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第5話

Author: 麦穂
「龍生、急に雨が降ってきて、帰りの車が捕まらないの……」

愛莉は雨の帳の中に立ち、声には頼りなさと甘えが滲んでいた。

濡れたワンピースが体にぴたりと張り付き、しなやかな曲線を浮かび上がらせる。乱れた髪が頬に貼り付き、その姿は一層儚げだった。

龍生は緊張したように振り返り、千夏に視線を送った。

「千夏、誤解するなよ。愛莉は大事な書類を届けに来ただけなんだ。赤ちゃんのためにも、感情を抑えないと」

必死に弁解する龍生の瞳に、一瞬走った迷いを、千夏ははっきりと見逃さなかった。

千夏は冷たく笑い、ゆっくりとうつむく。長いまつ毛が、心の奥から溢れる感情を隠すように影を落とした。

子どもを守るというのは、彼女に堪え忍ばせることなのか。愛莉に出しゃばらせないよう釘を刺すことではなく。

その「守る」という名目は、ただの残酷な束縛にしか思えなかった。

愛莉が苦しげなうめき声をあげる。次の瞬間、龍生は慌てて駆け寄り、迷わずジャケットを脱いでその肩に掛けた。

二人の身体はぴたりと寄せ合い、愛莉の胸元が龍生の腕にすり寄る。その光景は千夏の目を突き刺すほど痛々しかった。

龍生の動きが一瞬ぎこちなくなり、喉が上下し、かすれた声が漏れる。

「大丈夫だ。俺が送っていく」

その言葉に、千夏はすぐに気づいた。彼の体が反応している、と。

唇の端に嘲るような笑みを浮かべ、二人を一瞥もせず、背を向けて雨の中へと歩き出した。

雨は、止む気配を見せなかった。

千夏は粥の香りに目を覚ました。

目を開けると、龍生が湯気の立つお粥を持ち、ベッドのそばで優しく見つめていた。

「千夏の寝顔、すごく可愛いな。俺たちが出会ったころを思い出すよ。あの時も思ったんだ……君は本当に綺麗だって」

昨日おとなしかった千夏に満足しているのか、甘い言葉を惜しみなく口にする。

「君を一生家に閉じ込めておきたいよ。そしたら絶対離れていかないだろ」

付き合っていた頃、そんな言葉を何度も聞いた。

その度に千夏は頬を赤らめ、彼の胸を軽く叩き、恥ずかしいと言いつつも心は甘い幸福感で満ちていた。

だけど今は違う。かつて家に閉じ込められた記憶が鮮明に蘇り、背筋がぞくりと震えた。指先まで止まらない震えが走る。

袖口に手を隠しながら、龍生の目から何かを読み取ろうとしたが、そこに映るのは、虚飾に満ちた柔らかさだけだった。

「さあ、少し食べよう。もうベビーシッターセンターに予約を入れてる。一緒に見に行こう」

しかし千夏には打ち明けられない計画があった。春菜と約束した日が迫っている。

それが唯一の逃走の機会、逃せば終わりだ。だから彼の言葉に従うようにお粥を口にし、後ろについて外へ出た。

ベビーシッターセンターの受付は、明るく広々としていた。

笑顔の受付員がサービス内容を丁寧に説明する。待合スペースには……愛莉の姿があった。

ピンク色のワンピースに身を包み、完璧なメイクで、くつろぐように座っている。

龍生が言い訳を探す前に、千夏が口を開いた。

「松井さんもいたんですね、偶然ですね」

あまりに平然とした口ぶりに、愛莉は唇を噛み、不満げな光を瞳に宿した。

やがて、制服姿のベビーシッターたちが列をなして現れる。笑顔で並び、客の選択を待っていた。

千夏はすでに中絶を決めている。選ぶ気などなく、虚ろな目で前を見つめ続ける。

一方の愛莉は、すっかり母親の顔になり、ベビーシッターを一人ひとり囲んでは経験や育児について矢継ぎ早に質問していた。

ようやく人を選んだものの、会計には進まず、腹をかばいながら龍生に甘えるような視線を送る。

「この前の結婚式でミスをして、自分で罰として一ヶ月の給料を返上したの……だからお金が足りなくて」

「俺が払うさ。従業員への福利厚生だと思えばいい」

龍生は一瞬ためらい、すぐに頷いた。

その様子を横で見ていた千夏は、茶を口につけながら皮肉な笑みをこぼす。

「待って」

「千夏、またわがままか?愛莉は俺たちの結婚式のために給料を失ったんだぞ!」

怒りを含んだ龍生の視線を受け止め、千夏は淡々と指さした。

「あなた、誤解してるわ。カードを間違えてるの。そっちじゃ残高がないから、こっちを使った方がいい」

細い指先から差し出されたカードを見つめ、龍生の心臓がどくんと跳ね上がる。

そのカードを受け取ったら、大切な何かを失う気がした。

考える間もなく、隣から押し殺したすすり泣きが聞こえてきた。

「ご迷惑をかけてしまって……上野さん、怒らないでください。このベビーシッターは諦めます」

泣き声に混じったその声は、ひどく哀れを誘うものだった。

龍生は思わずカードを掴み取り、会計へ走った。

千夏は呆れたように二人を見やり、立ち上がる。腕を組み、その目は冷え切っていた。

「私が欲しいって言った?ある人にとっては宝物でも、私にはただの普通のものよ」

声は小さかったが、その場にいた誰もがはっきりと聞き取れた。

愛莉は大きな悲劇に見舞われたかのように、ふらりと龍生の胸に倒れ込む。

龍生の表情から血の気が引き、彼女を抱きかかえて医者を呼ぶ声を上げ、駆け出していった。

去り際、赤く充血した目で千夏を睨みつけ、低く警告を残す。

「もし彼女のお腹の子に何かあったら……お前が責任を取れ!」
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