INICIAR SESIÓN
幸い、由佳は一命を取り留めた。ただ、その年は前年より合格最低点が上がり、由佳はあと一歩のところで合格に届かなかった。結局、明峰大には受からず、地方の国立大学へ進んだ。大学3年の夏休み、恋人の柳沢つばさ(やなぎさわ つばさ)を連れて実家に帰った。ちょうどその日、由佳の家では引っ越しの真っ最中だった。マンションの廊下には段ボールが積まれ、由佳も荷物を運んでいた。俺とつばさが手をつないでいるのを見ると、由佳は一瞬だけ手を止めた。それでも、すぐに何でもないように聞いてきた。「……彼女?」俺は頷くだけで、それ以上話さなかった。つばさを部屋に通し、壁に飾ってある昔の写真を見せていると、つばさが窓の外にぶら下がる小さな籠に気づいた。「これで、上の階と物をやり取りしてたの?なんか楽しそう」窓を開けて籠を引き寄せると、中には17枚の写真が入っていた。どれも、俺と由佳が毎年撮っていた写真だった。同じ写真を2枚ずつプリントして、俺と由佳が1枚ずつ持っていた。俺の分は、由佳と別れたときに全部捨てた。つまり、籠に入っていたのは、由佳が持っていた17枚だった。由佳と別れてから、この籠が使われたことは一度もなかった。それなのに、つばさを連れて帰ったその日に限って、写真の入った籠が窓の外にぶら下がっていた。わざとやったとしか思えなかった。「この写真の子、さっき廊下で会った人だよね。幼なじみで、ずっと上の階に住んでた子?それで、元カノなんだよね」つばさは、もうほとんど察しているようだった。昔付き合っていた相手がいることは、つばさにも話してあった。ただ、その相手が同じマンションの上の階に住む幼なじみだとは言っていなかった。誤解されたくなくて、俺はすぐに説明した。「別れてからは、この籠を一度も使ってない。今日、つばさを連れて帰ってきたのを見て、わざと写真を返してきたんだと思う」つばさは、くすっと笑った。「うん、分かってるよ。写真を返してきたなら、向こうもこれで区切りをつけたかったんじゃない?でも、ちょっと妬いたかも。毎年1枚ずつ撮ってたんでしょ?じゃあ、私も17枚ほしいな。これから少しずつ撮ろうよ」俺も思わず笑った。「分かった。17枚と言わず、これから何枚でも撮ればいいだろ」
大学一年の春休み、実家に戻っていた俺は、マンションのエントランスで由佳と鉢合わせた。俺は買い物帰りで、由佳はゴミ袋を手にしていた。浪人生活がよほどきつかったのか、由佳は前よりずいぶん痩せていた。ただ、俺を見る目だけは妙に真っすぐだった。「修司……」「その呼び方はやめてくれ。誰かに聞かれて、まだ仲がいいと思われたら困る」由佳は一瞬黙り込み、すぐに言い直した。「……浅野君。先生にも、明峰大は十分狙えるって言われてるの。もし受かったら、入学式の日、校門まで来てくれない?明峰大で知ってる人、浅野君しかいないから。それと……最後に一枚だけ、一緒に写真を撮れないかな」俺は足を止めた。子どもの頃から同じマンションで育った俺たちは、毎年一枚ずつ、一緒に写真を撮ってきた。これまでの17枚は、すべてマンション前のケヤキの下で撮ったものだ。18枚目は、明峰大の正門前で撮ろうと約束していた。けれど、今さら由佳と写真を撮るつもりはなかった。「悪いけど、迎えには行かない。写真も撮らない。受かったら、おめでとうとは言う。でも、それだけだ」そう言って、俺は由佳の横を通り過ぎた。それから半月ほどして、由佳の自己採点の結果が、前年の明峰大の合格最低点を上回っていると分かった。由佳の両親は、これなら合格は間違いないと思ったらしく、マンションの集会室を借り、親戚や近所の人まで呼んで、早々に合格祝いを開いた。近所にはかなり声をかけていたのに、うちにだけは何の連絡もなかった。去年のことへの当てつけなのだろう。普段ならこういうことを気にする母も、その日は妙に落ち着いていた。リビングでのんびりセーターを編みながら、何でもないように言った。「呼ばれなくたって、別にいいわよ。修司は県内トップで明峰大に受かったんだから。私はあのときのほうが、よっぽど誇らしかったもの」母が言い終えたそのとき、階下から何かが倒れるような音と、誰かの悲鳴が聞こえた。ほどなくして、救急車とパトカーのサイレンが近づいてきた。窓から下をのぞくと、エントランスの前に人だかりができていた。だが、何が起きたのかまでは分からない。しばらくすると、下の階に住むおばさんが、真っ青な顔でうちへ駆け込んできた。「行かなくて本当によかったわ。もう、ひ
「修司君、高校の同級生だっていう子が来てるわよ」明峰大はほかの大学より入学式が遅かった。浪人することになった数人を除けば、クラスメイトのほとんどはもうそれぞれの進学先で新生活を始めていた。こんな時期に、わざわざ家まで来るのは誰だ?玄関のドアを開けると、そこに立っていた圭吾と目が合った。俺が声をかけるより早く、圭吾は俺の袖をつかみ、その場に膝をついた。「修司、頼む。助けてくれ!共通テストで失敗して、親に浪人は認めないって言われたんだ。予備校代を貸してくれないか?普段の俺が、あんな点数取るわけないって、お前なら分かるだろ?もう一度受けられれば、次は絶対に受かる。頼むよ!」どうやら圭吾は、まだあの鉛筆のことに気づかず、ただ本番で失敗しただけだと思い込んでいるらしい。俺は袖をつかんでいた圭吾の手を振りほどき、少し離れた。「俺だって学生だぞ。予備校代なんて貸せるわけないだろ。そんな大事なことなら、俺じゃなくて親と話せよ」圭吾を連れてきたおばさんは、俺たちを見比べて困った顔をしていた。高校の同級生だと聞いて、親切でここまで案内してくれただけなのだろう。まさか玄関先で金を貸してくれと頼み始めるとは、思ってもいなかったはずだ。見かねたおばさんも、圭吾に声をかけた。「そうよ。まずはご両親と、もう一度ちゃんと話しなさいよ。修司君だって、まだ学生でしょう。こんなところで困らせるものじゃないわ」だが、圭吾はおばさんには返事もせず、俺だけを見ていた。三年間も一緒にいた圭吾は、俺が頼まれると断れないことも、普段めったにお小遣いを使わず、結構な資金を持っていることも知っていた。だからこそ、最後には俺が折れると思っているのだろう。「由佳のことで、俺に腹を立ててるんだろ?だったら、もう由佳とは関わらない。二度と話さないって約束する。だから頼むよ、修司」俺は呆れてため息をついた。「へえ。由佳にあんなことをされても、恨みもしないで、縁を切るだけで済ませるんだ。お前、ほんとに心が広いな」圭吾は戸惑った顔で俺を見た。どうやら、本当に何も知らないらしい。俺は思わず笑った。「せっかくだから教えてやるよ。由佳がお前に用意した鉛筆、全部、機械が読み取れないやつだったんだ。知らなかったのか?俺は親が
声を聞きつけた両親がすぐに駆け寄ってきて、俺をかばうようにその場から連れ出した。帰り道、俺は母に言った。「母さん、これからは由佳の家とは付き合わなくていい。詳しくは話したくないけど、もうあの家とは関わりたくない。圭吾も同じだ。うちに来ても、家には上げないで。もう顔も見たくない」母も、俺たちの間に何かあったことは察していたらしい。理由を聞こうとはせず、黙ってうなずいた。数日後、両親が親戚や親しい知人、それに仲のいいクラスメイトを招いて、近所のレストランで合格祝いを開いてくれた。当然、由佳と圭吾には声をかけなかった。事情を知っているクラスメイトたちも気を遣い、俺の前で二人の話をすることはなかった。食事が終わり、最後の客を見送ったところで、店の前に由佳が立っているのに気づいた。浪人を決めて予備校に通い始めたはずの由佳は、淡いブルーのバラの花束を抱えていた。共通テストの前、スマホでこの色のバラを見つけたことがある。珍しい色が気に入って、俺はすぐ由佳にも見せた。すると、由佳は笑って言った。「二人で明峰大に受かったら、合格祝いにこの花、真っ先に渡すね」そして俺は、本当に明峰大に合格した。だが、由佳が花を持って現れたのは、祝いの席が終わり、客がみんな帰ったあとだった。由佳は俺の前まで来ると、そっと花束を差し出した。「何軒か回って、やっと見つけたの。一番きれいなのを選んだ。……合格、おめでとう」俺は花束に目を落としただけで、手を伸ばさなかった。「いらない」それでも由佳は引かず、花束を俺の手に押しつけてきた。「あれから、ずっと考えてたの。あの鉛筆を渡したこと、本当に後悔してる。修司が明峰大に受かって、本当によかった。もし修司まで落ちてたら、取り返しがつかなかった。私と圭吾が落ちたのは、自分たちがしたことの報いだと思ってる。今さらこんなことを言っても遅いかもしれないけど……本当に、ごめんなさい」由佳の言葉を聞いているうちに、ふと、あの日のビデオ通話を思い出した。十年後の俺は、由佳の名前を聞いた途端、顔をしかめた。その反応だけで、どれほど憎んでいたのか分かった。由佳は知らない。別の未来では、あの鉛筆のせいで人生を壊されていたのは、俺のほうだったことを。あの日、未
あとで聞いた話では、由佳の家族は明峰大にも大学入試センターにも、何度も問い合わせたらしい。だが、採点ミスも答案の取り違えもないと言われ、結果は変わらなかった。由佳は浪人することに決めたという。由佳の両親に挨拶しようかとも思ったが、今は何を言っても嫌みに聞こえそうだった。気まずくなった俺は、そのまま足を速めた。由佳の横を通り過ぎようとしたとき、突然、手首をつかまれた。「話があるの」両家の親が見ている前で振り払う気にもなれず、俺は黙ってついていった。由佳はそのまま、マンション脇にある大きなケヤキの下まで俺を引っ張っていった。少し離れたところで、両親がこちらに手を振った。「ここで待ってるからな」由佳は複雑そうな顔で俺を見た。「圭吾も浪人することになったの」「そう。二人そろって浪人か。ちょうどいいじゃないか。来年も一緒に受けて、同じ大学に入って、そのまま結婚すればいい。高校からずっと一緒なんて、理想的だろ」「そんな言い方しなくてもいいでしょ!」由佳が声を上げると、少し離れたところにいた俺の両親がこちらを見た。それに気づいた由佳は、一度息をついて声を落とした。「最初から、こうなるって分かってたんでしょ。やっぱり、わざとだったのね」俺は何も知らないふりをして首をかしげた。「何がわざとなんだよ。点が取れなかったことまで、俺のせいにする気か?俺が試験中に鉛筆を取り上げたわけでも、書くのを邪魔したわけでもないだろ。二人そろって似たような結果だったから、よっぽど気が合うんだなと思っただけだ」俺は笑って続けた。「まあ、来年また二人で受ければいいだろ。仲よく浪人すれば?」由佳の顔が一気に険しくなった。「まだとぼけるの?私と圭吾の鉛筆を、機械が読み取れない鉛筆にすり替えたんでしょ!そのせいで、答案がほとんど白紙になったのよ!私たちの将来を台無しにするつもりだったの?どうしてそんなひどいことができるの!」さすがに、もう笑えなかった。「へえ。じゃあ、知ってたんだ。あの鉛筆で書いた文字が読み取れないって。それで、わざわざ俺に渡したわけか。俺、そこまで恨まれるようなことした覚えないんだけど」由佳は一瞬言葉に詰まったが、すぐに首を振った。「私は知らない。店が間
「え……?」由佳は目を見開き、一歩後ずさった。「そんなの、ありえない」俺は鼻で笑った。「何が?」高校に入ってから、俺はずっと学年一位だった。先生たちにも、普段どおりの力を出せれば、明峰大は十分狙えると言われていた。「それとも、圭吾より俺のほうがいい結果だったのが、そんなに気に入らないのか?」由佳の顔から、さっと血の気が引いた。「違う、そうじゃなくて……」「もういい。ゴミ出してくるから、どいて」俺は由佳の横をすり抜け、そのままゴミ置き場へ向かった。早く自分の合否を確かめたかったのか、由佳はそれ以上追ってこなかった。夜になると、クラスのLINEグループが急ににぎやかになった。【修司、地元のニュースサイトに載ってるぞ!】【明峰大合格、おめでとう!】【学校初の現役合格者と同級生だったなんて、ちょっと自慢できるな!】クラスメイトたちが次々に、俺の合格を祝ってくれた。その中で、由佳と圭吾だけは何も書き込まなかった。学級委員も、それに気づいたらしい。旅行中、由佳が圭吾との写真をSNSに載せたとき、学級委員が何かあったのかと個別に連絡してきた。そのとき、由佳と別れたことも伝えていた。俺の代わりに腹を立ててくれたのか、学級委員はわざとグループで二人の名前を出した。【こんなめでたい日に、修司の彼女と親友は何もなしか?】圭吾は何も返さなかった。少しして、由佳が一言だけ書き込んだ。【おめでとう】それを見て、俺もグループに書き込んだ。【みんな、ありがとう。でも、俺と由佳はもう別れた】【これから由佳と圭吾がどうなっても、俺には関係ない】そのままLINEを閉じた。ちょうど帰ってきた母が、声を潜めて話しかけてきた。「上の階の由佳ちゃんの家、さっきから大騒ぎよ。知ってた?」「何かあったの?」知らないふりで聞くと、母はさらに声を落とした。「明峰大、落ちたんですって。由佳ちゃんは手応えがあったって言い張ってるし、ご両親も採点ミスじゃないかって大騒ぎ。大学に問い合わせるって、お父さんが廊下まで響くような声で怒鳴ってたわ」思わず笑いが漏れた。あの鉛筆で書いたマークが読み取れないことに気づかなかったら、今ごろ明峰大に落ち、採点がおかしいと騒いでいたのは俺のほう