあの子を傷つけるの!?一度でも、あの子の痛みを考えたことある!?」翔太はその言葉を面白そうに思った。すっと通った眉と、わずかに細められた瞳が、なお一層端正な印象を与える。「彼女が十年、俺を好きだと?……それで、俺も彼女のことを好きにならなきゃいけないのですか?彼女の想いに応えなきゃいけないのですか?世の中には俺を好いてく

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status