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もしも、出会った日のままでいられたなら

もしも、出会った日のままでいられたなら

By:  バナナさんのちび宝Completed
Language: Japanese
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私との結婚を氷見寒成(ひみ かんせい)は三十八回も先延ばしにした。 五度目の事故では、車に激突されて肋骨を八本も折り、私は七度も危篤通知に署名した。 十度目、入籍へ向かう途中では、車ごと海へと弾き飛ばされ、着ていたスーツは鮫に食い破られた。 そして三十八度目。 寒成は心臓の病が悪化し、命の瀬戸際に立たされていた。 私は妊娠八か月の大きなお腹を抱えながら三度も乗り継ぎをし、二十三時間かけて地球の半分を横断し、彼のもとへと辿り着いた。 扉を開けると、そこには彼と瓜二つの少年が顔を上げて言った。 「ママが帰ってきたと思った」 その瞬間、寒成が裸足のまま駆け出してきて、愕然とした表情で私を見つめた。 私は振り返る。 そこに立っていたのは、十二年付き合いの親友だった。 手には鍵。 少年は駆け寄り、その胸に飛び込んで無邪気に呼ぶ。 「ママ!」 ――ようやく、理解した。 七年も待ち続けた婚約者は親友が長年ひそかに結婚していた――その夫だったのだ。 私は静かに口を開いた。 「三十八回も死にかけてまで待ったけど――もう、待たない」 そして、まっすぐに彼を見据える。 「氷見寒成。あなたも――いらない」

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Chapter 1

第1話

私との結婚を氷見寒成(ひみ かんせい)は三十八回も先延ばしにした。

五度目の事故では、車に激突されて肋骨を八本も折り、私は七度も危篤通知に署名した。

十度目、入籍へ向かう途中では、車ごと海へと弾き飛ばされ、着ていたスーツは鮫に食い破られた。

そして三十八度目。

寒成は心臓の病が悪化し、命の瀬戸際に立たされていた。

私は妊娠八か月の大きなお腹を抱えながら三度も乗り継ぎをし、二十三時間かけて地球の半分を横断し、彼のもとへと辿り着いた。

扉を開けると、そこには彼と瓜二つの少年が顔を上げて言った。

「ママが帰ってきたと思った」

その瞬間、寒成が裸足のまま駆け出してきて、愕然とした表情で私を見つめた。

振り返ると、そこには十二年来の親友・沢渡杏奈(さわたり あんな)が鍵を手に立っていた。

少年は一目散に駆け寄り、その胸に飛び込んで無邪気に呼ぶ。

「ママ!」

――その時、すべてを悟った。

七年間待ち続けた婚約者は親友が長年ひそかに結婚していた――その夫だったのだ。

私の姿を見ても、杏奈は困ったように微笑むだけで、気まずさの一つも見せなかった。

まるでこの家の女主人であるかのように私を招き入れ、使用人に温かいミルクを持ってこさせる。

「明里、妊娠中なんだから、冷たいものはよくないわ」

その目をまっすぐ見据え、私は静かに問いかけた。

「……いつから?」

杏奈はくすりと笑い、ゆっくりと婚姻届の受理証明書を差し出す。

日付は八年前の11月22日。

その瞬間、頭の奥で何かが弾け、耳鳴りがした。

――あの夜。

寒成は都市一帯を貸し切り、無数のドローンで空を埋め尽くして私に盛大な告白をした。

煌びやかな花火の下で、二人は情熱的に口づけを交わし、その光景は街中の話題となった。

同じ日――彼は杏奈の手を引き、役所へと向かっていた。

そして、二人は正式に夫婦になった。

私はただ、婚姻届の受理証明書を見つめたまま、乾いた笑みを浮かべる。

胸の奥が息もできないほど鋭く痛んだ。

杏奈はわざとらしくため息をつき、どこか哀れむように言う。

「明里、私を責めないで。実はね、あなたと寒成のこと、ずっと前から知ってたの。

考えてみて?私の黙認がなかったら、あなたがずっとあの人のそばにいられるわけないでしょう?

それに、あの頃パンも満足に買えなかった学生だったあなたが、今みたいに贅沢な暮らしをできるようになったのも……」

杏奈は薄く笑い、唇の端にかすかな軽蔑を浮かべた。

「むしろ、感謝してほしいくらいだわ」

喉の奥に何かが詰まったように息苦しくなり、私は目元を拭いながら震える声で問い返す。

「……じゃあ、どうして八年前に教えてくれなかったの?私が結婚の準備で浮かれて、何度も何度も裏切られるのを見て……楽しかった?」

杏奈は眉を上げ、鼻で笑った。

「教える?どうして?この世界で、外に女を作らない金持ちの男なんていると思う?どうせなら、どこの馬の骨とも分からない女より、あなたのほうがまだマシよ」

斜めに視線を向け、口元をわずかに歪める。

「従順で扱いやすいし、自分の立場もちゃんと分かってるもの」

一言一言が刃物のように胸に突き刺さり、深くかき回す。

十五年前――杏奈は暗闇だった人生に差し込んだ、唯一の光だった。

空腹に耐えきれず、食堂の残飯桶に手を突っ込み、周囲から残り物を投げつけられていたあの日。

杏奈は私の周りに集まっていた連中を追い払って、鶏肉を差し出してくれた。

「明里、これからはあんたは私のものよ!誰がなんて言おうと、私が黙らせてやる!」

――その同じ口で、今の杏奈は私を蔑んだ。

怒りに任せて、私はグラスを掴み、杏奈に向かって投げつける。

次の瞬間――寒成が飛び出し、杏奈の前に立ちはだかった。

グラスは彼の額に当たり、鮮やかな血が滲む。

寒成は眉をひそめ、怒りを含んだ目で私を睨む。

だが、その視線が私の大きく膨らんだ腹に落ちた途端、表情がふっと緩んだ。

甘く宥めるような声で言う。

「明里、お腹に子どもがいるんだ。そんなに興奮しちゃだめだ。無事に産んでくれれば、式はすぐにでもやり直す」

彼は私を強く抱き寄せる。

「杏奈を名付け親にすれば、周りも納得するだろう。約束する。お前も子どもも、一生不自由させない」

その腕の中は温かいはずなのに――私の身体は氷の底に沈んでいくようだった。

数秒の沈黙のあと、私は彼を突き飛ばす。

そして――躊躇なく、頬を打った。

乾いた音が響く。

寒成は顔を逸らされ、信じられないという目で見返してくる。

腹を抱えながら、私は声を震わせて叫んだ。

「氷見寒成、どうしてこんなことができるの?私はあなたにとって何なの!」

寒成の表情が徐々に冷え、苛立ちを隠さず低く吐き捨てる。

「俺を責める資格がお前にあるのか?お前の父親だって、同じことをしただろう?」

その言葉に、私は凍りつく。

「母親を裏切って、騙して――未婚のままお前を産ませて、挙げ句の果てに捨てた。

出来損ないって言われながら生きてきたお前を、誰が引き上げてやったと思ってる?」

正義を装ったその声。

――彼は知っているはずだった。

家庭のことは私が最も触れられたくない傷だと。

酒瓶で殴られた幼い日々。

近所から指を差され、罵られ続けた記憶。

そこから抜け出すのに、どれだけの年月がかかったか。

寒成はかつて、その傷を縫い合わせてくれた人だった。

それなのに今――自ら縫い目を引き裂き、その傷口に塩を塗る。

私の心は完全に冷え切っていた。

そして、かすかな声で――だが確かな決意を込めて告げる。

「離婚しないなら、もう、終わりにする」

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第1話
私との結婚を氷見寒成(ひみ かんせい)は三十八回も先延ばしにした。五度目の事故では、車に激突されて肋骨を八本も折り、私は七度も危篤通知に署名した。十度目、入籍へ向かう途中では、車ごと海へと弾き飛ばされ、着ていたスーツは鮫に食い破られた。そして三十八度目。寒成は心臓の病が悪化し、命の瀬戸際に立たされていた。私は妊娠八か月の大きなお腹を抱えながら三度も乗り継ぎをし、二十三時間かけて地球の半分を横断し、彼のもとへと辿り着いた。扉を開けると、そこには彼と瓜二つの少年が顔を上げて言った。「ママが帰ってきたと思った」その瞬間、寒成が裸足のまま駆け出してきて、愕然とした表情で私を見つめた。振り返ると、そこには十二年来の親友・沢渡杏奈(さわたり あんな)が鍵を手に立っていた。少年は一目散に駆け寄り、その胸に飛び込んで無邪気に呼ぶ。「ママ!」――その時、すべてを悟った。七年間待ち続けた婚約者は親友が長年ひそかに結婚していた――その夫だったのだ。私の姿を見ても、杏奈は困ったように微笑むだけで、気まずさの一つも見せなかった。まるでこの家の女主人であるかのように私を招き入れ、使用人に温かいミルクを持ってこさせる。「明里、妊娠中なんだから、冷たいものはよくないわ」その目をまっすぐ見据え、私は静かに問いかけた。「……いつから?」杏奈はくすりと笑い、ゆっくりと婚姻届の受理証明書を差し出す。日付は八年前の11月22日。その瞬間、頭の奥で何かが弾け、耳鳴りがした。――あの夜。寒成は都市一帯を貸し切り、無数のドローンで空を埋め尽くして私に盛大な告白をした。煌びやかな花火の下で、二人は情熱的に口づけを交わし、その光景は街中の話題となった。同じ日――彼は杏奈の手を引き、役所へと向かっていた。そして、二人は正式に夫婦になった。私はただ、婚姻届の受理証明書を見つめたまま、乾いた笑みを浮かべる。胸の奥が息もできないほど鋭く痛んだ。杏奈はわざとらしくため息をつき、どこか哀れむように言う。「明里、私を責めないで。実はね、あなたと寒成のこと、ずっと前から知ってたの。考えてみて?私の黙認がなかったら、あなたがずっとあの人のそばにいられるわけないでしょう?それに、あの頃パンも満足に買えなかった学
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第2話
寒成の目に、一瞬だけ信じられないという色がよぎる。彼は私の手を強く掴み、反論の余地を与えない強い口調で言い放った。「だめだ。俺は絶対にお前と別れない。お前も、子どもも――どっちも手放さない」その言葉が落ちた直後、二階から杏奈の悲鳴が響いた。「寒成!安人が倒れた!痙攣してる、早く病院に!」男は一瞬で私の手を振り払い、振り返りもせず階段を駆け上がっていく。次の瞬間、広い邸宅には私ひとりだけが取り残された。ゆっくりと視線を巡らせる。ここは彼と杏奈が八年ものあいだ共に暮らしてきた家。壁には三人で写る家族写真。背景はマルディブの透き通る青い海と空。私は三年も願い続けた。誕生日の願い事さえ、「一度でいいから彼と海へ行きたい」だった。けれど彼はいつも、こう言っては先延ばしにした。「最近忙しくてな。また今度にしよう」部屋の隅に置かれた犬小屋。その中には、一着のオーダースーツが無造作に放り込まれている。私が結婚式のために自ら選んだものだった。今はもう、犬の毛と泥にまみれている。胸の奥が静かに崩れ落ちる。こみ上げるものを必死に押し殺しながら、私は帰国の航空券を手配しようとした――そのとき。スマートフォンが鳴る。寒成からの着信だった。焦りを滲ませた声が耳に飛び込んでくる。「今すぐだ。車を向かわせる」携帯を握りしめたまま、心臓が激しく跳ねる。――もしかして。今さら罪悪感でも湧いたのか。空港まで送ってくれるのか、それとも――今度こそ、籍を入れてくれるのか。そんな淡い期待はあっさりと裏切られた。連れて来られたのは空港ではなく、病院の救急棟だった。寒成が目を赤くして飛び出してくると、私の手首を掴み、慌てて言い募る。「明里、安人がICUに入った!すぐ輸血が必要なんだ!O型なんだけど、血が足りない。杏奈も俺も直系だから無理なんだ……頼む、お前しかいない。俺の息子を助けてくれ」――理解した。彼が自分を呼んだ理由。後悔でもなければ、説明でもない。ただ――自分の血が必要だったから。言葉を失ったまま立ち尽くす私の前で、杏奈が突然、崩れ落ちるようにして足元にすがりついてきた。脚にしがみつき、必死に泣き叫ぶ。「明里、お願い……!あのとき、学費
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第3話
看護師が近づいてきて、太く長い針が私の静脈に突き刺さる。自分の血が吸い上げられていくのを、ただ見ていることしかできなかった。悔しさと無力さに、涙が頬を伝って静かにこぼれ落ちる。寒成が歩み寄り、大きく温かい手でその涙をそっと拭った。壊れ物に触れるような仕草で、柔らかな声を落とす。「明里、つらいのは分かってる。この件が終わったら……何でも望みを叶える」五百ミリリットルの採血が終わった頃には、私は椅子に崩れ落ち、指先ひとつ動かすのもやっとだった。寒成は血液パックを受け取ると、振り返りもせずICUへと走っていく。杏奈の頬に残っていた涙の跡はもう乾いていた。すぐにいつもの高慢な表情へと戻り、冷ややかに言い放つ。「もう帰っていいわ。運転手にホテルまで送らせるから」――感謝の言葉は一つもなかった。まるで最初から当然のことだったかのように。私は椅子の背に手をつき、ふらつきながら立ち上がる。杏奈の視線を受け止め、かすれた声で告げた。「あなたに借りたものは今日で全部返した。これで、もう私たちは何の貸し借りもない」病院の外へ出ると、空一面から大粒の雪が降り続いていた。薄いコート一枚で、重たい腹を抱えながら歩くたびに息が詰まる。そのとき、腹の奥に引き裂かれるような鋭い痛みが走った。まるで内側から強く引きずり下ろされるような感覚。腰には、無数の細い針が一斉に突き刺さるような痛みが広がる。足がもつれ、膝から崩れ落ちた。そのまま前のめりに倒れ込む。ポケットからスマートフォンが飛び出し、数メートル先に叩きつけられて画面が割れた。次の瞬間、下半身にじわりとした温かさが広がる。血と羊水が一気に溢れ出した。周囲の人々が足を止める。誰かがスマートフォンを向け、誰かがひそひそと何かを言い合い、誰かは眉をひそめて避けていく。私は震える手を伸ばし、近くの人に必死にすがる。「Help!please……help me……」だが、その人は一瞥しただけで足早に去っていった。雪の上に倒れ込んだまま、片手で腹を守り、もう一方の手で必死にスマートフォンへと手を伸ばす。ようやく指先が届いた。震える手で、寒成へと発信ボタンを押した。「助けて……病院の前にいるの……お腹が痛い……もう……生まれ
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第4話
私は勢いよく上体を起こした。傷口に鈍い激痛が走り、思わず歯を食いしばる。混乱したまま、辺りを見回す。すぐ傍のベビーベッドは空だった。頭のてっぺんから、冷たいものが一気に流れ落ちる。震える手で、必死にナースコールを押した。駆けつけてきた看護師に、私は翻訳機を握りしめたまま、言葉の代わりにジェスチャーで訴える。「赤ちゃん……?私の子は……どこ……?」看護師の表情がゆっくりと曇る。翻訳機を取り、静かに文字を打ち込んだ。――胎盤早期剥離、大量出血。救命が間に合わず、男児は窒息により死亡。大変申し訳ありません。その一行を私はただ見つめた。胸の奥がぽっかりと空洞になる。胃の奥から込み上げるものに襲われ、激しくえずく。けれど、何も吐き出せない。ベッドの脇に崩れ落ち、涙ばかりがあふれるのに――声だけが出なかった。身体が勝手に張り詰め、痛みが押し寄せる。滲み出た母乳が病衣を静かに濡らしていく。隣の部屋から聞こえてくる新生児の力強い泣き声が、焼けた鉄のように胸を突き刺した。――どうして。初めて胎動を感じたあの日の震え。初めてエコーでその姿を見たとき、止まらなかった涙。それらがすべて引き裂かれていく。全身が制御できないほど震え、目を閉じれば、胸に鋭い痛みが何度も突き上げてくる。そのとき、ふいに、温かな大きな手が耳を覆った。寒成だった。痩せた腹部に視線を落とし、すべてを理解したように目を伏せる。「すまない、明里。来るのが遅すぎた……全部、一人で背負わせてしまった」私は虚ろな目のまま顔を背ける。枕はすでに涙でぐっしょりと濡れていた。沈黙に耐えかねたように、寒成が口を開く。「明里、前回の検診でも数値はよくなかっただろう。たとえ生まれても……無事とは限らなかった」その言葉に胸が大きく揺れた。裂けた傷に、さらに塩を塗られるような痛み。ゆっくりと振り向き、冷えきった目で彼を見つめる。「これで三度目よ。また……守れなかった」寒成の表情に、痛ましげな色が浮かぶ。だが私は言葉を止めなかった。「一度目はあなたの付き合いで無理に飲まされて……その場で流れた。二度目は大きなお腹であなたの仕事を手伝って……過労で失った。そして――三度目は……あなた
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第5話
翌日――寒成の秘書が私を迎えに来た。だが、目に入ったのは――床一面に散らばる、細かく引き裂かれた小切手だけだった。報告を受けた寒成は鼻で笑う。「無一文の女がどこへ行けるっていうんだ。放っておけ。二、三日もすれば、勝手に戻ってくる」だが、一週間が過ぎても、私の行方は杳として知れなかった。ホテルもコミュニティもすべて当たったが――手がかりは一つもない。震えながら秘書が報告する。「社長……奥様は午前三時に病院前でナンバーのないマイバッハに乗り込みました。現在、行き先は追跡不能です」その瞬間、寒成の目が険しく歪む。こめかみの血管が浮き上がり、怒りに任せて怒鳴りつけた。「無一文の女に、ナンバーなしの車だと?一体、誰が裏で手を回している!」完全に理性を失い、手当たり次第に物を叩き壊す。「お前たちは何をやっているんだ!どんな手を使ってでも見つけ出せ!俺の手の中から、逃げられると思うな!」私がいなくなってからというもの、寒成は夜ごと過去のやり取りを何度も読み返していた。胎動の動画。私が送ってきた食事の写真。あのときは一瞥すらせず、指で軽く流しただけのメッセージ。今では二度と触れられないものになっていた。スマートフォンを胸に押し当て、枕を濡らすほど涙を流す。一週間後、私立探偵が私の通院記録を突き止めた。親族署名欄にあった名前は「沢渡葵(さわたり あおい)」寒成はすぐにその名を調べる。欧州を拠点とする女性実業家。資産は数百億円規模。その瞬間、彼の目に光が宿る。「無事だったのか」だが次の瞬間、過度の興奮で心臓発作を起こし、そのまま緊急搬送された。目を覚ますと、杏奈がベッドの傍に立っていた。露骨に嫌悪を滲ませた視線を向け、嘲るように言う。「その情けない顔、鏡で見たら?身分もわきまえない女のために、ICU送りなんて笑えないわね。当の本人はさっさと消えて――あなたのことなんてこれっぽっちも考えてないのに。どれだけ面倒を見ても、結局は手に負えない犬ってことよ」その言葉に、寒成の目が冷たく光る。一切の情を含まない声で言い返した。「杏奈、よく聞け。当時の結婚は父に強いられたものだ。俺がお前に向けているのは夫と父としての義務だけだ。それ以上でも
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第6話
大学時代、父は一度も生活費を渡してくれなかった。学業と生活を両立させるため、私はコンビニで深夜シフトに入るしかなかった。ある夜、午前二時過ぎ。泥酔した浮浪者が店に押し入り、私の手首を掴んで離さなかった。私はほうきを手に取り、必死に抵抗する。すると男は逆上し、乱暴に突き飛ばした。身体はそのままガラスのカウンターに叩きつけられ、視界が白く弾けた。血が額を伝い落ちる。――その瞬間だった。寒成がまるで弾けるように店内へ飛び込んできた。一発で男を床に叩き伏せ、そのまま何度も殴りつける。鼻血が飛び散るまで、手を止めなかった。やがてようやく手を離し、振り返る。血まみれの私を見た瞬間――その表情が崩れた。「……なんで、こんな……」次の瞬間、子どものように泣き出した。「もし何かあったら、どうするんだよ……!店ごと買い取る。だから、もうこんな仕事、やめてくれ!」私は静かに首を振った。そのあと、彼は私を車に乗せ、そのまま家へ向かった。玄関を開けるなり、父の襟首を掴み上げる。鈍い音が二度、響いた。父は何が起きたのかも分からず、その場でよろめく。酒気が一気に抜けたように、顔色が変わった。寒成は襟を掴んだまま、怒りを押し殺すように言い放つ。「どうして娘を、あんな時間に働かせてるんだ。危険だって、分かってるだろ。明里はお前の金づるじゃない。毎日酒を飲んで、殴って、怒鳴って――それでも父親か」父は何も言い返せなかった。顔を腫らし、ただ俯くだけだった。それ以来、毎晩。深夜三時に仕事が終わると、寒成は必ず迎えに来てくれた。――やがて私は大学院進学を目指すようになった。彼は全国の予備校を調べ尽くし、評判の高い講師に会うため、わざわざ遠方まで足を運んだ。何度も頭を下げてお願いし、ようやく個別指導を受けられるようにしてくれた。さらにその後、就職活動では百社以上に応募しても結果は出なかった。そのとき、彼は言った。「うちに来い」私はやはり首を振った。すると彼は何も言わず、履歴書を何度も書き直し、細部まで手を入れた。あらゆる伝手を頼り、紹介を重ね、ヘッドハンターが自ら私を探しに来る状況を作り上げた。それらのことを彼は一切口にしなかった。後になって、入社時、採用担当
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第7話
買収交渉の前、私はあらかじめ会場を完全に閉鎖した。残したのは杏奈と私――たった二人。向かいに座る相手が私だと気づいた瞬間、杏奈の唇に、抑えきれない優越の笑みが浮かぶ。「……あなたが?沢渡実業のCEO?」視線がゆっくりと上下をなぞる。露骨な軽蔑がそのまま形になっていた。「身の程知らずもいいところね。自分の立場、分かってる?残念だけど――どれだけ取り繕っても、所詮は変わらないのよ。根っこの卑しさまでは隠せない」私は何も返さなかった。一枚の書類を差し出す。「沢渡さん。交渉に入る前に、こちらを確認して」彼女は半信半疑のまま受け取り、ページをめくった瞬間――表情が凍りついた。それは親子鑑定の報告書だった。「寒成はA型、あなたはB型。なのに、子供がO型になるはずがない」言葉を重ねるたび、彼女の顔色が白く削れていく。「出産日から逆算した受精時期、その頃――寒成はずっと国内で、私のそばにいた。あなたのもとにはいなかったはずよ」言い終えた瞬間だった。「……だから、何だっていうのよ!」杏奈は突然、椅子を蹴り倒し、私を指差して叫んだ。「そうよ、裏切ったわよ!だってあの人が悪いんじゃない!あんたみたいな女に執着して――一年にたった二回しか触れもしない男に、どうして私が縛られなきゃいけないのよ!」私はただ静かに見ていた。彼女の声が枯れ、呼吸が乱れ、完全に力を使い果たすその瞬間まで。そして、淡々と告げる。「あなたの感情には興味がない。私の目的は一つ――氷見グループの買収だ」一拍置いて、続ける。「同意しない場合、あなたは夫婦共有財産の名目で、数百億規模の負債を背負うことになる。選んでください」杏奈の震える唇を見つめながら、胸の奥でわずかな諦念が沈んでいく。やがて、杏奈は買収契約書に署名した。それはつまり、寒成がすべてを失ったということだった。買収成立の翌日。杏奈は離婚届を寒成の顔に叩きつけた。「もう終わりよ。あんた、ただの無一文なんだから。これ以上、いい妻を演じるつもりもないわ」かつての威圧感はそこにはなかった。寒成はただ黙っていた。その沈黙がかえって彼女の怒りを煽る。「本当に、何も感じてないとでも思ってるの?夫が外で女と遊び歩いて、それでも平気でいられ
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第8話
男は見る影もなく痩せ細っていた。骨ばかりが浮き出たその姿はもはや人の形を保っているだけのようだった。私の姿を認めた瞬間、寒成はふっと笑った。震える手を持ち上げ、触れようとする。けれど、その指先は空を掠めるだけで、届かない。「明里、やっと、来てくれたんだな」私は答えなかった。鞄から書類を取り出し、彼の前に置く。「寒成。お見舞いに来たわけじゃない。あなたの会社はもう私が買収した。それを伝えに来ただけ」一拍置き、もう一枚の紙を差し出す。「それと――安人はあなたの子どもじゃない。杏奈に裏切られていたのよ」彼の瞳がわずかに見開かれる。その瞬間、心拍モニターの数値が激しく跳ね上がった。胸を押さえ、息をするたびに、全身が軋むように震える。「明里……俺が悪かった。もう長くないのは分かってる……だから、頼みがある……俺の後のことを任せてもらえないか……お前にしてきたこと……全部、分かってる……でも……俺は……お前だけを愛してた」あまりにも真っ直ぐなその言葉に、押し込めていた感情がわずかに揺らいだ。気づけば、涙が一滴、彼の冷えた掌へと落ちていた。私は顔を上げる。そして、静かに言う。「覚えてる?昔、父が酔って暴れて……私の前歯を折ったこと。あなたはあの家に飛び込んできて、私を連れ出した。夜の街灯の下。あなたはしゃがみ込み、そっと血を拭ってくれた。震える私を強く抱きしめて。そして、言った。明里。傷つけるやつは絶対に許すな」私は一歩、後ろへ下がる。喉の奥に絡む声を押し殺しながら。「あの言葉も、そのときのことも。私は一生忘れない。だから、私はあなたを許さない」言い終えると同時に、背を向けた。背後で、モニターの警告音が鋭く鳴り響く。それでも、私は振り返らなかった。寒成はそのまま息を引き取った。享年三十歳。遺書にはこう記されていた。【海に還してほしい】私は彼の遺灰を抱え、モルディブの海へと向かった。何度も願ってきたことがこんな形で叶うとは思わなかった。船の先端に立ち、白い波の向こうへ、遺灰を静かに海へ返した。――想いも、時間も、かつての自分すらも。すべてを海へと還していく。これで終わり。もう、私たちが交わることはない
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第9話
心臓が一瞬、止まったような気がした。私はすぐに車を走らせ、メッセージに添付されていた位置へ向かう。辿り着いたのは終末期ケアの病院だった。ドアを押し開けた瞬間、重く淀んだ空気が身体にまとわりつく。病室の中で、杏奈はベッドに横たわっていた。骨と皮ばかりのその姿はかつての面影をほとんど残していない。息を切らしながら駆け込んできた私を見て、彼女はわずかに唇を歪めた。「やっぱり、来たのね」「子どもは?」私はそれしか聞かなかった。杏奈は顔を背け、鼻で笑う。その瞬間、私は一気に距離を詰め、彼女の腕を掴み上げた。「どこにいるの!」声が抑えきれず震える。「死んでないわ」たったそれだけの言葉が胸の奥に重く沈み込んだ。視界が滲む。私の涙を見て、彼女はようやく口を開いた。――真実を淡々と語り始める。あのとき、海外で倒れた私は、たまたま通りかかった女性に助けられ、そのまま病院へ運ばれた。緊急手術の最中、医師は私の携帯に登録されていた緊急連絡先へ電話をかけた。その相手は寒成だった。だが、電話に出たのは杏奈だった。男の子が無事に生まれたと知らされた瞬間、彼女の中で、何かが狂い始めた。もし私がそのまま子どもを産めば、寒成はすべてを捨てて、私のもとへ戻る。――そう確信したのだという。だから彼女はすべてを断ち切ろうとした。看護師を買収し、口裏を合わせる。私にも、寒成にも、「子どもは生まれてすぐ亡くなった」と伝えさせた。だが実際には、彼女は密かに子どもを連れ出し、遠く離れた地方へ送りつけた。わずかな金で、農家に押し付けるようにして。「居場所を知りたいなら、安人をあんたが引き取るって署名しなさい。そうしたら、教えてあげる」声には、かすかな懇願が滲んでいた。けれどそれ以上に――上から押しつけるような圧があった。彼女の命はもう長くない。骨肉腫の末期で、余命は一か月もないという。私は迷わず署名した。踵を返そうとした、そのとき。杏奈が残された力を振り絞るように身体を起こした。「どうして、あんたを憎んだか、分かる?」私は立ち止まり、振り返る。彼女は最後まで、誇りを手放さなかった。「何も持ってないくせに。家柄も、後ろ盾も、お金も――顔だって、大したこと
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第10話
私はその子に「明晴」と名付けた。――どうか一生、明るく。前に広がる道が光に満ちたものであるように。息子を連れて、私はあらゆる名医を訪ね歩いた。彼の身体に残された傷はすべて治した。少しずつ、表情が柔らいでいく。頬に血色が戻り、笑うことも増えた。毎朝、一緒に朝食をとり、学校へ送り出す。夜は絵本を読み聞かせ、眠りにつくまでそばにいた。週末には山へ出かけ、自然の中を歩き、公園では鳩に餌をやって過ごした。けれど、彼は一度も言葉を発しなかった。半年、一言も「ママ」と呼んではくれなかった。それでも、焦りはなかった。ただ、ずっと胸の奥に、拭えない負い目が残っていたから。彼の好きなトマトと卵の炒め物を作る。雨の日には好きなだけ水たまりを踏ませて、笑わせた。スーパーに行くと、彼はいつも私の顔色を窺いながら、手を伸ばしかけてはそっと引っ込める。その仕草を見るたび、胸が締めつけられる。私はしゃがみ込み、やさしく声をかけた。「欲しいものがあったら、遠慮しなくていいのよ。ママがちゃんと買ってあげるから」それから一年後の、ある朝。いつものように朝食を用意し、温かいミルクを差し出したときだった。彼が顔を上げる。初めて、まっすぐに視線が重なった。その瞳には、かすかな依存と確かなぬくもりが宿っていた。小さな唇がゆっくりと開く。「……マ……マ……」か細く、ためらうような声。私はその場で動けなくなった。次の瞬間、強く抱きしめる。涙が止まらなかった。この一言を私は五年待っていた。「ママはここにいるよ。もう、どこにも行かない」何度も、何度も繰り返した。杏奈の子どもは福祉施設へ託した。あのとき交わした養育の契約書は彼女の墓前で焼いた。三年後。沢渡実業は三つの大陸にまたがる巨大企業へと成長していた。私は高層ビルの最上階に立ち、夜の街を一望する。背後で、扉が開く音。振り返る間もなく、小さな身体が勢いよく飛び込んできた。「ママ!先生に褒められたよ!テスト、満点だった!」八歳になった息子は背も高く、しっかりとした体つきになっていた。笑うと、頬に小さなえくぼが浮かぶ。もう、あの頃の傷跡はどこにもない。私はその頬にキスをして、微笑む。「すごいね。
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