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のちに煙雨すべて散りて

のちに煙雨すべて散りて

By:  桜庭 しおり(さくらば しおり)Completed
Language: Japanese
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氷川叶音(ひかわかのん)と高瀬陵(たかせりょう)の結婚三周年記念日。 彼はすべての友人たちを招き、盛大なパーティーを開いた。 だが、叶音が会場に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは—— 陵が片膝をつき、幼なじみの女性に指輪を差し出している光景だった。 沈んだ声で問い詰める叶音に、陵はただ苛立たしげに言い放った。 「ただの罰ゲームだ」 それから、ほどなくして。 彼は幼なじみを庇うため、自らの手で叶音を階段から突き落とした。 そして彼女は、お腹の子を失った。 その時、叶音はようやく目を覚ました。 かつて彼女は、陵に五度のチャンスを与えると決めていた。 しかし、その五度は、すでに全て終わっていた。 「陵、私たち、離婚しましょう」

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Chapter 1

第1話

氷川叶音(ひかわかのん)と高瀬陵(たかせりょう)の結婚三周年記念日。

彼は友人たちを招き、盛大なパーティーを開いた。

だが、叶音が会場に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは——

陵が片膝をつき、幼なじみである早見小夜(はやみさよ)に指輪を差し出している光景だった。

広々とした個室に、友人たちの歓声が沸き起こる。

「答えて!答えて!」

「キスだ、キスだ!陵、せっかくのチャンスだぞ。結婚してても小夜のことが好きなの、みんな知ってるんだから!」

「ちょっと、やめてよ!叶音さんに見られたら、まずいよ!」

小夜は恥ずかしそうに顔を伏せた。

「だって、叶音さん、今妊娠してるし……怒らせたらだめだよ」

「陵、ここでビビるな!これは罰ゲームだぞ!いいチャンスだ!キスしなきゃ!」

熱気に包まれた中で、陵は目の前の小夜に心を奪われ、そっと唇を寄せた。

その刹那——

「何をしているの?」

静かだが鋭い声が、扉の方から飛んできた。

場の空気が凍りつく。友人たちは慌てて取り繕い始めた。

「な、なんでもないよ、叶音さん!ただの遊びだから!」

「遊び?キス寸前で?」

冷えた声で問い返す叶音に、友人たちは視線を逸らしながら、次々と逃げ出した。

「俺、用事思い出したわ!」

「俺も……あ、あの、陵さん、叶音さん、結婚三周年おめでとう!」

あっという間に、室内は人気が消えた。

苛立ちを隠しきれない陵は、吐き捨てるように言った。

「もういいだろ。ただの罰ゲームだったんだ。そんなに怒る必要がある?」

叶音はそっと膨らみ始めたお腹に手を当て、その温もりを確かめるようにして、目の前の男を見つめた。胸の奥には、じわじわと失望が満ちていった。

妊娠三ヶ月。今日という日、彼がきっと特別なサプライズを用意してくれていると信じていた。

だが現実は——想像を遥かに裏切る、最悪の裏切りだった。

「陵さん、怒らないで。叶音さん、きっと誤解してるだけだよ」

小夜がお茶の入ったグラスを手に、そっと近づいてきた。

「叶音さん、本当にごめんなさい。さっきのはただのゲームだったんです。陵さんが私を好きだなんて、絶対に信じないでください。みんなの代わりに謝ります」

彼女は、友人たちが口にした言葉を、あたかも自然な会話の一部かのように織り交ぜながら、さりげなく強調した。

差し出されたお茶を見た叶音は、反射的にお腹をかばった。

その瞬間——

「きゃっ、痛い!」

小夜の悲鳴。

彼女は大げさに倒れ込み、熱いお茶が手にかかって、たちまち皮膚が赤く腫れ上がった。

陵は血相を変え、小夜を抱き上げた。

「小夜、大丈夫か!?」

「大丈夫……陵さん、叶音さんを責めないで。きっと、わざとじゃないから……」

叶音は、その光景を見て、思わず笑い出しそうになった。

本当に、見事な演技だった。

自分は彼女に一切触れてなどいなかったのに。

それなのに——

「叶音、自分が何をしたかわかってるのか?怒りを俺にぶつけるのは勝手だ、小夜にまで……!妊娠してるのにそんなことして、もしお腹の子に罰が降りたらどうするつもりだ!」

——この女を慰めるために、自分の子供まで呪うなんて。

言い捨てたあと、陵は小夜を抱き上げたまま、その場を後にしようとした。

叶音は二人の後を追い、階段を降りながら、陵の腕を掴んだ。

「ね、どこへ行くの?今日は私たちの結婚三周年よ。他の女を抱えて帰るつもり?」

「放せ!小夜に何かあったら、絶対に許さない!」

「何かって?ただの火傷でしょう?それに私は触ってもいない。彼女が勝手に転んだだけよ!」

必死に訴える叶音。

だが、陵は、微塵も彼女の言葉に耳を貸さなかった。

三年前も。

そして三年後の今も。

彼の心は変わらず、小夜に向いたままだった。

「まだ言い訳するのか!どけっ!」

怒声とともに、陵は叶音を強く突き飛ばした。

体勢を崩した叶音は——

重力に引かれるように、階段を転げ落ちていった。

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第1話
氷川叶音(ひかわかのん)と高瀬陵(たかせりょう)の結婚三周年記念日。彼は友人たちを招き、盛大なパーティーを開いた。だが、叶音が会場に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは——陵が片膝をつき、幼なじみである早見小夜(はやみさよ)に指輪を差し出している光景だった。広々とした個室に、友人たちの歓声が沸き起こる。「答えて!答えて!」「キスだ、キスだ!陵、せっかくのチャンスだぞ。結婚してても小夜のことが好きなの、みんな知ってるんだから!」「ちょっと、やめてよ!叶音さんに見られたら、まずいよ!」小夜は恥ずかしそうに顔を伏せた。「だって、叶音さん、今妊娠してるし……怒らせたらだめだよ」「陵、ここでビビるな!これは罰ゲームだぞ!いいチャンスだ!キスしなきゃ!」熱気に包まれた中で、陵は目の前の小夜に心を奪われ、そっと唇を寄せた。その刹那——「何をしているの?」静かだが鋭い声が、扉の方から飛んできた。場の空気が凍りつく。友人たちは慌てて取り繕い始めた。「な、なんでもないよ、叶音さん!ただの遊びだから!」「遊び?キス寸前で?」冷えた声で問い返す叶音に、友人たちは視線を逸らしながら、次々と逃げ出した。「俺、用事思い出したわ!」「俺も……あ、あの、陵さん、叶音さん、結婚三周年おめでとう!」あっという間に、室内は人気が消えた。苛立ちを隠しきれない陵は、吐き捨てるように言った。「もういいだろ。ただの罰ゲームだったんだ。そんなに怒る必要がある?」叶音はそっと膨らみ始めたお腹に手を当て、その温もりを確かめるようにして、目の前の男を見つめた。胸の奥には、じわじわと失望が満ちていった。妊娠三ヶ月。今日という日、彼がきっと特別なサプライズを用意してくれていると信じていた。だが現実は——想像を遥かに裏切る、最悪の裏切りだった。「陵さん、怒らないで。叶音さん、きっと誤解してるだけだよ」小夜がお茶の入ったグラスを手に、そっと近づいてきた。「叶音さん、本当にごめんなさい。さっきのはただのゲームだったんです。陵さんが私を好きだなんて、絶対に信じないでください。みんなの代わりに謝ります」彼女は、友人たちが口にした言葉を、あたかも自然な会話の一部かのように織り交ぜながら、さりげなく強調した。差
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第2話
激しい痛みが、叶音の身体を突き抜けた。彼女は、遠ざかっていく陵の背中に向かって、必死に叫んだ。「陵……行かないで……お腹が……!」陵は一瞬足を止めた。だが、その瞳に宿るのは、冷たい無関心だった。「叶音、俺は君の茶番に付き合っている暇なんてない。小夜は芸能人なんだ。もし手に傷でも残ったらどうする?君って、本当に、最低だな」そう吐き捨てると、陵は小夜を抱き寄せたまま、振り返ることなく立ち去った。遠ざかっていく彼の背中を、叶音は静かに見送った。胸の奥で、何かが音もなく崩れ落ちる。激しい痛みを堪えながら、彼女は掠れた声で周囲に助けを求めた。「たすけて……お願い……私の赤ちゃんを……!」脚の間から、熱い液体が流れ落ちる。鉄錆のような生臭い匂いが、空気に満ちる。視線を落とすと、そこには鮮やかな血の海が広がっていた。「いや……」絶望が波のように押し寄せ、涙が止めどなく溢れる。まだ守りたい。まだ、失いたくない。「お嬢さん、大丈夫ですか!?今すぐ救急車を呼びます!」誰かが駆け寄る声が聞こえた。救急車の中、叶音は意識が遠のく痛みに耐えながら、必死に医師にすがった。「先生、お願い……赤ちゃんを、助けて……三ヶ月なんです……まだ小さいんです……」「大丈夫です。必ず最善を尽くします。ご主人にもすぐ連絡を取ります!」医師は内心、胎児の救命は難しいと悟りつつも、目の前の彼女を傷つけまいと、優しく言葉を選んだ。電話をかけると、応答したのは女の声だった。「はい、なんですか?」「こちら救急隊です。高瀬叶音さんのご主人でしょうか?高瀬さんが大量出血されています。すぐに病院へ……!」しかし、返ってきたのは、冷えきった小夜の声だった。その頃、陵は小夜を病院に送り届け、支払い手続きをしている最中だった。携帯は小夜のバッグの中にあった。「ふふ……氷川叶音、あんたも必死ね。子供を使って、陵さんを取り戻そうなんて——無駄なことよ。三年前、私が留学していなければ、彼の妻は今ごろ私だったわ。最初から、彼が愛していたのは私よ。あんたなんか、勝負にすらならない」「お願いです、人命がかかっているんです!ご主人を……!」救急隊員の必死の声を背に、叶音は震える声でか懸命に呼びかけた。「早見さん……お
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第3話
「赤ちゃんのお父さんは?連絡して、呼びましょうか」医師の言葉に、叶音は一瞬瞬きをした。そして、力なく微笑みながら答えた。「お父さんなんて、いません」「そんなはずないでしょう」医師はカルテをめくりながら、首をかしげた。「結婚しているって記録にありますよね。旦那さん、いるんでしょう?でも妊婦健診、ずっと一人来ていたみたいですね。こんな大変なときにも、顔を出さないなんて……」その言葉を聞きながら、叶音はようやく気づいた。——そうだ。思い返せば、妊娠がわかってからの三か月間、彼は一度も検診に付き合ってくれなかった。最初に妊娠を伝えたとき、陵は確かに喜んでくれた。「初めてのエコー、一緒に行こう」と言ってくれた。けれど、その日——小夜が帰国した。小夜が戻ってきてから、陵の心はもう、叶音に向くことはなかった。検診の日には、「仕事だ」「用事だ」と言い訳をし、その裏で小夜に会っていたことも、叶音はうすうす気づいていた。でも、赤ちゃんのために、見ないふりをしてきた。それなのに、今——赤ちゃんさえ、いなくなった。もう、彼に傷つけられる理由は何一つない。離婚しよう。七年。追いかけ続けた七年間。もう、十分だ。「ご家族が来られないなら、入院手続きはご自身でお願いしますね」医師に促され、叶音は入院票を受け取った。ふらつきながらベッドを降りる。わずか数歩進んだところで、正面から陵と小夜が歩いてきた。陵は、小夜を気遣うように、そっと腕を支えていた。叶音を見つけた瞬間、彼は小夜をかばうように前に出た。「お前、ここまで追ってきたのか?小夜は手を怪我してるんだぞ。これ以上、何をするつもりだ!」その声と態度に、叶音の胸の奥がすうっと冷えた。「陵さん、そんな言い方しないで……叶音さんは、わざとじゃなかったんだから。きっと謝りに来てくれたんだよ」そう言って、小夜は陵にもたれかかるようにして、かすかに微笑んだ。「叶音さん、私は気にしてないから。だから、大丈夫だよ」「謝るなら、外で何か買ってきてやれ。小夜は手を怪我してるんだ。ちゃんと入院しないといけないんだから」陵が続けた。叶音は、ちらりと小夜の手を見た。ほんの少し赤くなっているだけ。それだけで、入院?じゃあ——お腹の子供を失った私は、どうすれば
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第4話
「何でもない」叶音は、手にしていた紙をそっとポケットにしまい、静かに歩き出した。背後から、陵の声が追いかけてくる。「お前、もうすぐ検診だろ?小夜の世話が落ち着いたら、迎えに行ってやるよ」その言葉に、叶音の足が止まった。止めようとしたのに、涙がぽたりと零れる。「……そのときに考える」そう答え、彼女はゆっくりと振り返った。「陵、五回のチャンス、もう全部使い切ったよ」「は?」陵は眉をひそめた。「そんなの冗談だろ?本気にするなよ。俺だって本気にしてない。小夜の手が治ったら、ちゃんとお前と赤ちゃんのところに戻るから」一瞬、彼の目に後ろめたさが浮かんだ。それでも、陵は小夜を支えたまま去っていた。彼らの背中が、遠ざかっていく。叶音は、心の中でそっと呟いた——陵、五回分のチャンスはもう終わり。これから先、もう、二度とあなたに傷つけられたりはしない。階段を降り、叶音はスマホを取り出して支払い手続きを始めた。列に並んでいる最中、ふらりと体が揺れ、危うく倒れそうになった。「大丈夫ですか?」近くにいた看護師が、慌てて支えてくれた。「顔色、すごく悪いですよ。どうして一人で支払いを?ご家族は?」「……ありがとうございます」叶音は、凍てついた心に、かすかな温もりを感じた。知らない誰かは、こうして心配してくれる。でも、彼には——彼には、小夜しか見えていなかった。叶音は、病院で三日間を過ごした。その間、陵から一度も連絡はなかった。きっと、彼は三日間、家にも戻らなかったのだろう。「高瀬さん、今日の診察で、退院できるかどうか決まりますね」担当医と数人の医師たちが、賑やかに病室にやってきた。診察の合間、聞こえてくる雑談。「ねえ、知ってる?あの有名な早見小夜が、うちの病院に入院してたんだって!」「火傷しただけでしょ?大した怪我でもないのに、やっと今日退院したらしいよ」「でもさ、付き添ってた男の人……めっちゃかっこよかったよね!彼氏なのかな?」「わかんないけど、すっごく優しかった〜!あんな彼氏、私も欲しい!」すべて、耳に入ってきた。可笑しな話だ。本来、高瀬陵の妻であるのは自分なのに。同じ病院にいながら、彼は三日間、別の女を付きっきりで看病していた。「高瀬さん、退院でき
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第5話
陵は、複数の不動産を所有していた。けれど、その中で叶音の名義になっている家は、たった一軒だけだった。その家は、すぐ隣の住宅街にある。妊娠がわかったとき、高瀬家の家族が彼女のために用意した贈り物だった。いま、彼と離婚を決意している——せめて、ここ数日は静かに過ごしたい。小夜も、陵も。もう、視界に入れたくなかった。だから、叶音は提案した。「隣の住宅街に空き家があるでしょう。早見さんに使ってもらえばいいんじゃない?」「……あそこは、お前の名義だろ」陵は眉をひそめた。いつもなら渋るはずの叶音が、こんなにあっさり譲ろうとすることに、わずかの違和感を覚えた。「必要なら、使ってもらって構わないわ」そう言い残し、叶音は踵を返して階段を上がろうとした。「粥、食べないのか?」背後からかけられた声に、彼女は一度だけ振り向いた。「いらない」叶音は、もともと海鮮が苦手だった。特に、海鮮を入れた粥は。寝起きに階段を降りると、リビングには誰の姿もなかった。そこにいたのは、後片付けをしている家政婦だけ。「奥さま、旦那さまと早見さまは、隣の住宅街の家に行かれましたよ」「……うん」ただ、それだけ。心の中には、何の感情も湧かなかった。しばらくして、陵から電話がかかってきた。「今夜は帰れない。小夜が暗いのを怖がるから、付き添ってやる」「わかった」あまりにも素直な返事に、電話の向こうで陵が一瞬だけ戸惑った。「ごめんな、叶音。小夜は子供みたいに怖がりで、夜ひとりじゃ眠れないんだ。だから今夜はここにいてやる。明日はお前の誕生日だろ?必ず帰るから」「うん」叶音は短く答え、通話を切った。静まり返った家の中で。彼女は、無言でリビングを見渡した。壁には、子供の写真やイラストがぎっしり貼られている。妊娠を願って、陵の母が飾ったものだった。妊娠しにくい体質の叶音は、長い間、漢方薬を飲み続け、ようやく子どもを授かったのだった。けれど今——その子は、もういない。そして、陵との離婚も、心に決めていた。ならば、これらの写真も、もはやここに存在する理由はない。叶音は脚立を取り出し、壁に貼られた絵や写真を、一枚一枚、無言で取り外していった。慌てた家政婦が駆け寄る。「奥さま、そんな高いところに登
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第6話
「どうして、あっちで少し休まなかったの?」叶音が尋ねると、陵は何気ない仕草でジャケットを脱ぎ、彼女に手渡した。「だって、あそこは俺の家じゃないしな。それに今日はお前の誕生日だろ。一緒に過ごすって、約束したから」叶音はジャケットを受け取った。ふわりと立ちのぼる、きつい香水の匂い。表情を変えずにそれをソファに置き、そっと、彼との間に距離を取った。「そういえば、次の検診っていつだっけ?」陵は歩み寄り、自然な仕草で彼女のお腹に手を添えた。「赤ちゃん、パパに会いたいかな?次はママと一緒に行くからな。そしたら会えるぞ、楽しみにしてろよ」嬉しそうに微笑むその顔を、叶音は静かに見つめた。胸の中を、冷たいものが静かに広がっていく。赤ちゃん?もう、どこにもいないのに。「来週の月曜日。空いてる?」「もちろん空ける。今度こそ、必ず一緒に行く」そう言いながら、陵は後ろから叶音を抱きしめた。「ごめんな、叶音。最近、お前のことを疎かにしてたのは認めるよ。でもさ、仕方なかったんだ。お前、嫉妬深すぎるんだ。俺と小夜は、お前が思っているような関係じゃない。ただの友達だよ。それに……こないだも、俺の友達の前であんなふうに怒鳴っただろ?あれじゃ、俺の面子も丸潰れだよな?」叶音は、背筋をぴんと伸ばしたまま、黙っていた。結婚して三年。その三年目の記念日に、彼は友人たちの前で、別の女に跪いた。面子を潰されたのは——いったい誰だったのか。なのに、陵は、それすらも理解していなかった。叶音が黙ったままだったからか、陵はさらに宥めるように言った。「今日、誕生日だろ?行きたいところがあれば、どこでも付き合うよ、な?」叶音はふと、昔の約束を思い出した。北国で育った彼女は、本物の海を一度も見たことがなかった。そして、かつて陵はこう言ったのだ——マルディブに連れていくよ、と。けれど、その約束は、とうとう果たされなかった。「マルディブに行きたい。海を見せてくれるって、言ってたよね」叶音は、淡々と告げた。陵は、あからさまに顔をしかめた。「遠すぎるだろ。往復だけでどれだけ時間がかかると思ってるんだ。近場のリゾートにしよう。俺がホテル探しておくから、月曜には戻れるし」「……ふふっ、冗談だよ」叶音は、小さく笑っ
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第7話
「気にするわけないじゃん。俺たちの関係、知ってるんだし」陵は立ち上がり、ナプキンを手に取ると、小夜の口元についたスープをそっと拭った。「まったく、食いしん坊だな。いい大人が、食べ方まで子供みたいだな」胸の奥に、どうしようもないものが込み上げてきた。叶音は、もう彼らを見ることすら耐えられなかった。「……ちょっと気分が悪いから、先に帰るね」「え?どうした?赤ちゃんがまた暴れてるのか?本当に、手のかかる子だなあ」陵は心配そうに身をかがめて、叶音の顔を覗き込んだ。彼が自分を家まで送ってくれるのだと思った、そのとき——「体調が悪いなら、先に帰ってていいよ。小夜が食べ終わったら、すぐに戻るから」陵はあっさりとそう言った。叶音はじっと彼を見つめた。その視線には、静かな自嘲が滲んでいた。——結局、妊娠している自分よりも、空腹の早見小夜のほうが、彼にとってはずっと大事なのだ。そのとき、突然、煙探知機の警報が鳴り響いた。「火事だ!早く逃げろ!」誰かが叫び、店内はたちまちパニックに陥った。人々が出口へ殺到し、混乱の渦に包まれる。叶音は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。反射的に、陵を探した。そして、目にしたのは——彼が、小夜を抱きかかえ、一目散に外へと駆け出していく姿だった。一度も、振り返ることなく。幸い、火災にはならなかった。原因は、煙草の煙による誤作動だった。騒ぎが収まると、人々は次々と店内に戻ってきた。陵と小夜も、その中にいた。「さっきは本当に怖かったよ……でも、陵さんがそばにいてくれたから、安心したよ」小夜は甘えるように、ぴたりと陵に寄り添った。陵は彼女の髪を優しく撫で、微笑んだ。「言っただろ。お前のことは、一生守るって」その光景を目にした瞬間、叶音の胸に冷たい水が流れ込んでいった。喉から胃へと、ひたひたと冷たさが満ちていく。そうだ。三年前、あの日も——小夜が海外に渡る直前、三人で山登りに行ったとき、小夜はわざと叶音にぶつかり、喧嘩をふっかけ、転んで怪我を装った。あのときも、陵は、何も確かめずに叶音を責めた。その後も、猿に行く手を阻まれたとき——陵は、迷わず小夜を抱き寄せ、必死に守ろうとしていた。今、目の前に広がる光景。それは、何も変わって
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第8話
数歩進んだところで、陵はふと振り返った。そこにいたのは、痩せた身体で静かに佇む叶音だった。夜の空気に溶けるように、頼りなく、儚く、ひとりきりで立っていた。陵は、胸の奥がひどく痛んだ——小夜を優先しないと、彼女に誓ったはずだったのに。結局、何一つ守れなかった。彼は、心の中で密かに誓い直した。今度こそ。これが終わったら。必ず彼女を大切にすると。二人が去ったあと。叶音は、そっと席に戻った。しばらくして、店員がケーキを運んできた。「お誕生日おめでとうございます。こちらは、高瀬様からのプレゼントです」店員は周囲を見渡したが、彼の姿はもう、どこにもなかった。広いレストランに、ただひとり。「ここに置いてください。ありがとう」叶音は、静かに答えた。店員がロウソクに火を灯し、小さな人形のプレゼントを添えた。叶音は目を閉じ、そっと願いを込めた——どうか。私の赤ちゃんが、次こそ心から愛し合う両親のもとに生まれ、あたたかな一生を送れますように。願いを終えると、静かにロウソクを吹き消した。そして、ケーキを一口。甘いはずなのに、舌の上に広がったのは、冷たく、苦い味だった。ケーキを食べ終えた頃、弁護士から連絡が入った。離婚協議書の準備が整い、いつでもサインしに来ていいという。叶音は、迷うことなく弁護士事務所へ向かった。協議書に目を通し、ためらうことなく、ペンを走らせる。「高瀬さん……本当に離婚されるんですね。お子さんもいらっしゃるのに……皆さん、仲の良いご夫婦だとばかり思っていました」弁護士は戸惑いを隠せなかった。叶音は微笑んだ。「高瀬じゃなくて、氷川って呼んでください。私と高瀬陵は、もう関係ありませんから」そして静かに続けた。「それと、この書類は、明日必ず彼に直接渡してください。彼がサインしたら連絡を。そのとき、新しい住所をお伝えしますので、そちらに郵送してください」「ですが……高瀬さんは、離婚のことをご存知なのでしょうか?もし拒否されたら……」弁護士の問いに、叶音はふっと小さく笑った。「そんなこと、あり得ませんよ。彼は、私と離婚したくてたまらないんです」そして、淡々と告げた。「もし渋るようなら、何枚でも用意してください。全部、渡して構いません」「……
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第9話
陵は小夜を家に送り届けると、すぐに帰ろうとした。しかし小夜は、必死に彼を引き留めた。「また私を一人にするの?陵さん、私、ひとりぼっちが一番怖いの、知ってるでしょう?」「マネージャーに付き添ってもらえばいいだろう、小夜。俺は帰らなきゃならない。今日は叶音の誕生日なんだ。彼女に、一緒に過ごすって約束したから」陵は何度も腕時計を確認しながら、焦りを募らせていた。すでに夜は更けている。叶音は無事に帰宅しているだろうか。今日の彼女の様子を思い出すと、どうしても胸騒ぎがした。妊娠中の女性は、普段よりずっと繊細で、感情も敏感になる。今日、火災警報が鳴ったとき——彼は彼女とお腹の子どものことを一瞬たりとも考えなかった。その事実に、胸が締めつけられるような後悔が押し寄せていた。小夜は小さく唇を尖らせた。「……わかった。でも、明日はちゃんと私に付き合ってよ?」「また明日な」そう答え、陵は急いで車に乗り込み、家へ向かった。リビングのドアを開けたとき、彼は思わず立ち尽くした。そこに、叶音の姿はなかった。かつてなら、どれだけ遅く帰っても、彼女はソファに座り、生まれてくる赤ちゃんのために毛糸を編みながら待っていてくれたのに。今、リビングはがらんとして、静まり返っている。「叶音?」試しに呼びかけてみたが、返事はなかった。ふと壁に目をやると、そこに貼られていた子どもの絵は、すべて消えていた。「佐藤さん!」怒りに任せて、大声で家政婦を呼びつけた。「旦那さま、お帰りなさいませ」「壁の絵はどうした!?」「……奥さまが、取り外されました」家政婦はおそるおそる答えた。「数日前に、すべて……」数日前?それなのに、今の今まで気づきもしなかった自分に、陵は愕然とした。「そうか……」陵は苦々しげに眉をひそめた。「叶音はどこだ?」「お出かけになりました」「何だって?」陵は一瞬、耳を疑った。「どこに行ったんだ?」「わかりません。数日出かけるって、おっしゃってました」陵の表情が険しくなった。「明日は検診だぞ……また拗ねてるのか。昨日は『怒ってない』なんて言ってたくせに……やっぱり、まだ拗ねているだけだろう」苛立ちを抑えつけるように、陵はシャワーを浴び、そのまま眠りにつ
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第10話
家政婦の言葉が耳に届くたび、陵の顔色はみるみる険しくなった。そして、次の瞬間。悔しさに耐えきれず、彼は、自分の頬を勢いよく叩いた。「……俺が悪い!全部、俺のせいだ!」震える声で叫び、頭を抱え、床に崩れ落ちる。「俺が——俺が、あの子を殺したんだ!俺のせいだ!最低だ、クズだ!」一度、また一度。狂ったかのように、自分の顔を叩き続けた。叩いても叩いても、あふれる罪悪感は、少しも薄れなかった。見かねた家政婦が、そっと声をかける。「旦那さま……そんなことしても、何も変わりません。今は奥さまを探してください。どこに行かれたのか、誰も知らないんです」その一言で、陵はようやく、現実に引き戻された。ふらつきながら立ち上がり、玄関へと向かう。今すぐ、叶音を探さなければ。だが。玄関のドアが叩かれた。弁護士が、静かに現れる。「高瀬さん、こんにちは」「……何の用だ。叶音に用か?彼女はいない。帰ってください」出かけたい一心で、彼は冷たく言い放つ。だが弁護士は、落ち着いた口調で言った。「いえ。今日は氷川さんではなく、高瀬さんに用があって来ました」「氷川さん!?なんだ、それは!叶音は俺の妻だ!」怒りをあらわにする陵に、弁護士は一枚の書類を差し出した。「これを見てください」彼は書類を受け取り、次の瞬間、全身から血の気が引いた。「これ……何だ……?」掠れた声がこぼれる。「氷川さんの依頼で作成したものです。彼女はすでに署名を済ませています。あとは高瀬さんがサインすれば、離婚が成立します」「離婚……!?そんなこと、言ってない!俺は、離婚なんてしない!!」怒りに任せて、陵は協議書を引き裂いた。しかし、弁護士は落ち着いていた。静かにバッグから、新たな協議書を取り出す。「ご安心ください。氷川さんは何枚も署名済みの書類を預けています。好きなだけ破いても、無駄ですよ」「嘘だ!!叶音が、俺を捨てるわけないだろ!!」陵は必死だった。——叶音は、どんなときも、自分を許してくれた。彼は今でも覚えている。小夜が留学に旅立ったあの年、家族から結婚を急かされたことを。愛していないとわかっていながら、叶音は、それでも迷うことなく彼と結婚した。結婚してからの三年間、陵は彼女
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