Masukその提案は、あまりにも唐突で、そして残酷だった。 会議室の空気が、目に見えないほど張り詰めている。重役たちの前で、東条謙一郎は静かに腕を組み、久遠ひかるを真正面から見据えていた。「一つ、案がある」 誰も口を挟まない。「演技テストをやる。公開で」 その言葉が落ちた瞬間、数名が息を呑んだ。「スポンサー、制作陣、そしてメディア立会い。すべてオープンだ」 それは“チャンス”などという生温いものではない。 失敗すれば、その場で終わる。 成功しても、少しでも陰りがあれば、容赦なく切られる。 つまり—— 公開処刑の舞台。 普通なら、誰もが逃げる。 マネージャーは青ざめ、事務所社長の白鳥可憐は思わず立ち上がりかけた。「東条さん、それはあまりにも……」 だが、東条は遮る。「公平だろう?」 淡々とした声。「スポンサーは“実力”を見たいと言っている。主演にふさわしいかどうかを、誰の贔屓もなく」 言葉の裏にあるものを、全員が理解していた。 これは、ひかるを守るための提案ではない。切るための“正当な理由”を作る場だ。 視線が一斉に、ひかるへ向けられる。 同情、期待、好奇心、そして——失敗を待つ目。 ひかるは、ゆっくりと息を吸った。 胸の奥で、心臓が強く打つ。だが、不思議と恐怖はなかった。(……やっぱり、来た) 追い込まれることは、最初から分かっていた。 ここまでの流れは、偶然ではない。 それでも。 ここで逃げれば、すべてが終わる。 ひかるは、静かに口を開いた。「……受けます」 その一言に、会議室がざわめいた。「正気か?」「公開だぞ……?」「失敗したら——」 誰かの声が重なる。 だが、ひかるは一人ひとりを見渡し、凛とした声で続けた。「私の演技が足りないなら、主演を降りる理由として、これ以上納得のいくものはありません」 一瞬、東条の眉がわずかに動いた。「逆に言えば」 ひかるは、ほんの少しだけ口角を上げる。「私が、役を生ききれるなら——この噂も、疑念も、全部“無意味”になります」 その場にいた誰もが、言葉を失った。 強がりではない。 覚悟の声だった。 東条は、しばらく黙ってひかるを見つめていたが、やがて短く頷く。「……いいだろう。それでこそ、久遠ひかるだ」 そして、淡々と告げる。「日時は三日後。課
その夜、雨が降っていた。 昼過ぎから降り始めた雨は、夜になっても弱まる気配を見せず、スタジオの屋根を叩く音が一定のリズムを刻んでいる。撮影は予定より早く終わったが、現場の空気はどこか重かった。 主演降板の噂は、すでに隠しきれないほど広がっている。 スタッフの何気ない視線。言いかけて飲み込まれる言葉。ひかるはそれらすべてを感じ取りながら、最後まで普段と変わらぬ態度を貫いた。「お疲れ様でした」 静かに頭を下げ、スタジオの外へ出る。 途端に、冷たい雨粒が頬を打った。 傘を開こうとした、そのときだった。「ひかる」 低く、落ち着いた声。 振り返ると、黒いセダンの窓がゆっくりと下がる。その奥に、藤崎優の横顔が見えた。「乗れ。送る」 一瞬、迷った。 だが、断る理由も見つからない。「……ありがとうございます」 助手席に乗り込むと、車内には柔らかな革の匂いが漂っていた。ドアが閉まると同時に、外界の音が遠ざかる。 雨音だけが、微かに届いている。 優は何も言わず、車を走らせた。 ワイパーが一定の速度で動くたび、フロントガラスの向こうの街灯が滲んでは消える。 沈黙。 だが、不思議と居心地の悪い沈黙ではなかった。 言葉にしなくても、何かが伝わっている——そんな感覚。 しばらくして、ひかるが小さく息を吐いた。「……優さん、私、悔しいの。でも泣きたくない」 ぽつりと零れた本音。 優は前を見たまま、すぐには答えなかった。 やがて、短く言う。「泣くな。代わりに、見返せ。」 厳しい言葉だった。 慰める響きはない。だが、その声には揺るぎない強さがある。 ひかるは思わず、横顔を見つめた。 街の光が流れるたび、優の輪郭が浮かび上がる。その表情はいつも通り冷静なのに、どこか熱を秘めているように見えた。「簡単に言いますね」「簡単じゃない。だが、お前ならできる」 即答だった。 迷いが一切ない。 その言葉に、胸の奥がわずかに震える。「どうして、そこまで言い切れるんですか」 優は小さく息をついた。 そして、初めて少しだけ表情を緩める。「俺は、お前の演技に惚れてる」 時間が、止まった気がした。 雨音さえ遠のく。 ひかるの指先が、膝の上でわずかに動く。「……演技に?」「ああ」 優は続ける。「現場に立った瞬間、お前は別人になる
スタジオに、妙な静けさが漂っていた。 撮影の合間、本来ならスタッフの声や機材の動く音が絶えないはずの現場が、どこかよそよそしい。視線が合うと、誰もが一瞬だけ言葉を止める。 久遠ひかるは、その違和感に気付いていた。 だが、気付かないふりをしていた。「久遠さん、少しお時間よろしいでしょうか」 振り返ると、そこに立っていたのは東条謙一郎の秘書だった。 秘書について行くと、東条謙一郎本人が待っていた。業界でも知らぬ者のいない大物プロデューサー。普段は現場に滅多に顔を出さない男が、今日はわざわざ来ている。 それだけで、十分すぎるほど嫌な予感がした。「控室でお話しできますか」「はい」 秘書の声に短く答え、ひかるは歩き出す。背筋は伸び、歩幅も一定。どこから見ても、揺らぎのない主演女優だった。 控室のドアが閉まる。 外の音が遠ざかった。 東条は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した後、低く告げた。「単刀直入に言う。主演降板の話が出ている」 空気が、止まった。 だが—— ひかるの表情は変わらない。「理由を、お聞きしてもよろしいですか」「例の週刊誌だ。第二弾の記事が出たことで、スポンサー側が非常に神経質になっている。“企業イメージに影響する可能性がある”と」 ひかるは小さく息を吸った。 やはり、来たか。 黒崎俊哉の元愛人——そんな見出しが躍った誌面を、彼女は昨夜すでに読んでいた。 怒りも、悲しみも、不思議なほど湧かなかった。ただ一つ、胸に落ちた感情がある。(これは、作られている) 偶然ではない。 誰かが意図的に、自分をこの場所から引きずり下ろそうとしている。 東条が続けた。「まだ正式決定ではない。しかし……代役の候補も挙がっている」 言葉の先を、ひかるは待たなかった。「結城美緒さん、ですね」 東条の目がわずかに見開かれる。「……話が早い」「現場の空気を見れば分かります」 美緒は最近、やけに堂々としていた。主演のような顔で中央に立ち、スタッフに笑顔を振りまく。その裏で何が動いているのか——想像するのは難しくなかった。 数秒の沈黙。 東条は、静かに言った。「君は、悔しくないのか」 その問いに、ひかるは少しだけ視線を落とした。 悔しくないはずがない。 この作品のために、どれだけの時間を費やしてきたのか。台本を読み込み
黒崎俊哉の机の上に、一通の封書が置かれていた。重厚なクリーム色の封筒。差出人の名前を見た瞬間、彼の喉がひりついた。――東条謙一郎法律事務所。 震える指で封を切る。『未払いとなっております家政婦契約費用、月額一千万円につき、早急なお支払いをお願いいたします』 淡々とした文章だった。だが、そこに感情がないことが、かえって残酷だった。「……一千万円、か」 かつては痛くも痒くもなかった金額だ。久遠ひかると共にいた頃、彼の会社は順調に利益を伸ばし、資金繰りに困ることなど一度もなかった。 だが今は違う。 スポンサーは離れ、取引先は契約更新を見送り、銀行の態度も露骨に冷たくなった。 俊哉は、数日前に事務所を解約したばかりだった。 ガランとしたオフィスに最後まで残っていたのは、重役用の椅子と、大きすぎるデスクだけ。 それらを処分したとき、ようやく彼は理解した。――自分は、転落したのだと。 現在の仕事場は、自宅の一室だった。六畳ほどの狭い部屋にパソコンと簡素な机を置き、細々と個人案件を請け負っている。 かつて部下に任せていたような小さな仕事を、自分の手で。 プライドはとうに擦り切れていた。 リビングから、テレビの音が響く。 笑い声。 甲高い、無神経な笑い声。「ねえ俊哉ー、コーヒー淹れてー」 ソファに寝転び、スマートフォンをいじりながら、相沢玲奈が言った。足を組み、菓子袋を床に散らかしたまま。 俊哉のこめかみに、鈍い痛みが走る。「……自分でやれ」「えー? 心狭くない?」 玲奈は唇を尖らせたが、動こうとはしない。 最近の彼女は、オーディションを受ける様子もない。演技のレッスンに通うでもなく、ただ家にいる。 その姿を見るたび、俊哉の胸に黒い澱が溜まっていった。 数週間後。 銀行からの最終通告を受け、俊哉は不動産会社の担当者と向かい合っていた。「……この家を、売ります」 言葉にした瞬間、胸の奥が空洞になった。 成功の象徴だった高層マンション。 夜景が一望できるこの部屋で、彼は多くの人間を見下ろしてきた。 だが今、見下ろされているのは自分だった。 帰宅後、俊哉は玲奈に告げた。「家を売る。もう維持できない」「は?」 玲奈は目を見開いた。「ちょっと待ってよ! 私、こんなところ嫌だけど住んでたのに!」「嫌なら出ていけ」
都内の一角にある、会員制の静かなラウンジ。重厚な扉の向こうは外界の喧騒とは切り離されたように落ち着いており、低く流れるジャズが空間を満たしていた。藤崎優は、窓際の席に腰掛け、テーブルに広げられた数枚の書類へ視線を落としていた。私立探偵から届いた、追加の調査報告書だった。ゆっくりとページをめくる。そこに記されている名前は、すでに優の中で一本の線として繋がり始めていた。結城美緒——父は中堅ながらも影響力を持つ企業の社長。その会社は、『誰よりも、君だけを』のスポンサーの一社でもある。報告書には簡潔に書かれていた。スポンサー側から制作へ、繰り返し「主役のイメージ」を懸念する声が入っている、と。優は小さく息を吐いた。(やはりな……)次のページ。相沢玲奈。複数の匿名アカウントとの接触履歴。週刊誌記者との不自然な接近。直接的な証拠はない。だが、噂の火元の近くに、必ず彼女の影がある。そして——黒崎俊哉。記事に対して、否定も肯定もしない。沈黙。だが、この場合の沈黙は、世間にとって肯定とほぼ同義だった。優は報告書を閉じた。構図は単純だ。美緒の父がスポンサーとして圧力をかける。玲奈が噂を拡散する。俊哉が沈黙し、過去を“事実らしく”見せる。誰か一人の暴走ではない。意図的に作られた流れだ。そのとき、優の胸の奥に、静かな熱が灯った。怒りだった。だがそれは、激情とは程遠い。表情には一切出ない、深く沈んだ怒り。グラスの水に手を伸ばし、一口飲む。(くだらないことをする……)才能のある女優を、こんなやり方で追い詰めるなど。優の脳裏に浮かんだのは、現場での久遠ひかるの姿だった。カメラが回れば、空気を変える。どれほど騒ぎがあっても、芝居には一切持ち込まない。弱さを見せない強さ。——だからこそ、余計に腹が立つ。そこへ、静かな足音が近づいた。「優さん?」顔を上げると、そこにひかるが立っていた。仕事帰りなのだろう、ラフな装いだったが、それでも目を引く存在感がある。「偶然ね」「本当にな。座るか?」ひかるは微笑み、向かいの席に腰を下ろした。「ここ、よく来るんですか?」「考え事をしたいときだけだ」その言葉に、ひかるは少しだけ首を傾げたが、それ以上は踏み込まなかった。ウェイターが水を置く。短い沈黙。やがて優が口を開いた。
「本当に勉強になります。ひかるさんの背中を見ているだけで、毎日が刺激的で……」柔らかな笑顔を浮かべながら、結城美緒は取材記者にそう答えた。スタジオの一角に設けられた簡易インタビュースペース。ドラマ『誰よりも、君だけを』の注目度が上がるにつれ、こうした合同取材も増えていた。記者は満足そうに頷く。「現場の雰囲気も良さそうですね」「はい。緊張感はありますけど、とても温かいです。特に久遠ひかるさんは、やっぱりすごい方だなって。私なんて、まだまだ足元にも及びません」謙虚な言葉。非の打ち所のない受け答え。少し離れた場所でその様子を見ていたスタッフが、小声で言った。「できた子だよな……新人とは思えない」その評価は、決して間違いではなかった。——表向きは。取材が終わり、記者たちが立ち去ると、美緒はふっと息を吐いた。張り付けていた笑顔が、静かに消える。マネージャーが近づいてくる。「完璧でしたよ。さすがです」「当たり前です」美緒は淡々と答えた。だが、その瞳には強い光が宿っている。「……で?」短く促す。マネージャーは周囲を確認し、声を落とした。「スポンサー側には、もう一度伝えてあります。視聴者のイメージを考えるなら、“主役の再検討も必要ではないか”と」美緒は小さく頷いた。驚きはない。すべて、予定通り。「父は何て?」「強くは出ません。ただ、“企業イメージに関わる”という形で圧をかけるそうです。制作側も無視はできないかと」そこで初めて、美緒の口元がわずかに緩んだ。だが、それは勝利の笑みではない。まだ途中だと分かっている者の、冷静な表情だった。「焦る必要はありません。撮影が進めば進むほど、リスクは嫌われますから」主役にスキャンダルがある——その構図が制作の不安になればいい。降板までいかなくてもいい。出番が減るだけでもいい。空いた場所には、必ず誰かが入る。その“誰か”になる準備を、美緒はずっと前からしてきた。ふと、視線を上げる。遠くで、久遠ひかるがスタッフと談笑していた。自然に人が集まる。現場の中心にいる。その光景を見つめながら、美緒は静かに思う。(……悔しい)胸の奥にあるのは、単純な嫉妬ではない。幼い頃から、ずっと知っていたのだ。この世界がどれほど残酷か。美緒の家は裕福だった。だが、父は厳しい人物で、何度もこ
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直