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第5話

Autor: 匿名
その態度が気に入らなかったのか、母はさらに苛立った。

「椎名先生、自分の立場をよく考えたほうがいいわよ。これ以上勝手なことをするなら、病院に戻ってからただじゃ済まないから。今すぐ私の前から消えて」

椎名先生は言葉に詰まり、それ以上何も言わなかった。

目元を拭うと、そのまま背を向けて歩いていた。

私のためにここまで来てくれたのに、何ひとつ言い返してあげられない。

椎名先生が廊下の角でとうとう泣き出しても、私はその涙を拭ってあげることさえできなかった。

椎名先生がいなくなると、里帆がすぐ母のそばに寄った。

「もういいよ、お母さん。そんなに怒らないで。前に、お姉ちゃんが取るはずだった白楓医学研究奨励賞を私がもらったこと、まだ気にしてるのかも」

母は呆れたように息を吐いた。

「由奈みたいな性格の子が賞なんてもらったところで、何になるのよ。人を助けるどころか、何をするか分かったものじゃないわ」

その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。

同時に、二年前の記憶が一気によみがえる。

死んでから、昔のことはところどころ曖昧になっていた。

けれど今の会話で、忘れかけていた
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    母は両手で耳を塞ぎ、何度も首を振った。「もうやめて……聞きたくない!」母の顔が苦しそうに歪んだ。これ以上騒ぎが大きくなる前に、警察官が里帆を押さえた。すると里帆は振り返り、突然笑い声を上げた。「後悔してる?院長」涙を流す母を見つめながら、冷たく言い放つ。「一番お母さんのことを大事にしてた娘を、自分で死なせたんだよ」母はその場に立ち尽くした。涙だけがとめどなく頬を伝っていく。何か言おうと唇を動かしていたが、結局ひと言も声にならなかった。警察官は里帆に手錠をかけ、そのまま警察車両へ連れていった。続いて、母にも手錠がかけられた。母はもう抵抗しなかった。うつむいたまま、警察官に連れられていった。警察で事情を聞かれると、母は自分がしたことをすべて話した。私の手術体制に介入し、里帆を無理に手術へ入れたことも、何ひとつ隠そうとはしなかった。留置場に入ってから、母は出された食事にほとんど手をつけなくなった。部屋の隅に座ったまま、夜になってもほとんど眠らなかった。そして何度も、同じ言葉を繰り返していた。「由奈……お母さんが悪かった。ごめんね。もし次があるなら、今度こそちゃんと大事にするから」思わず、私は答えていた。「もういいよ、お母さん」届かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。「次があっても、もうお母さんの娘にはなりたくない」そのときだった。母がふいに顔を上げた。視線が、まっすぐ私のほうへ向く。「由奈……?」思わず息を呑んだ。母は目を見開き、泣きそうな顔でこちらへ手を伸ばした。「戻ってきてくれたのね。やっぱり、お母さんのことが放っておけなかったんでしょう?」本当に、私が見えているのだろうか。恐る恐る声をかけた。「お母さん……私が見えるの?」母の顔がぱっと明るくなった。「何言ってるの。ちゃんと見えてるに決まってるじゃない」私は思わず距離を取った。「でも、私もう死んでるよ」母は慌てて首を振る。「そんなこと言わないで。ほら、ちゃんとここにいるじゃない」そう言いながら、母の目には涙がにじんでいた。私が死んだことを忘れたわけじゃない。分かっていて、受け入れられないだけなのだ。私は母の前まで近づいた。「お母

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    数日後、ようやく私の葬儀の日を迎えた。罪悪感があったのか、母は私のために、それなりに立派な葬儀を用意していた。親戚だけでなく、桐峰総合病院の医師たちも大勢参列している。会場のあちこちから、ひそひそと話す声が聞こえてきた。母が昔から里帆ばかり可愛がり、私には冷たく当たっていたことは、病院でも親戚の間でも知られていた。けれど、母の気性の激しさも皆よく知っていた。わざわざ関わって面倒に巻き込まれたくないのか、誰も表立って何かを言おうとはしなかった。そんな中、父と椎名先生も葬儀に来ていた。父は会場に入るなり、まっすぐ母のところへ向かった。そして、何も言わずに母の頬を平手で打った。私が驚いていると、父は怒りを抑えきれない声で言った。「全部聞いた。証拠ももう警察に渡した。あとは警察が来るのを待ってろ」父とは、両親が離婚してからも連絡を取り続けていた。ただ、父は離婚後ずっと海外で仕事をしていて、もう長いこと会っていなかった。電話をしても、私はいつも元気な話しかしなかった。病気になったことさえ伝えていない。具合が悪くなってから、何かと気にかけてくれていたのは椎名先生だった。そのことがありがたくて、手術を受ける前、私は父の名刺を椎名先生に預けていた。何か困ったことがあったら父を頼ってほしい。それから、もし手術がうまくいかなかったら、そのときだけは父に知らせてほしい。そう頼んでいた。まさか、その名刺が死んだあとの私を助けることになるとは思わなかった。父は事業をしていて、昔から決断の早い人だった。私の死を知ると、すぐに弁護士を通して資料や記録を集め、警察へ提出したらしい。ざわついていた会場の外に、警察車両が止まった。母の表情が固まった。自分のところへ来たのだと思ったのだろう。逃げる様子もなく、その場に立っていた。けれど、中へ入ってきた警察官が最初に向かったのは、里帆のところだった。「里帆さん。由奈さんの死亡について、殺人の疑いで逮捕状が出ています」さらに、里帆が患者や関係者から何度も高額な謝礼を受け取っていたことも、院内の調査で問題になっていた。母は目を見開き、反射的に里帆の前へ出た。「待ってください。何かの間違いです。手術に里帆を入れたのは私です。由奈が死んだ

  • 脳腫瘍の私に院長の母は妹を手術に入れた   第6話

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    その態度が気に入らなかったのか、母はさらに苛立った。「椎名先生、自分の立場をよく考えたほうがいいわよ。これ以上勝手なことをするなら、病院に戻ってからただじゃ済まないから。今すぐ私の前から消えて」椎名先生は言葉に詰まり、それ以上何も言わなかった。目元を拭うと、そのまま背を向けて歩いていた。私のためにここまで来てくれたのに、何ひとつ言い返してあげられない。椎名先生が廊下の角でとうとう泣き出しても、私はその涙を拭ってあげることさえできなかった。椎名先生がいなくなると、里帆がすぐ母のそばに寄った。「もういいよ、お母さん。そんなに怒らないで。前に、お姉ちゃんが取るはずだった白楓医学研究奨励賞を私がもらったこと、まだ気にしてるのかも」母は呆れたように息を吐いた。「由奈みたいな性格の子が賞なんてもらったところで、何になるのよ。人を助けるどころか、何をするか分かったものじゃないわ」その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。同時に、二年前の記憶が一気によみがえる。死んでから、昔のことはところどころ曖昧になっていた。けれど今の会話で、忘れかけていた出来事をはっきりと思い出した。あの頃、里帆は医師になったばかりで、まだ初期研修中だった。一方の私は、白楓医学研究奨励賞の最年少受賞者になると言われていた。ところが母は、院長としての人脈を使って推薦や選考に口を挟み、里帆が受賞するよう裏で働きかけた。自分が選ばれると信じていた私は、きちんと正装して授賞式に出席した。会場に拍手が響き、司会者が読み上げた名前はーー里帆だった。受賞したのがほかの誰かなら、その人の実力を素直に認められたと思う。けれど里帆は、医学部にいた頃も授業にはろくに出ず、遊んでばかりだった。そんな里帆がいきなり大きな賞を取れば、周囲が不審に思うのも当然だった。家に戻った私は、初めて母を真正面から問いただした。「お母さん、どうしてこんなことしたの?この賞が私にとってどれだけ大事だったか、分かってるでしょう?」一年かけて積み重ねてきた研究だった。「この研究が少しでも治療に役立てばって、ずっと頑張ってきたの。もっと多くの患者さんを助けたかったから!」母にあんな声を出したのは、生まれて初めてだった。それまでの私は、母の前で声を

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    けれど母は知らなかった。自分の未来を奪ったのが、誰よりも可愛がっている里帆だったことを。幸い、あの事故で母の命に別状はなかった。手術で右手は何とか残ったものの、心臓血管外科医として再びメスを握ることはできなくなった。ちょうどその頃、当時の院長が引退することになり、医師として高く評価していた母に院長職を託した。けれど母が夢見ていたのは、世界で通用する心臓血管外科医になることだった。まだ若いうちに手術の第一線を離れ、院長として管理に回ることを、母は簡単には受け入れられなかった。それからの母は、すっかり変わってしまった。毎日のように塞ぎ込み、何かの拍子に感情が爆発すると、食器から冷蔵庫、テレビまで、目につくものを片っ端から壊した。父も何度となく落ち着かせようとした。けれど母は聞く耳を持たず、ときには父にまで手を上げた。父の顔や腕には、母をなだめようとしたときにつけられた引っかき傷がいつも残っていた。それでも最初のうちは、父も耐えていた。自分が根気よく寄り添っていれば、いつかきっと立ち直ってくれる。そう信じていたのだと思う。けれどある日、取り乱した母が手にしていた刃物で、父の手首を深く傷つけた。少しでも傷が深ければ、命を落としていてもおかしくなかった。温厚だった父も、とうとう限界を迎えた。その後、離婚を切り出し、私と里帆を母のもとに残して家を出ていった。父がいなくなってから、母は仕事をしながら私たち姉妹を育てなければならなくなった。決して楽ではなかったはずだ。そして、その頃から母はますます私を憎むようになった。自分の人生が台無しになったのは、全部私のせいだと思っていた。母はよく、私が父に似ていると言った。けれど、その目に愛情が浮かぶことはなかった。父を思い出させる私を見るたび、嫌悪ばかりが深くなっていった。そんな母にとって、里帆だけが心の支えだった。「里帆がいてくれなかったら、母さん、ずっと立ち直れなかったと思う。あの子がいつもそばで明るくしてくれたから、ここまで来られたのよ」母は何度もそう言っていた。けれど、母は知らなかった。父が家を出てから、毎日の食事を作っていたのは私だった。学校から帰ると台所に立ち、母が帰ってくる前に夕飯を用意した。それでも

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    けれど母は、危篤状態の私のことなど気にも留めず、ただ里帆をなだめ続けていた。よほど怖い思いをしたのだろうと、わざわざ仕事まで休んで家につきっきりになった。私が死んだあとも、病院や警察から何度も電話がかかってきたが、母はろくに話も聞かず切ってしまった。数日後、里帆がぽつりと言った。「精神的にきつくて……もう手術するのが怖い。少しどこかでゆっくりしたい」すると母はすぐに休暇を取り、汐月島への航空券を手配した。生きていた頃、私も何度か家族で旅行に行きたいと誘ったことがある。旅行そのものが目的だったわけじゃない。何日かでも母とゆっくり過ごせたら、少しは距離を縮められるかもしれないと思っていた。けれど、そのたびに返ってくる言葉は同じだった。「毎日こんなに忙しいのに、旅行なんかしてる暇あると思う?」あとになって分かった。母に時間がなかったわけではない。脳神経外科の専攻医になったばかりの里帆が心配で、少しでもそばにいてやりたかっただけなのだ。これまで母は、時間も気持ちもほとんど里帆に注いできた。私が何度研究で賞を取っても、私のために時間を作ってくれたことはなかった。母にとって私は、手のかかる面倒な娘でしかなかったのだろう。それなのに今、その母が一か月もの休みを取り、里帆の気分転換に付き合っている。飛行機が汐月島に着くと、里帆は大きく伸びをした。「やっぱり場所が変わると、ちょっと楽になるね」そう言ってから、ためらうように声を落とす。「でも……お母さん、お姉ちゃんが知ったら怒らないかな。ずっと旅行に行きたいって言ってたよね?」私の名前が出た途端、母の顔に苛立ちが浮かんだ。「せっかく来たのに、どうして由奈の話なんかするの」吐き捨てるように続ける。「怒る資格なんてないでしょ。あの子のせいで、こんなに怖い思いをしたのは里帆なんだから。もしこのまま里帆がメスを握れなくなったら、由奈の手だって使えなくしてやるわ」里帆はしゅんと俯いた。「ごめんね、お母さん。私がもっとしっかりしてればよかったのに。お姉ちゃんみたいに優秀じゃないから……若いうちから執刀を任されて、みんなに認められてるお姉ちゃんとは違うよね」母はすぐに里帆の頭を撫でた。「何言ってるの。里帆のほうがずっと優秀よ」そし

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