LOGIN授賞式の夜、消防隊長である彼氏の久保大介(くぼ だいすけ)は、控室で電話を受けたきり、煙のように消えてしまった。 残されたのは私、和泉夏希(いずみ なつき)ひとり。ドレス姿のまま壇上に立ち、彼の代わりに「年間最優秀消防士」の表彰盾を受け取った。 司会者がにやりと笑いながら言う。「久保隊長の胸の内には、名誉よりも大切な方がいらっしゃるようですね」 どっと沸く会場の笑い声。私はただ立ち尽くし、手足の先がじんじんと冷えていくのを感じていた。 家に戻っても、彼が帰ってくることはなかった。出迎えたのは、鼻を突くガスの臭いだった。 次の瞬間、激しい爆発が家を襲った―― 瓦礫の中から近所の人に助け出されたとき、スマホに一枚の写真が届いた。 寮のベッドで、大介が上半身裸のまま横たわっている。その寝顔は、驚くほど穏やかだった。 一言メッセージが添えてあった――【隊長ったらもうヘトヘトで、今夜は帰れないって。「あいつがいれば、家のことは心配ない」って言ってたよ】
View More世間がもてはやした「ヒーローとしての数々の功績」すら、その多くが、彼自身によって巧妙に演出されたものだった。真実が明るみに出ると、街中を巻き込む大騒動となった。かつて市民の誰もが崇拝したヒーローは、たった一夜にして台座から引きずり下ろされ、誰からも指弾される卑劣な罪人へと成り下がったのだ。そして、警察の本格的な捜査が進む中、決定的かつおぞましい事実が浮かび上がってきた。……ある日、弁護士が真っ青な顔をして邸宅へ駆けつけ、私の目の前のテーブルに分厚い捜査資料を置いた。「和泉さん。新たな証拠が見つかりました。あの爆発事故に関する、知られざる裏の事情です」胸の奥が、どくりと跳ねた。ファイルを手に取る。目に飛び込む一字一句が、細い針のように胸を刺した。――あのガス漏れは、事故などではなかった。麻衣が、私の家のキッチンのコンロへ、意図的に細工を施していたのだ。そして大介は、その事実を知っていた。彼女がそんな大胆な犯行に及べたのも、すべては大介がそれを裏で黙認していたからに他ならない。彼は、「緊急事態」を欲していたのだ。自分が間一髪で駆けつけ、私を救い出す「ヒーロー」を演じるための絶好の機会を。私の前で、自分がどれほど頼もしく、どれほど「絶対に欠かせない存在」であるかを証明するための、自作自演の舞台を。自ら危機を作り出し、自分でそれを解決してみせる。そうすれば、私がもっと彼に依存し、二度と彼のそばから離れられなくなると踏んでいたのだ。彼は私に思い知らせたかったのだ。私を守れるのは、自分だけなのだと。ただ、彼にも誤算があった。事態が、制御できないところまで転がってしまったのだ。漏れ出したガスの破壊力を、あまりに甘く見ていたこと。そして、自分の制御能力を過信していたこと。私はずっと、あれは不幸な事故なのだと思っていた。ただのコンロの老朽化による不注意なのだと。まさかそれが、綿密に計算された、おぞましい悪意に満ちた計画だったとは。ただの浮気や裏切りではなかったのだ。彼は私の命そのものを道具にして、自分の歪んだ「愛」を満たそうとしていたのだから。私は手元にあったスマホを取り上げ、担当弁護士に電話をかけた。「追加で告訴を出してください」声は驚くほど静かだったが、その底には、抑えきれない怒りの炎が青
庭では招待客たちがグラスを傾け、華やいだ笑い声が絶えなかった。その人波の向こうに、大介の姿があった。邸宅を囲む鉄柵の前に立ち、虚ろな目でぼんやりと、何かをブツブツと呟いている。「夏希……俺の、夏希……」ぼろぼろの服に、ボサボサ髪。誰がどう見ても、ホームレスそのものだった。警備員が敷地から追い払おうとしていたが、彼の耳には届いていないようだった。ただ一心に、私だけを見つめている。私は彼に、とびきり明るい微笑みを向けてみせた。そして夫の温かい視線を受けながら、その腕にそっと自分の手を絡め、陽光の降り注ぐ芝生の上へと歩き出す。私の結婚式に、ヒーローはいらない。ここにいるのは、私が本当に愛している人だけだ。……それからというもの、大介はまるで幽霊のように、私の行く先々へ姿を現すようになった。ギャラリーの前に張り込んでは、汚れた指先でショーウィンドウのガラスをこつこつと叩き、意味のない言葉を呟いている。散歩に出れば、路地の角から突然飛び出してきて、カッと見開いた目で私を捉えた。「夏希!俺を見てくれ、会いたくてたまらなかった!」私の手を掴もうと駆け寄ってくる彼を、そばに控えていたボディガードが即座にねじ伏せる。そのたびに鼻を腫らし、青アザを作って路地の隅へ転がされたが、それでも彼は憑かれたように、翌日になるとまた律儀に姿を見せた。夫は、この異常な状況に対して、驚くほど辛抱強く理解を示してくれていた。私の手を優しく包み込み、耳元で静かに囁いてくれる。「怖がらなくていいよ。君のことを、もう誰にも傷つけさせはしないから」大介との過去を根掘り葉掘り聞き出すような真似もせず、彼はただ黙々と、身辺の警備レベルを引き上げてくれた。麻衣の夫――つまり、現在の南雲市消防中隊の隊長となった男が、見かねて仲裁にやってきたこともあった。彼は困り果てた顔でギャラリーを訪れ、こう言った。「久保がかつて中隊に尽くしてきた功績に免じて、もう彼をこれ以上刺激しないでやってくれませんか。あいつ、今もう精神的にかなり追い詰められているんです。このままだと、本当に廃人になってしまう」私は、静かに微笑み返した。「彼が廃人になろうがどうなろうが、私には何の関係もないことよ。あの爆発で、私のこの脚が再起不能になりかけて、家が
「今日、私がここへ足を運んだのは、情にほだされたからだとでも思った?」私は言葉を続けた。真冬の夜風よりもずっと冷たいトーンで。「勘違いも甚だしいわ。あなたが今、どれほどのどん底に這いつくばっているか……この目で直接、確認したかっただけよ」大介が、弾かれたように目を開けた。傷を負った獣のような瞳で、私を見上げている。「そんな言い方……しないでくれ……っ」「あなたにその資格があるの?」私は静かに見下ろした。私の瞳の奥には、はっきりとした軽蔑がにじんでいた。「新入りひとりの機嫌を取るために、私をガスが充満した部屋へ置き去りにして、死の淵へ追いやったとき……私がどうなるか、あなたは一度でも想像した?家のコンロが壊れていることは知っていたはずよ。私が怪我を負って助けを求めていることも分かっていた。それなのに、あなたはあの夜、別の女の世話を焼いていた。ねえ、大介。あなたは私のことを、一体なんだと思っていたの?自分がいつでも好き勝手に呼び出せる、都合のいいバカだとでも?」彼は唇をわずかに震わせただけで、弁明の一言すら紡げなかった。「……よく聞いて、大介」私は少しだけ身をかがめ、彼の耳元へと顔を寄せた。地の底から這い上がった悪鬼のような声を落とす。「最初から最後まで――私は、あなたを一度たりとも許したことなんてないわ。ただ、見せてあげたかったの。あなたが手放したものが、今、どれほど豊かに、美しく生きているかを。そして、今のあなたが……どれほど惨めで、救いようがないかをね」私は体を戻すと、二度と彼を振り返ることなく歩き出した。背後から、大介の絶望に満ちた絶叫と、ヒステリックに喚く麻衣の泣き声が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って追いかけてくる。それはまるで、三流の劇団が路上で演じる、ひどく出来の悪い喜劇のようだった。そして私は、通りすがりの観客にすぎない。空港へは向かわなかった。両親が私のために新しく用意してくれた、この街で最もセキュリティの厳しい邸宅街へと車を走らせた。部屋へ着くと、スマホから、ある番号に電話をかけた。「もしもし、あなた。家に着いたわ」通話の向こうから、穏やかで、深い温かみのある低い声が響く。「……ねえ、寂しかった?今夜のフライトでそっちに向かうよ。深夜には着くはずだ」「ふふ、も
私はふっと笑い、左脚を少しだけ前に出すと、細いヒールのまま、その場で優雅に一回転してみせた。「ご覧の通り、完治したわ。激しいスポーツさえしなければ、日常生活には何の支障もないの」かつて自慢だった私の脚には、今も、あの日のやけどの痕が幾筋も走っている。けれど、丁寧な治療と毎日のケアのおかげで、ほとんど他人の目には触れない。彼は複雑な色をたたえた瞳で私の脚を見つめ、一歩踏み出したいのに、どうしても足を踏み出せずにいた。「けっ、こん……したのか?」彼は恐る恐る尋ねた。その声は、ごくかすかに震えていた。私は彼を見つめ、自分の瞳からすべての感情を消した。「ええ、もちろん」大介の瞳孔が、ぎゅっと収縮した。顔面から、最後の血の気が失われていく。「そうか……おめで、とう……」泣き顔よりもずっと見苦しい笑みを無理やり浮かべ、彼の体が大きく傾いた。今にも崩れ落ちそうだった。彼がさらに何か言うより先に、背後から耳をつんざくような急ブレーキの音が響いた。古びた軽バンが、カフェの前に乱暴に停車する。助手席のドアが開き、麻衣が勢いよく飛び降りてきた。流行りのミニスカートに、濃すぎるメイク、巻いた長い髪。彼女は車を降りるなり大介を指差し、通りに響き渡るほどの金切り声を上げた。「大介!また勝手にフラフラ歩き回って!車の中で大人しく待ってろって言ったでしょうが!」彼女の隣には、小太りの男が付き添っていた。かつて副隊長だった男で、今は南雲市消防中隊の隊長だ。腕を組んだまま、彼は冷ややかな目で大介を見ていた。麻衣が大介のそばまでズカズカと歩み寄り、彼が落としたフリーペーパーを地面から拾い上げた。そこに印刷された私の写真を目にした瞬間、彼女の顔が夜叉のように歪む。「またこの女の顔なんか見てたわけ!?」彼女は私の目の前で、紙面をずたずたに引き裂くと、地面へ叩きつけた。「言ってみなさいよ!ここでこの女と何話してたのよ!」大介の世間体など、最初から存在しないかのような口ぶりだった。道行く人にどれだけ見られようが構わないという、なりふり構わぬ開き直り。私は、ただ静かに眺めていた。――ええ、彼女は昔から何も変わっていない。自分が他人から奪うやり方でしか手に入れられなかったから、世の中の女はみんな自分と同じ泥棒なんだと