로그인浩二が私を訪ねてきたのは、半月後だった。彼はプロジェクト拠点の門の外で、風に乱れた白いバラの花束を抱えていた。私の姿を見るなり、目を赤くする。「美幸。望とは、もう話をつけた。これからは、あの子に関わらない。結婚式の日は俺が悪かった。君を1人であそこに置き去りにするべきじゃなかった」私は彼を見つめながら、ずっと昔のことを思い出した。浩二が私にプロポーズした日も、雨だった。あのとき彼は言った。「美幸、これから雨の日は、俺が必ず迎えに行く」その後も何度も雨は降った。けれど彼が迎えに来たことは、一度もなかった。私は何も言わず、浩二の横を通り過ぎる。彼は慌てて私の前へ回り込んだ。「今、君が俺を憎んでるのは分かってる。もう一度だけチャンスをくれ。ちゃんと償う」私は足を止めた。「浩二。私がどうして、あなたを憎んでいないか分かる?」彼は息をのむ。私は静かに続けた。「憎む価値もないから」浩二の顔から、一瞬で血の気が引いた。「美幸……」そのとき、後ろから仁が歩いてきた。手には、私の会議資料を持っている。仁は何も言わず、ただ私の肩にコートを掛けた。風が強かった。抜糸したばかりの傷を、冷たい風にさらすわけにはいかない。その仕草を見つめる浩二の目から、少しずつ光が消えていった。「2人は……」私は説明しなかった。説明する必要もなかった。ただ浩二を見て言った。「帰って。もう私のところに来ないで。あなたが来るたびに思い出すから。水たまりに倒れた私を置いて、望を抱いて去っていったあなたの姿を」浩二の目が、完全に赤くなった。手にしていたバラが地面に落ち、風に吹かれて散っていった。私は背を向け、そのまま中へ入った。後ろから、押し殺した泣き声が聞こえたが、もう足を止めることはなかった。浩二が再び私の前に現れることはなかった。けれど、その後も母は何度も訪ねてきた。以前のように無理やり入ろうとはしなかった。ただ、拠点の外で待っていた。警備員から聞いた話では、弁当を持ってくる日もあったらしい。私の子どもの頃の写真を抱えて来た日もあったという。一度は、雨の中で3時間待ち続けたこともあったそうだ。そのたびに警備員から、会うかどうか確認の電話が入った。
母がプロジェクト拠点まで追いかけてきたのは、それから1週間後だった。その日、私は初めての合同検討会を終えたばかりだった。会議室の外では、強い風が吹き荒れていた。母は廊下の突き当たりに立ち、あの古い診療記録を握りしめていた。私を見つけると、2歩ほど近づいてきた。初めて、いつものように強く名前を呼ばなかった。かすれるような声で、そっと呼んだ。「みーちゃん」私は足を止めた。あまりにも聞き慣れない呼び方だった。一瞬、自分が呼ばれたのだと分からなかったほどに。母の目は真っ赤に充血し、急に何年も老けたように見えた。「お母さん、調べたの。あの資料室の件は、望が自分で入ったのね。あなたの腕の傷も……望を助けるためだった」私は静かに母を見た。「うん」その平静さが、かえって母を傷つけたらしい。突然、母の目から涙がこぼれた。「ごめんなさい。お母さん、知らなかったの」私は小さく笑った。「お母さんが知らないことは、ほかにもたくさんあるよ。10歳の高熱を出したとき、病院まで背負って連れていってくれたのは、近所のおばさんだった。大学入試の日は、雨の中を4キロも歩いた。お母さんが、望の猫を病院へ連れていくために車を使ったから。結婚式の日も、7回目の電話をかけた頃には、もう泣くことさえできなくなってた」母の涙が、次々と頬を伝う。「もうやめて……」それでも私は止めなかった。「お母さんは、若くして気象予報部門の幹部になった人でしょう。72時間後に来る台風だって予測できる。でも、27年間ずっと私が目の前にいたのに、私の心に雨雲が広がっていたことには、一度も気づかなかった」母は口元を押さえ、肩を激しく震わせた。母がここまで取り乱す姿を見たのは、初めてだった。これまでの母は、いつだって冷静で、理性的だった。誰の感情も、都合のいい形に整理できる人だった。けれど今の母は、遅すぎた真実に、ようやく打ち砕かれたように見えた。母は私の頬に触れようと、手を伸ばした。私は一歩下がった。母の手が、宙で止まる。「みーちゃん、お母さんと家に帰ろう?お母さん、これからは変わるから。望には、きちんと謝らせる。浩二さんとの結婚のことだって、もう無理に押しつけたりしない。プロジェクトを続けたいなら、お母さん
私が離れて3日後、望がライブ配信を始めた。目を赤くしたままカメラの前に座り、声を詰まらせながら話している。「お姉ちゃんがケガをして、本当に心配しています。でも、誤解でお母さんや浩二さんまで傷つけるのはやめてほしいです。お姉ちゃんは昔から思い込みが激しくて……家族を大切に思うあまり、つい感情的になってしまっただけなんです」その動画は、瞬く間にトレンド入りした。コメント欄では、望を責める声と私を責める声が真っ二つに分かれていた。結婚式の日に、わざと騒ぎを大きくした腹黒い女。妹を妬み、実の母親まで追い詰めた女。プロジェクト拠点の宿舎でスマホ画面を見つめる私の指先は、氷のように冷たかった。仁が私のスマホを取り上げる。「もう見るな」私は顔を上げた。「平気だから」仁は、その嘘を責めなかった。ただ、1枚の書類を机の上に置いた。「君のお母さんについて、職場で内部調査が始まった」私はわずかに目を見開いた。「君が精神的に不安定な状態にあるとして、海外派遣の適性を産業医に再確認させようとしていたことが、局の上層部に伝わったらしい。自分の立場を利用して、人事や産業医を動かせるとほのめかし、海外派遣を諦めるよう君にプレッシャーをかけたことだ。病院側への聞き取りの中で、あの申入書の存在も明らかになった。プロジェクトチームからも、君の勤務状況と当時の経緯を正式に提出した」私は何も言わなかった。仁は少し間を置いて、続けた。「それと、もう一つある」彼は、さらに古い診療記録を私の前へ置いた。紙は黄ばみ、端が反り返っている。そこに書かれた日付を見た瞬間、指先がこわばった。15年前。望が初めて喘息の発作を起こした日だった。母はずっと、私が望を雨の中へ連れ出し、体を冷やしたせいで喘息になったと思っていた。それは、母が望だけを特別扱いする、最も都合のいい理由になった。母は何度も言った。「妹は体が弱いのに、お姉さんのあなたがちゃんと見ていなかったからよ」「あなたは望に償わなければならないの」私は15年、償い続けてきた。けれど診療記録には、はっきり書かれていた。【患児は気象台の旧資料室に誤って立ち入り、カビを含む粉じんおよび洗浄剤の揮発成分を吸入したことが誘因となり、急性喘息発作
退院の日、私は誰にも知らせなかった。仁は退院手続きを済ませ、大きめのトレンチコートを私の肩にそっとかけてくれた。病院の玄関には、見覚えのある車が停まっていた。乗り込もうとしたとき、階段の下に母が立っているのが見えた。いつものグレーのスーツを着て、髪も乱れひとつない。それなのに、目の下には濃い隈が浮かんでいた。私を見るなり、母は言った。「家に帰るわよ」私は足を止めた。仁が静かに私の隣へ立った。母は彼を一瞥し、硬い声で言った。「私は娘と話しているの」私は静かに答えた。「あなたの娘なら、家にいるでしょ。望っていう名前だよ」その一言に、母の表情がわずかに揺れた。「美幸……どうしてそんな言い方しかできないの?」私は母を見つめ返す。「じゃあ、どう言えばよかったの?今までみたいに、『平気だよ』って?『痛くない』って?『私が我慢する』って?」母の唇が、わずかに青ざめた。それでも、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。「望には確認したわ。あの子は警備員にあなたを突き飛ばすよう指示なんてしていない。あの映像だけでは何も証明できない」私は小さくうなずいた。「それで?結局、お母さんは私が勝手に転んだと思ってるんだ」母は黙った。その一瞬の沈黙で、私の心は、完全に冷え切った。私はバッグから、古びたブリキの箱を取り出した。退院前に、親友の花村檀(はなむら まゆみ)に頼んで桐谷家から持ってきてもらったものだった。中には、私が子どもの頃から大切にしまっていた物が入っている。賞状、写真、古い診断書。そして、ひびの入った子ども用の腕時計。私はその腕時計を母に差し出した。「これ、覚えてる?」母は眉をひそめた。覚えていない。私は自分で答えた。「12歳のとき、腕を骨折して、先生に連れられて病院へ行った。あの日、診察が終わってからも、お母さんをずっと待ってたの。6時から、9時半まで。秒針が少しでも速く進めば、お母さんは私が痛みに耐えられなくなる前に迎えに来てくれるって、本気で思ってた」私は少し笑った。「でも、お母さんが来たときには、手に望の優勝トロフィーを抱えてた」母の指先が、かすかに震えた。私はもう1枚、診断書を取り出した。「14歳のとき、急性胃腸炎で入院
弁護士は、ほどなくして病室へやって来た。弁護士が分籍届と数枚の書類をベッド脇のテーブルに置いたとき、母はちょうど、病室の入り口に立っていた。きっと母は、一度だって想像したことがなかったのだろう。私が他人を間に立たせ、自分を病室へ入れない日が来るなんて。まして、「縁を切る」という意思を、本気で目の前に突きつける日が来るなんて。母は書類へ視線を落とし、その表情を少しずつ曇らせていく。「美幸、自分が何をしようとしているのか、本当に分かっているの?」私は枕にもたれたまま、額の冷却シートにそっと触れた。「わかってる。あなたたちを、望に返すだけ」その一言が、母の神経を逆なでした。目つきが一気に冷たくなる。「そんな言い方しかできないの?」私は静かに母を見つめた。この人にとっては、私が去ることさえ、冷酷な仕打ちに映るらしい。弁護士が小さく咳払いをした。「桐谷美幸(きりたに みゆき)さんは、すでに成人されています。分籍や住民票の異動など、親御さんと生活上の関係を切り離すための手続きは、ご本人の意思で進めることができます。ただし、分籍しても、実の親子関係そのものが法的に解消されるわけではありません。今後、ご本人への直接の連絡や、仕事、私生活への干渉を望まないという意思を、私から正式に通知することはできます。また、ご家族への病状説明や面会を望まないという意思を、病院側に伝えることも可能です」母は鼻で笑った。「この子の今があるのは、全部私が与えたものよ。私がいなければ、気象学なんて学べなかった。プロジェクトにも入れなかった。今のキャリアだって築けなかったはずよ」私はゆっくり首を横に振った。「お母さん、勘違いしてるよ。私が気象学を志望したのは、お母さんの背中を追いたかったからじゃない。天気が分かるようになれば、どうしてお母さんは一度も私を振り返ってくれないのか、その理由も分かるかもしれないって思ったから」病室が静まり返る。母の唇が、わずかに震えた。だが、そのとき、廊下の向こうから望の泣き声が響く。「お母さん……本当にわざとじゃなかったの……お姉ちゃんがケガしたのも、私のせいじゃないの……」母は反射的に振り返った。母が迷わず望へ向かおうとする姿を見ても、私はもう何も感じなかった。驚き
病室の空気が、一瞬で変わった。その瞬間。誰かが私の名前を呼ぶ声が聞こえた。「美幸!」誰かが駆け寄り、倒れた私をそっと抱き上げる。目を開けようとした。でも、まぶたは鉛のように重い。耳元では、いくつもの声が入り乱れていた。最初に響いたのは、母の怒鳴り声だった。「勝手に入ってこないで!これは私たちの家族の問題です!」仁の腕が震えていた。それでも、その声は落ち着いていた。「家族の問題?看護師から聞きました。脚の縫合した傷まで開いている患者に、鎮静剤まで使わせようとしていたそうですね。それを家族の問題で済ませるつもりですか?」母は冷たく言った。「私はこの子の母親です」仁は、呆れたように小さく笑った。「申し訳ないけど、ここは病院です。あなたの職場でもなければ、望さんの配信スタジオでもありません」その一言で、病室が水を打ったように静まり返った。続いて、制服姿の警察官たちが病室へ入ってきた。そのうちの1人が警察手帳を示した。「通報を受けて来ました。患者さんの行動を不当に制限した疑いがあるとのことです。関係者の皆さん、お話を伺います」母の表情が初めて変わる。「通報……?」母は仁をにらみつけた。「あなた……私を警察に通報したの?」仁は答えなかった。ただ私を抱く腕にそっと力を込め、顔を寄せると、私にしか聞こえないほど低い声で言った。「美幸、眠るな。もう少しだけ頑張れ」もう無理なんだ。本当に、もう限界なんだ。そう伝えたかった。あの日だけじゃない。10歳の、高熱で苦しんだ日から、私はずっと、一人で耐え続けてきたのだから。お姉さんらしくいること。譲ること。泣かないこと。今日までずっと耐えてきて、とうとう限界だった。意識を失う直前、望の泣き声がさらに大きくなった。「お母さん……ごめんなさい……私、怖くて……」母はすぐに振り返った。足音が、私から遠ざかっていく。向かった先は、やっぱり望だった。私が目の前で意識を失いかけていても、母は最後まで、望を選んだ。暗闇に飲み込まれる寸前、私はかすかに笑った。心が死んでしまえば、痛みさえ、こんなにも軽くなるんだ。……次に目を覚ましたのは、2日後だった。病室は静まり返っている。白いカーテンが、