Masuk彼氏の江崎瑛人(えざき あきと)も私も耳は聞こえる。なのに、私たちは手話でしか会話をしない。 周りのみんなは言う。「瑛人って本当に優しいよね。聴覚障がい者の力になりたいから、自分から手話を覚えて、恋人まで付き合わせてるなんて」 でも、誰も知らない。彼がそこまでする理由は、たった一人のためだということを。 最初は、瑛人から徹底的に手話だけでやってみようって提案された。会話も、普段のやり取りも、できるかぎり声も文字も使わない。手話だけ。 ある日、大雨の中で足止めされ、私はスマホで【迎えに来て】とメッセージを送る。 返ってきたのは、【ビデオ通話で手話を使え】という一言だけ。 慣れない私は、ぎこちなく手を動かす。それを見て、あっさり通話を切られる。 結局びしょ濡れで家まで帰って、夜には熱が40度近くまで上がる。 苦しくて、「お願い、病院に連れて行って」と声を振り絞ると、瑛人は何も言わずに私を見つめる。 手話で――そう言いたげに視線だけを向けてくる。 熱で意識も朦朧として、腕すら持ち上がらない。彼は二秒だけ待つと、何事もなかったように背を向けて眠ってしまう。 そして私は、ようやく覚える。 昔の古傷が痛み出した日、冷や汗を流しながら、震える指で必死に伝える。 [お腹が痛い。病院へ連れて行って] 瑛人は満足そうに笑って、私の頬をつまむ。 [上手になったね。でも今日は実音と美術展に行く約束なんだ。少し我慢して] 花井実音(はない みお)――瑛人がボランティア活動で知り合った、聴覚障がいのある女の子だ。 痛みに耐えきれず、私は思わず声を漏らす。 それでも彼は眉ひとつ動かさない。 [わからない。手話で話せ] その瞬間、涙があふれた。 彼は私に手話を教えたかったわけじゃない。 ただ、私の声を聞きたくなかっただけなんだ。 でも、もういい。私は出ていく。 これからは、彼がどれだけ聞きたくても、私の声なんて二度と聞けないんだ。
Lihat lebih banyak瑛人の消息を再び耳にしたのは、それから半年後のことだった。その日、私はちょうど一つの修復作業を終えたところだった。作業台の上には、古代の粉彩磁器の小鉢が置かれている。細かなひび割れがいくつも走っていて、最後の一か所を綺麗につなぐまでに、丸一週間かかった。麗子は満足そうに頷く。「いいじゃない。あと数年も鍛えれば、叔母さんの仕事を奪われそうね」私は笑いながら、道具を片付ける。工房を出たところで、朔也が入口に立っているのが見える。手には保温バッグを持っていて、私を見ると、それをひらひらと掲げる。「仕事終わった?夕飯、持ってきた」私は目を瞬く。「また来たの?」「通り道だから」彼は、何の悪びれもなく答える。「それに、前に言ってたじゃん。修復作業に集中すると、いつもご飯食べるの忘れるって。胃が弱い人に、ちゃんとご飯を食べない権利はないよ」そう言って、保温バッグを私の腕に押しつけてくる。「早く食べて。午後ずっと作ってたんだから。蓮根とスペアリブのスープ」私は蓋を開けると、ふわっと湯気が立ち上る。「これ、朔也が作ったの?」朔也の耳が少し赤くなる。「うん……ネットで調べて。三回失敗したけど、今回はたぶん飲める」私は思わず笑いそうになる。そのとき、スマホが突然震える。国内の友人からメッセージが届いている。【遥、今すぐニュース見て】送られてきたリンクを開く。見慣れた名前が、突然視界に飛び込んでくる。あのとき出回った隠し撮り動画は、技術鑑定の結果、悪意のある編集が施されていたことが確認された。さらに、最初に動画を投稿したアカウントが、瑛人と関係していたことまで判明している。数か月間、静まり返っていたコメント欄が一気に燃え上がる。【え、まさかの大逆転?】【じゃあ、この子は聴覚障がいの女の子をいじめてなんかなかったってこと?】【急性胃穿孔で退院したばかりなのに酒を飲まされて、ネットで叩かれて、そのうえ彼氏に身代わりにされたってこと?】【こんな男、最低すぎるだろ……】次々と、当時の事情を知る人たちが声を上げ始める。誰かが、私の入院記録を公開する。誰かが、あの日の集まりにいた全員が、私が退院したばかりだと知っていたことを証言する。さらには、瑛人
ガラスのドアを押し開けた、その瞬間。私は誰かの胸にぶつかる。「わっ、ごめんなさい!」目の前の男の子が、顔を真っ赤にして慌てて謝る。「あっ」「あっ」私たちは、ほぼ同時に声を上げる。彼は小林朔也(こばやし さくや)、麗子の親友の息子で、今はこちらの大学に通っている。数日前、麗子と一緒に食事をしたときに知り合ったばかりだ。そのとき彼は、ある話をしていた。欲しい翡翠のお守りがある。でも、専門店で買うのは少し不安だし、偽物をつかまされるのも怖い。それを聞いた麗子が、「それなら遥に任せればいいわ」と、あっさり私に引き受けさせた。だから今日は、彼が欲しがっている翡翠のお守りを探しに出てきたところだった。「こんなところにいたんだ。よかったら、一緒にお守りを見に行かない?」私が声をかけると、朔也はすぐに頷く。「うん!」そう言うなり、コーヒーを取りに駆けていく。そのたびに、頭の上のくるくるした髪がぴょこぴょこと揺れる。私たちが並んで街を歩き始めた頃、そのすぐ近くのカフェでは、瑛人が一人で座っている。ガラス越しに、私たちの姿を見つめている。胸の中で、何度も自分に問いかける。どうして、これで終わりなんだ?どうして、遥を手放さなきゃいけない?でも、今こうなっているのは、全部自分のせいじゃないか。瑛斗はとうとうテーブルに突っ伏し、声を押し殺して泣き崩れる。遥が別の男と並んで歩いている姿を見て、胸が引き裂かれるように痛む。朔也は明るくて、話すのが好きなタイプだ。歩いている間も、途切れることなく話しかけてくる。私は楽しそうに耳を傾け、ときどき頷いたり、相槌を打ったりする。そんなとき、突然、朔也が足を止める。私は不思議に思って顔を上げる。彼は少し気まずそうに私を見る。「僕、ちょっと喋りすぎてない?もしかして、迷惑?」突然気まずそうにする朔也を見て、私は思わず笑ってしまう。「そんなことないよ!私、話すの大好きだから」安心したのか、朔也は少しずつ歩く速度を落としていく。気づけば、いつの間にか私の後ろに取り残されている。「どうしたの?行かないの?」私が振り返ると、朔也はハッと我に返ったように、大股で追いついてくる。「いや、遥が僕のことをうるさいって思ってないなら、それ
もう二度と瑛人に会うことはないと思っていた。シアトルの街角で、一か月ぶりに見る男が、私のもとへ走ってくる。瑛人は痩せていた。もともと整った顔立ちが、今はどこか鋭く見える。きちんと後ろへ流していた前髪も、今は乱れて額に落ちている。長い旅をしてきたのが、一目で分かる。私を見つけるなり、瑛人が手を伸ばしてくる。私は二歩、後ろへ下がり、その手を避ける。瑛人は、宙に残された自分の手を見る。そして、ゆっくり顔を上げ、私の顔を見つめる瞳に薄く涙が浮かぶ。「遥。会いたかったよ。俺を待ってるって言っただろ?」私は眉を寄せる。あのときそう言ったのは、瑛人を振り切って、空港へ向かうためだった。実際、こうして再会しても、何も言いたいことが浮かんでこない。憎しみすらない。もちろん、愛もない。すべてを手放してしまった今、残っているのはただ、静かな平穏だけ。私はまっすぐ瑛人の目を見る。「あのときは、嘘をついた。早く空港へ行かないと飛行機に間に合わなかったから、あなたを帰らせるためにそう言っただけ」瑛人は、長い間何も言わない。ただ私を見つめている。「一度、ちゃんと話さないか?」その目は、真剣だった。昔の私が、どれだけ願っても手に入らなかった話し合い、それを今になって、瑛人のほうから差し出してくる。「一時間だけ」コーヒーの香りが、少しずつ鼻をくすぐる。テーブルを挟んで向かいに座った瑛人は、落ち着かない様子で両手を何度も組み直している。そして、言った。「遥……お前、変わったな」もちろん、私は変わった。瑛人を、もう愛していない。「一か月、ビザが下りるのを待ってた。そうじゃなかったら、もっと早く会いに来てた。この一か月、いろんなことを考えた。それで、江の町に戻ったんだ」瑛人の声が、少し掠れる。江の町――私たちが高校時代を過ごした、小さな町。「あのイチョウの木を見つけた」私たちが恋人になった、あの木。十八歳の頃、二人で木の幹にイニシャルを刻んだ。私は、自分のペンダントを瑛人の首にかけた。あれから、もう八年。最初の五年間は、どれだけ忙しくても、時間を作って二人で江の町へ帰った。そして、あのイチョウの木を見に行った。でも、その後の三年間、瑛人は面倒くさがるよ
叔母の麗子はすぐに空港まで迎えに来てくれた。私の青白い顔と痩せ細った体を見ると、麗子は痛ましそうに涙をこぼし、私を力いっぱい抱きしめる。その腕の中で、私はようやく思う。私はもう、誰からも必要とされない子どもじゃない。幸せだったこと、嬉しかったこと、疲れたこと、苦しかったこと。全部がごちゃ混ぜになって、涙になって溢れ出す。私は麗子の胸の中で、すべてを吐き出す。麗子は数日間、仕事の予定を空けて私につきっきりでいてくれる。天気のいい日は、まるで本当の母娘みたいに、芝生の上を並んで歩く。心の奥に残っていた傷が、少しずつ塞がっていく。そんなある日、麗子が、ネットで瑛人が私について流していた噂を見つける。怒りのあまり、親指につけていた翡翠の指輪を握り潰しそうになる。「何なの、このクソガキ!うちの遥に、よくもこんなことを!」私は少し考えてから、瑛人がかつて私の命を救ってくれたことを麗子に話した。麗子は長い間、黙り込む。そして最後に、深いため息をつく。「人の心なんて、変わってしまうものなのね」二週間ほど心を休ませたあと、麗子は私を仕事に連れて行く。「自分で生きていける力さえ身につければ、誰かに見下されることなんてない。誰かと離れる勇気だって持てる」それは麗子がよく言う話だ。麗子が営んでいるのは、骨董品や美術品を扱う仕事である。私は昔から、この世界に興味がある。実は大学でも、文化財の修復を専攻していた。あの頃の夢は、考古学者になることだった。遺跡を掘って、土の中から文化財を見つけて、一つずつ泥を落とし、整理していく。以前、考古学関係の団体から声をかけてもらったこともある。でも、そこへ行けば国内外の調査で頻繁に出張することになる。当時の私は、馬鹿だった。「恋愛」のために、自分の夢を捨てた。今はこうして、文化財や美術品に関わる仕事をしている。形は違っても、夢を叶えているのかもしれない。最初はアシスタントから。毎日麗子のそばについて回りながら、一つずつ仕事を覚えていく。本当に、たくさんのことを学んでいる。かつて瑛人のそばにいた頃の私、自信をなくして、何をしても自分を責めてきた。嫌われないように、ひたすら相手の機嫌を取っていた。そんな日々は、もう遠い過去だ。今さら振り返る価値もない。一方、