LOGIN私は栗林清花(くりばやし さやか)。 古賀知樹(こが ともき)の実家での食事中、彼のコートのポケットから小さな箱が転がり落ちた。 拾い上げて開けてみると、なかには婚約指輪が収まっている。 知樹の母が、もどかしそうに息子の肩をポンと叩いた。 「さっさと清花ちゃんをもらいなさい。良い子は他所に取られちゃうかもよ。今夜プロポーズして、明日にでも婚姻届を出しなさい」 その場にいた全員が、ドッと笑い出した。 私は頬を染め、彼から「結婚しよう」の言葉を待ちわびていた。 だが知樹は、私の手から指輪を取り上げると、隣に座る秘書の須藤優奈(すどう ゆうな)に渡した。 「いや、これは優奈のを預かってるだけなんだ」 そう言って、いつもの優しい手つきで私の髪をくしゃりと撫でた。 「大人しく待ってて。今度二人で、気に入る指輪を見に行こう」 優奈の顔に一瞬よぎった、してやったりの笑みを、私は見逃さなかった。 私は音もなく、口元だけで笑った。 知樹は知らない。私たちに「今度」は、もうない。 私の結婚式は、今週の日曜日に決まった。
View More「もしあなたへの想いが百点満点だったとして、この七年、あなた自身がそのすべてをゼロにしたの。私の心の中に、もうあなたの居場所はない」知樹は息を詰まらせ、指先が無意識に震えた。「俺が悪かった!全部俺のせいだ」焦りに駆られ、声が震えた。「だから変わる。必ず変える。頼む、清花、もう一度だけ——」「遅すぎるの。過去は過去よ」私は指輪を見つめ、それを外してゴミ箱へ落とした。知樹の体が大きく揺らぎ、顔から血の気が引いた。この指輪は、私が自ら宝石デザイナーのもとへ通い、一からデザインを学び、完成した図面を工房に持ち込んで、職人と共に一槌ずつ仕上げたものだ。彼がこの指輪に触れるたび、私の愛を感じてくれるようにと。だが今、その愛は消え去った。ならばこの指輪に、もはや意味はない。茫然と立ち尽くす彼を見つめ、私は心の荷物が下りたように穏やかに微笑んだ。「これからは、もう来ないで。二十歳の私なら振り返ったかもしれない。でも、二十七の私は振り返らない」私は立ち上がり、振り返らずに去った。知樹は立ち尽くし、その長身がひどく脆く見えた。やがて彼の手がかすかに持ち上がり、何かを掴もうとしたように。しかし、力なく垂れ落ちた。……湊と共に遠くの街へ移り住んだことで、ようやく知樹は私の世界から完全に消えた。妊娠八ヶ月のある日、何気ない会話のなかで母が淡々と口にした。私たちが引っ越して半月ほど経った頃、知樹が実家を訪ねてきたのだと。その名を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ、意識がふわりと遠のいた。「泥酔していてね、もう見苦しいったらなかったわ。あんな大柄な男が、お父さんと私の前にひざまずいて、目を真っ赤にしながら、しどろもどろで。申し訳なかった、許してほしい、もう一度だけ機会がほしい。せめて一目だけでいい、電話だけでもいいからって……もう、ぐちゃぐちゃで」両親はただ静かに茶を注ぎながら聞き流し、彼が酔い潰れたところでお手伝いさんにゲストルームを用意させた。翌朝、酔いを醒ました彼が謝罪し、帰ろうとした時、母は初めて顔を上げた。「清花は妊娠二週目よ。とても幸せにしている」母の話では、知樹はしばらく呆然とした後、二秒ほど遅れて「それは、よかった」と笑ったという。笑いながら、また目を赤くして。
「お母さん、行きましょう。湊がプレゼントを用意してくれているそうよ」もう二度と、知樹と関わることはないと思っていた。だが新婚旅行から帰ったその日、彼は私の自宅の前で待ち伏せていた。想像以上にやつれ、車にもたれて煙草を吸っていた。私の姿を認めるや、慌てて火を消した。「清花……」飢えたような目で私を捉え、かすれきった声を絞り出した。「少しだけでいい。話を聞いてくれ」私は彼を避け、まっすぐ玄関へ向かった。「五分だけでいい!」彼はドアに手をかけ、真っ赤に充血した目で私を見据えた。「あちこち知り合いを辿って、やっとここを突き止めたんだ」「だから何?」私は冷めた声で返し、振り返った。「居場所がわかったところで、何をするつもり?」彼の瞳がかすかに揺れた。「ただ…… どうしようもなく会いたかった。家は空っぽで、君のスリッパもソファのブランケットも何もかもない。目を閉じれば君の影ばかりで、ずっとまともに眠れていない……」私は眉をひそめた。「思い出話に浸りたいだけなら、私の生活を邪魔しないで」背を向けた瞬間、知樹が焦って私の手首を掴んだ。その拍子に、熱い涙が一滴、手の甲に落ちた。一瞬、心がざわついた。「違うんだ……」彼は火照った手で私を強く握りしめ、全身を震わせながら深紅のベルベットケースを取り出した。「指輪を取り戻してきた」中には、あの日彼が優奈に渡した指輪が収まっていた。「確かに、優奈の仕事は評価していた。距離感を見誤り、曖昧な態度でずっと君を傷つけてきた。だが、一線を越えたことは断じてない。誓ってもいい」「信じてるわ」彼の性格を考えれば、肉体的な過ちは犯していないだろう。その一言で、知樹の瞳に淡い光が灯った。「なら――」「でもね、心の一線を越えた時点で、肉体的な過ちの有無なんて、大した違いじゃないの」彼の顔から血の気がさっと消えた。「私たちは終わったの。私はもう、湊の妻として生きている」「そんなの関係ない!」彼の瞳には、何日もまともに眠れぬ憔悴と、溺れる者が最後の藁にすがるような、砕けそうな光が揺れていた。「七年だ。俺たちは七年、ずっと一緒にいた。あの男は君の何を知ってる?パインアレルギーも、暗闇や雷が怖いことも、一人で誕
「清花……」知樹は一歩踏み出し、私の手を強く握り締めた。その声には、かつてない動揺と焦りが滲んでいた。「全部嘘だろ。この結婚式だって、最初から仕組まれたものなんだろ。俺が連れて帰る。もう二度と離させない」私は力強く手を振りほどき、鋭く視線をぶつけた。彼の瞳の奥には、息が詰まるほど激しい感情が渦巻いていた。私は表情を凪がせたまま、冷めた口調で告げた。「ここはあなたの来る場所じゃない。招待状を渡していない。夫や親族は外にいるから、自分で帰りなさい。警備に追い出されるのは、あなたも嫌でしょう」彼の顔からたちまち血の気が引いた。うつむいた先には、繊細な装飾の結婚招待状が置かれ、祝いの文字が彼の目に灼きついた。長い沈黙の後、彼は低い笑いを漏らした。「夫……なら、俺は一体何なんだ?」知樹は声を荒げて問い詰めた。「この七年、俺は何だった?丸七年も傍にいたのに。簡単にほかの男の花嫁になるなんて。結婚さえできれば、相手は誰でもいいと思ってるのか!」パシン!鋭い平手打ちが、張り詰めた空気を引き裂いた。指先が震え、奥歯を噛み締めても、声の震えは抑えられなかった。「最低!七年間、私は何度も結婚の話を出した。なのにあなたは毎回はぐらかし、私の思いを無視し続けた。この長い年月、私がどれほど苦しんできたか、あなたにわかるの?」知樹は言い返そうとしたが、言葉は一つも出てこなかった。私はうつむき、床に降り注ぐ陽光を眺めた。窓辺で、二人の影は長く伸び、絡み合うように重なっていた。「湊の実家からの縁談は、今回で二度目だったの」私は淡く笑み、怒りに燃える彼の瞳をまっすぐ見つめた。「一度目の縁談が来た時、私は両親と対立し、断食までして抗い、最後の希望をつなぎ止めた。それはあなたのためでもあり、私自身が抱いた最後の望みだった。両親は約束してくれた。あの日、あなたが指輪を渡し、結婚の覚悟を見せさえすればいい。たった一言でも、曖昧な約束でも構わない。本心を示してくれれば、すぐに縁談を断ち、私が待ち続けることを認めてくれる」青ざめる彼を見つめ、私は静かに微笑んだ。「だけどあなたは、私の最後の望みを打ち砕いた。私が自らデザインした婚約指輪を、優奈に渡したのよ」私は淡々と続けた。
駆けつけた幼なじみたちは、真っ白なスーツを着た知樹の姿を見て安堵した。「やっぱり行く気だったんだな。早く出発しよう、これで俺たちも結婚を祝える」「正午ちょうどに式が始まる。急がないと間に合わないぞ」知樹は肯くでも拒むでもなく、だるそうに返答した。「焦るな。もう少し待たせればいい」その言葉が途切れる間もなく、配信画面から優美なピアノの旋律が流れ、固く閉ざされた扉がゆっくりと開いた。純白のウェディングドレスを着た清花が、父に手を引かれ、バージンロードを進んでいった。「うわ、めちゃくちゃ綺麗だ!」「花嫁がここまで準備したのに、新郎がくだらないプライドに拘るべきではない」「早く行け。これ以上ぐずぐずしたら、完全に遅刻する」カメラに映る清花はスポットライトを浴びて白く煌めき、手の届かない儚い夢のように美しかった。知樹は彼女の姿に視線を釘付けにされ、鼓動は激しく高まり、呼吸は浅く乱れた。常に冷静に先を見据えてきた彼も、生まれて初めて味わった強い緊張に、手のひらにじわりと汗をかいた。ここ数日、夢に幾度も現れていた白いドレスの姿が、生配信の中の清花と寸分違わず重なった。自分だけのものになるという抑えきれない優越感が、胸の奥から全身へと広がった。彼は幼なじみたちに半ば押し出されるように外へ出て、わざとらしく彼らの手を振りほどいた。無造作にスーツを整え、面倒くさそうにつぶやいた。「はいはい、わかった。けじめをつければいいんだろ。行くぞ」式場では、招待客たちがすでにひそひそと囁き合っていた。「新郎さん、まだ姿を見せないわ」「時間も過ぎているし、何かトラブルがあったのかしら」知樹の歩調は自然と速まった。清花へメッセージを送ろうとした瞬間、生配信から司会者の声が響き渡った。「それでは、いよいよ新郎のご入場です。古賀湊(こが みなと)様、どうぞお越しください」古賀……湊?知樹は突然立ち止まり、頭が真っ白になり、全身の血が逆流するような衝撃に襲われた。周囲の景色は瞬く間に色彩を失い、画面中央で寄り添った二人の姿だけが、残酷なほど鮮明に瞳に焼きついた。後から追ってきた幼なじみたちも石像のように固まり、画面上の光景を信じられず見つめていた。「な、新郎が古賀湊だって……?」「新郎はお