Masuk穂花は菊地家を出てから、かつての自分の夢を再び追い始めた。彼女は海外へ渡り、美術を学ぶために留学した。当初は悪夢にうなされる日々が続き、徹に首を絞められる夢を何度も見た。「穂花、こんなに大切にしているのに、どうして俺を殺そうとするんだ?」息苦しさに耐えきれず目を覚ますと、深夜だった。全身は冷や汗で濡れていた。やがて彼女は、自分は間違っていないと何度も言い聞かせるようになった。もし自分が先に手を下さなければ、いずれ徹が自分を手にかけていただろう。しかも、あんな穏やかな最期では済まなかったはずだ。そう心の中で整理すると、再び夢に徹が現れても、彼女は迷わず手近にある物を投げつけた。「ねえ徹、本当に私を愛してたの?本当に愛しているなら、どうして何度も私を傷つけるようなことをしたの?」夢の中の徹は、何も言い返せずに立ち尽くしていた。それ以来、徹が夢に現れることはなくなった。穂花は海外で3年過ごし、芸術学校を卒業した。教授は彼女に現地に残るよう何度も勧めたが、異国の文化や開放的な人間関係にどうしても馴染めず、その申し出を断り続けた。帰国前日、穂花は凪と会う約束をした。そこへ、凪は翼を連れて現れた。治療の甲斐あって、翼の病状は落ち着いていた。何よりも翼は前向きで、たとえ病が進行していても、決して諦めなかった。ドラマのように、凪に別の人生を勧めることもなく、ただ懸命に生きていた。そんな二人の幸せそうな様子を見て、穂花は胸をなでおろした。食事の席で、穂花はふと「お義兄さん」と声を掛けた。その呼び方に、凪と翼は思わず顔を見合わせた。昔、凪と穂花の仲は悪く、翼が穂花の方をちらりと見るだけで、凪は激しく怒っていた。ましてや、穂花から「お義兄さん」などと呼ばれることなどあり得なかった。穂花は二人の驚いた様子を気にも留めず、微笑みながら言った。「お姉さんを大切にしてあげて。私の分まで、ずっと幸せでいてね」そう口にしたとき、穂花はふと徹のことを思い出した。10年間も想い続けた少年が、あんなクズ男だったなんて、当時の自分には想像もできなかっただろう。もし人生をやり直せたとして、もう一度徹に出会ったら、また恋に落ちるのだろうか?答えはきっと同じだ、あの頃の徹は、穂花にとって本当に救いだったのだ
凪は穂花を一人にするのが心配だったため、マスクをつけて一緒にホテルへ向かった。穂花はビールを何本か買い、海辺の砂浜に腰を下ろすと、凪に尋ねた。「お姉さん、前田翼のために両親と縁を切ったこと、一度も後悔したことないの?」前田翼は凪の恋人で、高校3年の時、凪は翼と恋に落ちた。しかし間もなくして、その関係は凪の両親に知られてしまった。両親は無理やり別れさせようとしたが、凪は応じず、激しく対立した。翼の家はごく平凡なサラリーマン家庭で、代々商売を営んできた遠藤家には相応しくないというのが理由だった。それでも当時の凪の目には翼しか見えておらず、彼女は翼を選び、両親との縁を切った。将来をすべて投げ打って、翼とともに海外へ駆け落ちしたのだった。時折、穂花はそんな凪を羨ましく思っていた。一途に人を愛し、決して後悔しない生き方をしていた凪——穂花は自分にはそれができなかった。徹を愛していた当時でさえ、本当の名前を打ち明ける勇気すらなかったのだから。凪は穂花を一瞥すると、首を横に振った。「ないよ。ただ、翼が癌でさ。治るかどうかは、まだわからないけど」恋人の病を口にしながらも、その表情に悲しみはなかった。その言葉で、穂花は凪がお金を必要としていた理由を悟った。穂花は目を見張って尋ねた。「……じゃあ、あのお金は、翼の治療費?」かつて穂花は翼に会っていた。整った顔立ちではあるものの、群衆の中に紛れれば、二度と見つけられないほど、平凡な容姿だった。それなのに、凪は一途に彼を愛していた。凪は淡々とうなずいた。「うん」「万が一、翼が死んだら?」穂花は恐る恐る尋ねた。凪は何も言わず、俯いたままスマホに文字を打ち込み、穂花に見せた。【その時は、別の男と結婚する。何か別のことをしたいわ。たとえ翼がいなくても、私はちゃんと生きていく】穂花には、翼がどのような状況なのかはわからなかった。深く聞くつもりもなかったし、聞いたところで、凪が正直に教えてくれるとも思えなかった。続けて凪は、さらにこう文字を打った。【自分で決めてきたことだから、後悔しないことね】その夜、穂花と凪は泥酔するまで飲み明かした。翌日、ホテルの清掃スタッフによって徹の遺体が発見され、穂花のもとに身元確認の連絡が入った。電話を受けた時
穂花はその晩、念入りにメイクをして、初めて会った時に着ていた白いワンピースをまとった。鏡に映る自分の若々しい姿を見ても、彼女の表情には冷たい影が落ちていた。レストランに入り席に着くと、徹は目を奪われたように彼女を見つめて言った。「穂花、本当にきれいだよ。今夜は君にプレゼントを用意してるんだ」そんなものには興味がなかった。隙を見て徹の酒に薬を入れようとしたが、なかなかタイミングが訪れない。その晩、徹は上機嫌で酒をあおっていたため、しだいに足元がおぼつかなくなっていった。彼は額を押さえながら笑った。「穂花……少し酔ったみたいだ、しばらく飲んでなかったからな。部屋まで送ってくれないか?」穂花は淡々と答えた。「いいわよ」会計を済ませると、穂花は徹の大きな体を支えながら、ホテルへと向かった。同じ頃、穂花と同じ服装をした凪が、時間差でホテルを出ていった。ホテルの部屋に戻ると、ベッドの上には見たこともない大人のおもちゃが散乱していた。穂花はすぐに、これがさっき徹が言っていた「サプライズ」の正体だと悟った。徹は自分を美優のように従順な存在へと変えようとしている、そう思うと、吐き気が込み上げてきた。部屋に入るなり、徹は風呂に入ると言い出した。穂花は吐き気を押し殺し、徹をバスタブに放り込み、蛇口からお湯を入れ、あっという間にバスタブはお湯で満たされた。「穂花、一緒に入らないか?」徹は力の抜けた体で、縁にもたれながら言った。穂花は徹を見下ろして言った。「無理よ、同じ屋根の下にいるだけでも気分が悪いのに」酔いで思考の鈍った徹は笑いながら続けた。「穂、花……怒るなよ。最近、構ってやれてなかったか?今夜は刺激的なことをしよう、いつもの君じゃつまらない。新しい刺激に慣れれば、きっと気に入るから」薬を飲ませるタイミングを見計らっていたその時、徹は立ち上がろうとして足を滑らせ、そのまま浴槽の底へと沈んだ。必死にもがき、お湯を撒き散らしながら助けを求めるが、口を開くたび水が流れ込む。穂花はどうしてよいか分からず、急いで人を呼ぼうと部屋を駆け出した。しばらくして部屋に戻ると、水面は静まり返り、徹の体がバスタブの中に浮かんでおり、彼の瞳孔は大きく見開かれていた。その時、徹のスマホの通知音が鳴り響き、穂花はびくり
約束の時間を決めた後、穂花は凪の入院する病院を訪ねた。穂花が病室に入ると、凪はひどく興奮して、テーブルの上のグラスを掴んで投げつけてきた。「出て行って」と、凪は怒鳴った。穂花が身をかわすと、グラスは彼女の足元で砕け散った。穂花は破片を避けながら凪に近づき、単刀直入に言った。「お姉さん、力を貸してほしいの」馴染みのあった「お姉さん」という呼びかけに、凪は驚いたように穂花を見た。しかし、今の自分にある傷跡も、元はといえば穂花を巡る騒動が原因だったため、自分に穂花を助ける術などあるとは思えなかった。穂花は周囲を見回し、他の人がいないことを確認してから、ベッドのそばに腰を下ろし、小声で囁いた。「お姉さん、徹を殺したいの。成功したら、私が相続する財産はすべてお姉さんに譲るわ」その言葉に、凪は目を見開いた。あの気弱だった妹の穂花の口から出た言葉とは思えなかった。「私がそれを信じるとでも?」凪はもごもごとした口調で問い返した。穂花に人を殺すような冷酷さがあるとは思えない。ましてや、徹が死ねば手に入る莫大な財産を、簡単に差し出すなど、信じがたかった。疑う凪に、穂花は静かに言った。「信じないなら、契約書にサインしてもいいわ。お金なんていらない、私がほしいのは自由だけ」凪はしばらく黙り込んだ後、こう続けた。「あなたに人を殺す度胸なんてあるの?」「だから、お姉さんの力が必要なの」穂花は自分の限界を理解している。徹を死に追いやりたいと思っても、いざとなれば手が止まるかもしれないが、凪は違った。凪は徹底して打算で動く人間で、穂花とは正反対の性格だった。二人の姉妹は、正反対の性格を持っていた。凪が無言のままでいたため、穂花は彼女の考えを読み取れなかった。たとえこの話を徹に告げ口されたとしても、証拠がない以上、どうにもならない、穂花はそう踏んでいた。「いいわ、協力してあげる」凪が穂花に協力しようと思った理由は、お金という目的のためだけではなく、徹という男が救いようのない人間だと分かっていたからだった。これ以上、穂花が徹に蹂躙されるのを見たくなかった。穂花に同情しているわけでなく、ただ徹が穂花にふさわしくないと思っただけだ。今回は気まぐれに、哀れな妹に手を貸してやることにした。その言葉を聞い
美優は穂花を見るなり、狂ったように襲いかかろうとしたが、二人の屈強なボディーガードに両腕を羽交い締めにされた。「穂花、ずいぶん運がいいのね。でも、その幸運がいつまでも続くと思わないで。いつか必ず、あなたを消してやるわ」穂花は、なぜ彼女がそこまで自分を恨んでいるのか分からなかった。自分は、美優を一度も傷つけたことなんてない。仕事を失い、子どもを流産したのも、すべて彼女自身が招いた結果ではないのか。美優が好き放題に罵るのを聞き、徹は目を吊り上げ、容赦なく彼女の腹を蹴り上げた。「身の程を知れ。死にかけているくせに、まだ穂花を脅すつもりか。言ったはずだ、二度と穂花に触れるなと」美優の体は、まるで紙のように軽く吹き飛ばされた。青ざめた顔で徹を見上げた美優は、全身を震わせた。「徹、私はただあなたを愛していただけよ。先に出会ったのは私なのに、どうして穂花が横取りするのよ!」彼女はぶつぶつと独り言を言ったかと思えば、次の瞬間、狂人のように叫び出した。騒がしさに苛立った徹はボディーガードに目配せし、すぐに美優の口に布を押し込ませた。美優はもはや嗚咽を漏らすことしかできなくなった。徹は穂花に向き直った。「穂花、どう始末する?君の好きにしていい。いっそ、命を奪っても構わない」その言葉に穂花は顔を上げ、徹の穏やかな瞳を見つめた。なぜ彼は、こうも平然と人の命を奪うようなことができるのだろうか。美優に恨みがあるのは分かるが、彼女は彼と幼なじみとして育ってきた仲ではないのか。仮に美優に罪があったとしても、裁くのは法であり、私刑ではないはずだ。そうでなければ、自分たちも彼女と同じではないか。穂花が黙り込んでいると、徹は彼女の性格を察し、優しく言い聞かせるように続けた。「穂花、この世は白黒だけじゃない、法律じゃ裁けない悪もある、美優だってせいぜい数年の刑だ。精神疾患を証明すれば、逃げ切ることだってできる。君がお人よしだからといって、相手もそうだとは限らないんだ」確かにそうだ、と思った。凪の哀れな姿が、今も脳裏に焼き付いている。穂花が美優を傷つけたことなど一度もないのに、美優は自分を殺そうとしたのだ。徹の言うことにも一理ある。しかし同時に、恐ろしい事実にも気づいてしまった。彼が美優にここまで残酷
穂花は、凪がなぜ金を必要としているのかも、海外でどんな生活を送っているのかも、何一つ知らなかった。しかし、そんなことはもはやどうでもよかった。部屋に戻って間もなく、徹が入ってきた。穂花が黙ったままバルコニーに座っているのを見て、凪との会話が上手くいかなかったのだと察した。彼は軽く咳払いをし、できるだけ優しい声で言った。「穂花、あいつが目障りなら、今すぐにでも追い出すぞ」穂花は皮肉を込めて言い返した。「じゃあ今、あなたのことも嫌いだって言ったら、一生私の前から消えてくれるの?」菊地家に戻ってからの穂花は、まるで棘のある薔薇のように、少しでも会話がかみ合わないと、すぐに棘を向けるようになっていた。それでも徹は怒ることなく、笑みを浮かべたまま言った。「穂花、まだ怒っているのは分かってる。でも、俺にもチャンスをくれよ。浮気しただけだし、別に取り返しのつかないことをしたわけじゃないだろ?」浮気というものは、一度あれば二度目もある。今どれだけ甘い言葉を並べても、時間が経てばまた同じことを繰り返すに違いない。今回の件で、十分すぎるほど学んだはずだ。穂花も、二度と同じ愚かな過ちを繰り返すつもりはなかった。穂花が沈黙を貫いても、徹は無理に問い詰めることはしなかった。いずれにせよ、穂花はもう徹の自宅に戻っており、心を変えさせる時間はいくらでもあると思っていた。前回の教訓を踏まえ、徹は自宅の敷地内に多くのボディーガードと使用人を配置していた。穂花がどこへ行くにも、浴室に行く時でさえ、常に誰かが付き添った。もはや穂花には、自由など一切なかった。このまま一生、徹に自宅に閉じ込められて生きるしかないのだろうか。凪が海外へ出発する前夜、彼女は珍しく穂花を夕食に誘った。穂花は断ることはせず、市内の飲食店で待ち合わせをした。姉妹が二人で落ち着いて食事をするのは、これが初めてのことだった。凪はビールを一口飲み、少しろれつの回らない声で言った。「穂花、あなたが私を恨んでるのは分かってる。私だってあなたが嫌い。でも一つだけ忠告する。徹からは、できるだけ早く離れなさい。彼は、あなたが思ってる以上に最低な男よ」その思いがけない忠告に、穂花は皮肉げに笑った。「……そもそも、あなたがいなければ、私がこの家に戻ることもなかったは