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第4話

Auteur: 麦穂
千夏が再び目を覚ましたのは、もう翌日の午前だった。

医師が回診に来たとき、腹部の激しい痛みはもう収まっていたものの、身体はまだひどく虚弱なままだった。

「先生、私……どうしたんですか?」

千夏の問いかけに、医師はカルテをめくりながら徐々に眉間を寄せていった。

「これは試験管ベビーだよね?やっと授かった命なのに、なぜ明後日の中絶手術を予約してるんだ?」

返事をする間もなく、医師は切なそうに言葉を続けた。

「赤ちゃんはまだ小さいけれど、立派に一つの命だ。母親の感情だってちゃんと伝わるんだよ。もしあなたが望まないって思えば、赤ちゃんも傷つくんだ」

千夏は一瞬呆然として、その言葉に胸の奥底を鋭く突かれた。無意識に、自分の下腹部へ手を添える。

そこには、自分が数え切れないほど待ち望んできた小さな命が宿っている。

妊活を始めて以来、龍生は大切な宝を守るかのように、千夏のすべてを背負ってくれていた。

薬を飲む時間からリハビリのスケジュール、そして医師選びに至るまで、細かいことから大事なことまで、彼は必ず自ら関わってきた。

胚検査の日、龍生は数百万円規模の商談までキャンセルし、結果を一刻も早く知るために病院の廊下を行ったり来たりしていた。

精子が弱い彼にとって、いくつもの胚は失敗に終わり、今回のが最後のチャンスだった。

あの日の彼は、あの堂々とした橋本社長とは思えないほど落ち着きを失っていた。

「千夏、赤ちゃんのことが心配で仕方ないんだ」

彼は千夏の手をぎゅっと握りしめ、その手のひらはじんわりと汗で濡れていた。

神仏を信じたことのない龍生が、その時ばかりは本気で祈った。

「この子が無事に生まれるなら、俺の寿命を削ってもいい」

「何を馬鹿なこと言ってるの」

千夏はそう言って彼の肩を軽く叩いたが、その手はかすかに震えていた。

医師から成功を告げられたあの瞬間、千夏は喜びで涙が止まらなくなり、長い時間泣き崩れた。

この子は自分の血肉であり、数え切れない努力と痛みの結晶でもある。

「少し考えてみます……」

その言葉を待っていたかのように、医師はすぐに安胎薬を処方し、細かく注意を与えてきた。

「この薬は一日三回。感情の起伏に気をつけてね。強いストレスがあれば赤ちゃんは持たない可能性がある」

千夏は重たい薬袋を下げて帰路についた。

龍生が「子どもが好きだ」と言った、その一言のためだけに、これ以上に苦くて大量の薬を飲んできた。

だが彼の「好き」は、全ての子どもに向けられていた。

もちろん愛莉のお腹の中の子どもも含めて。

「龍生……やめて……」

ふいに艶やかな吐息混じりの声が耳に届き、馴染み深い呼び名が千夏の心を一気に凍りつかせた。

手に提げていた袋が床に落ち、鈍い音を響かせる。

だが車の中の男女は互いの世界に溺れ、気づきもしない。

誕生日にプレゼントされたあの高級車の助手席に、愛莉は当然のような顔で座っていた。目元は赤く腫れ、泣いた直後のように見える。手で唇を押さえながら、甘えるように呟いた。

「龍生、痛いよ……」

千夏の頭はくらりと揺れ、それ以上耳を塞いでも意味がなく、逃げ出すように家へ戻った。

激しく上下する胸を押さえながら、短い呼吸を繰り返す。

涙は音もなく頬を伝い、腹の中の赤ちゃんも、母の心の痛みを感じているかのように静かだった。

やがて龍生がドアを開け、部屋に入ってきた。

千夏はソファに身を預け、彼を見ようともしなかった。

「ごめんな、千夏。遅くなっちゃった」

彼の声は妙に媚びた響きを帯びていた。千夏のもとへ早足で近づき、隣に腰掛けて肩をやさしく抱いた。

「会社で少し手間取ってね。妊婦検診、大変だったろう?先生はお腹の赤ちゃんのこと、何て言ってた?」

彼は彼女のお腹へそっと手を伸ばし、その表情は心からの心配を滲ませている。

千夏が言葉を発しないまま黙り込んでいると、龍生の眉はますます曇り、手にした袋をテーブルに置いて見せつけるようにした。

「輸入の安胎薬、買ってきたよ。すごく効くらしい」

彼はソファのへりに腰を掛け、柔らかいが強引な手つきで千夏の身体をこちらに向けた。

「大丈夫」

千夏は淡々と口を開いた。

「先生は赤ちゃん元気だって」

視線の端に映ったその袋には、高価な輸入薬が綺麗に収められており、陽光を反射して冷たい光を放っていた。

龍生は安堵したように大きく息を漏らす。

「よかった……赤ちゃんのことが心配で、仕事に集中できなかったんだ」

だが、彼からは馴染みのない香水の香りがわずかに漂っていた。

その角度からはっきりと見えた、シャツの襟元に残る赤いキスマーク。

千夏は心の奥まで打ちひしがれ、虚ろな瞳を閉じ、これ以上は言葉を交わしたくなかった。

「埋め合わせに、一緒にベビーシッターを選びに行かないか?」

彼は千夏の変化にまるで気づかず、一人で話を進めていた。

千夏は争う気力もなく、ただ流されるように立ち上がり、彼と共に外へ出た。

玄関に差しかかったその時、外はいきなり大粒の雨に覆われ、二人は傘がなく足止めされてしまう。

「急に降り出すなんて……今日はやめておこうか」

龍生がそんな言葉を口にしかけた瞬間、雨の向こうに視線を奪われて動きを止めた。

そこには白いワンピースを着た愛莉の姿があった。真っ青な顔で雨に打たれ、まるで一輪のか弱い白い花のように立ち尽くしている。

「龍生……ごめんなさい。私、迷惑かけてる……?」
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