All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 1 - Chapter 8

8 Chapters

第1話 空気みたいな女

――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられない。何を言えばいいのか、分からなかった。三年前。俊哉にプロポーズされた日のことを、思い出していた。『お前となら、普通の幸せが欲しい』そう言って笑った男は、今、目の前にいる男と本当に同じ人間なのだろうか。「お前さ、自分が“一番”だって、まだ思ってる?」意味を考える間もなく、背後から女の笑い声がした。「ふふ……ひどい言い方」ゆっくりと視線を向ける。そこに立っていたのは、相沢玲奈(あいざわれな)だった。今日、初めてこの家に入ってきた女。背が高く、細い体つき。よく手入れされた髪。上品な香水の香り。余裕のある立ち居振る舞い。派手ではない。けれど、自分が“選ばれる側”だと知っている人間だけが持つ空気をまとっていた。対して、久遠ひかる(くどうひかる)は、すっぴんで、色褪せた部屋着。今日は朝から熱があった。けれど俊哉は帰宅するなり、「飯は?」としか言わなかった。鏡を見なくても分かる。この場において、ひかるは完全に“場違い”だった。玲奈はリビングを見回しながら、上品に微笑む。「素敵なお家ですね」その言葉に、ひかるの胸が小さく痛んだ。この部屋のカーテンを選んだのは自分だった。ソファも、食器棚も、ダイニングテーブルも。少しずつ貯金して、二人で揃えた。幸せになりたかった。ただ、それだけだったのに。「紹介するよ。玲奈だ。これから一緒に住む」当然のように告げられ、言葉を失う。一瞬、意味が理解できなかった。「……どういう、意味?」やっとの思いで問い返すと、俊哉は苛立ったように眉をひそめた。「そのまんまだよ。察しろ。お前、もう女とし
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第2話 物置部屋の夜

次の瞬間、頬に衝撃が走った。「口答えするな!!」視界が揺れ、体が傾く。床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。鈍い痛みが走る。けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。「お前さ、最近調子乗ってるよな?」「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」怒鳴り声が、耳の奥で反響する。昔は、こんな人じゃなかった。少なくとも、ひかるはそう信じていた。仕事で失敗して落ち込んでいた夜、「お前がいてくれるだけでいい」そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、「風邪引くなよ」と肩を抱いてくれた人だった。でも。その優しさは、いつの間にか消えていた。倒れかけたひかるを見て、玲奈が小さく息を吐いた。「ごめんなさいね……」その声音は申し訳なさそうなのに、目だけは少しも謝っていなかった。「婚約者がいるって、知ってたんだけど……」意味ありげに俊哉を見上げ、玲奈は続ける。「でも……運命の人に出会ってしまったの」潤んだ目でそう言う玲奈を見て、俊哉は優しく肩を抱き寄せた。さっきまで怒鳴っていた男とは思えないほど甘い顔だった。「玲奈……お前は本当にかわいいな」その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。ああ。もう、終わっているんだ。自分は最初から負けていたのだと、ようやく理解した。そして俊哉は、冷え切った目でひかるを見る。「お前の部屋は、玲奈に譲れ」「さっさと荷物を運び出せ」腕を強く引かれ、体がよろめく。骨が軋むほど痛い。「私に、どこへ……」かすれた声で抗議しようとすると、「家政婦は物置に決まってるだろ!!」怒鳴り声と同時に、再び小突かれた。ひかるは何も言えなかった。言い返したところで、また殴られるだけだと知っていたから。床に倒れたひかるは、ゆっくり立ち上がる。寝室へ向かう足取りは、自分のものではないみたいに重かった。部屋へ入ると、そこにはまだ、自分の匂いが残っていた。俊哉と並んで眠ったベッド。休日に映画を観た夜。熱を出した俊哉を看病した夜。将来の話をした夜。全部、この部屋だった。なのに今は、他人の女へ明け渡す場所になってしまった。クローゼットを開ける。けれど、自分の荷物は驚くほど少なかった。数枚の洋服。洗面道具。古びたポーチ。それだけ。三年間一緒に暮らして、自
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第3話 出会いの記憶

黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。派手な服も、化粧もせず、ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。古くて、薄暗い雑居ビル。廊下の電灯はところどころ切れ、昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。男性用便器を黙々と拭いていたとき、背後から、気まずそうな声がした。「……あの、すみません」「お借りしてもいいですか?」振り返ると、スーツ姿の男が、困ったように立っていた。それが、黒崎俊哉だった。「すぐ終わりますので……」そう言って、私は道具を片付け、外に出た。用を足している間、私はトイレの前で、じっと待っていた。今思えば、それだけのことだった。けれど、俊哉はそれを「律儀だ」と言った。「ありがとう」「こんな若いのに、大変だね」その日から、何度か顔を合わせるようになった。気がつけば、「よかったら、うちで働かない?」そんな言葉をかけられていた。事務員の仕事は、清掃よりずっと楽で、何より、人に気を遣われることがなかった。ひかるは、静かにそこで働き始めた。仕事帰りに食事をするようになり、いつの間にか、付き合うようになっていた。二年後、俊哉はプロポーズした。「一緒に生きていこう」その言葉を、私は疑わなかった。一緒に住み始めてから、俊哉の会社は、目に見えて大きくなった。仕事が増え、収益が上がり、やがて彼は、郊外に大きな家を建てた。「家のことは、ひかるがやってくれればいい」私は、それでいいと思った。役に立てるなら、それで。けれど―― いつからだっただろう。俊哉が、夜、帰らなくなったのは。携帯を伏せて置くようになったのは。問い詰めると、殴られた。「疑うな」「余計なことを言うな」それでも、私は耐えた
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第4話 代わりが来ただけ

朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直す。お前、無駄遣い多いから」「私、何も――」言いかけた瞬間、玲奈が口を挟む。「でも、家政婦って、時間余りますよね? 何してるんですか? 一日中」くすくすと笑いながら。「もしかして、愛されてるつもりだったとか?」俊哉が笑った。「それ、面白いな」笑い声が重なる。私だけが、笑っていない。「なあ、ひかる。お前って、何の取り柄もないよな」その言葉が、胸に深く刺さった。「顔も普通以下。愛嬌もなし」「金も稼げない」「だからさ、代わりが来ただけだ」その日の午後、私はクレジットカードが使えないことを知った。スマートフォンの画面に表示された、無機質なエラー。「口座、止めたから」「逃げられたら困るだろ?」俊哉は、そう言って笑った。逃げる――そんな考えすら、持つ資格がないと、言われているようだった。結局、私は、俊哉に愛されていたわけではなかったようだ。今さらにして、気づいてしまった。考えてみたら、俊哉と出会って四年。色々なことがあったが、俊哉の態度が、目に見えて酷くなったのは、俊哉の経営する、《Kurosaki Creative Works》という、広告制作会社が軌道に乗ってからだった。軌道に乗る前は、ひかるも事務員として、このKurosaki Creative Worksで働いていた。そこで愛を育み、俊哉からプロポーズされた。しかし、軌道に乗り、忙しくなり、俊哉がこの大きな家を購入してから、「ひかるには家を守って欲しい」と言われ、家事一切を任された。買い物に使えるお金は、俊哉が決めた額を、カードに入金してくれるだけ。「会社が軌道に乗ったといっ
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第5話 価値のない女

その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、玲奈のブランドバッグ。テーブルには飲みかけのカフェラテ。昨日までなかった香水の匂いが、この家に染みつき始めている。私は黙ったまま、床を拭き続けた。すると、カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。ゆっくり顔を上げると、相沢玲奈が立っていた。腕を組み、私を見下ろしている。「……ねえ」その声音は柔らかいのに、どこか人を試すようだった。「そこ、ちゃんと掃除して。私、埃アレルギーなの。」「……はい」返事をすると、彼女は満足そうに笑った。「素直で助かります。そういうところ、使いやすくて」“使う”。その言葉が、胸に残る。まるで私は、人間じゃなく道具みたいだった。けれど、玲奈はそんなこと気にも留めない。私の横を通り過ぎ、ソファへ腰掛けると、スマホを操作しながら言った。「でも、元々こういうこと向いてたんじゃないですか?」「家庭的っていうか……他に取り柄なさそうだし」返す言葉はなかった。悔しいのに、何も言えない。言い返したところで、また惨めになるだけだと分かっていたから。昼過ぎ。玄関のドアが開く音がした。黒崎俊哉が帰ってきたのだ。今日は珍しく機嫌が良さそうだった。ネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた俊哉は、私を見るなり口を開く。「聞いたぞ」心臓が小さく跳ねる。「お前、ちゃんと掃除してるらしいな」一瞬だけ、胸の奥に小さな期待が生まれた。褒められたのかもしれない、と。けれど。彼はすぐに笑った。「玲奈が言ってたぞ。“元カノさん、家政婦としては優秀”って」元カノさん。その一言で、心臓が強く跳ねた。まるで、自分の存在を勝手に書き
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第6話 ここから出る

「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。責められているのは自分なのに、なぜか加害者扱いされる。そんな理不尽さに、胸の奥が重く沈む。「自分が選ばれなかっただけなのに」玲奈はワイングラスを揺らしながら言った。その仕草は勝者の余裕そのものだった。「努力もしなかったくせに」努力――その言葉が、心の奥で小さく反発した。私は、何もしてこなかったわけじゃない。俊哉が仕事で疲れて帰れば支えた。帰宅が深夜になれば、温かい食事を用意して待っていた。眠れない夜は、隣で背中をさすった。風邪を引けば看病した。仕事で失敗した日には、何も聞かずに寄り添った。生活費を抑えるために節約もした。自分の服を買うのを我慢しても、俊哉のためならと思っていた。美容院へ行く回数も減らした。化粧品も安いものに変えた。そうして浮いたお金で、二人の生活を守ろうとしてきた。ずっと、この人のために生きてきた。俊哉の幸せが、自分の幸せだと思っていた。ただ、それを評価する人が、ここにはいないだけだ。どれだけ尽くしても。どれだけ愛しても。価値がないと決めつけられれば、それで終わりだった。私は何も言わなかった。言い返したところで、また傷つくだけだと知っていたから。黙っていることが、今の私にできる唯一の防御だった。食後。私は黙って洗い物をしていた。蛇口から流れる水は冷たい。スポンジを握る手も冷え切っていた。食器が触れ合う小さな音だけが、静かなキッチンに響く。背後では二人の笑い声。楽しそうな声。その声を聞くたびに胸が痛んだ。けれど、表情には出さない。出したところで喜ばせるだけだから。水の冷たさだけが現実だった
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第7話 見せつける夜

夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きなんだよね」玲奈が甘えた声で言う。その声は、恋人だけに向ける柔らかさを含んでいた。「昔の女優って、今より色気あるよな」俊哉が、彼女の肩に顔を埋めながら答えた。玲奈は小さく笑う。「分かる。今って、綺麗なだけの人多いですよね」「色気って、余裕なんだろうな」そんな会話を交わしながら、二人は自然に触れ合っている。以前、あの場所に座っていたのは自分だった。映画を観ながら、俊哉の肩に寄りかかった夜もあった。「お前といると落ち着く」そう言われたことも、一度だけじゃない。なのに。今、その記憶はまるで別人の人生みたいだった。私は、部屋の隅に立っていた。洗濯物を畳み終え、行き場を失ったまま。乾いたタオルを抱えたまま、ただ立ち尽くしている。視界に入らないように、気配を消しているつもりだった。空気みたいに。存在を薄く、薄くしていれば、少しは傷つかずに済む気がしたから。けれど――「ひかる」俊哉が、私を呼んだ。肩がびくりと揺れる。「飲み物、取ってこい。玲奈が喉乾いたって」命令する声。そこには、かつて恋人へ向けていた優しさは一切なかった。玲奈が、ちらりと私を見る。「あ、ごめんなさい。いるの、気づきませんでした。……影みたい」その口調は丁寧なのに、目は笑っていなかった。むしろ、楽しんでいるように見えた。私が傷つく瞬間を。キッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける手が、少し震えていた。グラスに氷を入れる音だけが妙に大きく響く。背中に、二人の視線が突き刺さるのを感じる。試されているようだった。どこまで耐えられるのか。どこまで壊れずにいられるのか。
last updateLast Updated : 2026-06-07
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第8話 初恋の影

黒崎俊哉と相沢玲奈は、ひかるが壁沿いに一歩、また一歩と退いた瞬間から、まるで合図でもあったかのように、映画そっちのけでキスをし始めた。深く、長く、いやらしく舌を絡ませる。静かな映画音楽に混じって、唇が重なる湿った音が、やけに大きくリビングへ響いた。俊哉の腕は、ためらいなく玲奈の背中を抱き寄せる。まるで、自分のものだと誇示するように。玲奈もそれに応えるように身体を密着させ、細い指を俊哉の髪へ絡めながら、小さく吐息を漏らした。ソファがわずかに軋む。その音さえ、ひかるの胸を削るようだった。そして時折、――ちらり。玲奈の視線が、ひかるの方へ這う。その目に浮かんでいる感情は、はっきりしていた。「羨ましいでしょ」そう言葉にしなくても、十分すぎるほど伝わってくる。勝者だけが浮かべる、余裕の笑み。自分は選ばれ、ひかるは捨てられた。その事実を、何度も見せつけるように。耐えきれず、久遠ひかるは顔を背け、壁の方へ向いた。視界から消してしまえば、少しは楽になると思った。見なければ、傷つかないと思った。けれど、耳は塞げない。押し殺した吐息。小さな笑い声。唇が触れ合う音。全部、壁越しではなく、すぐ後ろから聞こえてくる。まるで、「逃げるな」と言われているみたいだった。そのときだった。リビングに流れ始めた、懐かしい旋律。低く、静かで、それでいて胸の奥を震わせる音楽。ほんの数秒。それだけで、ひかるの呼吸が止まった。続いて、女優の声が響く。――先ほどまでの古い映画が終わり、来週放映予定の映画の予告だった。ひかるは、はっとして振り返った。キスを続けている俊哉と玲奈の、肩越しに。テレビの画面を、食い入るように凝視する。画面の中で、女優が微笑んでいた。柔らかな照明の中で、どこか儚げに。けれど、強く。その笑顔を見た瞬間、ひかるの胸の奥で、何かが大きく揺れた。忘れたはずの感情。遠い昔へ押し込めた記憶。俊哉も気づいたのだろう。ふっと動きを止め、玲奈から離れる。「あ、この女優好きだったんだよな。なんて言ったっけ……忘れたけど。俺が20歳くらいのとき、いろんな映画とかに出ててさ。こんな子と付き合えたらいいな~なんてさ」無邪気とも言える口調だった。先ほどまで、ひかるを傷つける言葉を平然と吐いていた男とは思
last updateLast Updated : 2026-06-08
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