LOGIN私との結婚を氷見寒成(ひみ かんせい)は三十八回も先延ばしにした。 五度目の事故では、車に激突されて肋骨を八本も折り、私は七度も危篤通知に署名した。 十度目、入籍へ向かう途中では、車ごと海へと弾き飛ばされ、着ていたスーツは鮫に食い破られた。 そして三十八度目。 寒成は心臓の病が悪化し、命の瀬戸際に立たされていた。 私は妊娠八か月の大きなお腹を抱えながら三度も乗り継ぎをし、二十三時間かけて地球の半分を横断し、彼のもとへと辿り着いた。 扉を開けると、そこには彼と瓜二つの少年が顔を上げて言った。 「ママが帰ってきたと思った」 その瞬間、寒成が裸足のまま駆け出してきて、愕然とした表情で私を見つめた。 私は振り返る。 そこに立っていたのは、十二年付き合いの親友だった。 手には鍵。 少年は駆け寄り、その胸に飛び込んで無邪気に呼ぶ。 「ママ!」 ――ようやく、理解した。 七年も待ち続けた婚約者は親友が長年ひそかに結婚していた――その夫だったのだ。 私は静かに口を開いた。 「三十八回も死にかけてまで待ったけど――もう、待たない」 そして、まっすぐに彼を見据える。 「氷見寒成。あなたも――いらない」
View More私はその子に「明晴」と名付けた。――どうか一生、明るく。前に広がる道が光に満ちたものであるように。息子を連れて、私はあらゆる名医を訪ね歩いた。彼の身体に残された傷はすべて治した。少しずつ、表情が柔らいでいく。頬に血色が戻り、笑うことも増えた。毎朝、一緒に朝食をとり、学校へ送り出す。夜は絵本を読み聞かせ、眠りにつくまでそばにいた。週末には山へ出かけ、自然の中を歩き、公園では鳩に餌をやって過ごした。けれど、彼は一度も言葉を発しなかった。半年、一言も「ママ」と呼んではくれなかった。それでも、焦りはなかった。ただ、ずっと胸の奥に、拭えない負い目が残っていたから。彼の好きなトマトと卵の炒め物を作る。雨の日には好きなだけ水たまりを踏ませて、笑わせた。スーパーに行くと、彼はいつも私の顔色を窺いながら、手を伸ばしかけてはそっと引っ込める。その仕草を見るたび、胸が締めつけられる。私はしゃがみ込み、やさしく声をかけた。「欲しいものがあったら、遠慮しなくていいのよ。ママがちゃんと買ってあげるから」それから一年後の、ある朝。いつものように朝食を用意し、温かいミルクを差し出したときだった。彼が顔を上げる。初めて、まっすぐに視線が重なった。その瞳には、かすかな依存と確かなぬくもりが宿っていた。小さな唇がゆっくりと開く。「……マ……マ……」か細く、ためらうような声。私はその場で動けなくなった。次の瞬間、強く抱きしめる。涙が止まらなかった。この一言を私は五年待っていた。「ママはここにいるよ。もう、どこにも行かない」何度も、何度も繰り返した。杏奈の子どもは福祉施設へ託した。あのとき交わした養育の契約書は彼女の墓前で焼いた。三年後。沢渡実業は三つの大陸にまたがる巨大企業へと成長していた。私は高層ビルの最上階に立ち、夜の街を一望する。背後で、扉が開く音。振り返る間もなく、小さな身体が勢いよく飛び込んできた。「ママ!先生に褒められたよ!テスト、満点だった!」八歳になった息子は背も高く、しっかりとした体つきになっていた。笑うと、頬に小さなえくぼが浮かぶ。もう、あの頃の傷跡はどこにもない。私はその頬にキスをして、微笑む。「すごいね。
心臓が一瞬、止まったような気がした。私はすぐに車を走らせ、メッセージに添付されていた位置へ向かう。辿り着いたのは終末期ケアの病院だった。ドアを押し開けた瞬間、重く淀んだ空気が身体にまとわりつく。病室の中で、杏奈はベッドに横たわっていた。骨と皮ばかりのその姿はかつての面影をほとんど残していない。息を切らしながら駆け込んできた私を見て、彼女はわずかに唇を歪めた。「やっぱり、来たのね」「子どもは?」私はそれしか聞かなかった。杏奈は顔を背け、鼻で笑う。その瞬間、私は一気に距離を詰め、彼女の腕を掴み上げた。「どこにいるの!」声が抑えきれず震える。「死んでないわ」たったそれだけの言葉が胸の奥に重く沈み込んだ。視界が滲む。私の涙を見て、彼女はようやく口を開いた。――真実を淡々と語り始める。あのとき、海外で倒れた私は、たまたま通りかかった女性に助けられ、そのまま病院へ運ばれた。緊急手術の最中、医師は私の携帯に登録されていた緊急連絡先へ電話をかけた。その相手は寒成だった。だが、電話に出たのは杏奈だった。男の子が無事に生まれたと知らされた瞬間、彼女の中で、何かが狂い始めた。もし私がそのまま子どもを産めば、寒成はすべてを捨てて、私のもとへ戻る。――そう確信したのだという。だから彼女はすべてを断ち切ろうとした。看護師を買収し、口裏を合わせる。私にも、寒成にも、「子どもは生まれてすぐ亡くなった」と伝えさせた。だが実際には、彼女は密かに子どもを連れ出し、遠く離れた地方へ送りつけた。わずかな金で、農家に押し付けるようにして。「居場所を知りたいなら、安人をあんたが引き取るって署名しなさい。そうしたら、教えてあげる」声には、かすかな懇願が滲んでいた。けれどそれ以上に――上から押しつけるような圧があった。彼女の命はもう長くない。骨肉腫の末期で、余命は一か月もないという。私は迷わず署名した。踵を返そうとした、そのとき。杏奈が残された力を振り絞るように身体を起こした。「どうして、あんたを憎んだか、分かる?」私は立ち止まり、振り返る。彼女は最後まで、誇りを手放さなかった。「何も持ってないくせに。家柄も、後ろ盾も、お金も――顔だって、大したこと
男は見る影もなく痩せ細っていた。骨ばかりが浮き出たその姿はもはや人の形を保っているだけのようだった。私の姿を認めた瞬間、寒成はふっと笑った。震える手を持ち上げ、触れようとする。けれど、その指先は空を掠めるだけで、届かない。「明里、やっと、来てくれたんだな」私は答えなかった。鞄から書類を取り出し、彼の前に置く。「寒成。お見舞いに来たわけじゃない。あなたの会社はもう私が買収した。それを伝えに来ただけ」一拍置き、もう一枚の紙を差し出す。「それと――安人はあなたの子どもじゃない。杏奈に裏切られていたのよ」彼の瞳がわずかに見開かれる。その瞬間、心拍モニターの数値が激しく跳ね上がった。胸を押さえ、息をするたびに、全身が軋むように震える。「明里……俺が悪かった。もう長くないのは分かってる……だから、頼みがある……俺の後のことを任せてもらえないか……お前にしてきたこと……全部、分かってる……でも……俺は……お前だけを愛してた」あまりにも真っ直ぐなその言葉に、押し込めていた感情がわずかに揺らいだ。気づけば、涙が一滴、彼の冷えた掌へと落ちていた。私は顔を上げる。そして、静かに言う。「覚えてる?昔、父が酔って暴れて……私の前歯を折ったこと。あなたはあの家に飛び込んできて、私を連れ出した。夜の街灯の下。あなたはしゃがみ込み、そっと血を拭ってくれた。震える私を強く抱きしめて。そして、言った。明里。傷つけるやつは絶対に許すな」私は一歩、後ろへ下がる。喉の奥に絡む声を押し殺しながら。「あの言葉も、そのときのことも。私は一生忘れない。だから、私はあなたを許さない」言い終えると同時に、背を向けた。背後で、モニターの警告音が鋭く鳴り響く。それでも、私は振り返らなかった。寒成はそのまま息を引き取った。享年三十歳。遺書にはこう記されていた。【海に還してほしい】私は彼の遺灰を抱え、モルディブの海へと向かった。何度も願ってきたことがこんな形で叶うとは思わなかった。船の先端に立ち、白い波の向こうへ、遺灰を静かに海へ返した。――想いも、時間も、かつての自分すらも。すべてを海へと還していく。これで終わり。もう、私たちが交わることはない
買収交渉の前、私はあらかじめ会場を完全に閉鎖した。残したのは杏奈と私――たった二人。向かいに座る相手が私だと気づいた瞬間、杏奈の唇に、抑えきれない優越の笑みが浮かぶ。「……あなたが?沢渡実業のCEO?」視線がゆっくりと上下をなぞる。露骨な軽蔑がそのまま形になっていた。「身の程知らずもいいところね。自分の立場、分かってる?残念だけど――どれだけ取り繕っても、所詮は変わらないのよ。根っこの卑しさまでは隠せない」私は何も返さなかった。一枚の書類を差し出す。「沢渡さん。交渉に入る前に、こちらを確認して」彼女は半信半疑のまま受け取り、ページをめくった瞬間――表情が凍りついた。それは親子鑑定の報告書だった。「寒成はA型、あなたはB型。なのに、子供がO型になるはずがない」言葉を重ねるたび、彼女の顔色が白く削れていく。「出産日から逆算した受精時期、その頃――寒成はずっと国内で、私のそばにいた。あなたのもとにはいなかったはずよ」言い終えた瞬間だった。「……だから、何だっていうのよ!」杏奈は突然、椅子を蹴り倒し、私を指差して叫んだ。「そうよ、裏切ったわよ!だってあの人が悪いんじゃない!あんたみたいな女に執着して――一年にたった二回しか触れもしない男に、どうして私が縛られなきゃいけないのよ!」私はただ静かに見ていた。彼女の声が枯れ、呼吸が乱れ、完全に力を使い果たすその瞬間まで。そして、淡々と告げる。「あなたの感情には興味がない。私の目的は一つ――氷見グループの買収だ」一拍置いて、続ける。「同意しない場合、あなたは夫婦共有財産の名目で、数百億規模の負債を背負うことになる。選んでください」杏奈の震える唇を見つめながら、胸の奥でわずかな諦念が沈んでいく。やがて、杏奈は買収契約書に署名した。それはつまり、寒成がすべてを失ったということだった。買収成立の翌日。杏奈は離婚届を寒成の顔に叩きつけた。「もう終わりよ。あんた、ただの無一文なんだから。これ以上、いい妻を演じるつもりもないわ」かつての威圧感はそこにはなかった。寒成はただ黙っていた。その沈黙がかえって彼女の怒りを煽る。「本当に、何も感じてないとでも思ってるの?夫が外で女と遊び歩いて、それでも平気でいられ