どれくらい、そうしていただろうか。 この世の終わりのように泣きじゃくり、やがて嗚咽は途切れ途切れのしゃくりあげに変わり、それもやがて、静かな涙だけが頬を伝う時間になった。僕を強く抱きしめてくれていた琴乃さんの背中の震えも、いつしか止まっている。ただ、彼女の温もりと、微かな石鹸の匂いだけが、現実感を失っていた僕の五感を、ゆっくりと引き戻していく。 涙は、もう出なかった。 悲しみも、怒りも、絶望も、すべて涙と一緒に流れ出てしまったかのように、僕の心は空っぽになっていた。まるで、激しい嵐が過ぎ去った後の、静かで、がらんどうの荒野のようだ。 でも、それは不思議と、心が折れていた時よりもずっと楽だった。 空っぽになったからこそ、見えるものがある。 ―――泣いていても、何も変わらない。 ―――絶望しているだけでは、美琴は救えない。 その、あまりにも当たり前の事実が、冷たい光のように、がらんどうの心に差し込んできた。 そうだ。僕がすべきことは、もう、たった一つしかない。 僕はゆっくりと身体を起こし、琴乃さんの腕の中から離れた。彼女の目も、僕と同じように真っ赤に腫れている。「琴乃さん。美琴の居場所…いえ、白蛇山、蛇琴村への行き方を、教えて下さい」 僕の声は、もう震えてはいなかった。熱を失い、どこか冷たく響く、けれど、決して折れることのない鉄のような響きを帯びている。僕の変化に、琴乃さんが息を呑んだのがわかった。「…………。もう、止められないと、わかっていても…?」 琴乃さんが、心配そうに僕の目を見つめ返す。その潤んだ瞳には、僕が踏み出そうとしている道が、どれほど険しいかを案じる色が滲んでいた。「止めるつもりは、もうありません」 僕は、僕自身の最も深い恐怖から、もう目を逸らさない。「…琴乃さん」 僕は、一度壊れた心で、一番の恐怖の核心に触れる。「万が一…万が一、美琴が負けて、死ぬようなことがあったら…。あの子は……美琴もまた、迦夜に…なってしまうんでしょうか…?」 僕の問いに、琴乃さんの顔から再び血の気が引いていく。でも、今度の僕は、その反応を冷静に受け止めていた。 琴乃さんは、何も答えなかった。ただ、小さく肩を震わせるその姿が、僕の問いを、無言のうちに肯定していた。「……だからこそ、行かなければならないんです」 僕は、顔を上げた。僕
「そ、そんな…」 全身から急速に血の気が引いていくのがわかった。琴乃さんが告げた事実は、僕の心を直接鷲掴みにし、氷のように冷たい水底へと沈めていく。「悠斗君…あなたを追い詰めたいわけじゃないの。それは理解して…」 琴乃さんの声が、悲痛に揺れる。「あなた…美琴の寿命について…何か知っているかしら…?」 寿命。美琴が力を使うほどに削られていく、呪われた命の時間。そのせいで彼女には残り僅かな時間しかないことだけは知っていた。でも、具体的な数字は何も知らない。知りたくなかった。心の奥底で、か細い希望の糸が今にも切れそうなのを感じる。……残り僅かって、せめて、五年とかだろうか…?「…五年、くらいですか?」 震える声で、僕は尋ねた。その言葉を口にした瞬間、それが途方もなく甘い願望でしかないことを、自分でも悟ってしまった。「ッ…!」 琴乃さんが、苦しそうに目を見開く。その表情が、僕の中で渦巻いていた最も恐ろしい予感を、残酷な確信へと変えた。 嫌だ。聞きたくない。今すぐこの場から逃げ出したい。 でも、聞かなければ。ここで耳を塞いだら、美琴を救う道なんて、永遠に見つけられない。その矛盾した感情の狭間で、僕の心は引き裂かれそうだった。「悠斗君…落ち着いて聞いて。あの子がこの桜織へ来た時点で…残りの寿命は、おおよそ四年ほど…だったの」 ―――え。 嘘だ。何かの間違いだ。美琴の寿命が、たったの四年…? そんなはずがない。僕の思考が、現実を受け入れることを完全に拒絶する。 だが、現実はどこまでも無慈悲だった。琴乃さんの言葉が、僕をさらに深い絶望へと突き落とす。「そして…あの子は、迦夜を祓うために『強制成仏』を使った。その代償で、今のあの子の寿命は……もう、一年も残っていないのよ」 頭が、真っ白になった。 あらゆる思考が停止した、純白の静寂。そこに、「一年未満」という言葉だけが、死刑宣告のように、冷たく、はっきりと響き渡った。 もう、嫌だ。 聞きたくなかった。何も考えたくない。 誰か。誰か助けてくれ。美琴を、琴乃さんを…僕を、助けてくれ…。
「いらっしゃい」 その声に、心臓が小さく跳ねた。 以前会った時とは比べものにならないほど、か細く弱々しい響きを帯びた声。促されるまま玄関へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。家の中は、以前訪れた時よりも光が少なく、どこか空気が淀んでいるように感じられる。磨りガラスの向こうの午後の日差しが、頼りなく輪郭をぼやかしていた。「お久しぶりです…琴乃さん」 やっとの思いで絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれていた。 目の前に立つ琴乃さんは、僕の記憶にある姿とはまるで別人だった。頬はこけ、血の気の引いた肌は青白さを通り越して、まるで薄い和紙のようだ。ゆったりとした衣服を着ているのに、その下の骨格が浮き出て見えるほどに痩せている。命の光そのものが、蝋燭の炎のように揺らめき、今にも消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。その姿が、胸の内にじわりと嫌な予感を広げていく。「急に呼び立てて、悪かったわね…」 琴乃さんは謝罪の言葉を口にすると、壁に手をつき、身体を支えるようにして、ゆっくりと頭を下げた。その一挙手一投足が、彼女の衰弱を痛々しいほどに物語っている。「あ、頭を上げてください…!」 僕は慌ててそう告げた。彼女にこれ以上、頭を下げさせるなんて耐えられない。「ふふ…相変わらず、優しいのね。単刀直入に聞くわ。美琴は…あなたに何も告げずに姿を消したわね?」 その言葉は、僕の心の最も脆い部分を、容赦なく抉った。 ズキッ、と鈍い痛みが走る。最後に見た美琴の、何か言いたげな、でも何も言わなかった寂しげな笑顔が脳裏に蘇り、痛みを増幅させた。「…はい」 僕の声は、自分でもわかるほど震えていた。「やっぱり…本当に、馬鹿な子なんだから…」 すべてを諦めきったような、それでいて、娘を深く慈しむような複雑な表情で、琴乃さんが呟く。「あの…失礼ですが、琴乃さんは何かをご存知で、僕をここに?」 焦りが胸を焼く。美琴の真実を知るためだけに来たんだ。手がかりは、もうここしかない。もし琴乃さんさえも知らないのなら、僕はどこで美琴を探せばいい?思考が袋小路に迷い込む。それは笑えない。絶望的すぎる。「知っていることは、あるわ。でも…あの子が、あなたに何も告げずに去ったということ。それは、今、知ったの」「えっ…」 知っている、けど、知らなかった…? その矛盾
翔太と別れ、僕はすぐに行動を開始した。美琴の消息を知るため、そして、もう一度彼女に会うために。最低限の荷物を、無心でバッグに詰めていく。明日、夜が明け次第、ここを発てるように。だが、その手は、時折、虚しく止まる。この部屋の至る所に、美琴の気配が染みついているのだ。視界の端で、記憶がちらつく。(……このままだと、おかしくなりそうだ)以前、美琴と訪れたあの温泉郷へ、今度は、たった一人で向かわなければならない。彼女と分かち合った、他愛のない言葉や、輝くような笑顔を思い出すたびに、言葉にできないほどの寂しさが、胸の奥にじわりと冷たく広がっていく。まるで心の、一番温かい部分を、ごっそりと抉り取られたかのようだ。それでも、僕は手を動かし続けた。この、何かに没頭する無心な時間だけが、かろうじて僕を正気でいさせてくれた。(……怖い)ふと、思考が漏れる。(琴乃さんの口から語られる真実が、僕を今度こそ、再起不能なまでに打ちのめすかもしれない……)でも、それ以上に──何も知らないまま、何もできないまま、美琴との繋がりが永遠に絶たれてしまうこと。それが、一番、怖かった。そんな結末は、絶対に、耐えられない。だからこそ、僕は進む。覚悟を決めて。***翌日。僕は、かつて美琴と歩いた道を、一人で辿っていた。見慣れた温泉郷の景色は、あの時と何も変わらない。なのに、それを見つめる僕の心は、全く違う色をしていた。灰色で、ひどく冷たい。辺りを見渡せば、幻影が揺らめく。あの日の光景が、声が、ありありと蘇る。『わぁ……!』土産物屋を覗き込み、子供のようにはしゃぐ美琴の、弾けるような笑顔。『美琴がそんなにはしゃぐなんて…少し意外かも』『えへへ……なんだか、新鮮で、楽しいんです』そう言って輝いていた無邪気な横顔が、たまらなく、愛おしかった。(……まただ。僕は、どうしようもなく、彼女に惹かれていたんだ)込み上げる感傷を振り払うように、パンッ、と両頬を強く叩く。じんとした熱い痛みで、意識を無理やり現実に引き戻した。(感傷に浸っている暇はない。今は、動くしかないんだ。彼女に会う、そのために)ここまで、折れずに来れたのは、琴乃さんからのメールと、翔太のおかげだ。彼がいなかったら、僕は今頃、あの部屋で絶望の淵に沈んだままだっただろう。やがて、たどり着く。美琴と
「……まじかよ」翔太の、絞り出すような呟きが、重い沈黙に満ちた部屋に落ちて溶けた。「連絡も、つかない。今朝、あのアパートからも……もう、誰も住んでないって」ふくよかな家主の女性の言葉が、冷たい刃となって脳裏をよぎる。その度に、世界から色が失われたあの瞬間がフラッシュバックし、ズキリ、と僕の心を削り取るようだった。「……悪ぃ、お前ら、先に帰っててくれるか」翔太が振り返ると、奏多たちは、もう察してくれていたのだろう。そっと、しかし速やかに、身支度を整えていた。「おう。俺らはこれで。……悠斗、辛ぇだろうけど、なんて言うか……まあ、無理すんなよ」「また連絡するからな!」「学校でな!」彼らは、腫れ物に触るように、けれど精一杯の優しさで手を振り、去っていく。その、あまりに真っ当な優しさが、今はガラスの破片のように胸に突き刺さった。***二人きりになった事で、翔太が改めて僕の顔を覗き込む。「……で、悠斗。大丈夫か、なんて聞くのも野暮だが」「……正直、全然大丈夫じゃない。かなり、しんどい」僕は、偽りのない本心を、喉の奥から絞り出した。「だよな……。お前が美琴ちゃんのこと、どんだけ大事にしてたか、隣で見てて分かってたから」その言葉が、痛みの芯を的確に貫く。そうだ。心が、張り裂けそうだ。理由も告げられず、ただ一方的に関係を断ち切られるという、この行為。それはただの失恋という傷ではない。存在そのものを否定されたかのような、深く、治癒のあてもない傷口を僕の心に残していく。「きっと……何か、理由があるはずなんだ」「そりゃ、俺もそう思うぜ?あの子が、お前を意図的に傷つけるなんてこと、するはずねぇ」頭では、分かっている。彼女は、僕を守ろうとしたのかもしれない。でも、その一方的な優しさが、今は何よりも残酷な裏切りに感じられた。僕は、そんなにも頼りなかったのか。彼女を守るという僕の決意は、ただの自己満足だったのか。そして何より、彼女に残された時間の問題が、焦りとなって僕の心を焼き尽くしていく。今、僕がすべきことは──その時だった。ヴーッ……。死んだような静寂を、無機質な振動が切り裂いた。僕の、スマホだ。弾かれたように、ほとんど奪い取るようにしてそれを手に取り、画面を凝視する。見慣れないアドレスからの、一件のメール。心臓が、嫌な音を立
僕は、どうすれば良かったのだろう。答えなどないと知りながら、その問いだけが、思考という思考を喰らい尽くしていく。まるで、脳の芯から湧き出る冷たい靄だ。秋の夜気が肌を刺す。街灯の光も届かぬ裏路地を、僕は亡霊のように彷徨っていた。踏みしめる枯葉が、かさり、と骨の砕けるような音を立てる。世界から切り離された、深い影の中。(美琴が……僕の傍から、何も告げずに消えるなんて……)その現実を、この心が、まだ受け入れようとしない。「どうして……なんでだよ……」声にならない声が、喉の奥で潰れる。絶望と、悲しみと、行き場のない怒りが濁流となって胸の内で渦を巻いていた。魂が、軋む。俯き、自分の影だけを見つめて歩いていたせいだろう。どん、と鈍い衝撃。目の前にいた誰かと、ぶつかってしまった。「……すみません」反射的に漏れた謝罪は、自分でも驚くほどに、感情というものが削げ落ちていた。「いってぇな、オイ!どこ見て歩いてやがんだ、アァ!?」獣のような怒声。荒々しく胸ぐらを掴まれ、シャツがみしりと悲鳴を上げた。見上げると、苛立ちと、獲物を見つけたかのような嘲笑を浮かべた男が三人。その顔を見ても、不思議と、何も感じなかった。「こりゃあ、ただじゃ済まねぇなぁ!慰謝料だ、慰謝料!」だが、その言葉は、ひどく遠くに聞こえた。どうでも、よかった。美琴を失った胸の空洞は、他のどんな痛みも、どんな感情も、ただ吸い込んで消し去ってしまう。「…………。」「……チッ、なんだコイツ。妙に気に食わねぇな」僕の無反応が、男の苛立ちに火を点けた。次の瞬間。バキィッ!!「……!」乾ききった破裂音。衝撃に吹き飛ばされ、背中を路地の壁に叩きつけられる。じんと、頬に熱が走った。殴られたのだと、数秒遅れて理解した。不思議なほど、痛みはなかった。顔面に走る熱より、心の奥に広がる巨大な虚無の方が、遥かに、遥かに現実味を帯びていた。「うっ……」壁に背を預けたまま、ゆっくりと男たちを見返す。「マジでなんだコイツ……」忌々しげに吐き捨て、男は僕の足を蹴り上げた。鈍い痛みが走る。それでも、怖くはない。今までで対峙した、あの魂ごと凍てつかせる怨霊たちの恐怖に比べれば、人間の放つ暴力など、恐怖を感じない。ただ、今の僕には、抵抗する気力も、意思も、なかった。心が、完全に麻痺していた。再び、