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第3話

Author: 夕凪 こと葉
翌朝、会社に戻った私は、自分のデスクで退職届を印刷していた。

承弥との出会いは、大学時代。

彼がこのIT企業に就職したとき、私は親の用意した就職先を断り、彼を追うように同じ会社に入った。

一緒に下積みから頑張ろうと決めていた——本気で、そう思っていた。

彼と付き合ってから、私は何度もあの手この手で彼を誘惑しようとした。

薄着でわざと彼の胸元に倒れ込んだり、酒の勢いでキスを仕掛けたり。

でも——少しでも踏み越えそうになるたびに、彼は指に巻いた数珠を静かに撫でて、私をまっすぐ見つめて言うのだった。

「詩織、そういうの、やめろ」

まるで煩悩など無縁の、俗世に降り立った聖人のようだった。

六年——

そんな彼がホテルを予約していたと知ったとき、私は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、ようやく彼が決心してくれたのかもしれないと、期待してしまった。

でもすべて、私の独り相撲だった。

隣の席の同僚が、私の画面に映る退職届を見て驚いた顔をした。

「詩織さん!?あと少しで部長昇進なのに、どうして急に辞めるの?」

私は微笑んで、さらりと答えた。

「近いうちに結婚する予定なの。たぶん、環境も変えたくて」

同僚の篠原梨花(しのはらりか)も祝福してくれた。

「おめでとうございます!最近、うちの会社ってなんかお祝いムードですよね。昨日の夜、賀川副本部長のSNSにも『もうすぐ婚約します』って投稿あったし!」

「いやー、でもお似合いですよね。副本部長とあの彼女、幼なじみで長年の付き合いらしいですし。

あの無欲の賀川さんを堕とせる人って誰よ、って思ってたら、やっぱり初恋だったか〜って感じで!」

私は作り笑いを浮かべたが、スマホを開いて確認すると、すでに承弥のメインアカウントにもサブアカウントにも、私は完全にブロックされていた。

メイン垢はプライベート用、昨晩家を出た時点でブロックされてフォローも外されてた。

サブ垢は仕事用。メッセージ履歴を開くと、そこには淡々とした業務連絡しか残っていなかった。

そのとき、承弥が優奈を連れてオフィスに入ってきた。

ふたりの距離は近く、優奈は血色もよく笑顔を浮かべていて、とても病人とは思えなかった。

そして承弥が、社員全体に向けて紹介を始めた。

「彼女が、これからの技術本部の新しい部長になる白河優奈さんです。みなさん、仲良くやってください」

梨花が目を見開いて、私と優奈を交互に見た後、ぺこりと頭を下げた。

「白河部長、よろしくお願いします!」

私は黙ったまま、手にした退職届を握りしめていた。

すると、承弥がこちらを睨みつけた。

「朝比奈詩織(あさひなしおり)、他の社員はちゃんと挨拶してるぞ?お前は何様のつもりだ?」

優奈はくすりと笑って、私に手を差し出した。

「これからは同じ会社の仲間として、どうぞよろしくお願いしますね」

私が手を差し出した瞬間——

承弥がその手を引っ込めさせた。

「優奈、お前は部長なんだから、そんな下っ端にわざわざ顔を立てる必要はない。行こう、オフィス案内してやる」

二人はそのまま去っていった。

私だけが、空しく手を差し出したまま、滑稽なピエロのように立ち尽くしていた。

梨花が私の隣に腰を下ろし、ひそひそ声で言った。

「詩織さん……見たでしょ?あれが賀川さんの婚約者!

首にかけてたあのピンクダイヤのネックレス、賀川さんが昨日プレゼントしたんだって!2000万円はくだらないとか……

でもさ、あんなあからさまな社内人事ってある!?

詩織さん、五年もこの会社で努力してたのに……誰が見てもあなたの方が適任でしょ。あのポスト、当然のように横取りされるなんて!」

私は軽くうなずいた。

もともと辞めるつもりだった。

今日のこの出来事は、承弥の中での私の価値を、よりはっきりと見せてくれただけ。

書類と退職届を手に、私は承弥の部屋のドアをノックした。

「入れ」

彼の声は冷たかった。

私はデスクに全てを置いた。

これまでに担当していた業務資料も、引き継ぎの準備も。

彼は書類に目を通しながら、どんどん表情を険しくしていく。

やがて視線を上げ、薄ら笑いを浮かべて私を見下ろした。

「詩織、昨日のあの態度、もう改まったと思ってたのに。やっぱり結局、子供っぽい我儘なままだったんだな」

言い終えるなり、彼は手にしていた書類を私に向かって乱暴に投げつけてきた。

私は身をかわし、散らばった紙を無言で拾い集めた。

彼はなおも言い続けた。

「昇進のチャンスを奪われたぐらいで何怒ってんだ?

優奈は俺と同じ専攻で、実力は俺が一番わかってる。だから部長職を任せたんだ。

お前は五年もいて、まだ平社員のまま。それで何を偉そうに怒ってるんだよ?」

私は静かに書類を整え、彼の前に差し出した。

「怒ってなんかいません。ただ、辞めたいと思っただけです」

——彼女の実力をわかってるって言うなら、私の努力は何だったの?

大学では宝飾デザインを学んでいた私が、彼のために専門を変えて、夜通し勉強して、彼の歩幅に追いつこうと頑張ってきたこの数年。

その全部が、彼にとっては「無価値」だったということか。

彼は見下すような視線で私を睨みつけた。

「お前、自分にどれだけの価値があると思ってんだ?お前はこれから優奈の部下だ。彼女のもとでしっかり見て学べ」

私は静かに、でもはっきりと笑った。

「私の時間は、そんなに安くない。興味のないことに、もう時間を使う気はありません」

「ふざけるな!じゃあ勝手に辞めろよ!どうせ、どの会社もお前なんか雇ってくれねぇよ!」

彼は椅子を蹴るように立ち上がり、まるで獲物を睨み据える獣のような目で私を見つめていた。

私は一言も返さず、そのまま背を向けてオフィスを出た。

——六年間の関係なんて、犬にでも食わせてやればいい。

私はもう二度と、彼の周りをぐるぐる回るような女にはならない。

ましてや、彼の初恋の下働きなんて——

冗談じゃない。

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