LOGIN5歳の娘に心臓の病気が見つかったその日、夫の九条和弘(くじょう かずひろ)がずっと想い続けていた初恋、水野梨央(みずの りお)が帰国した。 私、藤崎葉月(ふじさき はづき)は、娘の九条花音(くじょう かのん)を抱きしめたまま、心細い思いで病院の検査結果を待っていた。 そのころ、和弘は空港へ車を走らせていた。梨央の子どもに、「自分にもパパが迎えに来てくれた」と思わせるためだった。 私は花音のベッドのそばで、たったひとり、手術同意書にサインした。 和弘は梨央たちとショッピングモールへ出かけ、息子のようにかわいがり始めた、梨央の子・陽介(ようすけ)の誕生日プレゼントを選んでいた。 空港へ迎えに行ってから一緒に過ごすうちにすっかり打ち解け、梨央に背中を押されるようにして、自分を「和弘パパ」と呼ばせるようになったばかりの子だ。 そして、花音が心臓の手術を受ける日。 手術室へ運ばれる直前、花音は和弘の袖をぎゅっとつかみ、離そうとしなかった。 「パパ、怖いよ。ママと一緒に、手術が終わるまで外にいてくれる?」 和弘は、うなずいた。 ところが、その直後、梨央から電話がかかってきた。 「陽介が誕生日会でずっと『和弘パパはどこ?』って探してるの。来てくれない?」 和弘は迷わなかった。 花音が袖をつかむ手を、指先からほどいた。 「簡単な手術だから。花音なら大丈夫。パパ、用事が済んだらすぐ戻ってくるから」 そう言い残して、彼はその場を離れた。 花音は泣かなかった。 ただ、手術室から出たあと、花音が最初に口にしたのは―― 「ママ。もう、和弘さんのこと、パパって呼ばない」
View More「先に、花音とママを捨てたのは、和弘さんだよ」店内が静まり返った。和弘は息を詰め、その場に立ち尽くした。花音はそんな和弘をまっすぐ見上げ、ゆっくりと言葉を続けた。「前は、パパがいてほしかった。幼稚園の行事に来てほしかったし、寝る前にお話も読んでほしかった。病気のときは、抱っこしてほしかった。でも、いつも忙しいって言われた。手術のとき、花音、すごく怖かったの。パパが一緒にいてくれると思ってた。でも、行っちゃった」花音は、ひとつひとつ、小さな声でゆっくりと話した。その小さな声は、どんな非難よりも重く、和弘に響いていた。「だから、もういらない。花音とママは、今、楽しいよ。もう、来ないで」和弘の目から、とうとう涙がこぼれた。その場にしゃがみ込み、花音へ手を伸ばした。けれど花音は、触れられる前に私の後ろへ身を引いた。伸ばした手は、花音に届かないまま宙で止まった。「花音。ごめんね。パパが悪かった。もう一度だけ、パパにチャンスをくれないか?」花音は首を横へ振った。「ママが言ってた。けがは治っても、痛かったことはなくならないって。花音、もうあんなに怖いのは嫌」花音の言葉を聞き、涙がこみ上げた。智紀が、そっとティッシュを差し出してくれた。私はそれを受け取って目元を押さえ、それから花音の手を握った。すると智紀も、私へ静かに手を差し出した。無理に触れようとはせず、私がその手を取るかどうかを黙って待っていた。顔を上げると、智紀は穏やかな目で私を見ていた。その表情を見て、自然と笑みがこぼれた。私は自分から、差し出された手を取った。それを見た和弘は一歩よろめき、そのまま肩を落として立ち尽くした。私が二度と戻らないことを、ようやく悟ったのだろう。腹を立てているわけでも、罰を与えたいわけでもない。後悔させるためでもなかった。私はただ、もう和弘を選ばない。それだけだった。花音の手を引き、智紀と一緒にレストランの出口へ向かった。和弘の横を通り過ぎようとしたとき、かすれた声で呼び止められた。「葉月」足を止めたが、和弘の顔は見なかった。「もう、来ないで。あなたが来るたび、花音は手術の日を思い出すの。花音を少しでも大切に思うなら、もう苦しめないで
ちょうど休みだった智紀も、一緒に来てくれた。花音は、智紀によく懐いていた。智紀は、花音を患者だからと甘やかすことも、子どもだからと話を聞き流すこともなかった。花音の話をきちんと聞き、5歳の花音にも分かる言葉で説明してくれた。「花音ちゃんは、そんなに弱くないよ。今は、少しゆっくり動けばいいだけ。元気になったら、走ったり跳んだりできるようになるからね」花音の目が輝いた。「じゃあ、ダンスもできる?」「もちろん。でも、まずママと先生に聞いてからにしようね」花音はすぐに私を見上げた。「ママ、花音、ダンスやりたい」「元気になったら、一緒に習いに行こう」うれしさのあまり跳びはねそうになった花音の肩へ、智紀がそっと手を添えた。「今は、ゆっくりね」「分かってるよ、智紀先生」花音は照れたように笑った。その光景を見ながら、こんな穏やかな毎日でいいのだと、初めて心から思えた。激しい恋も、誰かひとりだけを頼りに生きることも、もう必要なかった。ただ、私の気持ちを尊重し、気遣い、きちんと向き合ってくれる人がいる。それだけで十分だった。午後は、湖の近くにあるレストランへ入った。花音はテーブルの奥側に座り、絵を描いていた。智紀は私が座る椅子を引き、冷たいものは避けたほうがいいだろうと、温かい飲み物を頼んでくれた。「最近、胃の痛みはどうですか?」思いがけない質問に、一瞬返事が遅れた。「だいぶよくなりました」「花音ちゃんのことだけでなく、葉月さんも自分の体を大事にしてください」智紀が笑みを浮かべた。私はカップへ目を落とし、思わず口元をゆるめた。そのとき、背後で椅子が床をこする大きな音がした。振り返ると、少し離れた場所に和弘が立っていた。スイスへ着いたばかりなのか、傍らにはスーツケースがあり、腕には上着を掛けたままだった。顔には疲れがにじんでいた。和弘は、智紀が私の皿へ取り分けた料理に目を落とし、それから私を見た。その目が、みるみる赤くなっていった。「葉月」押し殺した声だった。「何をしている?」眉をひそめた。「見れば分かるでしょう。食事をしているの」和弘は智紀をにらんだ。「そいつと?」「和弘。そんな言い方はやめて」私の声は聞こえてないようだった
弁護士から連絡をもらったその日、私はただ、家の窓から湖を眺めていた。花音は帽子をかぶり、テラスの椅子に座って絵を描いていた。術後の経過は順調で、頬にもようやく血色が戻っていた。定期診察に来てくれた智紀が、花音の前へかがんで絵をのぞき込んだ。「これは、ママ?」花音がうなずいた。「ママと、おじいちゃんと、おばあちゃん」「隣の犬は?」「いつか飼いたい犬だよ」智紀は笑った。「先生も入れてもらえる?」花音は少し考え、絵の隅へ小さな人を描き足した。「うん。智紀先生も描く」智紀は、うれしそうに目を細めた。その様子を見ているうちに、私も久しぶりに自然と笑っていた。和弘と離れて初めて、暮らしは待つことと失望することだけではないと知った。朝は、窓から陽が差し込む。午後には、温かいお茶をゆっくり飲める。夜になると、花音は安心した顔で眠っている。つながらない電話を、何度もかけ続けることもない。インスタに並ぶ写真を見て傷つくこともない。自分の何が足りないのかと、何度も問い続けることもなかった。ようやく、当たり前に息ができるようになった。それでも、和弘は諦めなかった。離婚届へ署名したあとも、何度もスイスへ来た。そのたびに、人形や色鉛筆、ワンピース、絵本を持ってきた。花音が贈り物を受け取ったのは、一度だけだった。許したからではない。断るのは悪いと思っただけだった。けれど、あとになって私へ言った。「ママ。和弘さんに返して。花音、これいらない。もう、たくさん持ってるから」「本当に、いらないの?」花音はうなずいた。「前は、パパがくれたから喜んだの。でも今は、もうパパじゃないから、もらってもうれしくない」その言葉に、胸が痛んだ。5歳でも、何も分かっていないわけではない。大人が、子どもには分からないと思い込んでいるだけなのだ。和弘は訪ねてくるたび、家の中へ入ることを断られた。ときどき花音が会ってもいいと言うと、それだけで和弘の表情は明るくなった。けれど花音は、いつも「和弘さん」と呼んだ。スイスで初めてそう呼ばれたとき、和弘の目はすぐに赤くなった。「花音。パパって呼んでくれない?」私の隣に座る花音は、静かに首を横へ振った。「花音には、
「そう?私には、ずいぶん平気そうに見えたけど。この間、花音は手術を終えたばかりでまだ入院中だったというのに、楽しそうにしていたじゃない。梨央と食事をして、陽介の誕生日を祝って、買い物へ行って、プレゼントを選んでいた。私たちがいなくても、ずいぶん忙しかったでしょう」和弘は何も言い返せず、黙り込んだ。「あなたがサインしなくても、離婚調停を申し立てる。これ以上、争いを大きくしたくないなら、私と花音を放っておいて」それだけ告げ、私は家の中へ戻った。扉を閉める直前、背後から和弘の声がした。「葉月……」今まで聞いたことがないほど、弱々しい声だった。それでも、私は振り返らなかった。失ってから差し出される愛情に、もう心を動かされることはなかった。……和弘は、すぐには帰らなかった。長いあいだ、家の外に立ち尽くしていた。スイスの冷たい風にさらされ、顔色まで悪くなっていた。けれど、私は二度と扉を開けなかった。2階の部屋から、花音がそっと顔をのぞかせた。「ママ。和弘さん、まだいる?」私は花音のそばへ行き、膝に掛けていた毛布を直した。「まだいるよ」花音は目を伏せ、手にした色鉛筆をいじった。「ママ、あの人と帰るの?」胸が締めつけられた。花音の前にしゃがみ、その手を包んだ。「帰らないよ。ママは、ずっと花音と一緒にいる」花音は私を見つめた。大きな目に、少しずつ涙がたまっていく。「花音、あの人に連れていかれちゃうの?」「大丈夫」花音の額へ口づけた。「おじいちゃんもおばあちゃんも、ママもいる。誰にも連れていかせないよ」花音はようやく肩の力を抜いた。「嫌いじゃないよ。でも、会いたくない。和弘さんを見ると、手術の日を思い出すの。花音の手を離したことも」私は花音を抱きしめた。喉が詰まり、すぐには言葉が出なかった。「それなら、会わなくていいよ。花音が会いたくない人には、会わなくていいんだよ」以前の私は、花音に聞き分けのいい子でいることを求めていた。わがままを言ってはいけない。パパを困らせてはいけない。怒らせてはいけない。いつも、そう言い聞かせていた。けれど、今なら分かる。子どもが安心できるのは、聞き分けよく振る舞ったときではない。何があって