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手術室を出た娘は、もう彼をパパと呼ばなかった

手術室を出た娘は、もう彼をパパと呼ばなかった

By:  みっつCompleted
Language: Japanese
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5歳の娘に心臓の病気が見つかったその日、夫の九条和弘(くじょう かずひろ)がずっと想い続けていた初恋、水野梨央(みずの りお)が帰国した。 私、藤崎葉月(ふじさき はづき)は、娘の九条花音(くじょう かのん)を抱きしめたまま、心細い思いで病院の検査結果を待っていた。 そのころ、和弘は空港へ車を走らせていた。梨央の子どもに、「自分にもパパが迎えに来てくれた」と思わせるためだった。 私は花音のベッドのそばで、たったひとり、手術同意書にサインした。 和弘は梨央たちとショッピングモールへ出かけ、息子のようにかわいがり始めた、梨央の子・陽介(ようすけ)の誕生日プレゼントを選んでいた。 空港へ迎えに行ってから一緒に過ごすうちにすっかり打ち解け、梨央に背中を押されるようにして、自分を「和弘パパ」と呼ばせるようになったばかりの子だ。 そして、花音が心臓の手術を受ける日。 手術室へ運ばれる直前、花音は和弘の袖をぎゅっとつかみ、離そうとしなかった。 「パパ、怖いよ。ママと一緒に、手術が終わるまで外にいてくれる?」 和弘は、うなずいた。 ところが、その直後、梨央から電話がかかってきた。 「陽介が誕生日会でずっと『和弘パパはどこ?』って探してるの。来てくれない?」 和弘は迷わなかった。 花音が袖をつかむ手を、指先からほどいた。 「簡単な手術だから。花音なら大丈夫。パパ、用事が済んだらすぐ戻ってくるから」 そう言い残して、彼はその場を離れた。 花音は泣かなかった。 ただ、手術室から出たあと、花音が最初に口にしたのは―― 「ママ。もう、和弘さんのこと、パパって呼ばない」

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Chapter 1

第1話

和弘が戻ってきたのは、深夜2時を回ったころだった。

花音は手術を終え、術後の経過を見るため集中治療室へ移されていた。私もちょうど、父との電話を終えたところだった。

近づいてきた和弘からは、女性ものの香水がまだかすかに香っていた。

「花音はどう?先生はなんて?」

以前の私なら、和弘が花音のことを少しでも気にかけてくれるだけで、うれしかった。せめて娘の前では、いい父親でいてほしかった。

花音まで私と同じように、彼にとっていてもいなくてもいい存在にはなってほしくなかった。

けれど、その日は違った。

私は振り向きもせず、淡々と答えた。

「特になにもないよ。大丈夫」

和弘が眉をひそめた。

「何だ、その言い方は。花音は俺の娘でもあるんだぞ」

「そうなの?」

私はかすかに笑ったが、それでも、彼のほうは見なかった。

1週間前、花音に先天性心疾患が見つかった。

同じ日、和弘が若い頃から忘れられずにいた梨央が、海外から帰国した。

私は病院で花音を抱きしめ、不安でたまらないまま検査結果を待っていた。

何度電話しても、和弘は出なかった。空港へ梨央を迎えに行っていたのだ。

その日の夜、花音は入院した。

そして梨央は、帰国後初めてのインスタを更新した。

【遠回りの末に、もう一度出会えた。ここからが、本当の始まり】

投稿には、和弘と陽介がじゃれ合う動画も添えられていた。動画の中で、和弘は陽介に自分を「和弘パパ」と呼ばせていた。

和弘と結婚して7年。花音は5歳になっていた。

その花音が心臓病で入院しても、和弘から電話一本かかってこなかった。

なのに、かつて想いを寄せていた梨央が離婚して帰国すると、再会したその日から、彼女の子どもには自分を「和弘パパ」と呼ばせていた。

私はその動画を何十回も再生した。それで、ようやく思い知った。

私も花音も、和弘にとっては、本当にどうでもいい存在だったのだと。

それから数日、私は医師と娘の手術について何度も話し合い、病院と自宅を往復した。

和弘は、その間一度も家へ帰ってこなかった。

帰国したばかりの梨央が困らないようにと、部屋探しに付き添い、料理のできない梨央と陽介の食事まで毎日作っていた。

結婚して7年になるのに、和弘が料理できることを私は初めて知った。

やがて手術前夜を迎えた。

花音は怖がって一晩中泣き、「パパに会いたい」「どうしてパパは来てくれないの」と何度も繰り返した。

私は仕方なく、もう一度だけ和弘へ電話をかけた。

今度はようやくつながった。だが、返ってきた声には苛立ちがにじんでいた。

「また何だ?葉月、用もないのに電話してくるなって言っただろ」

「花音、明日手術なの」

和弘は黙り込んだ。

電話の向こうからは、梨央と陽介の笑い声が聞こえていた。

「怖がって、ずっとパパに会いたいって泣いてる。和弘、お願いだから、せめて明日は病院に来て」

「どうしてもっと早く言わなかったんだ」

責めるような声だった。

私は、あまりのやるせなさに笑うしかなかった。

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第1話
和弘が戻ってきたのは、深夜2時を回ったころだった。花音は手術を終え、術後の経過を見るため集中治療室へ移されていた。私もちょうど、父との電話を終えたところだった。近づいてきた和弘からは、女性ものの香水がまだかすかに香っていた。「花音はどう?先生はなんて?」以前の私なら、和弘が花音のことを少しでも気にかけてくれるだけで、うれしかった。せめて娘の前では、いい父親でいてほしかった。花音まで私と同じように、彼にとっていてもいなくてもいい存在にはなってほしくなかった。けれど、その日は違った。私は振り向きもせず、淡々と答えた。「特になにもないよ。大丈夫」和弘が眉をひそめた。「何だ、その言い方は。花音は俺の娘でもあるんだぞ」「そうなの?」私はかすかに笑ったが、それでも、彼のほうは見なかった。1週間前、花音に先天性心疾患が見つかった。同じ日、和弘が若い頃から忘れられずにいた梨央が、海外から帰国した。私は病院で花音を抱きしめ、不安でたまらないまま検査結果を待っていた。何度電話しても、和弘は出なかった。空港へ梨央を迎えに行っていたのだ。その日の夜、花音は入院した。そして梨央は、帰国後初めてのインスタを更新した。【遠回りの末に、もう一度出会えた。ここからが、本当の始まり】投稿には、和弘と陽介がじゃれ合う動画も添えられていた。動画の中で、和弘は陽介に自分を「和弘パパ」と呼ばせていた。和弘と結婚して7年。花音は5歳になっていた。その花音が心臓病で入院しても、和弘から電話一本かかってこなかった。なのに、かつて想いを寄せていた梨央が離婚して帰国すると、再会したその日から、彼女の子どもには自分を「和弘パパ」と呼ばせていた。私はその動画を何十回も再生した。それで、ようやく思い知った。私も花音も、和弘にとっては、本当にどうでもいい存在だったのだと。それから数日、私は医師と娘の手術について何度も話し合い、病院と自宅を往復した。和弘は、その間一度も家へ帰ってこなかった。帰国したばかりの梨央が困らないようにと、部屋探しに付き添い、料理のできない梨央と陽介の食事まで毎日作っていた。結婚して7年になるのに、和弘が料理できることを私は初めて知った。やがて手術前夜を迎えた。花音は怖がって一晩中泣
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第2話
けれど、その笑みも浮かんだそばから消えた。「病気が分かったのは1週間前。あなたには何十回も電話した」……翌日になって、和弘はようやく病院へ来た。花音が入院して7日目。父親が付き添うのは、これが初めてだった。「パパ、やっと来てくれたね」病室のベッドに横たわった花音が、無邪気に笑った。その笑顔が胸に刺さったのか、和弘はすぐに目をそらした。「ああ」そして、私を廊下へ連れ出した。「先生はなんて?」「心室中隔欠損症。欠損の位置が少し複雑で、心臓の穴を閉じる手術が必要だって」「危険なのか?」「今の状態ならリスクは低いって。ただ、花音が不安で取り乱さないようにしてほしいって」和弘は、ほっと息をついた。「そうか」彼は、すぐに腕時計へ目を落とした。「今日は陽介の誕生日だ。梨央と一緒に祝う約束をしてる。手術は何時から?あと3時間なら、花音のために時間を割ける」時間を「割く」。実の娘の手術に付き添う時間を、よその子の誕生日の合間から割いてやるというのだ。まるで、その3時間を私と花音が無理に奪ったかのようだった。私は和弘を見つめたあと、何も言わず病室へ戻った。手術は午後2時からだった。以前よりずいぶん痩せた花音が、看護師に付き添われ、ベッドごと病室から運び出されてきた。目を赤くした花音は、右手で私を、左手で和弘の袖をぎゅっとつかみ、離そうとしなかった。「ママ、手術、痛い?花音、怖いよ」担当医が私たちへ向き直った。「花音ちゃんはまだ5歳です。不安も大きいと思いますので、ご両親からしっかり励まして、安心させてあげてください」担当医はそこで、和弘へ視線を向けた。「特にお父さん。入院中、花音ちゃんは何度もパパに会いたいと泣いていました。できれば、手術室に入る前に、どうかお父さんから励ましてあげてください」花音は涙をためた目で、和弘を見上げた。「パパ、怖いよ。ママと一緒に、手術が終わるまで外にいてくれる?」和弘の表情が、わずかに揺れた。「ああ。パパもいる」花音がうれしそうに笑い、何か言おうとした、そのときだった。和弘のスマホが鳴った。スマホの向こうから、泣きそうな梨央の声が聞こえてきた。「和弘、どこにいるの?陽介が誕生日会でずっと『和弘パパはどこ?』
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第3話
「それに、お前がついてたんだろ」和弘は眉を寄せ、不満を隠そうともしなかった。まるで、悪いのは私のほうだと言いたげだった。もう言い争う気にもなれない。「話は終わった?」私は静かに和弘を見た。「終わったなら帰って。梨央が待ってるでしょう」和弘は言葉に詰まった。「葉月、お前……」そのとき、集中治療室の扉が開き、看護師が廊下にいた私たちへ声をかけた。「花音ちゃんが目を覚ましました。お母さんは面会できます」「はい」私はすぐに看護師のもとへ向かい、指示に従ってガウンとマスクを身につけた。和弘には目も向けなかった。和弘は戸惑ったように指を握り込んだが、何も言わず、看護師へ手を伸ばした。「俺の分はないですか?」看護師は意外そうに和弘を見たあと、淡々と答えた。「申し訳ありません。花音ちゃんが、お母さんにだけ会いたいと言ってるんです」それから私へ向き直り、やさしい声で促した。「準備はできましたか?花音ちゃんが待っています」私が集中治療室へ入ると、背後で扉が閉まった。花音は私を見ると、つらそうにしながらも、かすかに笑った。「ママ」私はすぐにベッドのそばへ行き、その小さな手を握った。目の奥が熱くなった。「うん。ママ、ここにいるよ」花音はかすかに笑うと、小さな手を伸ばして私の涙をぬぐった。「ママ、泣かないで。もう痛くないよ。先生が、すぐ元気になるって言ってた。だから、大丈夫だよ」花音が一生懸命に私を慰めるほど、涙は止まらなくなった。「パパも来てるよ。会いたい?」花音の笑顔が消えた。ガラス窓の向こうへ目を向ける。そこに立っていた和弘は、花音が自分を見たことに気づくと、一瞬動きを止め、すぐに笑って手を振った。けれど花音は、すぐに私へ視線を戻した。「ママ。もう、和弘さんのこと、パパって呼ばない」……その晩、私は集中治療室の前から離れなかった。和弘も少し離れたところに座り、朝まで帰ろうとはしなかった。翌朝、必要なものを取りに家へ戻ると、和弘があとからついてきた。「昨日のことは……」和弘は言いにくそうに口ごもった。「花音には、わざと置いていったんじゃないって説明してくれ」私は足を止めなかった。和弘は私の顔色をうかがいながら続けた。「先生に聞
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第4話
「花音は、いつ移動できそうだ?受け入れ先と国際医療搬送の手配は、こちらで進めている」私は、手元の離婚届へ目を落とした。「主治医の許可が下りしだい。花音の経過は順調だって。それに……もう、花音をここにいさせたくないの」父は電話の向こうで深いため息をついた。「分かった。葉月の決めたとおりにしよう。和弘くんとの結婚を勧めたのは、父さんの間違いだった。もう九条家に遠慮する必要はない」……翌日、花音は集中治療室から一般病室へ移った。私は花音に、治療のためスイスへ行くことを伝えた。寂しがるかもしれない。行きたくないと言われたら、どう説得しよう。そう考えていたが、花音は一瞬驚いただけだった。「あの人に電話したい」あの人というのは、和弘のことだ。目に涙をためた花音を見て、私はすぐに和弘へ電話をかけた。今度は、すぐにつながった。「葉月、花音の部屋に鍵がかかってる。陽介にはゲストルームより、あの部屋のほうが落ち着くだろ。鍵はどこだ?」これが私と花音からの最後の電話になるとも知らず、和弘はせかすように鍵の場所を尋ねた。私はそのことを告げず、スマホを花音の口元へ近づけた。ふと見ると、花音の手が震えていた。私は、その手をそっと握った。「パパ……」花音の声はかすかに震え、涙が一粒ずつ掛け布団へ落ちた。「今夜、病院に来てくれる?」相手が花音だと分かると、和弘は一瞬黙り、少しだけ声を和らげた。「花音か?どうした。ママはそばにいるか?花音、ママに代わって」私はスマホを受け取った。「もしもし」「花音の部屋の鍵、どこにある?」「……机の上」「寝室のクローゼットにあった新しいパジャマ、梨央に貸してもいいよな?」「……好きにして」「それと、リビングの棚にあったオルゴールを、陽介が落として壊した。明日、新しいのを買うから、花音には黙っていてくれ」私は答えられなかった。スマホから漏れる和弘の声は、花音にもすべて聞こえていたからだ。そのオルゴールは、花音が3歳の誕生日に和弘からもらったものだった。眠るときまで抱えていたほど、大切にしていた。病院へ持っていって壊したくないからと、花音は自分でリビングの棚へ置いてきたのだ。それを、陽介は家へ来たその日に壊してしまった。「葉月、聞い
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第5話
和弘が車を降りたとき、その手には、買ったばかりのオルゴールが入った紙袋があった。淡いピンクの台座を、透明なカバーが覆っている。中では、ドレス姿の小さなウサギが、ぜんまいを巻くと音楽に合わせて回る。病院の入口で、和弘はふと足を止めた。花音が3歳の誕生日を迎えた日のことを思い出した。花音は、もらったばかりのオルゴールを抱え、和弘の頬へ口づけた。「パパ、大好き」あのとき和弘は、そっけなく「ああ」と答えただけだった。それでも、口元に浮かんだ笑みは、しばらく消えなかった。和弘は手にした紙袋へ目を落とし、足を速めた。花音は怒っているだけだ。子どもの機嫌など、すぐに直る。前より立派なオルゴールを渡し、抱きしめて、やさしく声をかければ、また「パパ」と甘えてくるはずだ。今までも、そうだった。どれほど帰宅が遅くても、誕生日を忘れても、適当な返事をしても、ちょっとしたプレゼントを渡せば、花音はうれしそうに抱きついてきた。「やっぱりパパが一番、花音のこと好きなんだね」そう考えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。今日も病院へ来る前、家を出ようとした和弘を、梨央は食事に誘って引き止めた。陽介も和弘の脚へしがみついた。「和弘パパ、行かないで。今日は一緒にケーキを食べるって約束したでしょう?」いつもなら、和弘はそのまま残っていた。梨央が泣きそうな顔で、決まってこう言うからだ。「和弘。私も陽介も、頼れるのはあなただけなの」これまでは、その言葉を聞くたび、ふたりを放っておけないと思っていた。だが、その日は初めて、いら立ちを覚えた。あの日の電話から数週間、花音の声がずっと引っかかっていたからだ。電話越しに聞いた花音の「パパ」は、ひどく小さく、かすれていた。長いこと泣いていたような声だった。それなのに、「今夜、病院へ来てほしいって言ったのか?」と聞くと、花音は間を置かず「違う」と否定した。その「違う」という声が、いつまでも頭から離れなかった。和弘は陽介の手をほどいた。「用ができた。出かけてくる」梨央の顔がこわばった。「和弘、急にどうしたの?どこへ行くの?」「花音を見に行く」それだけ告げて、家を出た。和弘が背を向けたあと、梨央の顔から笑みが消えた。だが、和弘は気づかなかった。病院
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第6話
総合案内のカウンターに着いて初めて、和弘は花音が何階のどの病棟にいるのかさえ知らないことに気づいた。花音が一般病室に移ってからの数週間、和弘が病院を訪ねてくることは一度もなかった。何階にいるのか。主治医は誰なのか。毎日どんな治療を受け、術後は何に気をつけなければならないのか。何ひとつ知らなかった。父親でありながら、娘がどんな毎日を送っているのかさえ知らない。これでは、他人と変わらなかった。和弘はスマホを取り出し、葉月へ電話をかけた。呼び出し音が一度鳴っただけで、通話は切れた。和弘は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。以前の葉月なら、会議中でも、花音を寝かしつけているときでも、葉月自身が熱を出しているときでも、和弘からの電話には必ず出た。和弘はもう一度かけた。今度は、電源が入っていないという自動音声が流れた。和弘の顔から血の気が引いた。その瞬間、和弘は初めて、本気で焦った。オルゴールの入った紙袋を提げたまま、総合案内のカウンターへ駆け寄った。「九条花音を捜しています。娘なんです。どの病棟にいるか教えてください」案内係は端末に手を伸ばさず、落ち着いた声で答えた。「申し訳ありません。入院の有無も含め、こちらではお答えできません。緊急連絡先として登録されている方へご確認ください」「だから、俺は父親です」「お父様であっても、ご家族としての登録が確認できない方には、患者さんの情報をお伝えできません」和弘は何も言い返せなかった。自分が緊急連絡先として登録されているかどうかさえ知らない。主治医の名前も、花音の治療経過も分からなかった。せめて、自分が花音の父親だと分かるものを見せられないか。そう思って、和弘はスマホの写真フォルダを開いた。家族で撮った写真の一枚でもあれば、父親だと説明できると思ったのだ。だが、何度画面をスクロールしても、葉月と花音の写真は出てこなかった。花音が生まれた日の写真もない。庭で葉月が花音を抱いていた写真もない。去年の誕生日に、3人で撮った、たった一枚の家族写真さえ残っていなかった。梨央が帰国した日、彼女に見られたら気を悪くするかもしれないと思い、空港へ迎えに行く車の中で、自分の手で消したのだ。写真なら、またいくらでも撮れる。この先
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第7話
和弘が空港の医療搬送区域へ着いたとき、私たちは出発前の確認を終えるところだった。関係者用ゲートの向こうで、花音は搬送用のストレッチャーに横たわっていた。顔にはまだ血の気がなく、胸元まで毛布が掛けられている。私はその傍らで、花音の手を握っていた。花音も私の服をしっかりつかんでいた。私だけは、もうどこにも行かないと確かめるように。「葉月!花音!」ゲートで制止された和弘が、私たちの名を叫んだ。和弘が来たことに、驚きはなかった。私はただ、疲れ切っていた。以前は、和弘が来ないことが何より怖かった。花音ががっかりして布団にもぐり、泣くことも、こう聞かれることも怖かった。「ママ。花音がいい子じゃないから、パパは花音のこと嫌いなの?」今、和弘は目の前まで来ている。だが、もう何の意味もなかった。遅すぎた。私も花音も、もう和弘を必要としていなかった。和弘はスタッフに何度も頼み込んだ。私が短時間の面会を了承すると、係員に付き添われてゲートの内側まで入ってきた。和弘は息を切らしながら、私と花音を交互に見た。「どこへ行くんだ?」「スイス」和弘の顔が、さらに青ざめた。「どうして俺に言わなかった?」私は思わず笑った。「言ったら、どうしたの?どうせまた花音を置いて、陽介の誕生日会へ行ったでしょう?」和弘の唇が動いた。「俺は、そんなつもりじゃ……」「わざとじゃなかった?」私は、その先を代わりに口にした。「和弘。その言葉、もう何度も聞いた。電話に出なかったのも、わざとじゃない。花音が入院したことを忘れていたのも、わざとじゃない。手術の直前に花音を置いていったのも、わざとじゃない。花音が一番大切にしていたオルゴールを壊されたのも、わざとじゃない。梨央に私のパジャマを貸して、花音の部屋に陽介を入れようとしたことも、わざとじゃない。でも、わざとじゃなければ、何をしても許されるの?」私がひとつ言うたびに、和弘の顔から血の気が引いていった。隣では、花音が私の服をつかむ指に、さらに力を込めていた。和弘はそこで初めて、手にしていた紙袋へ目を落とした。彼は慌てて中から、新しいオルゴールを取り出した。「花音、見て。新しいのを買ってきた。前のよりきれいだろ
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第8話
和弘が、助けを求めるように私を見た。「葉月から説明してくれ。花音はまだ小さい。分かってないんだ。俺が捨てたわけじゃないって、言ってくれ」私は花音の髪をそっとなでた。それから、そばに控えていた父の代理人へ目を向けた。代理人は離婚届などの入った封筒を取り出し、和弘へ渡した。私は、まっすぐ和弘を見た。「和弘。私と離婚して」和弘は、言葉の意味をのみ込めないまま、私を見返した。「今、何て言った?」「離婚したいの」声は静かだったが、迷いはなかった。「書類には、もう署名してある。家も車も、あなた名義の財産も、何もいらない。花音だけは、私が守る。もう二度と、あなたの都合に花音を付き合わせない」和弘は封筒から書類を取り出し、強く握りしめた。指に力が入り、書類がしわになった。「葉月、正気か?こんなことで離婚するつもりなのか?」こんなこと。思わず笑った。笑ったはずなのに、目には涙がにじんだ。「まだ、こんなことだと思ってるの?花音に心臓の病気が見つかった日、私は何十回も電話した。けど、あなたは空港で梨央を迎えていた。花音が痛みで眠れず、パパはいつ来るのって泣いていた夜、あなたは梨央のところで陽介の夕食を作っていた。手術同意書にサインしたのも、術前の説明を聞いたのも、私ひとりだった。花音を緊張させないように言われて、私は一晩中なだめ続けた。花音がパパに会いたいって泣くから、あなたに何度も、病院へ来てほしいと頼んだ。ようやく来てくれたけど、手術室へ運ばれる直前に花音を置いていった」私は和弘から目をそらさなかった。「5歳の娘が、怖いってあなたの袖をつかんでいたのよ。どうして、その手をほどいて行けたの?どうして?」和弘の唇が震えた。言い返そうとしても、声にならなかった。私は続けた。「あの家は、花音が生まれてからずっと暮らしてきた家よ。梨央と陽介を泊めるだけなら、私も何も言わなかった。でも、陽介を花音の部屋へ入れようとした。私のパジャマを梨央に貸した。花音が一番大切にしていたオルゴールが壊れても、買い直して、花音には黙っていれば済むと思った。私たちを何だと思ってるの?私たちは、梨央たちのためにどかせばいい家具じゃない。思い出したときだけやさしくし
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第9話
「花音は、もうあなたを待たない。私も、もう待たない」和弘の表情がこわばった。ようやく後悔したように顔をゆがめたが、もう遅かった。そのとき、和弘のスマホが鳴った。画面には、梨央の名前が表示されていた。和弘は画面を一度見ただけで、電話に出なかった。切れても、また鳴った。3度目で、ようやく通話をつないだ。電話の向こうで、梨央が取り乱して泣いていた。「和弘、すぐ戻ってきて!陽介が階段から落ちたの。血がたくさん出てる!怖いの。本当に怖くて……お願い、早く来て!」和弘の顔色が変わり、反射的に答えかけた。「すぐ……」だが、その声は途中で止まった。私が医療搬送の担当者へうなずいたからだ。「お願いします」関係者用の扉が開き、医療スタッフが花音のストレッチャーを押して、私たちを乗せる機体へ向かった。和弘は目を見開き、こちらへ駆け寄ろうとした。「葉月!行かないでくれ!花音、パパが悪かった!本当に分かったんだ。もう二度としない!」スタッフが和弘を止めた。和弘は必死に振りほどこうとし、その拍子にオルゴールを床へ落とした。透明なカバーが割れ、ドレス姿のウサギが床を転がっていった。どれほどきれいで高価なものでも、壊れてしまえば、もう元には戻らない。手遅れになってから差し出された和弘の愛情も、同じだった。花音は振り返らなかった。私の胸元へ頬を寄せたまま、小さな声で言った。「ママ。おじいちゃんとおばあちゃんのところへ行こう」私は身をかがめ、花音を抱きしめた。「うん。これからは、ママがずっと一緒にいる」私たちを乗せた機体はゆっくりと動き出し、滑走路へ向かった。窓の向こうで、和弘の姿が遠ざかっていく。スタッフともみ合い、服を乱したまま、こちらを見つめていた。ようやく、自分が何を失ったのか分かったのだろう。失ったのは、結婚生活だけではない。帰る家だけでもなかった。かつて和弘だけを見つめ、心から愛していた妻と娘。そのふたりを、同時に失ったのだ。……一方、空港に残された和弘は、すぐには梨央のもとへ向かわなかった。駐車場の車内で、長いあいだひとりきりで座っていた。梨央からは何度も電話がかかってきたが、出なかった。やがてスマホの充電が切れ、画面が暗くなった。
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第10話
けれど、その日の和弘は、陽介の膝を一度見ただけだった。「ただの擦り傷だ」梨央の動きが止まった。「和弘、どうしてそんな言い方をするの?陽介はまだ小さいのよ。痛くて、ずっと泣いていたのに」梨央は傷ついた顔をし、さらに涙をこぼした。「葉月さんに、何か言われたの?あの人が私をよく思っていないことは知ってる。でも、私だって、わざとここに住みついたわけじゃないの。帰国したばかりで、陽介と暮らせる家もまだ決まっていなかったでしょう?」梨央は少し間を置き、声を落とした。「花音ちゃんのオルゴールだって、陽介はわざと壊したんじゃないわ。きれいだから、手に取って見たかっただけなの。葉月さんが怒っているなら、私が弁償すればいいでしょ。お願いだから、陽介を責めないで」和弘は黙って梨央を見た。目の前の梨央が、初めて見る人のように思えた。昔から梨央は、言いたいことを最後まで口にする前に、決まって涙をこぼした。和弘はそのたび、梨央が口にしない事情まで勝手に想像した。梨央はか弱く、何も悪くない。周りが譲るのは当然だとさえ思っていた。けれど今は、花音のあの言葉が頭から離れなかった。「和弘さん、もういらない」梨央の泣き声が、ひどく耳についた。聞いているうちに、頭まで痛くなってきた。「ここを出てくれ」梨央は目を見開いた。「え?」「明日の朝までに、出ていってくれ」梨央の顔から、さっと血の気が引いた。「私たちを追い出すの?葉月さんに言われたの?そこまでしなくてもいいでしょう?私たちは、ほんの数日ここに泊めてもらっているだけなのに。帰る場所もない私たちを、追い出せって言ったの?」和弘は眉間を押さえ、疲れた声で答えた。「葉月は何も言っていない」「それなら、どうして……」「このままではいけないからだ」和弘は梨央をまっすぐ見た。声は低く、静かだった。「俺たちは、もう大人だ。お前は結婚して家庭を持っていたし、俺にも妻と娘がいる。今のような関係を続けるべきじゃなかった」梨央は慌てて、和弘へ一歩近づいた。「でも、私と陽介の面倒を見るって言ってくれたでしょう?約束を破らないで。離婚して帰ってきた私には、和弘しかいないの」和弘の中に、また苛立ちが込み上げた。「住む場所は探す。し
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